Full text of "芭蕉発句全講 "
芭蕉発句全講
阿部正美著
明治書院
自 亨
色蕉の発句が、連句と並んでその文学活動の主軸であることは、今更い うまで もない。 まだ 十代の 郷里伊賀こ居た 時
代に始まる作家生涯の軌跡は、貞門から蕉風に至る俳諧史の縮図をなしている。古俳諧を 研究する程の者は、凡てこれ
を避けて通ることは出来ず、また、おょそ詩に関心を持つ人々の芭蕉の作品に対する興味は、激動す る現代に於いて益
益多大なものがあろう。
私も、今日まで多年にわたって芭蕉について物を書いて来た間に、その発句に関して卑見を述べる 機会はあった け ix
ども、分量の制限などの為に、十分意を尽くさない憾みがあった。既にこの分野では、岩田九郎博士の 『諸注 評釈芭蕉
俳句大成』の如き)1大な諸注集成が完成しているが、それから四半世紀を経て、新資料や新見の注目すべき ものも少く
ない。さきに S 蕉連句抄』を一応完成し、芭蕉の全連句を注し終ったので、次の仕事として芭蕉の全発句の注釈を志
した次第である。もう少し簡潔に書くつもりであったが、委曲を尽くそうとすると、兎角長くなるのを免れなかった。
煩雑にわたるところは、読者の宥恕を願っておく。
この仕事を始めるについて は、 明治書院の三樹彰会長の度重なる慫慂が大きな動機になって いる。このょうな書勿が
公刊の機会に恵まれることに対して、深甚の謝意を表したい。表記は現代仮名遣とした。 私の 考えとは 違うけ ix ども、
普及を 旨と する版元の要請に従ったのである。校正と索引の作成に当って、 小林美恵子氏ら編集部の方々 の 労を煩わし
たことを記して鳴謝する。
平成六年八月 阿部正美
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0 次
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寛文二年 . 一
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寛文章 . <
寛文七年 . 二四
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W^;-M¥. 四八
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墨章 . 六一
延宝三年 .
延宝四年 .
延宝五年 .
延宝六年 .
延宝七年 .
延宝八年 .
延宝九年.天和元年
天和二年 .
.
天和四年•貞享元年
貞享二年 .
初句索引 .
語句索引 .
凡 例
凡 例
一、句の排列は成立年代順とし、年代の明らかでないものは、推定時期の下限を以て排列の基準とした。概ね拙著『新
修芭蕉伝記考説』作品篇の年代考定に準拠したが、その後の私見にょって修正したものもある。
一、注釈は最初に発句の本文を掲げ、以下、季語、語釈、大意、考の各項にわたって細説した。句形は諸種あるぅち、
最初に掲げるものを本位句とし、年代の古い最も信頼し得る俳書或いは資料の本文を掲出して、他の同句形のものは
書名.資料名を挙げるにとどめた。本文の下の括弧内が本文の拠った書名•資料名である。本位句には句頭に番号を
付した。
一、本位句の次に、順次異形を挙げた。掲出の要領は本位句と同じである。これら凡て濁点を加え、底本にある濁点は
右傍に(ママ)と注記した。
一、異形のぅち、年代の降る書に見える小異などは、本文として掲げなかったものもある。
一、句の前書に関する語釈は、本位句の前書についてのみ記し、他は省略した。異形句の前書も含め、本文として挙げ
なかったものは、〔考〕の条の初めにまとめて掲げた。
一、〔考〕の条では、成立年代、推敲過程、解釈鑑賞上の要点等、多岐にわたる問題を扱った。
1 寛文二年
寛文二年
H - 九日立春ナレバ
丨春やこし年や行けん卜毎日 (千宜 S 記) 真蹟短冊
冬季(小晦日)。
i 〇廿九日 ここでは十二月二十九日を指す。即ち句中の「小晦日」である。 〇立春 「リッシュ ン J 。 二十四気の一で、暦法
上の春の初め。季題としてはもとより春であるが、この場合のような年内立春、つまり旧年中の立春は、重頼の『毛吹草』連歌四
季之詞暮冬の部に挙げられてあり、冬季とされたことが分る。但し句中の季語は別。「立春……是はもはら春たつ日なれば。
……よろづのびらかにゆたかなる心をしたつ。元日もひとしけれど、いまだはるた k ぬほどなどもあれば。其年によりて。デは心
も替るべし」(『山之井 t 「 mxxun . Fam tatgu . 」(『日葡辞書』)。 〇春や こし 「春や来し」。「や」は疑問。〇 年や行けん 「年や行
きけん」。 〇小晦日 「コッゴモリ」。大晦日の前日をいう。『増山井』に「小つごもり俳。晦日の前日也」とあり、「俳」と注し
ているところからして、和歌連歌以来の古い季語ではなく、俳諧が自立してからの語と知られる。「按に、十二月廿九日を和俗の
称する所也。晦日を俗又大晦日と称する故、けふをかく云也。小は大に対する詞也」(『滑稽雑^^』)「もはや年のおぼそに成ぬ小晦
日」(『埋木』) 「Tougomori . 1 , T«oumogori . J (『日葡辞書』)。
ia まだ年内の小晦日だというのに、もう立春とは。気の早い春が新年を待たずに来てしまったのか。 それとも 旧
2
年の方があわてて行ってしまったのだろうか。まことに妙な気分だ。
Bsai 陽暦とちがって陰暦の場合には、 十二月のう ちに立春が来る ことが 時々 ある。 立春といえば新年と密接に 結び
ついた観念であるにもかかわらず、暦の上で このょうな 矛盾が生ずる ことは、 昔から人々の興を惹かないではいなか
つた。最も有名なのが『古今集』の巻頭歌「年の内に春はきにけり ひと、 せを こぞと やいはむ ことしと やいはん」
(在原元方)であって、 この 発句も旧年と新年の交替を面白く言いなすと ころ、 同じ系列の趣向で ある。この 句では更
に、『伊勢物語』六十九段の歌「きみや こし 我やゆきけむおもほえず夢かうつ、かねてかさめてか」を踏まえ、気の
きいた ところを 見せた。『毛吹草』卷六所収の「年内立春」の発句を見ると、
年の内は片足で立春日哉 光有
来る春は年の内へやとまりがけ 元弘
年の内の春は陰陽和合かな 永治
としのぅちへ年の矢入の春日哉 成政
立春のとなりへくるや門たがへ 宗房讀13号)
年の内の霞の袖やひゐなだち 玫公
といった句が見え、卷五には「立春旧年なりければ」と前書した r 袅いやつと越ぬる 年 や二 またげ」(重方) といぅょ
ぅな句も見える。これらには俗語への強い興味や人事趣味が目立つけれども、それに比して「春やこし」の 句は おと
なしく穏やかな感じである。和歌の詞を踏まえた点では、延宝三年の『大坂独吟集』巻頭の「寛文 十三 癸丑のと しの
内に春立ければ/去年といはんこといとやいはん丑のとし」(幾音)の類であるが、それと並べても一段とおとなしい。
出典の『千宜理記』(宗信撰)には延宝三年九月の跋があり、それ以前に十二月二十九日に立春の年を探ねると、寛文
二年十二月末となり、現在年代の知られる色蕉発句の中では年代の最も早いものである (藤木三郎氏「寛文二年々内立 # の
〇 見义一千
色蕉吟 」I 『解釈と 鑑賞』昭和三十七年三月号)。弱冠 十九歳、 詠 作当時のものとされる 宗房 名の 真蹟 短冊(柿衛文庫蔵)も 云わ
り、これには前書はない。
最近この句の成立年次について、田中善信氏の新説が現われた。同氏は近世の歳時記類に就いて「小晦日」の語意
を検討され、 概ね 晦日乃至大晦日の前日と考えられていたことを論証されたのである。つまり、この語は「大晦日」
が前提になっていて、十二月二十九日が歳末の日だった寛文二年は適合しないことになる。そこで田中氏は、寛文十
三年六月に 渋川 春海が改暦を 請う 表を朝廷に奉った事実に着目された。宣明暦の冬至や夏至が正しい暦数ょり二日遅
れていることを知った為という。この改暦の上表直後の立春は延宝二年正月一日であったが、正しい暦日に直せば前
年の十二月二十九日に当る。大の月の二十九日なので、これを「小晦日」に宛てれば凡ての条件に叶うので、この句
は『千 宜理 記』の成立から幾許も隔らない延宝元年十二月に成ったと見られるというのである。宗房がどうして春海
の新説を知ったかが問題になる が、 『大阪独吟集』(延宝三年刊)の幾音独吟の冒頭に、前引の如く「寛文十三癸丑のと
しの内に春立ければ」と前書があり、宗房も幾音と同様にこの事を知っていたのだろうという。 田中氏稿 「宗房 句
「春やこし」の成立年次」(『国文白百合』25号)参照。なお、萱嶋完彦氏も田中氏に先立って延宝元年 説を 主張されてい
たそうである。
按うに、「小晦日」が「大晦日」の前日を指すという見方は恐らく正しいであろう。前掲『滑稽雑談』の書き方も
「大晦日」を前提としていることは明らかである。この句に関しては延宝元年説が有力になる と 思われる が、暦日の
ちがいの認識が何処まで普及していたか、改暦の実施が何時だったのか、不安な点もあるので、ここでは新説を紹介
するにとどめたい。
4
寛文三年
2 月ぞしるべこなたへ A せ M の官(佐夜中山集) 詞林金玉集
秋季(月)。
11〇月ぞしるべ 「しるべ」は、案内人の意。月が案内人だというので、後述の如く謡曲の詞を踏まえる。ここで句切れ。「花
のかを風のたょりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる」(『古今集』巻一' 紀友則) 「 xirubeuosuru .」 (『日葡辞書』)。 ◦こなたへ入
せ 「此な 方へ— 入らせ」。こちらへいらっしゃってください。「入せ」 で 切れるのではなく、次の「旅」 へ かかっていく。ここも謡曲
の詞取り。「入らせ給ふ」は'「居る」「来 J 「行く」等の尊敬語である。「みなうしろをかへりみて、こ、へいらせ給へとて、所を
さりてょびいれ侍にき」(『徒然草』四十一段) 「 oonata .」 (『日葡辞書』)。 〇旅の宿 「旅」には上の「入せ」を承けて「入らせ給べ」
(「給べ」は尊敬の補助動詞「給ぶ」の命令形)を言い掛ける。「立ざまや蚊屋もはづさぬ旅の宿膳所里東」(『猿蓑』卷二) 「 Tabi .」
「 Yado .」 (『日葡辞書』)。
1 ffl この良い月が案内人です。どうぞこちらへいらっしゃって、旅の宿にお泊り下さい。
1この句、謡曲の詞取りで、「夕を残す花のあたり、鐘は聞えて夜ぞ遅き。奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべなる。
此方へ入らせ給へや」という「鞍馬天狗」の一節を踏まえ、「花」を「月」に変えて俳諧にしたことが諸注に指摘さ
れている。一体、謡曲の詞取りは、後に談林派の総帥としてその名一世を風靡するに至る大坂の西山宗因が、謡曲
...'ili.- - '/li, の, I .. I を踏まえて、「甩人の渡りさふらふか橋の«;」とやったのが評判を呼び、.時に流行をきたしたもので、
この間の事情は乾貞恕の著とされる『蠅打』(寛文四年刊)に詳しい。松江重頼の『懐子』(万治三年刊)や阿知子顕成の
『境海草』(万治三年刊)には宗因の謡俳諧が入集しており、万治年間から当時の貞門俳壇に謡曲の詞取りが流行し出し
たことが窺われる。若き日の色蕉(宗房)の句が入集した最初の俳書たる『佐夜中山集』は宗因と仲の良かった重頼
の撰、発句三巻のうち、一巻の大半を「謡之詞」の俳諧に宛てている程である。奥書は寛文四年九月一一十六日である
が、巻末には「寛文四年六月上旬」とあり、恐らく六月には編成っていたのであろう。すると秋季の発句は同三年以
前となり、二年作の可能性もある。何れにせよ、宗因が謡の詞取りを始めてから二、三年しか経っていない時期に、
若年の芭蕉は早くも流行を取り入れているわけである。句はもとより貞門古風の作意に過ぎないが、原拠の 「花」 を
「月」に変えただけが働きではない。「月」からはおのずから夕暮のさまが思われ、そこから「旅の宿」が引き出され
た結果、潁原退蔵博士がいわれたように、「客引きの言葉を謡曲の文句で現はしたのがをかしみ」(『色 蕉 俳句新講』)とな
っている。初句の字余りが優雅に響き、全体におっとりした品格が感ぜられるのも取柄であろう。近来の注に、旅籠
屋の女主人の言葉とするものがあるのは、そうした感じを生かした見方と思われる。なお、同じく「鞍馬天狗」のこ
の詞章を踏まえた類作として、重頼の句「花ぞしるべこなたへいらち上戸衆」があるという。
3 姥櫻さくや老後の思ひ出(佐夜中山集)
春季(姥桜)。
1 〇 姥桜 「ゥバザクラ」。『滑稽雑談』に「羅山拾稿云、此花繁英、而枝上如 X 無 X 葉、老婆多落/歯無 X 歯、葉与 K 歯和訓相通、
故謂 n 之姥桜—〇〇大和本草云、1うば桜も彼岸桜の類也。彼岸桜の次に開く。是も花開く時葉なき故、うば桜と名づく云々。△此
種も花時葉未こ繁出一咲事彼岸桜に亞ぐ。洛東高台寺境内に大樹侍る也」と見える。「花楠もみつわぐみけり姐桜立圃 j t 『山之井』
春) 「 vba . J (『日葡辞室1』)。 〇 さくや 「咲くや」。「や」は詠嘆。ここで切れる。 「 Sgqr-JJF gs --?. Fanaga saqu . 」(『日葡辞書』)。
〇 老後の思ひ出 「老後の思ひ出で」。「思ひ出」は、一生の記念になる程満足を覚えることをいう。「思ひ k 」 が普通のようである
が、ここは五音にならねばならぬ所ゆえ、「思ひ出で」とよむべきで、「ちりぬともかをだにのこせむめの花こひしき時の思ひいで
にせん」(『古今集』卷一、よみ人しらず)等、古来用例も多い。謡曲の詞を踏まえることは後述。「次鼠に股 tars の纪なれば、齡<老
後のたよりとも成ぬべき人ぞ J (『武家義理物語』卷ーノニ) 「 R 6 go . Voite nochi .? o 6 goso vomoide . 」「 Vomoiide , sum ,
deta . 」(『日葡辞書 』 o
31 姥桜が華やかに咲いているわい、一花咲かせて、これが老後の思い出だとでもいうように。
■ a ■「姥桜」から「老後」と続けた縁語仕立ては誰しも気づくところであるが、この句の工夫はそれのみではない。
「老後の思ひ出」は、謡曲の「実盛」の r 此度北国に罷り下りて候はば、定めて討死仕るべし。老後の思ひ出 これに
過ぎじ。御免あれと望みしかば、赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ」といぅ一節から来ているのである。前の r 月ぞし
るべ」の句と共に『佐夜中山集』に見える宗房の二句は何れも謡の詞取りであって、その点が当時流行の先端として
撰者重頼の注目を惹いたのかも知れない。年増女のまだ色香を失わぬさまを「姥桜」にたとえるが、ここではその上
に、老いの身を華やかな具足に飾り、白髮を里〖く染めて最後の戦場に出陣した老将斎藤実盛の姿が重ね合わされてい
るのである。貞門俳諧の手法の常として、「姥桜」の名に興を発し、言葉の縁をたどる句作りが基本であって、桜の
咲くさまを如何に表現するかといぅことは一義的関心事ではなかった。『佐夜中山集』の成立時期(「月ぞしるべ」の
句の条参照)からして、この句の成立は寛文四年春、またはそれ以前と考えられる。
寛文六年
4年は人にとらせていつも若夷(千宜理記)
年や人にとられていつも若^びす(詞林金玉集}
春季(若夷)。
i 〇若夷「ヮヵエビス」。元旦の早朝に売りに来る夷神の像を印刷したお札。「夷」は福の神である。『醒睡^:』卷八に「元日
いまだ夜ぶかき内に、よろづ物をうりかふ人、えびすを求メむかふる事は、聖徳太子より定まれり。去により町^^-を持て、わか
袅びす^^とよぶ。是をのぞむ者、うけてよろこぶ者、えびすの坂木をする者」云々と見えるから、中世以前からの習俗だったの
であろう。「弱恵美須今-暁街-衢売„弱恵美須乐昆-沙-門知之札 — 〇民-間新-年先買 Z 之則年4 x 得\福」(『日次紀事』)
く、お C ひす、若*びすくと売声に、すこし春のこ、ちして」(『好色一代男』卷三) 「 Yebisu .」 (『日葡辞書』)。
ia 元旦に街を売り歩く若夷の像が若々しいのは、年は人にとらせておいて、自分はいつも若いのだ。
— 「若夷_の「若」は正月の縁起物に祝言の意味で冠せられる語で、「若菜」「若水」の類である。この句ではそ
の「若」に目をつけて、えびす様の何時もにこやかな明るい表情を、年は人にとらせて、それで何時も若いのだと言
い掛けて興じている。貞門お定りの名辞的発想ではあるが、はずむような調子が明るく快い。若夷のお札を売る人の
9 寛文六年
ことと する解もあるが、ここでは採らぬ。「年や人に とられて」の 形では、 「とられて」がふざけ過ぎた感じになる し、
「取られて若いのだろぅか」と疑問の意になる。 r 年は人にとらせて」の方がずっと自然且つ素直でょい。『詞林金玉
集』(宗臣撰)は延宝七年に成った集で、「年や人にとられて」の句を内藤風虎の『夜錦』から引いている。これは現在
伝本のあるのを聞かない逸書であるが、同じ風虎の撰著『桜川』の松山玖也跋に「過つる寛文六のとし、夜錦をあつ
め終りにし比」とあるのによって、寛文六年に編輯を終った集と知られる。従ってこの句は寛文六年正月或いはそれ
以前の成立と見られよう。「年や人にとられて」が初案で、後に『千宜理記』の形に改められたのかも知れない。
花は賤のめにもみえけり鬼筋(続山井)
詞林金玉集
春季(鬼筋)。
〇賤のめにもみえけり 「賤の目にも見えけり」。「賤」 は、 身分の低い者。「め」には「女」を言い掛けて「賤の女」という
言葉を利かせている。謡曲の詞を踏まえることは後述。「様々身をもだへ、^さへ!^ふも E 4 1 ずして」(『武道伝来 記』 卷 ニノ 四)
「xisu . Xizzunome . xN - zunouo 」 (『日葡辞書』)。 〇鬼筋 「オニァザミ」。現代では「薊」乃至「鬼薊」を夏•秋のもの
として扱うことが多いが、『毛吹草』は「俳諧四季之詞 j 二月の条に PM 隸み共」 とし、『増山井』も二月の条に「郝〕「をに筋」
を出して、やはり俳諧の詞とする。季吟の『山之井』春草の条には「あざみ」を挙げ、「鬼あざみは。とつてかまふが事にいひた
て ゞ おどろしくいひなし侍し」とも見えて、当時春季とされたことは明らかである。 キク 科の多年草で この 名で呼ばれる ものも あ
るが、ここは大型で葉の鋸歯の鋭いあざみの類の総称とすべきであろう。「鉄棒かをのが枝つょき鬼あざみ正直」(『毛吹草』巻五)
「 voniasmi . 」(『日葡辞書』〇
ms 鬼は賤の目に見えぬなどというが、「鬼筋」の花は賤の目にもょく見えるわい。
10
■ I これも謡曲の詞取りである。鬼が人の目に見えぬということは、『古今集』仮名序に「めにみえぬおに神をも
あはれとおもはせ」とあるのが古く且つ著名であるが、ここはそれよりも、「賤の目に見えぬ鬼とや人のいふらん」
という謡曲「山姥」の詞が直接には踏まえられている。恐ろしげな名を持つ「鬼筋」も花は綺麗で、人の目をひくの
であった。句頭の「花」を桜の花として、「鬼筋」とは別とするような解はよろしくない。「賤の女」を利かせている
のは、『増山井』三月の条に見える「眉作の花一説に鬼筋也。美人草是也。云々」といった連想が働いたのかも知
れぬ。眉作りの花とは雛罌粟のことらしい。それはともかく、句は「鬼筋」の名に謡曲の詞をからませて、 面白く 表
現しようとしただけのもので、名に似合わぬ花の美しさが思われるところは聊かの取柄であろうが、多く言うに足り
ない。出典の『続山井』(湖春撰)は寛文七年五月に成った書であるが、『詞林金玉集』は「年は人に」の句と同じく、
寛文六年に成ったという『夜錦』から引いているので、六年春までには成っていた句と推定される。
S 京は九萬九千くんじゆの花見哉(詞林金玉 S
春季(花見)。
i 〇 京は九万九千くんじゆの 『日本*記』(文禄五年成)に「京都九万八千家」とあり、『本朝二十不孝』卷一、今の都も世は借
物の章の初めの所にも、「九万八千軒といへる家数は信長時代の事なり。今は土手の竹藪も洛中になりぬ」とあって、都の家数の
多さをそう言い習わしていたことが分る。それを数をせり上げて「九万九千」とし、「貴賤群集」(謡曲の常套表現)に言い掛けた。
「キセン•クセンは同じ力行音の一字を切り替えただけのもじり。この種の技巧を「かすり」という。当時の常套技巧」(今栄蔵氏
『芭蕉句集』) r 京や九万八千年のかどの套常倫」(『山之井』)「花はくんじ人はくんじゆの木陰哉宗除」(『毛吹£卷五)「66,
Miyaco. 」 「 cunju. Muragari, at-oumaru.Cunju suru. 」 ( 『日葡辞書』)。 〇 花見 桜花を観賞す る 意に常用され る 季語。 「みよし 野は
右往左往の花見かな貞室」(『大和順礼』) 「 Fanami .」 (『日葡辞書』)。
11 寛文六年
B 3 E 1>;( は九.乃八- T' 家といわれるが、部の花}. I の人出は、九.乃八 T- どころか、九; 7 九 T- もの' I'. ults の人が#がり叱.りて、
大変な賑わいであることよ。
京の花見の賑わいを表現するのに、「九万八千家」と「貴賤群集」の語を利用したもので、こうした作意が珍
しくなかったことは、〔語釈〕の項に挙げた当時の作例を見ても明らかであろう。「貴賤群集」は謡曲に頻出する語で
あるが、この句では特に「西行桜」の「貴賤群集の色々に、心の花も盛にて」 r 浮世を厭ふ山住みなるに、貴賤群集
の厭はしき」等が強く意識されていると思われる。この曲は嵯峨の奥なる西行の庵室を花見の人々が訪う趣向で、
「花見にとむれつ^!人のくるのみぞあたらさくらのとがには有ける」 (『山家 集』)の歌も引かれているのである。句作り
の面では、初五の字余りの上に「キヤゥハクマンクセンクンジユ」と拍子に乗せて力行音を列ね、撥音も多用して陽
気な気分を盛り上げている。縁語仕立てだけでなく、表現の関心がこうした点にまで及んで来ると、それはやがて談
林風を導き出す契機を釀成することになる。出典の『詞林金玉集』は例の『夜錦』から引いているので、これまた寛
文六年春以前の成立と考えられるが、若き日の芭蕉の作風展開を見る上では留意すべき作の一つである。
7秋風の鍵戶の口やとがりご^ ( 続山井)
秋季(秋風)。
i 〇鏈 戸の 口 「鏈戸」は、普通には「遛戸」即ち左右に引いて開け M fc てする引戸と同じとして、それに武具の「鑓」(槍)を
言い掛けたと解する。それでも勿論通ずるが、ここは別解の可能性もあるようである。『和漢三才図会』卷八十一、「都」の条に、
「鎗戸•俗称夜利度' 今云末以良度。 …… 鎗」尸 I/X , 多用,一玄-関_ 口一戸也」とあり、これに従えば玄関口に用いる所謂「舞良: 尸」
(框の間に綿板を張り、その表裏に舞良子という細い棧を取り付けた引戸。書院造の建具である)を鎗戸•鐽戸と称したので あっ
12
た。この句の場合、普通の遣戸より玄関口の舞良戸とした方が r 戸の 口」 「こ袅」等との関係も恰好になるから、私は玄関の戸と
見たい。『日葡辞書』の 「 Yarido . 」も舞良戸として解している。「戸の口」は、人の出入りする戸口の意に身体の部分の「口」を
掛け、下の「とがりご袅 J の縁語とした。〇とが リご承 「尖り声」。甲高く鋭い、突慳貪な声。「腹を立秋風の〇やとがりご袅
如友」(『晴小袖』)。
sa 秋風の鏈戸の口に吹き当る音は、「鏈戸」という通り、正に尖り声だ。
— 「譴と「とがる/ 「口」 と「こ袅」の典型的な縁語仕立てである。「秋風の姿情、尖とは彼肌骨一一砭スの冷1:
き秋気也。然ば武士の厳重、遣り戸の声に喩へ給ふ趣意也」(鷗沙『過去種』)といった見方もあるが、この時期は「秋
風の姿情」「冷じき秋気」を正面から取り上げようとするよりは、縁語に興ずる機智的発想が第一である。この句で
は秋風を擬人化して、玄関口に訪れて「物申」を言い入れるいかつい武士などのさまを重ね合わせたところが取柄で
あろう。『紅梅千句』第七の巻頭「ひわり戸の透間かぞへや月の弓季吟鑓のさきより鋒る秋風正章」の発句.
脇はこの句案に必ず大きな影響を与えたろうし、「夕立をいれじとふせぐやり戸哉」 (『 a 真似**』)と t う信徳の発句も、
宗房の句に先立つ作である。これ以下、「寝たる萩や」(/2)の句までは、寛文七年五月に成った湖春の『続山井』初
出で、寛文六年秋以前の成立と考えられるもの。
S 七夕のあはぬこ、ろや雨中天(続山井)
秋季(七夕)。
1 〇 七夕 「タナ.ハタ」。もとは「たなばたつめ」即ち織女星を指した語であるが、七月七日の夜天の河を越えて牽牛.織女の
二 星が一年に一度逢うという乞巧奠(星祭)のことともなり、延いてはこの 二 星そのものを指すようにもなった。ここは最後の 二
星そのものを指す場合である。「おれにす、きのいとしいぞのふ蟬吟七夕は夕辺の雨にあはぬかも宗房」 •=; 貞徳翁十三回忌追
1 r* cfrc ,i— _t_. /r-
iO 見乂ハ千
善俳講 」 I s 蕉桃青翁御 [H 伝記』) rTanabata . 」(『日葡辞書』)。 o あはぬこ、ろ 「髮はぬ心」。『山之井』に「こよひは。みつぶにて
も雨だにふれば。あまの河水みぎはまさりて。星のあふせむなしとかや世俗いひならはせり。誠らしき般拠は見侍らねど。雲うち
おほひて。ほしあひの空見えざらんには。俳諧の思ひ出に。さいひたりともつみなかるべし」(秋部)とあるように、七夕の夜雨が
降ると二星が逢えなくなるといわれたのに基づく。一年一度の逢瀬なのに逢えない気持。〇 雨中天 r ゥチユゥテン」。雨の中の空
といった意味の造語。喜びの絶頂をいう「有頂天」に掛けて洒落たのである。「雨中吟 j (俳諧で鬱陶しくむずかしい感じの句をい
う)のもじりと見る要はあるまい。「今日の雨中の夕の空、御つれを慰めんと」(謡曲 r 千手 J )「 VCM . Amenovchi . J (『日葡辞
書』)。
aaa 年に一度の折角の日に雨で逢えない二つの星の気持は、「有頂天」ではなくて「雨中天」とでもいうべきか。
七夕を材にした句でも、二星が逢えたことばかりでは曲が無 さ 過ぎる。『山之井』ではないが、逢えない趣を
採り上げて こそ 「俳諧の思ひ 出」というものだろう。 『毛吹草』には「雨天なりければ」 と 前書して「以糸か雨のこ
よひの二星」(巻六)という重頼の句を収めるが、貞門風の発想では、それにも大した変化は求めにくい。宗房のこの
句にしても、「ウチュウテン」「ウチョウテン」の洒落は如何にも苦しく、余り褒めた出来とはいえないのである。
『毛吹草』には「月を見る人の心や有頂天正依」(巻六)という句も見える。
9たんだすめ住ば都ぞけふの 月 (続山井)
秋季(けふの月)。
H 〇たんだすめ 「唯だ澄め」。「たんだ」は「唯」の撥音化したもの。「たんだ降れ'^、やれ淡雪の--^、ふるに心の <、
消え^^と j (『寛永十二年跳記』あづま跳の唄)「たんだふれ^-六しやくそでを さ」 (『松の葉』第三卷、門ば しら) 等俗謡に例が多い。
ただひたすらに澄みわたれ、の意。 〇住ば都 「住めば 都」。 どんな辺鄙な所で も、 住みなれれば住みょくなって離れ難い意の諺。
14
「住む」に「澄む」を言い掛けた。「すめばみやこ」(『世話尽』曳言之話)。〇けふの月「今日の月」。中秋八月十五夜の名月をいう。
ここは上の「都」の縁で「京」を言い掛けているであろう。「けふの月……夜分にあらず」(『御傘』) 「 Qe 6. 1, qio >. 」(『日葡辞書』}。
Bi ただひたすらに澄みわたれ、今日の名月よ。「すめば都」だよ。こんな田でも、月の今宵は京と同じだ。
3 「澄む」「住む」の同音を利用して「住めば都」の諺を引き出し、俗謡調を取入れて俳意を強調した趣向である。
月宮殿を意味する「月の都」の連想もあろう。掛詞や諺の利用は貞門俳諧の定石であるが、この句の俗謡調は数年後
の『貝おほひ』の先駆を以て目すべく、「京は九万九千くんじゆ」の句にも見えたはずんだ調子は、やがて来る談林
風にも結び付いて行くのである。「住ば都」といったところには、当時まだ郷里の伊賀に居た芭蕉の境涯が窺えるか
も知れない。しかし、だからといって、この句に作者の心境まで読み取ろうとするのは無理であろう。貞門の俳諧は
所 B そのような心境的な詩を盛る器ではなく、専ら縁語.掛詞等の言葉の綾によって滑稽を楽しむものでしかなかっ
たからである。ただ、この句に見える機智や技巧はかなり成功している。
70影は天の下てる姬か月のかほ(続山井)
秋季(月)。
n 〇 影 ここは「月影」即ち「月の光」の意。陰影と取るのは誤りである。〇 天の下てる姫か 「天の下」と「下照姫」の掛詞。
『古今集』仮名序の「ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり」という一節を踏まえる。「下照姫」は大国主命の娘、天
稚彦の妻と伝えられる神話中の人物で、天上に於ける歌の始まりとされる。「か」は 疑問。 ここで切れる。「ほこ長し天が下照姫は
じめ」(『望一千句』)。〇月 のかほ 「月の顔」。月の形を顔に譬えた。「沖にちひさきいさり舟の、影幽かなる月の顔」(謡曲「松風」)。
gi 月光が 天下を隈なく 照らしている。この 見事な 月の 顔は下照姫で もあろう か。
10 寛文ハ牛
■2 ■「月のかほ」から「下てる姫」と案じて擬人化し、「天の下」と言い掛けて、世界を遍く照らす月光を匂わせた
例の技巧である。下照姫については、夫の天稚彦が矢に貫かれて死んだ時、その嘆く声が天に聞えたことが『古事
記』に見えるが、容貌がどうであったかは取立てて出ていない。ただ、「下照姫」という名が照り輝く美しさを思わ
せるので、見事な月光の譬喩としたのであろう。こうした擬人化は貞門の常套手法で、『山之井』には既に「名は高
子月はあきらけいこよひ哉」「月はげに顔よし鬼も十八夜」という季吟の類作が見える。
"荻の聲こや秋風の口うつし (続 山 井) 詞林金玉集
秋季(荻•秋風)。
11〇 荻の声 「荻」は、水辺の湿地などに生えるィネ科の多年草。その風にさわぐ音をいう伝統的歌語である。 rvogui .」 (『日
葡辞書』)。〇こや「此や J 。 代名詞「こ」に詠嘆の間投助詞 「や」 がついた もの。 これがまあ、これこそ、の意。古来用例がある
が、「津の国のこや日の本の始めなる」(「海士 J ) 「津の国のこや都路の難波津に」(「難波 t 「こや住みの江の浦伝ひ」(「松虫」)等、
謡曲では摂津の歌枕昆陽に掛けて用いられることが多い。「こやむかしあかしのうへのかたち花(季吟ご(『山之井』年中日々之発句)。
0 口うつし 人の口調をそのまま真似ること。また、文字にょらず口頭で伝授する「口伝」のことをもいう。 「 ouchiut の uxini
monouo yc <. 」 ( 『日葡辞書』)。
Msa 荻の葉の風にさやぐ音がする。これこそ秋風の口真似というものだ。
IE ■季吟は『山之井』秋部で「荻は風に こたへ て声の あなれば。 秋風の口 まね。^^ f どもいひ。ふるひ1 へ。そ、
やき声にもき、 なす。 又かざけに荻やそ V ろごと。 松風の地うた ひなどもいひ。 風やおぎの ふと そ へても」と 述べ、
「あきかぜの口 まねする や荻の声」の句を示して いる。 r 荻のこ袅や秋 吹 かぜの口う つし」 (盛庸 )( 『崑山集』卷八)「西風
16
の口移しをや荻の声」(維舟)(『桜川』秋二)といった類句もあり、この発句での宗房の手柄は殆んど無いといってよい。
僅かに「こや……」という謡曲調を取柄として『続山井』に採られたのでもあろうか。貞門の俳諧が如何に型に嵌っ
た発想に固執していたか、よく分る好例である。
£3寢たる萩や容顔無禮花の顔 S 山井} 如意宝珠 .W 翁全伝(竹人)
秋季(萩)。
H 〇寝たる萩や「萩」はマメ科の多年生草状木本植物。高さーメ —トル以上、叢生して枝を分ち、葉が茂ると枝がしなやかに
曲って、風に逢うと波打つさまは風情がある。花は濃淡ある紅紫色の蝶形花。秋の七草の筆頭に置かれ、秋草を代表するところか
ら「萩 J という和字を生じた。ここは萩の枝が地上に垂れたさまを人の寝た様子にたとえ、全体の人事的趣向の契機としているが、
『山之井』秋部、萩の条には、「はぎだか。つるはぎなどもそへ」とあり、「仙 AJ もまよはんしろきはぎがはな」の例句を挙げてあ
る。この句も「萩」に「脛」を掛けたと見てよかろう。ここの字余りは俗 ii 調。 rFagui.J (『日葡辞書』)。〇容顔無礼「ョゥガン
ブレィ」。「容顔美麗」(容貌が美しいこと)のもじり。謡曲「殺生石」に「この玉藻の前と申すは、……好色を事とし容顔美麗な
りしかば」とあり、御伽草子•仮名草紙の慣用句でもある。「か i るようがんびれいにて、かたちは春の花なれど」(『竹斎』上)
「 Yo ' gan . Cauo catachi . Y 6 gwlbirei . 」 「 Burei . Vyamai naxi . J (『日葡辞書』)。◦花の顔咲いている花の様子。ここはそれに
美人の顔の形容としての意味を掛けた。「花のすがた花の顔、花のよそひ、則木の花の上に申ならば、植物也、正花也、春也。
たとひ花にたとへて人のうへに申共、正花也、春也。……恋にもなるべし」(『御傘』)。
1 a 萩の花の美麗さは、まことに「花の顔」と言うべきだが、地に咲き垂れて Kf も露わに寝た姿は、「容顔無礼」
なしどけなさだ。
mai 萩の花を美女に見立てた擬人句で、寝姿のしどけなさに譬えたところや俗謡調は、俳意十分といえよう。ただ
17 寛文六年
「容顔無礼」は「雨中天」 (S) と同様に聊か苦しく、下の「花の顔」との重複も気になる。『芭蕉句集』|)[潮:;:木- n!)l', '^
成)に『後拾遺集』から「萩の寝たるに露の置きた る」 という表現が引かれているが、『後撰集』所収の歌「昨日見
し花のかほとてけさ見ればねてこそさらにいろまさりけれ」(巻三、三条右大臣)が或いは意識されていたかも知れない。
芭蕉は後年『おくのほそ道』市振の条の遊女とのあわれなめぐりあいを叙したところに「一家に遊女もねたり萩と
月」の句を置いたが、折口信夫博士は、この句を作った芭蕉の動機の一つとして「月は尾花とねたと言ふ、尾花は月
と寝ぬといふ」という小唄の古い型が作者の脳裡にあったろうことを指摘しておられる(「文学に於ける虚構」『短歌研究』
第五卷四号、『全集』廿七卷)。晚年のことはさておき、「寝たる获や 」 の句の発想にも、同様のことを考えてよいのではあ
るまいか。私がこの部分に俗謡調を感ずる所以もその辺にある。
=5月の鏡小春にみるや目正月—
冬李(小春)。
laja o 月の鏡 満月を円形の鏡に譬えていう。『続山井』はこの句を冬月の題下に収めてあり、季語を「冬の月」と見ることも出
来るが、やはり時季をはっきり限定する「小春」を季語とした方がよい。「月のか V み満月を云 , -.(『増山井』) rcagami .」 (『口葡
辞書』)。〇 小春 「コハル」。陰暦十月の異名。冬といってもまだ本格的な寒さの訪れはなく、風のない晴れた暖い日は春を思わせ
るのでいう。「歳時記に、其暖なる事春のごとし。故に小春といふといへ り」 (『増山井』)「あまのはらも十月めにうむ小春哉」(『山
之井』冬部) rcofaru . 」(『日葡辞書』)。〇目 正月 「メシヤゥグヮッ」。美しいもの珍しいものを見る楽しみを正月に譬えていう諺。
「目の正月」ともいう。『一葉集』の座五「目の正月」という異伝は、時代の降るものだから問題にはなるまい。
1333鏡のような満月を小春の月に見ることよ。これこそ目正月というものだ。
18
■ H 「月の鏡」「見る」「目」、更には「小春」と「正月」等、うるさい程の縁語仕立てである。そして一句の中に
「月」(秋)「小春」(冬)「正月」(春)と三季にわたる季語を含みながら、紛れもない冬の句であるところ、作者の得
意気な顔が見えるようだ。しかし、これも明暦二年刊の『崑山土塵集』(良徳撰)卷十に「小春にも梅の花見や目正月」
(伊人)という先例があって、余り自慢にはならない。「小春日和」など昼の趣をいうことの多い題材を夜に用いたと
ころが、せめてもの取柄であろうか。この句以下、「霜枯に」(77)の句まで『続山井』初出の冬の句は、寛文六年冬
以前で、この句の場合は「小春」で更に限定される。
W 時雨をやもどかしがりて松の雪(続山井) 蕉翁全伝(竹人)
時雨をばもどきて雪や松の色(詞林金玉集)
冬季(雪)。
H 〇 時雨をや 「時雨」は、秋冬の交に陰晴定めなく降る通り雨をいう初冬の季語。「や」は疑問。「時雨……初時雨としても月
に結びても冬也。木の葉の時雨、川音の時雨、泪の時雨、皆冬也。露の時雨は秌、時雨の露は冬、蟬の声の時雨は夏」「松風の時
雨冬の季を持故に、降物に二句可一嫌。松風の時雨似せ物成に冬になる事如何と存ずれ共、新式に泪の時雨を冬と定たれば、此
分也」(『御傘』)「しぐれは空さだめなく。はる\と見れば。ぐれりと曇り。ふると思へば。さ k らげもあらぬ気色。足ばやに通り
ゆくさまなどをいひて。月は出とするさよしぐれ。時雨のあめや下り坂などもつらね。めぐるといふにつきて。地獄めぐり。山め
ぐり。ど k めぐりなどのことばをももとめ。たがまことよりとよめりしによりて。雪中のばせをではなしとも。うそさむしたがま
ことにやなどもいへり」(『山之井』) 「 xigure ; (『日葡辞書』)。 〇もどかしがリて 「もどかしがる」は、じれったく思う意。 〇松の
雪 「松」に「待つ」を言い掛けた。
caa 何時まで待っても色を替えてくれない時雨をじれったく思って、松は雪を冠っているのだろうか。
19 寛文六年
H 『山之井』秋部、紅葉の条に、「常 山のかつあかきを。松を時雨のそめしにやとうたがひ」とあるように、#
雨は秋闌けた木々を色づかせるものとされており、松の常盤の色を時雨が染め兼ねる趣は、「わが恋は松を時雨のそ
め力ねてまくずがはらに風さわぐなり」(『新古今集』巻十一、慈円)の歌にもあらわれている。この句なども、右の慈円の
歌を心に持って、そこから「松の雪」へと展開して行った趣向であろう。この句には時雨降る初冬から初雪の頃まで
の時間の経過がある。しかし、それを景を中心に叙べるのではなく、「松」を擬人化し、「もどかしがりて」というよ
うな人間心理を持ち込んで表現するところが貞門流なのである。「もどかしがりて」の主語を「雪」や「天」 と 考え
ることも出来るが、やはり「松」と見るのがよかろう。『詞林金玉集』は寛文六年に成ったという風虎の 逸書 『夜錦』
から引いており、この引用が確かなら ば、 同書には「時雨を ば もどきて雪や松の色」の形で収められていたことに i
る「もどく」 は、 逆らう、 非難す ること(山 本健吉氏の『色蕉全発句』 のように「真似る」 意に取る のは良くある
まい)。 『金玉 集』の 句 形では、雪はまだ降っておらず、松が雪を待っているだけである。『続山井』の撰者などが手
を加えて「時雨をやもどかしがりて松の雪」の形に直したのかも知れない。
子にをくれたる人の本にて
/5しほれふすや世はさかさまの雪の竹(続山 S
冬季(雪)。
_| 〇 子にをくれたる人 「子に後れたる人」。子—に死なれた人、子—った人。-」 Q 「人」が誰であるかは明らかでない。
「を」は「お」の仮名ちがい。「口 養ノ資 無シテ子-1後 レタル 老母ハ、 僅,二日ノ餐ヲ求兼 テ、 自溝?一 倒レ 伏ス」(『太平記』巻十
一) 「 vocure , ruru , eta . voyani vocururu . J (『日葡辞書』)。〇本「モト」。居所を意味する 「もと」 の 宛字。「許」 の 字を 毛
20
いるのが普通である。「ある人のもとにて発句せよと有ければ」(『あら野』卷一) 「§ oto .」 (『日葡辞書 JI )。 〇しほれふす 「萎れ伏
す」。生気を失って俯伏すこと。仮名遣は「しをる」が標準的であるが、「しほる」とする考え方もある。「いと V 身のおき所のな
き心ちして、しをれふし給へり」(『源氏物語』総角) 「 xiuorefuxi , su , uita . 」(『日葡辞書』)。 〇世はさかさま 「世は逆様」。世の中
の事は、兎角理窟や順序通りに行かないという意味の諺。ここは年齢の順なら親が先に死ぬべきところを、子が先立って親が後に
残ったことを「さかさま」といった。「世」に「節」を言い掛けて下の「竹」の縁語とした外、「さかさま」は、雪に圧された竹の
状態の形容としても働いている。 rsi r 助応報あるべきに、世はさかさまの桑の弓」(『椿説弓張月』第五十六回) 「 sacasama . 1,
sacasamani.J (『日葡辞書』)。 〇雪の竹 積った雪の重みで撓い曲った 竹。
1 a 「世(節)はさかさま」の諺通り、雪の重みで曲った竹がさかさまに萎れ伏している。そのように貴方も、「世
はさかさま」で子に先立たれ、雪で曲った竹のように萎れ伏していることよ。
I 子に先立たれた逆縁の人の気持を思い、悼意を表した句である。このような場合でも、古風の俳諧では、これ
を雪の竹の萎れ臥すさまに譬え、「世はさかさま」の諺を引合に出して「世」「節」の縁語仕立てにするなど、技巧を
駆使するのが定法であった。謡曲「竹雪」を踏まえた趣向とする見方もあり、この曲は母が離縁されて父の許に残さ
れた月若という男の子が、物詣でに出た父の留守に、後妻に竹の雪を払えと命ぜられ、寒さに凍えて空しくなるとい
う話である。その死を知って雪中に子の亡骸を尋ねる母親の詞に、「ふるに思ひの積る雪、消えし我が子を尋ねん」
「子の別れ路を悲みて、竹の雪をかきのくる。……うれしからずの雪の中や」等とはあるが、、必ずしもこれに拠った
とする 程、 内容にも詞にも発句と縁の深いものは見出せなかった。たまたまその人の許で庭の雪の竹を見たというよ
うなことが発想の契機になったと見てもよかろう。悼句だけに、しみじみとしたものは出ている句である。
;6 霰まじる帷子雪はこもんかな g 山井) 詞林金玉集
Ol 3V—
乙 i 免又ハ十
冬季(帷子雪•霰)。
lini ^ 〇霞まじる 「霰交る 」。 「Ararega furu . 」 「 Majiri , u , itta . 」(『日葡辞書』)。〇 帷子雪 「ヵタビラユキ」。猪苗代兼載の連歌
論書『竹聞』(文亀三年成)に「かたびら雪とは、うす^^とふりたるを云」とあり、『山之井』には「かたびら雪をかづきありく
おほぢのていをながめ」(冬部)「帷子雪の村消を。めゆひのかのこまだらとみたて」(春部)等とあるのによれば、「薄雪」と解し
てよさそうで、『隆達小歌集』には「わする\物を、又ふりか k る、かたびら雪の、きへもせで」とも見える。『猿蓑』の付句「鶯
の音にだびら雪降る」の「だびら雪」(或いは、たびら雪)と同一視されることがあるが、「だびら雪」は春先に降る水分の多い大
振りな雪片をいうらしく、「かたびら雪」とは別であろう。 rcatabira .」 (『日葡辞書』)。〇 こもん 「小 mJ 。 小紋染のこと。布地に
星•霰•小花等の細かい模様を一面に染め出したもの。「帷子」と縁語になるほか、「霰小紋」の語によって上の「霰」とも縁語に
なる。「近年小ざかしき都人の仕出し、男女の衣類品々の美をつくし、 雛 形に色をうつし、浮世小 g の模 «tJ (『日本永代 蔵』 卷一
ノ 四) 「 comon .」 (『日葡辞書』)。
§ a 帷子雪(薄雪)に霰のまじったさまは、さながら霰小紋だなあ。
■■「帷子雪」を「だびら雪」と同一視すると、霰まじりに降るぽたぽたした雪のさまを詠んだことになるが、こ
こでは「薄雪」と見る立場で解したい。つまり、地面に薄く積った雪の上に霰がまじっているのを r 霰小紋」に見立
てた趣向ということになる。こうした見立は当時の俳諧にありきたりの事で、同じ『続山井』に見える、
あられふる庭や白地の総鹿の子 蟬吟
という句は、天象を染模様に見立てたところ、宗房の句と全く同趣である。その外、「帷子雪」の例としては、
山姫はかたびら雪をかづきかな 貞徳(犬子集)
佐保路なるかたびら雪やならざらし良徳(同)
二日ふるかたびら雪やひとかさね 貞義1
踏跡はかたびら雪の縫目哉 重方(毛吹草)
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辻風は^;た-びら雪のもやう哉 信徳 S 真似草)
たちぬはぬかたびら雪やひとへ物 立圃(小町踊)
といった句を挙げることが出来る。宗房の句も、これら伝統の型を踏襲しているに過ぎない。
77霜枯に咲は辛氣の花野哉(続山井)
冬季 i 枯)。
1 M 〇霜枯 「シモガレ」。1 相の置く頃、野の草木が衰えを見せ枯れて行くさまをいう冬の季語。「しもがれのせむざい、袅にかけ
るやうにおもしろくて」(『源氏物語』若紫) 「 ximogare , uru , eta . J (『日葡辞書』)。 〇咲は 「咲くは」。 ◦辛気の花野 「辛気」は、
心がくさくさして気が重くなることをいう俗語。「花野」は、いろいろの秋の草花の咲き満ちた野のさまをいう。秋の季語である
が、ここでは冬まで咲き残った花野なので、句は秋季にならない。その花野の名残りが寂しく寒々としているのを「辛気の」と形
容したのである。「花野非,一正花—〇秌の草花也。薄.疎など同意也。不 Z 可 Z 付」(『御傘』)「さかぬまはしんきの花の盛哉利次 J
(『毛吹草』卷五)「風上をかこへ花野の屛風草定時」(『毛吹草』卷六) 「 xinqiuoyamu .」 (『日葡辞書』)。
la 霜枯れの時まで咲き残った 花野は、 如何にも 物 さびしくて 気がめいる。「辛気の花野」 といったところだな あ。
I 霜枯れの 野の 草花のさびしさをいうのに、 「辛気の」 という 人間臭い言葉を持ち込んで 形容した 俳諧である。
霜枯れの 野の さまは、この 句の時作者の脳裡に あったかどうかは 兎も角、 「さまざまに 花 さきけりと 見し のべのおな
じいろにもしもがれにけり」 (『山家集』上) といった 西 行 歌に基本の型は あろうが、 花野を「辛気の」 と 人間化するの
が 貞門流の俳諧 精神であった。しかも 「辛気の花」は そればかりでは ない。『隆達小歌集』 に 「心気の花は、 ょ X に
さく。 情の 花の、ひとょさかぬ か」 という 小歌が あり、 〔語釈〕 に引いた 『毛吹草』所収の利次の句も、その詞を裁
ち入れたものに違いない。「霜枯に」の句も同じ系列に入るもので、利次の句が、花が咲くのを待つ焦ゎ:たい^持
を「しんき」といったのに対して、宗房の句は物さびしい霜枯れの野のさまを形容している。余り働きはないにもせ
ょ、その辺が新味といえば新味であろぅ。
/ S 花の顔に晴うてしてや朧月 i 山井)
春季(花•朧月)。
1 ◦花の顔ここの「花」は、桜。盛りの桜花のさまを美人の顔にたとえる伝統的表現である。「寝たる萩や」5の句参照。
〇晴うてしてや r 晴うて」は、「晴れ打て」。晴れやかな或いは美しい物を前にして気おくれすることをいう。「や」は、疑問に詠
嘆を含む切字。晴れ打てしてなのかなあ。「月に星猶晴うての今夜哉重頼」(『毛吹草』卷六)。〇朧月「オボロブキ」。春の空にひ
ろがりやすい薄雲に覆われて暈の出来た月。暈が出来ると輪郭がぽんやりと霞んで見えるので「朧」という。春の季語。「おぼろ
けと云詞、春にあらず。月を結ては、はるたるべし」(『御傘 t 「色つやも花やうばひて朧月立圃」(『糸瓜草』) 「 voborozzuqi . J
(『日葡辞書』)。
31花盛りの美しいさまに気おくれしてなのかなあ、朧にくもるこの月は。
111一盛りの桜と朧月の取合わせは、華やかな春の自然の代表といってよいが、それを素直に叙べるのではなく、こ
こでも一ひねりして擬人化する。〔語釈〕に挙げた「色つやも花やうばひて朧月」の句は宗房の句の先蹤といってよ
く、名月の夜の月と星を比較して「晴うて」の語を用いた重頼の句のような例もあった。「花の顔に」の句には、美
25 寛文七年
人の前で恥かしげに顔を隠す醜女などのィメ ージも重ね合わされている。後年「五月雨の降り残してや光^」の句な
どに於いて芭蕉独得の雰囲気を醸し出す「てや」の言い廻しが早くもあらわれて注意を惹くが、機智だけで持ってい
るようなこの句の境地から、「しばらくは花の上なる月夜かな」(『初蝉』)まで成長するには、まだまだ時間がかかるの
である。以下、「風吹ば」(27)の句まで『続山井』初出の春の句は、寛文七年春以前の成立と推定されるもの。
W 盛なる梅にす手引風も哉(続山井)
春季(梅)。
〇盛なる梅 「盛りなる梅」。「梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり」(『万葉集』卷五、葛井大成) rsacari . 」
「 vme . J (『日葡辞書』) 〇す手引 「素手引く」。得る所なく空しく手を引く、から手で帰る等の意。ここでは風を擬人化して、梅の
花を散らさずに吹き過ぎることにした。「す手」の「す」に梅の縁で「酸」を言い掛けている。「赤?^引」(『続無名抄』世話字尽)
「山 岡がかういひか\つて、つゐに是まで素手引いた事がない」(『咲分五人媳』) 。〇風も哉 「も哉」は「もがな」で、願望の意を
あらわす語法。「な」は詠嘆で、「がな」と「かな」は別の語であるが、願望の意を「も哉」と表記するのは、中古以来の慣用であ
る。「あはれ紅葉をたかん人も哉」(『徒然草』五十四段) 「 Gana .」 (『日葡辞書』)。
Eia 今真っ盛りのこの梅の花を散らしてはもったいない。何もせずにただ吹き過ぎる風があってほしいものだ。
梅花を吹く風を厭う趣を「素手引く」という俗語を利用してまとめた例の人事趣味の句であるが、「素」「酸」
の同音の掛詞の外は全く働いていない。余り芳しい出来とはいえない句である。
20
26
あち東風や面//さばき柳髮 i 井) i 全伝(竹人)
春季(東風)。
KH 〇 あち東風 「彼方此方」に春風の意の「東風」を言い掛けた修辞。「こち東風と書。春也」(『御傘』)「東風、春風也。東風
開\凍と本文有。……春は少の風も花をいとひて、嵐と和にもいふ也」(『三冊子』わすれみづ)「鶯のあちこちとするや小家がち蕪
村」(『続明烏』) 「 Achi , cochi . 」 「 cochi . J (『日葡辞書 fc 。 〇面 -v さばき 「面/ VM き」。各自が自由に処理すること。ここは「捌き
髪」(解き散らしたざんばら髪)に言い掛けて「柳髪」の縁語とした。「ヲ、かまふな、こちもかまはぬ <、めん <さ ばき」
(『浦島年代記』第三) 「 Menmen . 」 「 sabaqi , cju , aita . Camiuo sbaqu . 」(『日葡辞書』)。〇柳髪「ヤナギガミ」。柳の枝の細く
しなやかに垂れるさまを人の髪に見立てていう。『和漢朗詠集』上に収める「氣 * 風梳,一新柳髪こ(気*れては風 M 柳の髪を S 3 る。
都良香)あたりが発想のもとであろう。長く美しい女の髪を譬えて この 語を用いることも多く、 ここで も勿論その意が掛けてある。
「当世の詞に、物を柳にやると云事、又、柳髪と云事、皆植物也、春也」(『御傘』)「春雨にあらいてけづれ柳がみ」(『犬子集』卷一)。
11*3 春風に吹かれて柳の枝があちこちに靡いている。女性に譬えれば、見事な里■をそれぞれに捌いて風に任せて
いるというところか。
■ EH 『山之井』春部に「柳はさほ姫のながかもじ。うぐひすの琴の糸などもいひなし。雨の あら ひ。風のけづるけ
しきをもながめ」などとあるょうな連想が、貞門俳諧の一般であって、〔語釈〕に引いた『犬子集』の例の外、『毛吹
草』卷五に「風さそふ柳の髪や大わらは」(宗朋)、『山之井』には「柳がみふきがへしにやゆふ あらし」 「をんなにて
見ん柳がみ柳ごし」(正章)等の類句が見える。この句もこの型の枠の中のものではあるが、「面 AZ さばき」という当
世語を入れ、それぞれの掛詞もょく働いて活気がある。当時の句としては上の部の出来であろう。
27 寛文七年
a 餅 S をしら糸となす柳哉(続山井)
春季(柳)。
〇餅雪「モ チユキ」。春先にぼたぼたと降る水分の多い雪。積ったさまを餅に見立てたのである。綿雪•牡丹雪と同じ。「■
ずして有餅雪や寒 ざら し童貞」(『毛吹 草』 卷六) 。〇 しら糸「白糸」。白糸餅のこと。槪斯(粳米の粉)の餅を よじって 傲 糸の よ
うにしたもの。「古くより白糸餅といふあり。細くねぢりたる物にて、馬の形には あらざれ ど、異名を瘦馬 といへ り。 是もしんこ
馬に対しての名なる べし」 (種彦『用捨箱』上三) 「しらいと 七月十日清水の四万六千日いとにぎはへり。此辺 すべてしらいと 餅を
売る」(馬琴 『羈旅 漫録』中六十九)。 〇柳 「ヤナ ギ」 。春の季題。 この 句では これが 季語となる。「柳に雪を結ても春 也」(『御傘』)
「 Yanagui .」 (『日葡辞書』)。
柳の枝にかかる雪は白糸のようだ。柳は餅雪を白糸餅にしたことよ。
■■柳の細い枝にかかる雪を白糸餅に見立て、春先の牡丹雪(餅雪)と二つの餅で洒落の めした 機智の句で、柳が
丸餅を細くよじった白糸餅に してし まったように言い立てたおかしみである。 こうした 見立は、「浅緑糸よりか けて
白露を珠にもぬける春の柳か」 (『古今集』卷一 、僧正遍昭)の歌あたりが 元で、 白糸餅を案じた時、作者は必ずや この 古歌
を脳裡に思い浮べた箸である。「青柳を黒髪となすかすみ哉」 (正之)(『毛吹草』卷五) 「ふる雪に 綿糸と 成柳 哉」 (正 成)(同
上}等と共に、宗房の句も貞門の型通りの作に過ぎない。
22 花にあかぬ嘆や こちのう たぶ くろ S 意宝珠)
花の本にて發句望れ侍て
28
花に明ぬなげきや我が哥袋(続山 s
春季(花)。
11 〇花 にあかぬ嘆や 「花に開かぬ嘆きや」。「あかぬ」は、下の「うたぶくろ」が開かないことをいい、「ぬ」は「嘆」にかか
る連体格である。花に対して(歌袋が)開かないという嘆き、の意。「開かぬ」に「飽かぬ」を言い掛けており、「花にあかぬなげ
きはいつもせしかどもけふのこよひににる時はなし」(『伊勢物語』二十九段)の古歌の詞を踏まえて転じたおかしみである。「や」
は切字。「師直は明いた口ふさがれもせずうつとりと」(『仮名手本忠臣蔵』第三) 「 Aqi , u , aita ;「> Jagueqinixizsmu . 」(『日葡辞
書』)。〇 こちのうたぶくろ 「此方の歌袋」。「こち」は、一人称代名詞。春の句の縁で「東風」を言い掛けた。「うたぶくろ」は、
和歌の詠草を入れておく袋。檀紙や大鷹紙で作り、水引を通して座敷の柱に掛けて置く。ここは譬喩的に、自分の句を作る動機、
句才の意に用いた。「歌袋は陸奥紙にて製するが本法也。今は大鷹紙にて製せらる。いたづらに啼や蛙のうたぶくろ心なきをもお
もひ入ばや。此古歌をうらに書、水引にてく ゞ り、柱に掛置、思ひ出たる歌の趣向を入置袋也」(『草盧漫筆』一)「歌袋の事……長
さ一尺也、折返し 二寸 五分也、総しめて一尺 二寸 五分也。 横八寸 三分、折かへし五分づ、也。みな糊付也。不切に付る也。奉書二
枚重ね返し、裏より水引通し、前にて結ぶ也」(『安斎隨筆』二十三)「そちがしらずは、こちもしらぬぞ」(虎清本狂言「文荷」)「むね
やせばき哥袋さへとしのくれ小野愚侍」(『桜川』冬二) 「 cochin ? 」(『日葡辞書』)。
eaa 私は、作句の才が乏しくて、この花に対して飽かず眺めても歌袋が開きません。嘆かわしいことです。
1 『続山井』の前書によれば、花見に行って桜樹の下で発句を作るように人から望まれて作ったのだという。『伊
勢物語』の古歌を踏まえつつ、「飽かぬ」を「開かぬ」に転じて「うたぶくろ」に続けたところは、宗因の「ながむ
とて花にもいたし頸の骨」の俤があるともいえよう。但し、宗房の句は、極く有りふれた謙退の意をあらわすに過ぎ
ない。『続山井』初出なので寛文七年春以前と推定される句であるが、その句形の「我が」をどうよむかが聊か問題
になる。「こちが」では態々「我」の字を使っているのが不審だし、さればといって「われが」も間延びがして頷け
ない。両者に前案後案の関係があるかどうかも不明である。こうした考慮から、ここではよみ方のはっきりした『如
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zy 拝.义じ斗*
音心宝珠』(安静撰、寛文九年秋成)の句形を本位句とした。
2 J 春風にふき出し笑ふ花も哉(続山井)
春季(春風•花笑ふ)。
H 〇ふき 出し笑 ふ「吹き出し笑ふ」。こらえ切れずに笑い出す意の「吹き出す」に風が吹き出す意を掛けた。「笑ふ」も、花の
咲くことを「花笑ふ」「花の笑み」 というと ころから「花」 の 縁語になる。「咲」の字が 抑々 「笑」の古字で、笑う意である。「可
笑しさどうもたまられず、ふつとふきだす斗也」(『蟬丸』第一)「声なくて花やこず袅の高わらひ」(立圃『そらつぶて』) 「 varai , 3.,
6 ta . Dotto varp'J (『日葡辞書』)。 〇花も哉 花に対して咲いてほしいと希望する意。「も! S 」 は既出(/9)。
ia 吹き出した春風に誘われて、吹き出し笑うょうに咲く花があってほしいものだ。
Kai 花の咲くのを待つ心を、人が吹き出して笑うことに掛けて表現した擬人化の常套手法である。〔語釈〕に引い
た 立圃の句の外、「笑ぬるは香や吹出す花の 口」(弘永)(『毛吹草』巻五) 「はら筋を ょりて や 笑ふ 糸 ざくら」(季吟 ) (『綾錦』
上)等、同想の作が見える。
24 なつちかし其口たばへ花の風 (続 山 井) 如意宝珠.後 撰 犬筑波集
春季(なつちかし•花)。
i 〇 なつちかし 「動尬し」。晚春陰暦三月の季語。「末春……夏近」(『毛吹草』巻-)。〇 其口たばへ 「其口」は「ガの04/風
の神の持つ風袋の口をいう。「たばへ」は「たばふ」の命令形。庇護する、かばう意から、大切に しまって おく意に もなる 語であ
る。ここは表面上「袋の口 J を庇い大切にする こと だが、実質的には袋の中の風を大切に しまって おいて、 余り 洩らすなというの
30
である。「たばふものを觸がくふ」(『毛吹草』卷二、世話) 「 Tabai , 6 , 6 ta . Conomi nadouo tabo < L (『日葡辞書』)。〇花の風
花を吹き散らす風。「手にあふた物と思ふや花の風作者不知」(『毛吹草』卷五)。
tana 夏 ももう 直ぐだ。花を吹き散らす風 も 少し加減して風袋の 口を かばい、暑い夏のために風をとつておいてくれ。
S この句も風を擬人化しているが、ただ風の擬人化というより、風の袋を抱えた風神を想像して、それに呼び掛
けているのである。花の散るのを惜しむ情を、夏のために風をとつておけという風にあらわしたのは、余り類のない
発想かも知れない。但し、風袋の 口と いうだけなら、『犬子集』巻二に「山風の吹 口と ぢよ袵ざくら」「風袋 口ぬ いと
めよいとざくら」(光貞妻)といつた類句が見える。
初瀨にて人ミ花みけるに
25うかれける人や初瀨の山櫻(続山井)
春季(山桜)。
i 〇初瀬「ハッセ」。歌枕。現奈良県桜井市大字初瀬。十一面観音を本尊とする有名な長谷寺があり、王朝時代以来貴族庶民
の信仰をあつめた。花の名所としても聞えている。「初瀬は恋を祈る所也」(『新増犬筑波集』淀川)「 I 瀬寺山に有ゆへに山類也。
はつせの鐘も同前。はつせとばかりは非山類としるせり。小泊瀬.はつせ路同前。」(『御傘』)「連歌恋之詞……初瀬を祈」(『毛吹草』
卷二)。〇人 -V 花みけるに「人 A / 花見けるに」。人々が花を見た時に、の意。 「 Fitobito.J (『日葡辞書』)。◦うかれける人や「浮か
れける人や」。人が浮かれ騒いでいることよ、の意。「や」は、詠嘆の切字。俊頼の歌をもじつたことは後述する。「其時はやし物。
主うかる k 。もろともにおどる」(天正本狂言「末ひろがり」) 「 vcare , uru , eta . Vondoriuo mite c 80 ro vcaruru . 」(『日葡辞
書』)。〇山桜「ャマザクラ」。今は桜の一種の呼び名になつているが、『増山井』山桜の条に「家桜は人家に咲桜也。桜の名木に
あらず。山桜•庭桜も、其山に咲、庭に咲をいふを、名木のやうにしたつるはあしきとなり」とあり、作者もこうした考えに立つ
31 寛文七年
ていたと思われる。「山に咲く桜」の意と解してよかろう。『日葡辞書』も 「 Yamazacura .」 を「野生の桜」と解している。 ここ
も俊頼の歌のもじりである。「見る人も山のごとくぞ山桜重供」(『毛吹草』卷五)。
ia 見事な初瀬の山桜に、人々が浮かれているよ。
■ E ■『百人一首』にも収められて有名な源俊頼の歌「うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとはいのらぬ
■ものを」(『千載集』卷十二。『百人一首』には「山おろしよ」の「よ」がない)を踏まえ、「うかりける」を「うかれける」、「山おろ
し」を「山桜」に変えたおかしみである。本歌が「いのれどもあはざる恋」という切ない慕情を詠んでいるのに対し
て、発句の方は享楽的な現代風俗を描いているのが面白い。言葉のもじりと共に、貞門の句としては成功した部類と
いつてよかろう。俊頼の歌によつた趣向は、連句の例ながら「はげしかれとやほゆる声//うかりける人を初瀬の山
の犬」(『魔筑波』)「初瀬の寺にいのりそこなふうかりける人にはげしくしかられて」(『毛吹草』本哥之俤の条所引)といつ
た作が見られる。後年芭蕉は元禄五年の素堂との和漢歌仙に、
霜にくもりて明る雲やけ 堂
奥ふかきはせの舞台に花を見て 蕉
という付句を作つた。「初瀬にて人ミ」云々の前書に関する井本農一博士の説を引いておく。
「初瀬にて人々……」の詞をわざわざつけたのは、いかにもまじめな顔つきで俊頼の歌を吟じ出すポーズ ともと
れる。それによつて滑稽感が倍加される手法である。だから芭蕉が現実に初瀬へ行き、人々の花見を見てこの句
を詠んだことを疑問視する意見もある。一応手のこんだ技巧を弄してはいるが、また、ただそれだけの句でもあ
る。 (『鑑賞日本古典文学•芭蕉 b
2
3
26 糸櫻こやかへるさの足もつれ
(続山井)
春季(糸桜)
I 〇糸桜「ィトザクラ」。枝垂桜の別名。喬木で太い枝が横にひろがり、細い枝が真直に垂れ下って、花をつけた時の風情は
格別である。 「 Itozacura . 」(『日葡辞書』)。〇こや「此や」。「や」は詠嘆の間投助詞。これがまあ。 既出 (//〇〇かへるさ「帰る
さ」。 家路につく時、帰途。 「カヘルサー I ハ、 ヲリー I ッヶッ 、、サクラヲカリ、モミ ヂ ヲモ トメ」(『方丈記』) 「 cayerusa . 」(『口 葡辞
書』)。〇足もつれ歩く時、足がもつれること。また、物が足にまつわりつくこと。『日葡辞書』に、 rMot - oure , uru , eta .
Yuqumichini Cazzu 3 ga xiguette axini mot5ururu . Fas nadoni motoururu . J とあり、花見などしてその場を離れ難い気持
を「花などに鏈る、」と言うことがあったとすれば、「足もつれ J は「糸」だけでなく、「桜」の縁語になろう。
ia 糸桜の花の見事さにひかれて、なかなか帰る気にならぬ。これこそ帰り路の「足もつれ」だよ。
■31 「かへるさの足もつれ」には、花見酒に酔ってよろついている気持もあろうが、 r 糸」の縁で「もつれ」を出し、
花に見とれる気持を面白く言い做した。『山之井』に、「糸桜は、よれつもつれつはなれがたし共」と教えている通り
を実行した初歩的な作で、『毛吹草』巻五には、「糸桜見るや右より左より」 ( 繁勝)「見る人ははたへるごとし糸桜」
(吉政)「一丸にからみてちるないと桜」(定時〕等、同様の技巧の句が見える。
27風吹ば尾ぼそうなるや犬櫻
(続山井)
春季(犬桜)
〇風吹ば「風吹けば」。風が吹くと。〇尾ぼそうなるや「尾細う成るや」。「尾細し」は、末が次第に衰えて行くさまをいう。
33 寛文じ年
「や」は、詠嘆の切字。疑問の意はない。「尾」は「犬桜」の縁語。「我信濃にて、物の段々にすくなくなるを、を'ほそになつたと
いふ。その俚言を犬の尾にたとへてのいひかけ也」(何丸『色蕉翁句解大成』)。「初にはちつと思つく様にあつたが、後へむけてをぼ
そうなつたにたとへたぞ」(『毛詩抄』二)。〇犬桜「ィヌザクラ」。バラ科の落葉喬木。春、白い花が枝に総状に集まつて咲く。桜
の一種ではあるが、花が見劣りするので「犬」を冠して呼ばれる。「いぬ桜春也、植物也。是は桜に似たる木にて、花もさかず。
又さけ共ちいさき花にていやしき木也と云々。然るを犬築波にも、く、りしていざみにゆかん犬桜など、、まことの桜のやうに用
られたり。誤か、!!—起なし。但、俊頼の哥に、04?陰にやせさらぼへる犬桜追はなたれて引人もなし、如 x 此あれば誹言にはあらざ
るべけれ共、連哥に終に聞ざる物なれば誹言に成べし」(『御傘』)。
8363犬桜に風が吹くと花が散つて、段々さびしくなつて行くことだ。
■ H 「犬桜」の名から「尾ぼそう」という言葉を持出した例の名辞的発想である。「おる人のすねにかみつくいぬ
桜」(『犬筑波集』#部)「見る人をけつくつなぐや犬ざくら」(文性)(『犬子集』巻二)等、「犬」という名からする発想は古来
多い。犬桜の実情をなにがしか現わし得ているといつた評もあるが、所詮は買い被りであろう。「吹風に尾細うなる
や犬桜」(『色蕉翁句解参考』)「吹風は尾細くなるや犬ざくら」(『一葉集』)等の異形は、後世のものゆえ問題にはならない。
2 S 五月雨に®物 is や月の白ハ(続山井) S 意宝珠.時勢粧 • 詞林金玉集
夏季(五月雨)。
1 〇五月雨「サミダレ」。梅雨の長雨をいう。「サ J は凡て田の神事に関係ある語に冠せられる詞で、「ミダレ」は雨を意味す
る ものと 思われ、つまりは田植頃に降る雨を指すのである。 r さみだれは。おのへの寺 も 水に近き楼台となり。……はれま も あら
ずふりつ V くていなどいひなす」(『山之井』)「五月雨は堤やきれし銀河望;」(『毛吹草』巻五) rsamidare . Goguatnoame .」 (『日
葡辞書』)。〇御物遠や「御物遠」は、御無沙汰、御疎遠の意。日常会話の外、書簡文などにも用いられる。「や」は詠嘆の切字。
34
「一両日御物遠罷過候」(二月十一日付平庵宛芭蕉書簡)。〇月の AK 「月の白ハ」。「白 C 」 は「貌 J の略体。「顔」の俗字のように近世では
よく用いられた。月の形を擬人化した表現である。「沖にちひさきいさり舟の、影幽かなる月の顔」(謡曲「松風 t 。
HEa 五月雨が降り続いて、お月様の顔にも大分御無沙汰だなあ。
MK 五月雨のために月が隠れてしまって見られないことを、「御物遠」のような日常語を使って表現したところが
味噌である。月を題材に擬人化することは、『山之井』を見ても、「雨雲や笠めす月のかくれみの」 「夜目と をめ笠の
内よし月の顔」 r 月のかげをそきは雨やふらうもん」 r けふといふ興をさますや月の雨」等枚挙に遑がないが、「御物
遠」といった語によって気の利いた趣を出したものは案外珍しい。この句が初出の『続山井』以後色々な俳書に採ら
れているのも、そうした理由によるのであろう。以下「しばしまも」(33)の句まで、『続山井』初出の夏の句は、そ
の書の成った寛文七年五月までには成っていたと推定される。
29 降音や耳もすふ成梅の雨 i 山井)
夏季(梅の雨)。
i 〇 降音 「&る音」。〇耳 もす ふ 成 「耳も酸う成る」。同じ音を絶えず聞かされて飽きることをいう。「すふ成」は「配く成
る」のゥ音便であるが、当時はまだゥ音便の表記法が確立していなかったので「ふ」であらわすこともあった。「すふ」は、下の
「梅」の縁語。「此海士くづしの一句も耳のすう成程き ゞ 侍る。おかしからず j (『猿黐』) 「 sui.J「SPJ (『日葡辞書』)。〇梅の雨
「梅の雨」。梅雨(つゆ)のこと。梅の実の熟する頃降るのでいう。「梅の雨……五月の節より第二の壬の日より梅雨といふよし本
草綱目に有。又黄梅雨ともいへり」(『増山井』)「梅……梅雨、五月雨の名といへども、六の内成べし」(『御傘』)「菖蒲酢もまじるや
軒の梅雨貞徳 J (『犬子集』卷三) 「vmeno ame . 」(『日葡辞書』)。
EM 3 毎日の雨つづき。つゆの雨の降る音は、耳も酸っぱくなる程で、全くいやになる。
3〇 寛乂じ中
pi 「梅の雨」の名から、雨の降る音を「耳もすふ成」と形容したおかしみであるが、万治三年刊の『境海 r'v T 』; Ml'i 成
撰)に「音聞や耳もすふなる梅の雨」(玄良)という句があっては、宗房の句は手柄も何もない二番煎じにならざるを
得ない。くどくど同じ事を繰返していう ことを 「口が酸くなる」というように、同じ音を長く聞いている ことを「军
が酸くなる」といったようである。なお、『一葉集』に r 啼やなけ耳のすうなるほとぎす」という句が見える が、
その出典は詳らかでない。
邠杜若にたりやにたり水の影(続山井) 詞林金玉集
夏季(杜若)。
〇杜若 「ヵキッバタ J 。 アヤメ科の多年草。水辺に自生するが栽培もされる。葉は広い剣状、但し花菖蒲とちがって中央に
突起脈がなく、鮮緑色で軟かい。初夏に紫色の花を開くが、園芸品には白や間色のものもある。「杜 若」 は実は藪 茗荷と いう 別種
の草を指し、「かきつばた」にこの字を宛てるのは誤りであるが、古くから慣用的にこの字が用いられている。正しい漢字は「燕
子花」。「かき」に「書き」を掛けたと見る説があり、そうした掛詞の例も多いが、この場合は「書く」ことと内容的に 関わりが薄
いから、そう見なくてもよかろう。 r 杜若 . 和哥の題には春の物なれ共、連歌と誹諧には夏に成なり。……水辺なり」(『御傘』)
「むかし男ほねや折句の杜若空存」(『毛吹草』卷五) rcaqit - oubata . J (『日葡辞書』)。〇 にたりやにたリ 「賢たりを f たり」。「似た
り」を繰返して強調す る 語法。 さても 似て いる ことよ。「や」は詠嘆の間投助詞で ある。 謡曲の詞取りで あることは後述。「之 r -
マ F 一 Sr.voyaninitac? J (『日葡辞書』)。〇 水の影 水に映る物の形。「かげはづかしき我が姿、忍び車を引く汐の跡に残れ
る溜り水、いつまで澄みは果つべき」(謡曲「松風」) rcague .」「 Mizzucagami .」 (『日葡辞書』)。
かきつばたの水に映った影は本体そっくり。 さても よく似て いることよ。
■ B かきつばたについて、『山之井』には「かきつばたといふ名につきて。紫の色をもとがめ。折句の哥をかきつ
36
ばた。めぐりにゆふや垣つばたなどもいへり。浅沢小野にもよみ侍れど。猶業平のうたをめで V にや。三河の沢を俳
諧にはいひあへり」とその句案の常識を説いてあるが、宗房のこの句は謡曲の詞取りで、「杜若」の「むかし男の名
をとめて、花橘の匂ひうつる菖蒲の鬉の色はいづれ。似たりや似たり杜若花菖蒲」を採り用いている。しかも謡曲で
は、かきつばたを花あやめと似ているというのに対して、これはかきつばたとその水に映る影とが似ていると転じて
おかしみにしているのである。かきつばたの大きな花の印象がこうした趣向を喚び起したのかも知れないが、「水の
影」が本体と似ているのは謂わば当り前で、詞取り以外には余り働いていない。「いづれかあやめかきつばた」の語
を背景にすれば美女を連想させるものがあるが、山本健吉氏は「昔男」と「五月」の縁からして、「むしろ若衆姿を
立たせているのであろう」 (『色蕉全発句』) と 見て おられる。「我と水にすきうつし絵や杜 若」「水 か V みみてやたしなむ
白ハよ花」(『崑山集』卷五)「青柳や似たりよ似たり糸桜」等は類作。
37夕白ハにみとる乂や身もうかりひよん(続山井)
夕顔の花に心やうかりひよん(詞林金玉集)
夏季(夕白ハ)。
〇夕兵「ユフガホ」。「白ハ」は「貌」の略体。既出(汾)。ゥリ科の一年生蔓草。心臓形で切り込みの深い葉の根元に夏季白
色五弁花をつけるが、夕方開いて翌朝までに凋む特性から、この名を以て呼ばれる。大型で円筒形の果実で干瓢を作る。ここは、
女の夕化粧した顔を掛けた。「夕がほ夏也。……夕白ハの実は秋也。……惣別瓢とばかりよし。簞とは籠の t 也。……へうたんと
云つ y けてひとつの物のやうに人心得侍る。乍誤、本より天下に云付たる良なれば、其分にして置べし。此へうたん、句鉢により
て秋になるべし。只は雑也。ふくべ共ひさご共申。……夕白ハの宿は植物なり、居所也。花となくても夏也。実の字あれば秌也」
37 寛文七年
(『御傘 J 1) 「夕顔ひゃうたん五位以上の家には、はひよらせぬといひ習はして。た V - くずやの軒のはなにさかへ。/1:でうわたりのあば
らやなどに。えみの眉ひらきか、れるやうにのみしたつ」(『山之井』)「日やけせぬ夕白ハしろし花の白ハ吉政」(『毛吹草』卷五)
「 yK < 叶 au ? 」(『日葡辞書』)。〇 みとる、や 「見恍る、や」。うつとりと見入る意。「や」は、詠嘆の切字である。「穿取 る」 を掛けて
あるかも知れない。「みとれては目た、きもおし花盛昌意」(『毛吹草』卷五) rMitore , uru , eta . 」(『日葡辞書』)。〇 うかりひよん
何かに気を取られてぽんやりしているさまをいう俗語。「ひょん」は接尾辞であるが、ここでは 「 as 」 が掛けてあるのであろう。
「いかひたはけのなれのはて、うかりひよんとぞ見えにける」(『松の葉』第三巻' あくしょはつけい)。
夕顔の花の美しさに見とれて我 *' 身もうつかりと我を忘れてしまうよ。
■■夕闇に白く浮き出る夕顔の花に見とれるさまを、「うかりひよん」と軽快な俗語を用いてあらわしたおかしみ
の句である。夕顔の実(瓢箪)は水に浮きやすいので、「うかり」にも縁があることになる。これらの背景には、「夕
白ハ」を人の顔に掛けて、夕化粧した美女の顔に見とれてぼんやりしている男のさまや、「きりかけだつものに、いと
あをやかなるかづらの、こ X ちよげにはひかかれるに、しろきはなぞ、おのれひとり袅みのまゆひらけたる」「かの
しろくさけるをなん、ゆふがほと申し侍る。はなのなは、ひとめきて、かう、あやしきかきねになん、さき侍りけ
る」(『源氏物語』夕顔)といつた物語の場面など、人事的な連想も働いて、なかなか面白い(〔語釈〕の条に引いた『山
之井』の文参照)。瓢簞に重点を置いた解釈もあるが、それでは季節が紛らわしくなるし、中心はやはり花であろう。
『詞林金玉集』の異形は逸書『耳無草』(正信撰)からの引用であるが、既に万治二年刊の『鉋屑集』(胤及撰)に「夕顔
の花にこ X ろやうかれひょん」という俊之の句が見える。恐らく宗房の句は俊之の句とは無関係の偶合に過ぎまいが、
『耳無草』は俊之の作と句形を混同した疑いもあり、本位句としては『続山井』の形を採りたい。なお、夕顔は陰暦
六月の季題なので、寛文七年五月に成つた『続山井』初出とすれば、その前年の夏までには成つていたと考えること
も出来る。そこまで厳密に断定し得るかどうかは兎も角、六年夏までに成つていた可能性はかなり大きい。
38
32 岩娜躅染る泪やほと、ぎ朱 S 山井)
夏季(ほと k ぎ朱)。
1〇岩躑躅「ィハツツジ」。植物の分類としては、高山に自生するツツジ科の落葉小灌木をいうが、和歌以来の文学表現とし
ては「岩根」(云はね)に言い掛ける修辞として用いられることが多く、岩のほとりに生えるつつじと考えられていたようである。
「つつじ」は春の季題であるが、この句では「ほと》ぎ朱」の方が季語になる。「躑躅」という漢字は、足がふらつくこと。羊がつ
つじの葉を食べると足がふらついて死んでしまうところから、中国で「羊躑躅」或いは「羊」を略して「躑躅」と呼んだことに基
づく。また、「岩躑躅」は冬と春に用いる襲の色目の名でもあって、表は紅、裏は紫である。『増山井』春三月の条に「つ k じ衣
表すはう裏青」とあり、これは岩躑躅と別ではあるが、この句でもこの語に襲の色目の連想はあるであろう。「色よ香よかろしめ
られぬ岩つ k じ延勝」(『毛吹草』巻五) rluat - outouji .」 (『日葡辞書』)。〇染 る泪や 「染むる泪や」。「や」を疑問と取る説もあるが、
詠嘆の切字と見れば足りる。「通りがけに時雨や染て薄紅葉正章」(『毛吹草』卷六) 「 some , uru , eta . 」 「 Namida .」 (『日葡辞書』)。
〇 ほと、ぎ朱 「ほと ゞ ぎす」は夏季。「杜鵑」の字を宛てるので、「杜鵑花」とも呼ばれるつつじと縁語になる。「朱」は岩躑躅の
色に掛けた洒落であるが、よみ方に「ほととぎ朱」「ほととぎ朱」の両説があり、考え方次第で何れも通じよう。「朱」とよむ方が
色の印象が強いし、所謂「かすり」の技法として語調におかしみも出るので、私は「朱」としたい。「郭公、花に結ても夏也。鶯
に結ても同前」(『御傘』) 「 Fototoguisu . J 「 xunimajiuareba , aco < naru . 」(『日葡辞書』)。
bbi 岩躑躅があかいのは、ほととぎすの涙が朱く染めたのだ。
I ほととぎすはその口中が赤いので「鳴いて血を吐く」などといわれる。この句では更にそれを一歩進めて、こ
の鳥が血の涙を流すものとし、岩躑躅の色はその赤い涙が染めたのだと言い立てたのが趣向で、駄洒落に類するが、
「朱」の字を加えて色の印象を更に強めている。ほととぎすに血の涙を流させたのは思いつきであるが、色などの浅
いところで関心がとどまっているのは、貞門時代の作として致し方ない。なお、赤羽学博士はこの句が寛文六年四月
r\r\ ctn-Ar i -
oy 見又 1^-4 -
二十五日に他界した、宗房の主人蟬吟に対する追悼句ではなかったかと推測して おられる (『色 焦 俳句 鑑竹』 参照-。
ぉしばしまもまつやほと ゞ ぎす千年 S 山井)蒸翁全伝(竹人)
夏季(ほと k ぎす)。
〇しばしまも 「暫し間も」。「暫しの間 も」 というべきところを、音数の関係で「の」を省略した。句を隔てて下の 「す 千
年」にかかる。 「 xibaxi . J 「 Ma . 」(『日葡辞書』)。 〇まつや 「待つや」。「松」を言い掛けて、下の「千年」の縁語とした。いつま
でも変らず長寿を保つ譬えに「松は千年」という。「や」は詠嘆の切字。 「 Machi , t « ou , atta.J (『日葡辞書』)。 〇ほと、ぎす千年
鳥の名の「ほととぎす」と「数千年」の言い掛け。「数」を短く発音する習わしがあった。 「 suxemlen.J (『日葡辞書』)。
Bam ! ほととぎすの初音を待つのは、「松は千年」ではないが、暫しの間も数千年の思いがして待ち遠しいことだ。
Hal ほととぎすの初音を待つ気持は、昔から文学の世界で屢々とり上げられて来たもので、ここではそれを「ほと
とぎす」の「す」に言い掛けて「数千年」とし、更に「松は千年」の諺まで折り込んで、利口の才を示している。
「蜀魂なくねまつ間やをそとぎす」(昌意)(『毛吹草』巻五)などという下らないものに比べれば、当時としてはこれでも
上の部であろう。
34 波の花と雪もや水のかえり花(蓬庵春秋)
冬季(雪•かえり花)。
I 〇 波の花 白く泡立つ波頭を花に譬えていう。「波の花は非 n 正花?白浪のはなに似たるをいふなり。植物にあらず」。「波の
花、雪の花は正-花にならず。但、波に落花のある句鉢なれば春也、植物也、正-花也。波の雪、冬也。降物•水辺両方に嫌と新式
に有ド之上は不 Z 及 n 沙—汰こ(『御傘 fe 「草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける」(『古今集』卷五' 文屋康秀)。〇
雪もや 「雪」に「1!;一き」を言い掛けて下の「かえり花」の縁語とした。また、雪を「六花」「雪花」などというところから、「花」
の縁語でもある。「や」は疑問。切字ではない。〇かえ y 花 「帰り花」。初冬の小春日和に、草木が時節はずれの花を咲かせるこ
と。ここは実際の帰り花ではなく、波の花をそれに見立てたのである。「かえり」は「かへり」の仮名ちがい。「小春に桜花咲たる
を見て/根斗か枝に二度かへり花慶友」(『犬子集』卷六)。
1 M 雪が海に降り込んでいる。あの雪は若しかすると水に帰って帰り花となり、波頭の白い花となるのだろうか。
1 海上の雪景色を、白く立つ波頭は雪の帰り花かといい做した機智的見立の句である。縁語.掛詞等、用語が複
雑に絡んでいて分りにくいが、要するに「雪が水の帰り花として波の花となるのだろうか」と整理すれば、たやすく
理解出来ょう。景色の道具立ては揃えていても、こういう句は実景にょって発想したものではあるまい。「谷風にと
41 寛文八年
くる氷のひまごとに打いづる波や春のはつはな」(『古今集』巻一、源当純)の古歌を頭に置いて、乎節のちがう:: g り佗に
転じたのかも知れないが、既に『毛吹草』卷五に「水と消し雪やかへりて波の花」(弘永)という句があっては、宗房
のこの趣向に余り手柄はなくなってしまう。なお、出典の『芭蕉庵春秋』(素蓮著)は幕末の嘉永六年に書かれた伝記
であって、それに安静の『如意宝珠』から引用してこの句を挙げてある。この俳書は寛文九年秋に成ったものだが、
現存本は冬の部を欠いていて、この句を確かめることが出来ない。一応『春秋』を信じて、寛文八年の冬までには成
っていたものと認めておく。『一葉集』に「浪の花と雪もや水にかへり花」とある異形は杜撰らしく、問題とするに
足りない。
42
寛文九年
35かつら男すまずなりけり雨の月(如意宝珠)
秋季(雨の月)。
I 〇か つら男 PMSR 」。 『酉陽雑姐』天咫の冒頭に見える伝説中の人物。月の中に高さ五百丈の桂の木があり、下で呉剛という
男がこの木を伐っているが、伐るに従って切り口がふさがるので、何時までも伐っていなければならない。仙を学んで過ちがあり、
謫せられて罰を受けているのだという。江戸時代には、美男子の意にも用いられた。「月の桂とは。月中に五百丈の木あり。其木
のもとに人あり。^は4、。名は k 。 是を月人男とも。桂男ともいひ侍とぞ」(『山之井』)「かつら男こひやうな射手か月の弓重頼」
(『犬子集』卷五) 「 catoura . 」(『日葡辞書』)。〇 すまずなりけリ 「住まずなりけり」と「澄まずなりけり」の掛詞。『伊勢物語』の表
現を踏まえたことは後述する。〇 雨の 月中秋の名月の夜が雨になって月が見えないさま。薄月夜の趣を詠むこともあるが、この
句は全く月影を見ない場合である。
la 名月の夜が雨になった。月影も澄むことなく、月の中の桂男も住まなくなったことだ。
1 名月の夜の雨の趣をいうのに「かつら男」を持ち出し、『伊勢物語』二十三段、筒井筒の男女の後日譚の高安
の女の条りに、「をとこ、すまずなりにけり」とある表現を利用した。「すむ」は、物語では女の許へ通って来なくな
った意であるのを、文字通り「住む」意にして月の「澄む」に掛けている。典型的な貞門風ながら、言葉の洒落にと
J ハ / fxs I . f~r~
W 兑乂凡 M-
どまらず、古物語の文を裁ち入れたところ、作者の得意を思ぅべきであろぅ。寛文九年秋に成った『如意 1^ 诛』初 . 'll
なので、それまでには成っていた句である。
春季(花盛)。
I 〇宇知山 「ゥチヤマ」。現在の奈良県天理市杣之内 町 東部。永久年間(西暦 三一一 TIO に創建された鳥羽院の勅願寺永久寺が
あった。この寺の山 号 も内山という。 真言 宗の山伏寺で、明治初期の廃仏毀釈によって廃絶したが、それ以前は寺領千石にも及ぶ
大寺院であった。 〇山辺郡 「ヤマべグン」。大和国(現奈良県)東北部に位置する郡。伊賀の名張や色蕉の郷里上野と境を接して
いる。 〇外樺しらずの花盛 「外様」は、「外の方」の意から、ここでは「外部の者」の意。寺の境内の花盛りのさまは、外部の者
には分らないというのである。 真言 秘密の行法、特に修験道の寺とあって、寺の内部で行われることが外部の者には窺い知れぬこ
とを掛けていよう。「外様」は「うち」(内)の縁語。「様」の振仮名は、濁点も含めて底本のままである。「花ざかりそりよたがと
へばよしの山」(『山 之井』) 「 Tozamano 30. 1, focasamanofito . 」 「 Fanazacari . 」 (『日葡辞書』)。
1 M この内山のお寺の花盛りは、修験の行法ではないが、外部の者には窺い知れぬことよ。
§ 『大和順礼』(正辰撰、寛文十年六月刊)は、いろは順に大和の名所を詠んだ句一千余句を収めた集で、この宗房の春
の句は十年春以前と見られる。伊賀の郷里から割合近い所でもあり、何時かは分らぬが永久寺に参詣したことがあっ
45 寛文 I •年
たのであろう。句は「内」と「外」の縁語仕立てに、秘密の行法をからませたに過ぎない。
見馴河
37五月雨も瀨ぶみ尋ぬ見馴河—
夏季(五月雨)。
i 〇見馴河 「ミナレガハ」。今の奈良県五条市を流れる水 g 川の古名で歌枕。『大和志』に、「旧名見馴川、源自神福山、経上
村•水沢邑等、至新町入吉野川」と見え、「世中はなどやまとなるみなれ河みなれそめずぞあるべかりける」(『新勅撰集』卷十九、
よみ 人しらず)「五月雨の日をふるまXに見なれがは見なれしせVもおもがはりつ 乂」 ( 慈 円 『拾 玉集』) 等の歌が詠まれている。 〇瀬
ぶみ尋ぬ 「瀬踏み尋ねぬ」。「瀬ぶみ」は、川瀬の深さを水中に入って測ること。「ぬ」は、否定•.完了二様にとれるが、私は否定
と見る。詳しくは後述。「夜 一I入ラバ水練ノ者共ヲ数夕入テ、瀬踏ヲ能ミセサセテ後、明日可渡」(『太平記』巻二十八) 「xebumiuo
suru. 」 「Tazzune, um, eta. 」(『日葡辞書』)。 〇見 ill 河 「見馴れ」を掛けた表現。
83 E 3 人ばかりか五月雨までも、何時も見馴れたこの見馴川では、瀬踏みをして浅瀬を尋ねることもない。
B この句、「尋ぬ」の「ぬ」を否定にとるか完了にとるかによって解釈に諸説がある。先ず否定とする説には、
「五月雨 も」 は形の上からいへば主格であるが、五月雨が川の瀬踏を尋ねる とい ふのでは意を成さぬから、 この
場合は「五月雨にも」と解せねばならぬ。 r 尋ぬ」のぬは……意味の上から打消と見るべきであらう。即ち句意
は、この五月雨で見馴河の水嵩も増したが、その名も見馴であるから、渡る人も川にはよく馴れて、こんな雨で
も別段瀬踏を尋ねるには及ばないといふのである。(潁原退蔵博士『芭蕉俳句新講 JD
というのが代表的である。これに対して「ぬ」を完了とする説は、
と
46
五月雨の雨脚も瀬踏みしつつ尋ねて流れ行きぬ、と雨を擬人法にしたのである。(服部畊石氏『芭蕉句集新講』 )
ぃうのや、
「降りつづく五月雨に、見馴れ ill は、ふだん見馴れた川だが、今日はすっかり水嵩がふえて、どこが浅瀬かさぐ
らないと渡りかねるほどだ。見ると五月雨の雨脚も浅瀬をたずねるように川面に吹きしぶいていることよ」の意。
く數』に「«!蔽の日をふるままに水馴川水馴れし瀬々も面変りつつ」(慈円)という作があるが、これがこ
の句の発想を促しているように思われる。(加藤锹邨氏『芭蕉全句』)
というのがあり、加藤氏は三省堂版『色蕉講座』の時代から同様の立場をとっておられた。「ぬ」を否定とした場合、
ここで切れずに「見馴河」にかかるので、句作りに締まりがなくなるのは一つの欠点であろう。座五で切れることは
多くの例があって作法上どうということはないが、句の姿が良くないことは否定出来ない。完了とすればここで切れ
るわけだから、句作りとして遥かにまさることになり、この点は完了とする解釈の長所といえる。ただ、そう取った
場合、解釈はたとえば「五月雨が' 川の増水で分らなくなった瀬を探ろうと、脚を踏み入れて瀬踏みをしているわい。
ふだん見馴れて知ってるはずの見馴河なのに」(今栄蔵氏『新潮日本古典集成.芭蕉句集 t というように逆接にしなければな
らない。然るに句自体を誦して見ると、その表現に逆接と解せねばならぬ程の必然性が感ぜられず、「見馴れた河だ
から浅瀬を尋ねない」という方が余程自然である。こうした見地から、私は「尋ぬ」を否定と取る解釈に賛同したい。
但し、潁原博士のように「五月雨も」を「五月雨にも」と取るのはどんなものか。人の上だけとしては余りにも「た
だごと」に堕して面白味に乏しい。擬人化は貞門の常套手段であって、これまで見て来た宗房の句は概ねこの手法に
よったものだった。この句も「雨脚」からの連想で五月雨を擬人化したと見た方がよかろう。見馴れた川に五月雨が
降りしきって、浅瀬を探るような遠慮会釈をしていないというのである。そういう自然の実景を描くことには関心を
示さずに、専ら「見馴れ」とか「雨脚」とかの名辞にすがって句をまとめようとするのがこの時代の俳諧であった。
『大和順礼』初出の句として、寛文十年夏までには成っていた作である。大和も紀州境に近い五条あたりを流れる川
を、作者が実際見たかどうかは分らない。このょうな句は、実見しなくても作れょう。
48
寛文十一年
§§春立とわらはも知やかざり繩(藪香物)
春季(春立•かざり縄)。
〇 春立 「春立つ」。立春の節を迎えることであるが、新年を迎える意に展開して用いられることも多く、ここも後者の意と
思われる。「立春」 (/) 参照。「春立やにほんめでたき門の松徳元」(『犬子集』卷一)。〇 わらはも知や 「童も知るや , -〇「わらは」
は、男の子。稚児よりも年の行つた少年をいう。「わらは」に「藁」を掛けて、下の「かざり縄」の縁語とした。「や」は詠嘆の切
字。疑問にとる必要はない。 「 varaua .」「 xiri , ru , xitta .」 (『日葡辞書』)。〇か ざリ縄 「飾り縄」。正月、家の門や戸口に張る注
連縄をいう。「注連飾……しめ縄と云物は、左縄によりて縄の端をそろへぬ物也。卜部説などに、うたぬ縄藁を左に鞠て端を出す
事、七五三とわかつて天道十五にして成る義、左縄は天道左旋する義也。当世俗に、正月のかざり縄一五三とわかつ事、是九は陽
数の極也。神代巻に云、天照大神天の磐戸を出給ひし時、端出の縄をひかれたる也。是浄不浄をわかつ物なれば、神事にはかなら
ず引事侍り。正月も神を祝ひ祭る心より製するならし。是を注連かざり或はかざり縄•かざり藁などいへり。尤十五日迄門戸に置
て、今朝左義長に焚侍る。故に十五日迄を注連のうち、飾の内などいへり」(『滑稽雑談』)「春たつといふばかりにやかざり縄」(『山
之井』) 「 cazari , u , atta .」 (『日葡辞書』)。
1 a 門毎の飾り縄で、子供でも正月が来たと分る。藁で絢つた注連縄だから、「わらは」でも分るわけだ。
49 宽文 I .部
■ S ■「わらは」「藁」「縄」の言葉遊びに気がつかないと、ただ正月の気分をあらわしただけの句のように見える。
貞門の時代としては作意がやや弱いという評が出る所以である。 I 艇香 M (友次撰)は寛文十一年六月の刊行。宗房の
発句は、この一句のみで、同年或いはそれ以前の正月の作と考えられる。
39きてもみよ斟(”へ3 ^3羽||花(ご:ろも(貝ぉほひ)
春季(花ごろも)。
〇 きてもみよ 「着ても見よ」と「来ても見よ」の言い掛け。当時の流行歌 ri の歌い出しによく見られる文句を利用した。詳
しくは後述。「きても見よ. C ほし桜の花の蔭」{『伊勢俳諧発句帖』)。〇甚ベが羽織振仮名の濁点も底本のまま。 r 甚 ik @ i A 羽織」「甚
兵衛 j などと呼ばれる袖無し羽織。元来は身分ある武士が陣中で来たラシャ製の陣羽織を、下級武士や民間でも木綿綿入れの袖無
し羽織とし、防寒用の胴着に用いたものという。但し、これは花見の頃の着用には相応しくなく、ここのはもっと薄いものか、現
代でも夏に用いられることの多い、着物仕立てにして前に付け紐のある形に近いものと見たい。『守貞漫稿』卷十四に、
今世ノ無袖羽折、麻布単木綿又袷綿入ノニ品-ーハ木綿アリ、絹縮緬等モ用フ。
昔ハ男女専ラ着 Z 之。近年大ィ - I 廃スレドモ、京坂往々着之者アリ。江戸ハ京坂ヨリ先一一廃シ、今ハ困民男女稀一一着ス者アル
ノミ。
義太夫節千本桜ヲ芝居狂言等-ースル平ノ惟盛鮑屋ノ食客トナリタルニ扮スル者、必ラズ袖ナシヲ着ス。此浄歡 M 3 ヲ造ル頃、好
色人モ専ラ着之也。古画ノ漂客柳巷二遊ノ図等二専ラ着/之者アリ。
今 lii : モ京坂ノ小民、夏日ハ腹当二無袖ノミヲ着ス者多シ。江戸一ーハ更二如此人無之。
今 ttt : 京坂 ニテ 無袖羽折トモ云、又ジンべトモ云。甚兵衛ノ字ヲ用フ歟。愚按一ー ハ 武家陣羽折一名具足羽折卜云物無袖也。形
似 一之 ガ故二、陣羽折ヲ小児等 伝訛シ テ、 ッィニ ジンべヲ名ト スル 歟。或書、陣兵也。兵士ノ羽織卜 云 事也。寒風ノ日小児ノ
諺二、江戸 ニテ ハ、才、サム コ サム、猿ノ ベ、カリテキ シヨ、京坂 ニテハ、 才、サム コ サム、猿ノジ ンべカッテキヨ ト 云 也。
50
トモ-一猿曳ノ猿ハ、無袖羽折ヲ着ス多キヲ云々。
又胴着ニモ無袖ノ者 アリ。 江戸ノ俗ハ号テ「サル ッコ」 卜云。猿子 也。 前一 一 云如ク猿服 一一 似タル故 也。 婦女ノ猿子胴着 ハ 縮緬
古 小 裁数十ヶヲ継合タル者多シ 。 ……又或書-1、殿中、 注-一 今/無袖羽折也ト アリ。 今モ京都•大坂ノ小児 ハ、 タマ^^無袖
ヲ r デンチ」卜云 アリ。 彼書ヲ見テ初テ殿チゥノ下畧ヲ知ル。前-1云甚ベィト同意 ナリ。
とあり、■幕末の時代の考証ながら、胴着とは明らかに区別してある。羽織にしても厚薄さまざまの仕立があったわけで、花柳の巷
に出入りする遊冶郎の着た袖無し羽織などがこの句の場合に相応しいのではあるまいか。「をり」は「おり」の仮名ちがいである。
『貝おほひ』の宗房自身の判詞に「甚ベが羽織は。きて見て。我をりやと。云こ ゞ ろなれど」とあるのを参照すると、「甚兵衛我折
り」 を掛けているらしい。「我折る」は、「我を折る」即ち閉口する意から、感服する意にも用いられる俗語である。〇花 ごろも
「概*||」。花見の晴着をいぅ。濁点は底本のまま。「花衣花の袂花の袖正花也。……衣類也。これらは紅花にてそめたれば雑なる
ベけれど、只あかきをみて春の花にたとへたる也。……又更衣の哥をみるに、花衣を春のものによめり。されば花の袖等皆春に
15 -忠 す」<『御傘 fc 「花衣 花の衣花の 袂 花の 袖花の上をいふにあらず。衣類をほめていふ詞也 J (r 増山 井 JD 「 Fanagoromo . 」 q 日
葡辞書』)。
1甚兵衛羽織を花衣として着て、この見事な花を来て見て御覧。(よく見て感服するがよい)
I 『貝おほひ』は寛文十二年正月、菅公の七百七十年祭に当って、宗房が三十番の発句合を思い立ち、自ら判詞
を書いて伊賀上野の天満宮に奉納したもの。間もなく江戸に下ってその地で出版された。芭蕉の処女出版であり、自
ら名を署した唯一の著作である。自序の冒頭に「小六ついたる竹の杖。ふし■多き小歌にすがり。あるははやり言
葉の。ひとくせあるを種として。いひ捨られし句共をあつめ」とあるよぅに、所収の発句には凡て当時流行の小歌や
はやり言葉•奴詞等が詠み込まれてあり、宗房の判詞も同じくそれらを綾なした奔放極まるものであった。この句の
「きてもみよ」も、当時の流行唄にこの言い方で歌い出されるものが多かったので、一例を挙げると、
きてもみよかしのやれこりやこ、な六蔵めはこしやくな事いふもんがわるいこもんがわるいそでがみ
じかひ袅りがあわぬすそがあわぬとこ y とをきらずすねんの間はしてさへとらせばきて見よかしのさ
51 寛文十一年
きて見よかしのやつさお宿は殿中じや(井本農一博士 『鑑賞 日本古典文学•色蕉』発句篇による)
というようなもので、引用されたものが多く衣服に縁があり、右の「殿中」も〔語釈〕の条にある如く袖無し羽織の
ことであるのも面白い。それは兎も角、「きてもみよ」を織込んだ発句も、前引の例の外「着ても見よ野は花染の藤
ばかま」(『伊勢俳諧発句帖 t 「軒の妻もきて見よ菖蒲かは衣」(『崑山集』)「きてみよかしのやつさき V しにまさる名所か
な」(『奈良名所八重桜』)等沢山にあって、宗房のこの句もその系列の末流に位置することになる。甚兵衛羽織を材にし
た流行唄も恐らくあったことであろう。『貝おほひ』の中では、この句は九番で露節なる人の「鎌できる音やちよい
く花の枝」の句と番えられ、「右の甚べが羽織は。きて見て。我をりやと。云こ、ろなれど。一句のしたてもわろ
く。そめ出す言葉の色もよろしからず。みゆるは。愚意の手づ、とも申べし。そのうへ左の。かまのはがねも。かた
さうなれば。甚べがあたまもあぶなくて。まけに定侍りき」と自判して勝ちを譲っている。謙遜もあろうが、確かに
白慢になる程の句ではなく、これまでの作でいえば、同じ俗謡の詞を採った「たんだすめ」 ( S ) の方が働いている位
である。『貝おほひ』はやがて来る談林風の先駆として、史上注目すべき書ではあるが、享楽精神の横溢した判詞の
目ざましさに比して、所収の発句には然程際立ったものは見当らない。解釈としては、甚兵衛への呼び掛けと見るこ
とも出来るが、句の表現にそう見なければならぬ必然性が見出し難いように思われるので、呼び掛けは抜いて解して
おく。なお宗房の自序の日付は「寛文拾二年正月廿五日」であり、花見の時節には聊か早い。花見の句は寛文十一年
春以前と見た所以である。
田家にやどりて
40 よめはつらき茄子かる ゞ や豆名月(宝の市)
52
秋季(豆名月)。
ai 〇 田家にやどりて 「 EH1 家に® T りて 1 -〇「田家」は、田舎の農家。「旦藁が田家にとまりて」(『はるの日』) 「 Yadori , ru , otta.J
(『日葡辞書』)。〇 よめはつらき 「嫁は辛き」。姑にいじめられる嫁の辛い立場をいったのであろう。「茄子」に掛けて解すること
も出来るが、姑く「つらき」で切れるものと見ておく。「よめがしうとめになる」(『毛吹草』卷二)「とかく女の身こそつらけれ仏
には何といたさば成ぬべき」(『毛吹草』巻一一 ) 「Yomeuo 日 ucayuru . 」 「 Tgurai . 」(『日葡辞書』)。〇 茄子かる、や 「茄子枯る、や」。
「茄子」は夏の季語。秋のものは特に「秋茄子」といって区別する。「や」は、「枯る、や否や」の意に取れなくもないが、普通の
切字と見てよかろう。この句は所謂三段切れである。「背戸の畑なすび黄ばみてきりぐす旦藁」(『はるの日』) 「 Masubi.J
「 care , uru , eta . 」(『日葡辞書』)。 0 豆名月 「マメメィゲ ッ」 。八月十五夜中秋の名月を芋名月というのに対して、九月十三夜後の
月には季節の物の枝豆を供えるので豆名月という。「九月十三夜は。栗名月とも。まめ名月ともいひ。又ふた夜の月。後のこよひ
なども申し侍る。名月のおさめなれば。夜をのこすいりかたをうらみ。つねにも似ず月の名残をしたふ心ばへなどすべし」(『山之
井』)。
1「秋茄子嫁に食わすな」などといわれて、嫁の立場は辛いものだ。その茄子も枯れて、豆名月を迎えることよ。
I 「あきなすびよめにくはすな_の»は『毛吹草』卷二に既に見え、同巻六には「聋ならばくはせん物か秋茄子」
(正直)の句もある。秋になってからのおくての茄子は、数も少く大きくて美味なのでこういう諺が出来たというが、
この発句で「よめ」と「茄子」を取合わせたのもこの諺が背景にあるのであろう。「茄子」も「豆」も「田家」の産
である。岩田九郎博士は、茄子の枯れたのを嫁の丹精の足りないせいにされるという意味かと考えておられる(『諸注
評釈芭蕉俳句大成』)。それも勿論筋が通っているが、この句は元来表現が手ずつなようで、「よめはつらき」と「茄子か
る X や」が取って付けたようで、辛うじて秋茄子の諺が背後にあることが分る程度である。「田家」に関わりのある
「よめ」「茄子」「豆」を並べ、「豆名月」へつないで行っただけの名辞的発想とするのも、解釈として悪くはあるまい_
私はおおよそ加藤楸邨氏の『色蕉全句』の解に従った。句の出典の『宝の市』(鬼睡撰)は宝永五年の刊行で芭蕉生前
53 寛文卜年
の集ではないが、路通が序を書いており、歿年の元禄七年からさして時を隔ててもいないので、信憑性は十分あると
思う。この書には r 此句は色蕉翁いまだ俗のあらましごとせし比、伊賀の国に有てつらねし也」と付記があり、成立
年代を推定する手掛りになっている。「俗のあらましごとせし」というのが何を指すのか今一つは っきり しないが、
江戸に出る前故郷にあった若き日の作としていることは動くまい。深川移居前として時期を広くとっても、九月十三
夜の頃伊賀にいた徴証は、延宝期には求め難く、結局江戸に出る前ということに落着く。
ぬ女をと鹿や毛に毛がそろふて毛むつかし S ぉほひ)
秋季(鹿)。
0女をと鹿 鹿の夫婦。振仮名は底本のまま。 「 Me 6 to . Meuotto , fau . 」 「 xica . 1, rocu . 」(『日葡辞書』)。〇 ip に毛がそろ ふ
て 二匹の動物が寄り添って毛並みが密着したさま。祇園町踊の唱歌の歌詞「扨も毛に毛が揃たえ」へ『落葉集』卷五)に拠った。振
仮名及び濁点は底本のまま。「そろふて」は、この時代のゥ音便の慣用表記法である。 rsoroi , 3., 6 ta . Fio<xiga sor 6 te
vomoxiroi . J (『日葡辞書』)。〇毛むつかし「けむつかし」は、不快で厭わしい さま。 薄気味悪い意をあらわすことも ある。 ここは
接頭語の「け」を「毛」に言い掛けて繰返したおかしみ である。 振仮名は底本の まま。 「なにかいと ふ 霜夜きつねのかは衣けむつ
かしとてぬぎもすてぬに」(『夫木和歌抄』卷三十三、権僧正公朝) rMutoucaxij .」 (『日葡辞書』)。
QSU 鹿の夫婦が寄り添うて睦み合っている。お互いの毛に毛がぴったりついて厭らしい程だ。全く「毛むつかし」
だゎぃ。
■ an 鹿の夫婦生活は一雄多雌で、秋から冬にかけての交尾期には、角の押合いで勝った雄が、負けた雄の連れてい
た雌まで自分の物にして、普通五六頭の雌を従えているという。『山之井』には「妻とふしかは命をもいとはぬ、しば
54
へなどすべし」 として 「鹿の音も妻にかいらうの契りかな」の句を挙げてあり、『猿蓑』巻一の土芳の発句「棹鹿の
かさなり臥る枯野かな」も交尾期の鹿である。蕉風の時代に入ってからの句とちがって、『貝おほひ』のこの句では
「毛」を三度も繰返し、踊り歌の文句まで詠み込んで調子に乗せている。
「毛に毛がそろふて」にエロチックな連想がある。……いやに「毛」を意識に h せた句である。熊の毛皮の上に
手をついて、思い出して「女房がよろしくと申しました」というおかしみと、発想を同じくするものである。
(『芭蕉全発句』)
と山本健吉氏が指摘されたのは面白い。『貝おほひ』では二拾番に政輝の句「鹿をしもうたばや小野が手鉄炮」と番
えられたが、宗房もさすがに気がさしたか、判詞では「右の女夫鹿。くはしく論を。せんも。毛むつかしければ。あ
ぶなき。筒先。足ばやに。迓のき侍りぬ」と簡単に片付けて、相手の句を勝ちとしている。
寛文十二年
ぬ花にしやよ世間口より風の くち (真蹟短冊)
春季(花)。
〇花 にいやよ 「いやよ」 は、 「 M 1 よ」。『隆達小歌集』に「ひとりねはいやよ、あかつきの、別 ありと も」というのが あり、
小歌調を摸したことが分る。「花」は、下の「世間口」の語に照らして、植物の花と、美女の譬喩としての「花」を掛けていよう0
美女を「物言う花」ともいう。「山里いやよ のがる X とても町庵」(五月十五日付高山伝右衛門宛芭蕉書簡所 引付 句一 「 P 日 5- g - iy ^ s -
mo < su .」 (『日葡辞書』)。〇世間口「セヶング チ」。口さがない世間の人の 色々 な 噂。 「 xeqen , Yononaca. i,xecai .」 (『日葡辞書』)。
〇 風のくち 「風の口」。風神の持つ風袋の口。「なつちかし」 ( M ) の句参照。
亇 tail 花の美女には、ああだこうだという世間の噂が厭だが、本物の花には、その世間口より風袋の口が 厭だなあ。
十花を吹き散らす風を厭う気持を一ひねりして美女の花を掛け、何かとうるさい世間の口から 「風の くち」を 引
き出した。小歌調を摸して、はずむような調子を出している。美女の花の意を考えない説もあるが、 「世間口」 は 花
について咲いたとか散ったとかいう噂だけでは物足りない。 この 語の持つ強い人事 的な 気分を考えれば、やはり
「花」に植物の花ならぬ意味を二重に掛けたと解すべきであろう。その点「なつちかし其 口たばへ花の虱」 (お) より
56
も複雑な趣向になっている。
この句、「宗房」と署名した短冊以外、当時の俳書等に載せられていない。この短冊は「見とれいる顔もややよ目
八重桜」(蟬吟)の句短冊と共に京都のさる寺院から出て伊賀の田中善助氏の有に帰したものというが、両者の筆蹟が
酷似し、両方とも蟬吟が書いた可能性を云々する説さえある(『蕉翁遺芳』附録、岡田利兵衛氏『色蕉の書と画』)。何れにせよ、
句は若き日の芭蕉の作として信憑性は十分で、寛文年間、それも寛文六年に歿した蟬吟生前の作たる蓋然性が高い。
本書では江戸に出る以前、伊賀に居た時代の作と見て、ここに配することにした。
«雲とへだつ友かや雁の生キ別れ?扇一路)
雲と隔つ友にや雁の生わかれ(竹人蕉翁全伝)
春季(雁の別れ)。
piiil o 雲とへだつ友かや 「雲と」の「と」は、「玉と散る」「雨霰と降る」等と同じく一種の譬喩法。「へだつ」は「險つ」で雲
の如く遠く隔たる意である。但し、「へだつ」は下二段の他動詞で、「友 j にかかる連体形は「へだつる」とあるべきところ。「お
互いを隔てる」として意味は通ずるし、音数との関係もあって終止形を連体形同様に用いたか。しかし意味としては、「へだたる」
と同じと解した方が通りが良い。そうすると、これは「佐渡によこたふ天河」の如く、他動詞を自動詞と同じように用いた自他同
用の例ということになる。「かや」の「か」は疑問、「や」は詠嘆。「友なのかなあ」の意で、ここで切れる。「しかれば人間にあら
ずとて、隔つる雲の身をかへ」(謡曲「山姥」) 「 Fedate , t - ouru , eta . Yama , cuni , vmi , caua , nadouo fedatouru . 」(『日葡辞
書』)。〇 雁の生キ別れ 「雁の別れ」は春の季語。秋に口本へ飛来した雁が、春に北へ帰って行くことをいう。「生キ別れ」とした
のは、留別としてのこの句の寓意から、友との別れが死別でなく、生別であることをはっきり示している。なお、貞門の風として、
「雁」に「仮り」、「生キ」に「行き」を掛けているであろう。「麦嗆し臈と思へどわかれ哉(野水ご(『ぁら野』員外)「式部がおもひ
57 寛文十'年
露よなみだよ友仙いつか又逢ん宰府へ生別れ正章」(『紅梅千句』第九) read . 」 「 vacare . 」(『日葡辞書』)。
Baa 私は故郷を去ることになった。遥かに処を隔てて、友は空の雲のように遠くなってしまうのかなあ。北へ帰る
雁のような我が身は、別れが惜しまれてならないが、 r 生き別れ」であれば別れは仮のもの。何時かまた会える日も
あろう。
鳥酔の『冬扇一路』(宝暦八年刊)の「伊賀実録」中に見えるので、初出の時代はやや降るものの、 r 此真蹟は勢
州亀山の城土何がしが手に渡り、今行方をしらずと。おしむべし」という付記に照らしても、真蹟が伊賀にあったこ
とは信じ得るから、色蕉の真作と認めてよかろう。ところで「伊賀実録」では、蟬吟逝去の後宗房が二君に仕えざる
趣旨を書き残して出奔した際に、短冊に認めて友人の家に残した句であるという。しかし、この所謂色蕉の亡命伝説
は古い資料の裏付けがなく、このままには信じ難い。竹人の『蕉翁全伝』は「寛文十二子の春 A - a + 仕官を辞して甚七
とあらため東武に赴く時、友だちの許へ留別」の吟としており、これはその原拠たる土芳の『蕉翁全伝』に「仕官ヲ
退テ後甚七卜改メ、……寛文十二子ノ春東武 -1 下リ、名ヲ桃青トス」とあるのと大筋に於いて一致するから、成立の
時期としてはこの方が信じ得よう。
ただ近時この句については、その信憑性に重大な疑念があると見る説が提示されている。今栄蔵氏の著『芭蕉伝記
の諸問題』第一部第四章がそれであるが、今氏によると、宝暦八年春鳥酔の伊賀上野滞在中の見聞に基づく「伊賀実
録」に色蕉の郷里出奔説がはじめて出る十八箇月前まで、伊賀の地元でこの話が存在した証跡は全くないという。こ
の論はかなり確かな根拠による推論で導き出されたもので、出奔説出現の時期をこのように限定したのは一成果とい
ってよい。これは当然「雲とへだつ」の句の信憑性に影響を及ぼす事実であるが、直ちに句を真作の中から除くには、
なお考慮すべき問題が残っているのではあるまいか。たとえば鳥酔の書の四年後に成った竹人の『全伝』が、出奔説
には触れずに句を採り上げているのに注目したい。蟬吟逝去の直後とするよりも、「寛文十二子の春」の方が S 隹と
58
いう句の季語にも符合することを考えれば、竹人は鳥酔とは別め情報を握っていた可能性があると思う。従って私は
この句をなお偽作とは断定せず、寛文十二年春、『貝おほひ』を故郷の天満宮に奉納して間もなく、江戸へ下ろうと
して友人に贈った留別吟と考える。但し、『全伝』の句形「友にや」は問題で、下の「わかれ」に続く文脈とすれば
解し得ないわけではないが聊か分りにくい。それよりは「友かや」と切れる方が表現として優れていると思う。『冬
扇一路』の句形を本位句とする所以である。「雁」に作者と友の両方を擬したという考え方もあるが、「雁に自分の身
を託したのだから、これは孤雁である」 (山本健吉氏『芭蕉 全 発句』) という見方は確説とすべく、それによってこそ別離の
切ない情が生きるというものであろう。この句、当時の風として掛詞などの技巧はあるものの、それ以上に別れのつ
らさを真率に吐露している。郷関を出て知らぬ江戸の地へ赴く生涯の大きな節目に当って、こうした作のあったこと
は注目してよい。遊戯的な俳諧の時代はまだまだ長く続くのであるが、本格的な詩としての蕉風を拓いた芭蕉の初期
の作として、この句の如きはやはり重要な里程標である。
以なつ木立はくやみ山のこしふさげ(伊勢躍音頭集)
夏季(なつ木立)。
1 〇 なつ木立 「夏木立」。夏に樹々が枝を伸ばし葉を繁らせて群立つさまをいう季語。「木立」に「小太刀」或いは太刀」
を言い掛けて、下の「はく」「こし」の縁語とした。 「 codachi .」 (『日葡辞書』)。〇 はくや 「佩くや」。「はく」は、腰に帯びる意で
ある。「や」は詠嘆の切字。「夕だちははかではきぬる木履哉光有」(『毛吹草』巻五) 「 Faqi , u , aita . Tachiuo faqu . J (『日葡
辞書』)。〇み山「み」は美称の接頭語。この場合、奥深いといった感じは必ずしもない。「漢土にては四明の洞、和朝にては我が
立つ柚と詠じけん御山もいかでまさるべき」(謡曲「現在七面」)。〇こ しふさげ 「腰*4げ J 。 間に合わせに腰に付けている物の意。
59 寛文 1- :年
刀についていうことが多い。「山の腰」(山麓に近いあたり)が言い掛けてある。「延宝二年竹ベらの春君が代はのどかに造る腰
ふさげ」(『大坂独吟集』由平 ) 「Fusagueni . Zaxiqi fusagueni ', tocoro fusagueni iru . J (『日葡辞書』)。
hei 山の腰に夏木立が茂っている。あれは山が間に合わせに小太刀を腰に付けているようなものだ。
■ H 『山之井』に「夏こだちは。太刀にそへて。はばやくしけるなどいひ」とあるように、貞門の俳諧では「夏木
立」や「夕立」を「太刀」に掛けた作意が多く、現に『毛吹草』卷五、新樹の条には「夏木立をのが枝をや7]?:加け」
(定春) r 大小の枝やもろこし夏木立」(定重)といった句が並んでいる。この宗房の句も、型通りに夏木立を太刀に見立
て、山を擬人化して、その腰ふ*% K 太刀を帯びているといったまでである。夏木立の山の実感などは問題にならず、
「こしふさげ」のような俗語への興味だけが目立つ。出典の『伊勢躍音頭集』(素閑撰)は延宝二年の刊行で、三保の序
は寛文十三年(延宝元年)に書かれているが、阿誰軒の『誹諧書籍目録』には「同年(寛文十二年)仲冬十一日三
保作」とあって、十二年十一月までには成稿していたと思われる。従って所収のこの句は同年夏までには出来ていた
と見られよう。
45うつくしき 其ひめ瓜 や 后ざね 水)
夏季(ひめ瓜)。
〇 うつくしき 「美しき」。 rvtoucuxij . 」(『日葡辞書ヒ。0其ひめ瓜や「贫の賦瓜や」。「ひめ瓜」は真桑瓜の一種。実は直径
六トセンチ程の丸型、薄い麦色で、熟するとやや黄ばんで来る。味もよくなくて今は作られていないというが、昔は『枕草子』百
五卄•段に 「うつくし きものうりにかきたるちごのかほ」とあるように、夏にはこれに目鼻を描き、雛に仕立てて玩ぴ物とした。
この句も『枕草子』の文を踏まえているが、典拠の 「うつくし」 は愛らしいことで、美麗の意ではない。句中で 「うつくし」 は、
右の両意を兼ねたような用いざまになっている。「其」は特に指示して印象を強める語法。「や」は、疑問とすれば「后ざねかレ
60
む」と下へ続いて行く感じで、切字ではなくなるけれども、必ず疑問と決められるわけではない。ここは普通に詠嘆の切字と解し
ておく。 r 此—月児-女以,,墨并脂-粉一粧,入-面於姫—瓜一以,,水—引.繫:其—茎一提^!為,玩-具こ(『日次紀事』六月条)「初生の色白し。
和俗称て児女の貌髪を書て翫物となす。清女がいへるも此類也。姫瓜と称するも、此瓜の艷色、又は此瓜の小なれば云ならし。老
する時は黄色となる。金鵞の名さもあるべし」(『滑稽雑談』) 「 Fimeuri .」 (『日葡辞書』)。0后ざね「后実1_*2。皇后の候補者の意を持
つ古語「后がね」をもじって、瓜に縁のある「さね」(実•種)の語を結び付けたのであろう。所謂「かすり」 (6 参照)の技巧で
あって、意味は「后がね」と同じく、やがて后になるべきもの、后の種だというのである。また、「瓜」と呼応して「§載_」(色
白中高で細長い顔)を利かせてある。「暮るょりかき立けりな十二燈きさきや君をまち給ふらん」 (『毛 吹 草』 巻七) 「 fisaqi.J
「 sane .」 (『日葡辞書』)。
HB 3 瓜実顔の愛らしく綺麗な姫瓜は、やがて后にもなるべき種だわい。
■■姫瓜で作った人形を「后ざね」と洒落て褒めたもので、『枕草子』を踏まえ、縁語や「かすり」の技巧を駆使
した貞門調である。『毛吹草追加』上に「姫瓜や瓜さね白ハにつくり眉」(満成)という先蹤作が見える。『一葉集』に中
七が「其ひめゆりや」となっているのは杜撰に過ぎない。『山下水』(梅盛撰)は零本ながら、寛文十一一年十二月の刊と
伝えられるから、所収の夏の句はその年の夏以前の成立である。作者名は「伊賀住宗房」でこれをそのまま信ずれば江
戸下りょり前の夏、即ち十一年夏以前ということになるが、江戸下りのことを知らずに従来通り肩書を書いた可能性
もあるので、姑くここに配しておく。
61 延宝二年
延宝二年
^ (鳥の道) 泊船集.蕉翁句集草稿
「月は一つ、影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて」(謡曲「松風」)。
〇片な y 「片生り」。発育が十分でないこと。『源氏物語』に「十四になんおはしける。かたなりにみえ給へど、いとこめかしう、
しめやかに、うつくしきさまし給へり j (乙女)「ひめ君いときょらにおはしますめれど、まだかたなりにて、おひさきぞおしはか
られ給ふ」(玉*)等の用例があり、ここは「玉鬉 j の文を意識した表現のょうである。 〇霄月夜 「3 ヒ •ッキョ」。 二日月から七、
八日頃までの月夜をいう。上弦の月で、宵の間だけ月が出ている頃である。ここは「良い月夜」を言い掛けている。「霄」は「宵」
の異体字。「霄夕時分にあらず、夜分也」(『御傘』)「苗札や笠縫をきの霄月夜此筋」(『続猿蓑』下) rYoizzuqiyo .」 (『日葡辞書』)。
Baa 今宵見る月影は、まだ十分成長しない形ながらも、生い先頼もしい良い月だ。
RH この句、初出は元禄十年の『鳥の道』(玄梅撰)で、翌年に出た風国の『泊船集』には r 此句は阿叟宗房と名の
りたまひし比の吟なり。短冊に見え侍りけり」と注している。後年の『色蕉句選年考』に、「或行脚の僧云、此句膳
所野理所持の短冊なり。宗房と名有り。檀林前の句か」ともあって、ここにいう野理所持の短冊というのは、『泊沿
46 見る影やまだ片なりも霄月
秋季(霄月夜)。
i 〇影「カゲ' 。 「月影」 で、 この場合は「月の形」 をいぅ。
62
集』の注に見える「短冊」と同じものかと思われる。従って宗房時代の句という所伝は信じてよく、桃青号初見の延
宝三年五月より前、同二年秋までには成っていたものと推定されよう。
「霄月夜」は秋以外の月についても用いられる語ではあるが、この句の場合は名月を直ぐ後に控えた八月上弦の月
とおぼしい。『源氏』の「かたなり」の語を用いて生い先頼もしい趣をほのめかしたのは、名月を待望する気持にこ
そ相応しいからである。そして「片なり」の語によって擬人化の趣向としたのも貞門の常套で、 r 霄月夜」「良い月
夜」の掛詞まで加えている。おとなしく働きに乏しい句柄からいえば、寛文期伊賀在国中の作と見てよかろうと思う。
解釈としては、ちらりと見た美少女の姿を宵月夜の初々しさに譬えたという見方は採らない。名月への生い先が思わ
れる宵月の美しさの蔭に、美少女の姿はうちかすめられている程度であろう。華雀の『芭蕉句選』(元文四年刊〕は中七
を「まだ片夏も」として出し、頭注に r 片夏いぶかし。泊船集見合すべし。かたなりともよめ侍る。不審」とことわ
っている。つまり「片夏」は、「かたなり」という古語を知らなかったところから出た異文と思われるので、問題と
するに足りない。
47命こそ芋種よ又今日の月(千宜理記)
秋季(今日の月)。
H 〇 命こそ芋種よ 「命あっての物種、畑あっての芋種」(命あってこそ何事も為し得る、死んだらおしまいの意。「畑あっての
芋種」は、上と同じ調子の言葉で語呂合わせをしたもの)の諺による表現。「芋種」は「種芋」と同じ。中秋の名月には里芋を供
えるので「芋名月」の称があり、従って「芋」は下の「今日の 月」 にも縁がある。 r 芋種の 所う しなふ普請かな紫 桂」(『淡路島』)
「 Inochi .」 (『日葡辞書』)。〇 今日の月 「今日の月」。陰暦八月十五夜、中秋の名月を賞していう。「今宵の 月、 今日の 弓、 以上十五
63 延宝二年
夜の月に限りていふことばなり。月けふ、今宵と賞するこ、ろ、句中にあらざればと X のはず」(『俳諧歳事記菜草』)「去年みしやま
ん丸一年けふの月弘永」(『毛吹草』卷六) 「 Qe 6 .一, qi 6 . J (『日葡辞書』)。
ia 命あって今年も又中秋の名月を見ることが出来た。諺に「命あっての物種」というが、「芋名月」の名に因ん
で、「命あっての芋種」というべきだよ。
*!■ 名月を今年も見られた喜びを、「命あっての物種」の議にからめて、「芋種」と洒落た俳諧である。「命」「又」
などの語からして、有名な西行歌「年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山」(『新古今集』巻十)が踏
まえられていると見てよかろう。古歌や諺を踏まえ、「芋」と「今日の月」の縁語仕立てでまとめたところ、貞門の
句としては気が利いていて、成功した部類である。以下「人毎の」( I 9 の句までは、「宗房」の名で『千宜理記』初
出。この書には延宝三年九月の維舟の跋があるが、「桃青」号の初出が三年五月だから、同二年秋までには成ってい
たと見られる。実際には寛文年間、まだ故郷にいた間の作であろう。
4 S 文ならぬいろはもかきて火中哉(千宜理記) E 林金玉集
秋季(いろは)。
i 0 文 「フミ」。手紙の意。「便宜せよまだ文も見ぬ天津腸玄康」(『毛吹草』卷六) 「 Fumiuoxitatamum . J (『日葡辞書』)。〇
いろは 「色葉」。紅葉のこと。仮名文字の「いろは」を言い掛けた。「紅葉……色葉といふもおなじ事にて侍る」(『山之井』)「たが
筆も及ばぬ山のいろは哉宗隆」(『毛吹草』巻六)。〇か きて 「搔きて」。「文」や「いろは J の縁で 「 io きて」を言い掛けた。「落
ばかく身はつぶね共ならばやな越人」(『あら野』卷七) 「 n aqi , u , aita . Fauo caqu . 」(『日葡辞書』0〇 火中 「クヮチュゥ」。
火の中にくべて燃やすこと。手紙の末尾に、読後焼却するように求めて「火中々々」などと書くことがあり、そのような密書を
—火中止め」という。ここも「文」などの縁語として、その意を掛けている。 「 Quachp < Finonaca . 」(『日葡辞書』〇
64
ia いろはの仮名で書いた手紙は、「火中」などと書いて火にくべて燃やされてしまう。手紙でない「いろは」(色
葉)も、搔き寄せて火中にされることだ。
■ ai 文字の「いろは」と木の葉の「色葉」、「書く」と「搔く」、「火中」の両義を利用した貞門風の句である。『山
之井』に「色葉」について、「見事やとかなにいはんとも。ちりぬるをわかのうらみなども。てならひのほんにいひ
なし侍」などと教えている通りを実行したに過ぎない。加藤揪邨氏の『色蕉全句』に「おくやまはけふこえて見るい
ろはかな」(『山之井』)「しぐれするいろはは草子洗哉」(『続山井 t 「打むかひょむや紅葉のいろは歌」(重供)(『毛吹草』)
「ちりぬるといろはを読むか風の声」 (宗 頼)(『毛吹 fay ) 「まん丸な露や色葉のろの字な り」 (信徳 )( 『口真似草』)等、類作が
甚だ多いことが指摘されており、宗房の手柄は余りないことになる。『詞林金玉集』は「梓集」から引くが「悖」の
字は「杖」即ち「ちぎりき」。『千宜理記』を別字で表記したもので、作者名は「桃青1酬耻1房」となっている。
43人每の口に有也した艳(千—記)
秋季(した艳)。
1〇人 毎の口に有也 「人毎の口に有る也」。「人の口に有り」は、多くの人々の間で評判になっていること。「おほく人のくち
にある哥あり」(『後鳥羽院御口伝 t 「 Fitogoto . J 「 ouchi .」 (『日葡辞書』)。〇し た艳「下 艳」 。樹 々の下葉の秋に紅葉したものをい
う。「艳」は、もと「小さなくい」の意の字であったが、木扁に「色」という組立てから、紅楓の意に転じた俗用である。ここは
「した J に「舌」を言い掛けた。「下草•下荻•下紅葉等の詞、上に山か森か木 AZ などの文字そはですべからざるょし無言抄にあれ
ども、なくてもくるしからざる也。此下の字、口伝無/之。人は不審あるも尤也。とかく 自- 見の哥学あさましく 侍る」 Q 御 傘 』一
「あれといへば見るや詞の下紅葉重頼」 ( r 毛吹草』卷六) 「 xitamomigi . 」(『日葡辞書』)。
1-綺麗に色づいた下紅棄が人々の間で評判になっている。その評判する口の中にも真っ赤な舌があるよ。
■Si r 下」と「舌」の掛詞に興じただけの句で、〔語釈〕に引いた重頼の句も同想である。
50 見るに我もおれる計ぞ女良花 <続連珠)
秋季(女良花)。
11 〇我もおれる計ぞ「我も折れる計りぞ 」。 「我を折る」「我が折れる」は、閉口頓首恐れ入る意から感心する意に展開した語
で、ここも後者の意である。この時代慣用の俗語で、『貝おほひ』の判詞にも用いられていた(59参照)。それに手折る意味の「折
る」 を言い掛けている。「おれる」は、「をれ る」 の仮名ちがい。「我もおれる」は n 語調だが、手折る意としては最後の 「る」 は
完了の助動詞と見られるから、文語の止格からはずれていないことになる。遍昭の歌を踏まえることは後述。「花崎……りはつ、
が V をれ申」(『朱雀遠目鏡』上) 「 Ga . 」 「 vore , ruru . eta . 」 「 Bacari . 」(『日葡辞書』)。〇女良花「ヲミナヘシ」。秋の七草の〇全
国の山野に自生する。茎は細長く ーメ —トル位、葉は対生で、下部は羽状複葉、上部は細長い小単葉である。秋に黄色の小花が梢
上に群がって咲く。特に美しくはないが、姿がやさしいのでこの名が生まれ、歌などにも女性に見立てられることが多い。 r をみ
なへしは。美人草•姫ゆりのなつかしさにもこえて。たはれたるかたにいひなして。露霜をむすびては。玉のかんざし.うすげし
やうなど見なし。武蔵野にたてるを。たが盗こしといひかけ。大江山にしほる、を。鬼やうばひしととふらひ。頼配の古事をよせ
て。くねるは女気かとも。ちりなば男やまめ哉ともいひ。人にかたるなとよめる遍昭のむかし。名を聞て階老をちぎると作れる。
順のいにしへを思ひつ V - けて。俗はよばひ。出家やをつるなどもいへり」(『山之井』一「見る人の腰打ぬくや女良花正章」(『毛吹
草』巻六)。
tt ' iia おみなえしを見るにつけて、その美しさに感心するばかり。それで折っただけなんだよ。
i 「女郎花は、その名や字面からして艷めかしい遊里の女性などの連想が働く上、有名な遍昭の歌「名にめで
ゞ をれる許ぞをみなへし我おちに きと 人にかたるな」 (『古今 集』 巻四)を利用する こと も、非人 達の 常識だった ことは、
66
右に引いた『山之井』の記述でも明らかである。この句では、遍昭の歌に「我が折れる」といぅ俗語を組み合わせた
ところが味噌で、裏には美しい遊女に惚れて堕落した遊冶郎の含みもみえる。おみなえしを季語としながら、その草
花の姿や感じには余り関心を示さず、名辞の連想から来る擬人的趣向に専念した貞門風の作で、その限りでは成功し
た作といえょぅ。延宝四年十一月に刊行された季吟の『続連珠』に「伊賀 k 野宗房」 として 初出した句である。 この書
には桃青号の作も混っているが、宗房号と作風とを併せ考えて、桃青の号の初出ょりは前、延宝二年秋までには) S っ
ていた句と見られる。
67 延宝二/十
延宝三年
a 目の星や花をねがひの糸櫻 ( 千宜理記)
春季(糸桜)。
〇 目の星 目が.疲れた時或いは空腹の際、眼中に星のょうにちらつくものをいう。「目星の花が散る」ともいうので「花」と
縁語になる。 「 Foxi.J (『日葡辞書』)。〇 花をねがひの糸桜 「糸桜」は、枝垂桜に同じ。既出( 26 )。その花が咲くょうにと願う意
を、「願ひの糸」に掛けて面白く表現した。「願ひの糸」は、七夕の祭に際して五色の糸を竿に掛けて、手芸の上達やその他の願い
事を星に祈る慣わし。中国で「願糸」という風習が輪入されたものである。「轍ひの私秋也。七夕にデ g の料也。竹辑の上にか
くるなり」(『御傘 Jl ) r 七月七日……今日はまづ節供にて。世に索亂を用ゆる事あり。暮れば七夕まつりとて。 St , に空だきし 。 SII
のことに柱をたて、庭にたて。いついろの糸を竿にかけて。ねがひの糸とて是をたむけ。七つの齡‘に水をいれて。大空の星のひか
りをうつす事などあめるとなり」(『山之井』)「たなばたを織やねがひの糸合望一」{『毛吹草』卷六 ) 「fjegaino it ?」 (『日葡辞書』)。
8311目がちらちらするょ。これは糸桜の花が咲くょうに願って、いつも見つめていたせいだ。「目の£'」だから、
「願いの糸」ならぬ「願いの糸桜」といったところ。
VH こういう句は、目がちらちらすることが作者の体験だったとは限らない。ただ「目の星」という言葉から
「花」「花をねがひ」「願ひの糸」「糸桜」と縁をたどって興じているに過ぎず、糸桜の花と七夕の願いの糸が全く季節
68
ちがいであることからも、言葉の綾を専ら楽しむ貞門風の作意は明らかである。機智的な言葉遊びばかりに興が走る
から、糸桜の花を待ちこがれる気持などは何処かに吹き飛んで、甚だ影が薄い。延宝三年に成った『千宜理記』に宗
房号で初出とあって、同年春以前の成立ということになるが、実際は寛文中、まだ郷里にいた間の作であろう。
52 植る事子のごとくせよ兒櫻 t 続連珠)
春季(児桜)。
1〇植る事子のごとくせよ r 植うる事子の如くせよ」。樹を植える (C 当っては、我が子を扱うように愛情をもって大事にせよ、
の意。『古文真宝』後集所収、柳宗元の「種樹郭橐駝伝」に「其薛也若 X 子」とあるのを踏まえた表現で、芭蕉の愛読書だった木
下長嘯子の『挙白集』卷六にも「いはゆる郭囊 . lb がことばに、木をうふること子のごとくせ よ」 と引かれている。この時代、動詞
「植う」はヤ行に活用させるのが一般であったが、『挙白集』の「うふる」のように旧い活用の意識もまだ残っていたので、この句
の「値る」も「値うる」とよんでおく。 r ごとく」の濁点は底本のまま。〇児桜「チゴザクラ」。『滑稽雑談』には「総じて小桜の
類を呼て児桜と称す。此者花の別種にはあらずといへり。総名と知るべし」とあるのに対して、後代の『俳諧歳事記菜草』には
「山桜の一種なり。又小桜のるゐにて別種なりと云。按るに、山桜のうちに、紅色を含て美くしく愛らしき花あり。故に児桜の称
ある歟」とあって、よく分らぬ。姑く小型の桜樹の総名で、種類の名ではないと見ておく。「ちご桜風と嵐やいもはしか政昌」
(『毛吹草』卷五)。
ia 植える時は我が子のように大事に扱いなさい、「児桜」の名に相応しく。
I 「児桜一という名から「子のごとくせよ」といった名辞的発想で、柳宗元の文を踏まえているだけに、漢文式
の固い調子が著しい。『毛吹草』巻五所収の「児桜」の句を見ると、
花の後は木男なれやちご桜 弘永
69 延宝二年
名を ょば V 只伟:若ょ児桜 同
又見んと指きりせばや児桜 正直
風の手にふきさすらるな児桜 重定
おり来るや山から里へちご桜 常久
とく咲はおとな恥かし児桜 頼実
花さかんや-!おとなしき児桜 秀重
といった美形の稚児を連想した作が多いが、中に〔語釈〕に引いた政昌の句のように「ちご」を幼児としての趣向の
句もまじっている。 r 植る事」の趣向は、この後者の系列に属するものである。延宝四年冬刊行の『続連珠』に宗房
号で初出。桃青号に変る前の作として延宝三年春以前となるが、これまた寛文中の作であろう。
53たかうなや H 下もよ X の篠の露 (続連珠)
夏季(たかうな)。
H 〇たかうな 「たかんな」(たかむな)の転で、「たけのこ」の古称。夏四月の季語とされる。「竹の子.」といわずに古語を用
いたのは、後述するように『源氏物語』の文を踏まえたからであろう。「此|月洛内-外竹-林生1/笋。其_中嵯-峨醍-_産_為1^嚴。醍|
寺僧-徒蒸 i 贈-,人-家?是謂, I 蒸—笋?柔-脆淡-薄尤堪 x 食。近—年醍—_三-宝-院門-主并小—野随-心-院門-主芦_,禁-裏
院—中及高-貴家?凡* I 竹-林,之人伐系贈:親-戚朋-友—〇或—煮或—蒸或鲊蔵又醋浸而食/之。;:^塩民'之則笋,来-1―〇凡笋鹿-渚
甚好—食故夜-々使み人追,,之。或作„鳴|子鼠数-品之巧,而驚/之。鹿-猪甚畏=鉄-炮〖依/之毎-夜薫,1火-縄^擬ド£|鉄-炮こ(『日次紀
事』四月条) 。〇平もよ、の 「雫」 は、 下の「篠の露」のしたたり。「よ ゞ 」 は、 液状のものが滴り落ちるさまをいう副詞であるが、
ここでは「の」を伴なって「摘の露」にかかる連体格の形容 句と なっている。「竹の節」に掛けて ' r たかうな」や「篠」の縁語と
70
した外、「代々」の意も掛けてある。「花の露ぼたくぼたんの1下哉慶友」(『毛吹草』卷五) rxizzucu.J (『日葡辞書』)。〇篠の露
「篠の露」。「篠」は小型の竹の総称。「シメ」「スズ」とも訓めるが、後述する類作の句の仮名書き例等からして「ササ」と訓むの
を良しとする。「いほりさすくさのまくらに伴なひてさ、の露にもやどる月かな」(『山家集』下) rsasa.J (『日葡辞書, J )。
ia 見事な竹の子だ。これは篠の露の雫がよよとしたたって、長い間養われたものに違いない。
■■『源氏物語』横笛の巻に、まだよちよち歩きの薫が竹の?-をかじる所がある。
御はのおひいづるにくひあてむとて、たかうなを、つとにぎ り もちて、しづくもよ-! とく ひぬらし給へば、いと
ねぢけたる色ごのみかなとて、
うきふしもわすれずながらくれ竹のこはすてがたき物にぞ有ける
「いとねぢけたる色ごのみかな」という源氏の言葉は、この物語に珍しい卑猥な冗談であるが、この一節の表現をそ
のままに踏まえたこの句は、「うきふし も」 の歌 も 含めて、物語のこの場面を まざまざと 想起させる。この句の醸し
出す笑いには、そうしたひろがりがあることを銘記すべきであろう。同想の作として『続山井』に 「- fc -讨のこやさ、
のひとよのおとし種」の句があることが、既に指摘されている。『続連珠』に宗房の号で初出するので、成立は延宝
三年四、五月が下限となるが、実際は寛文中の作と見て誤りはあるまい。
54盃の下ゆく菊や朽木盆(当世男) S 番3諧発句合•続深川
秋季(菊)。
11〇盃の下ゆく菊「盃の下行く菊」。盃の酒がこぼれた為に、盆の模様の菊が水中に あるよう に見える。中国南陽酈県の菊水
に菊の露がこぽれ落ち、それを飲んだ下流の人が長寿を保った という 菊水の故事を踏まえた見立で ある。 謡曲の詞を取った ことは
71
延宝:年
後述。「盃も詩作もうかぶ流かな j (『毛吹草』卷五)「雨露の恩深きたとへや菊の淵正南」(『毛吹草』卷六) 「 sacazzuqi.」「vye
xita . J 「 Qip 」 (『日葡辞書』)。 ◦朽木盆 「クッキボン」。滋賀県高島郡朽 f 地方から産した塗盆。菊や桜の花の塗模様があったら
しい。『毛吹草』卷四、諸国の名産を記した中に「朽於塗你战 器 I 」 と見え、近世初期頃から諸国に売り出されたものという。 「朽
木盆菊もにほふてけふの栗其慶」(『淡路島』) rBon . Fotogui . 」(『日葡辞書』)。
numra 菊の模様のある朽木盆。上に載せた盃から酒がこぼれて流れ行くさまは、「盃の下行く」水、めでたい菊の水
であることよ。
Hi 初出の『当世男』(蝶々子撰、延宝四年七月上旬序)には重陽の部の最初にこの句を出し、『六百番誹諧発句合』と
『続深川』も「重陽」と前書がある。延宝三年の重陽の節供(九月九日)までには成っていた害で、桃青号で出てい
るから年次は大体延宝三年であろう。重陽の佳節を菊水の故事によって祝った趣向で、「殊にげに是はためしも夏山
の、下行く水の薬となる奇瑞を誰か習ひ見し。いざや水をむすばん、いざ<水をむすばん。……げにや^^と菊の
水」という謡曲「養老」の詞が作者の頭にあったとされる。同じく「菊慈童」の「菊水の流れ、泉はもとより酒なれ
ば、 酌みては勧め、掬ひては施し、我が身も飲むなり飲むなりや」という一節も参考になろう。この句は延宝五年に
成った『六百番誹諧発句合』では、四百二十番に神野忠知の句「か V しにも月もれとてややぶれ笠」と番えられ、
「安山子にも月もれ破笠、句の仕立あはれにさもこそ。盃の下ゆく菊、朽木盆の中迄酌ながしたる牀にや。今少事た
らず覚申。左勝」と評されて、桃青の句は負けになっている。「盃の下 ゆく 菊」という見立は聊か分りにくいが、維
舟の判詞に「盆の中迄酌ながしたる鉢」即ち盆の中に酒をこぼして流してしまったところと見るのは 良く、解釈の上
で参考になる。色蕉の貞門を脱して談林風に趨く区切りは、発句ではこの句あたりからであるが、この見 立な どはま
だおとなしく、そう思い切ったものにはなっていない。
72
55 町醫師や 屋敷がたより 駒迎 § 蕉翁句解参 5
秋季(駒迎)。
1〇町医師 「マチィシ」。江戸時代、町中で開業していた医者の称。大名など身分ある人に抱えられていたお抱え医師に比べ
て地位は低かった。 「 Ixi . i , cusuxi .」 (『日葡辞書』)。 〇屋敷がた 「屋敷方」。大名.旗本等屋敷を構えている身分を指す。大身の
武士階級。「東国西国の屋敷方、一年かはり長屋住居の人をだます物ぞかし」(『好色一代男』卷二) 「 Yaxiqi .」 (『日葡辞書』)。 〇駒迎
「駒迎へ J 。 馬で迎えが来たこと。ここはそれに王朝期に行われた「駒迎へ」の行事を掛けている。往昔' 甲斐•武蔵 •信 濃 •上
野 等にあった朝廷の御牧から、毎年八月に官馬に適した四歳以上の馬を選んで貢上したが、これらの馬が 逢坂 山で京の馬寮の官人
の迎えを受けるのを「駒迎へ」といった。やがて内裏の南殿で主上出御の もとに 行われる駒牽きの儀に臨むのである。官馬に関し
ては信州が中心 視 され、その駒の牽かれる八月十五日が主とされたが、この事からして r 駒迎へ」も中秋八月の季題とされる。
「望月の輪を乗たしや駒迎正平」(『毛吹草』卷六) 「 comamucaye . 」(『日葡辞書 fc 。
1-町医者の許へ武家屋敷から馬で迎えが来た。これこそ現代風の「駒迎え」というもの。
■■ 古来の伝統行事たる駒迎えを、文字通り駒で迎えられる意に取做した俳諧である。馬を差向けられたことだけ
では季節に関わらない答だが、其処はもともとの「駒迎へ」の意が働いて秋八月の季を持つわけだ。「あふさかの関
のし水に影見えて今やひくらんもち月のこま」(『拾遺集』卷三、貫之)の名歌を思わせる王朝の雅の世界と、町医者が光
栄に勇み立つ当代市井の俗情がこの語に重ね合わされ、対照の妙を発揮している。王朝の行事では人が駒を迎えるの
であるが、今は駒が人を迎えるというところにも、おかしみを見ているのかも知れない。何れにせよ、優雅な駒迎え
を市井の俗事に置き換えた手腕は、もはや十分に談林風といえよう。この句、何丸の『芭蕉翁句解参考』に「柳亭云、
延宝三年五十番句合にて露沾公判なり」と付記して見え、柳亭種彦の『還魂紙料』にも引用するけれども、露沾判の
73 延宝作
『五十番句合』なる書は伝本のある ことを 聞かないので、ここでは『句 解 参考』の句形に拠った。年代も種彦を信ず
る外ない が、 延宝三年秋と すれば、 宛かも五月に東下した宗因と一座して百韻を巻いた直後の作となる。談林の骨法
を得たこのょうな句が生まれたのも宜なるかなと領けるであろう。
56 針立や肩に植うつから衣(江戸新道)
秋季(衣うつ)。
- i 〇針立「針立て」。緘を人の体に刺して病気を治療する医師。緘医をいう。「黒髪をたばぬるほどに切残し荷兮いともか
しこき五位の針立昌圭」(『はるの日』) rFaritate.J (『日葡辞書』)。〇肩に槌うつ「槌うつ」は、「扁平な小槌で針を打ちたたき、
体の表部に浅く刺入する緘術の一つ」(今栄蔵氏『芭蕉句集』)で、『和漢三才図会』巻十五に「員利此即打—針取,小—槌一打—入テ而^
とあるもの。員利針についても、同書に九針の別を説いた中に、「員-利-針長一-寸六-分、太如/肇且員 a - 鋭中-身微大」と記す。
緘術に用いる槌と砧の槌とは全くちがうが、ここでは砧の槌に掛けて下の「から衣」に続けた。〇から衣「151」。中国風の衣服。
袖が大きく裾はくるぶしまで届き、上前下前を深く合わせて着る。ここは t の「肩」の縁で「 I エ衣」(裸)に掛けた洒落である。
「たなばたにぬぎてかしつる唐衣いと V 涙に袖やぬるらん」(『拾遺集』卷三、貫之)「はる来ぬる旅の5 if ^ から衣着つ k かれい
ひ取あげて」(『毛吹草』卷七) 「 caracoromo . J (『日葡辞書』)。
■ ana 緘医が患者の肩に小槌で針を打っている。槌で唐衣を打つではないが、裸の肩だから「空衣」といった ところ
、〇
■「長安一片月、万戸檮衣声」(李白「子夜呉歌」)等、月下に衣を打つ趣は古来秋の ものとされて来た。この 句 も 形
式上は一応「衣うつ」で秋季ではあるが、中身に季節感はなく、「唐衣」を「空衣」 と あらぬ ことに 取 放して興じて
74
いるに過ぎない。伝統的な風雅の世界のものを、当代風俗の緘医のことに転じたおかしみは、談林風の傾向の句とい
ってょく、
藁一束ぅつや番太が唐衣 見 石(『当世男』)
類杖にかたぶく月の影消て 桃青
座頭はかたを衣ぅつ也 (似)春(『江戸十歌仙』)
等、同時代の作例を見ることが出来る。この句、現存の板本としては、言水の『江戸新道』(延宝六年八月成)に載った
のが古いが、延宝三年の露沾判『五十番句合』所収と伝えられるので、延宝三年秋まで成立時期を遡り得る作である。
75 延宝 KH 年
延宝四年
57天鉀や京江戶かけて千代の春(当世男)
春季(千代の春)。
i 〇天鉀「テンビン」。挺子の原理を応用したはかり。中央を支点とする棹の両端に皿を吊し、それぞれの皿に重さをはかろ
うとする物と分銅を載せて、棹が水平になった時の分銅の重さによってその重量が分る。当時の商家では、はかり目によって通用
する銀貨等の貨幣の重さをはかるのに用いた。 r 鉀」という字はなく、「秤」を用いるのが正しいが、「鉀 J は分銅を用いるところ
からの連想で、江戸時代の慣用だった。「客の遊興昼夜のかぎりもなく、沿 g のひ V きわたり、金銀も有所には取 EI のごとし」
(『日本永代蔵』巻ニノニ) rTenbin . J (『日葡辞書』)。〇 京江戸かけて 「京」「江戸」は、王城の地と覇者の府と、この時代の東西二
大都市を挙げたもの。「かけて」は、秤に懸ける意と、両者にまたがって何れも、の意の掛詞である。〇 千代の春 rf ”」 は、何
時までも栄えるようにと寿ぐ言葉。「石なごのそだちやいはほ千代の春」(『崑山集』巻二 「 ohiyo L (『日葡辞書』)。
KSEi 天秤のはかりに京と江戸二つの町を懸けると丁度釣り合う。そのように何れ劣らぬ繁昌の、目出度い初春よ。
■ H 日本中の繁栄を祝う初春の句は誰しもすることで、京と江戸の二大都市を挙げるのも、「けふ春や都も江戸も
どちもよし」(山岡元隣二『桜川』春一)の句など、先蹤が既にある。この句の新しさは、商業の上昇期にあった時代に相
応しく「天鉀」を採り上げ、しかも東西両大都市をはかりにかけるという思い切った見立をした点にあろう。「見立」
76
の技巧は貞門の時代から笑いの種として多用されたけれども、談林期に入って殊に人の意表をつく底のものが続出し、
スヶールも大きくなった感が深い。この句も談林調の典型的なもので、京店•江戸店両方を持つ豪商の繁昌や、二都
の秤座の対立というような社会的な背景も考えられるとすれば、時世を映す鏡としても恰好の句となっている。
55此梅に牛も初音と鳴つべし(両吟二百 S 泊船集.梅の牛
春季(梅)。
K 1 〇此梅「此の梅」。「梅」は、飛梅の故事などで名高い天神ゆかりのもの。奉納の句ゆえ「此の」といって天満宮社前の梅を
強調した。更にここでは西山宗因の別号「梅翁」を利かせて、談林風を象徴している。 「 vme .」 (『日葡辞書』)。〇牛牛に乗った
菅公の画像や、天神境内の寝牛の像など、「梅」 と 同じく天神にゆかりの深い ものと して出した。 それと 共に鈍重不才な 作者自身
を謙遜しつつ譬喩した意図も見える。〇 初音と 「斯音」は、鶯の早春の初声を賞していう。「初音^ J 」 でなく「初音 b L ' - c ' 」 とい
って強調した占〔に注意したい。「篤 . 法花経となくといへば。経よむといひて。初音は序品。あまたになくは。千部などいへり」
(『山之井』) 「 Fat-Ouneuo dasu ; (『日葡辞書』)。〇鳴つべし「鳴きつべし」。「つ」は強意の助動詞。「鳴くに違いない」「きっと鳴く
だろう」の意になる。「人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃のためしもひきいでつべうなりゆくに」(『源氏物語』桐壺)「多 qr-f
aita . 」(『日葡辞書』)。
HBI 天満宮のこの見事な梅を見ては、鶯はもちろんのこと、あの鈍重な牛までも、初音とばかり鳴き声をあげるに
違ぃなぃ。
■一■延宝四年の二月、芭蕉は親友信章(山口素堂)と二人で天神奉納の二百韻を興行した。これよりさき、同三年
の五月に、二人は東下して来た西山宗因を迎えて本所の大徳院で催された俳席に加わり、百韻を成就したが、延宝初
めから上方で漸く流行の勢いを見せはじめた梅翁宗因流、所謂談林風の俳諧は、この宗因の江戸下りを幾に江戸の俳
77 延宝 FI 年
壇にも大きな影響を与えるに至り、有名な宗因の発句「されば爰に談林の木あり梅の花」を巻頭に乞い請けた松意ら
一派の 『# trsp 談林卜百韵』が刊行されるなど、目をそばだたしめる動きが出ていたのである。桃青号を用いはじめた
芭蕉がこの新風への傾倒を示しはじめるのもこの頃からであって、翌年春の奉納二百韻は、その顕著な成果であった。
『江戸両吟集』の名で刊行されたといわれるが' その板本は今伝わらず、延宝六年刊の『桃青三百韻附両吟二百韻』
が唯一の 古 板である。これは延宝五、六年に成った信徳•桃青.信章三吟の三百韻に付載されたもので、「両吟二百
韻」と称する部分がそれに当る。
第一の巻の発句が「此梅に」の句であるが、天神ゆかりの「梅」と「牛」に託して梅翁宗因と作者たる二人に擬し、
見事な梅に牛も初音を鳴くといって、宗因の驥尾に付して自分達も新風の俳諧を謳歌しょうという気勢を示したので
ある。 r 梅に鶯 」 といえば在り来りであるが、ここでは「牛 も」 として「鶯」は裏にひそめてしまっている。こうい
う工夫は談林風独得の「抜け」の技法で、この時期作者は早くもこの技巧をマスターしているところ、なかなかの達
者といえょう。牛に初音を鳴かせたところが奇抜で、「初音と鳴つべし」の強い響きも、張りのある勢いを示してい
る。恐らくは前記宗因の「されば爱に」の発句と、それに付けた雪柴の脇「世俗眠をさますうぐひす」が頭にあって、
それに呼応すべくエ案を練った作意と思われ、天神奉納と談林風帰順の両意を兼ねた面白い趣向であった。二百韻第
二の巻の、
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
こちと うづれも此時の春 桃青
という発句•脇に至って、新風渴仰の意は更に明らかで ある。
8
5 P 我も神のひさうやあふぐ梅の花(続連珠)
春季(梅の花)。
1〇 ひさうやあ ふぐ「秘蔵や仰ぐ」。大切にしている物(梅)を仰ぐ、の意。謡曲「鉢木」に「今も梅•桜•松を持ちて候。
……某が秘蔵にて候へども」「秘蔵せし鉢の木を切り、火に焚きあてし志をば」等と用いられ、.何れも r ヒサゥ」と清む慣わしで
ある。『日葡辞書』にも 「Monouo fiso<suru . Gofis 6 no mononaredomp cudasarey ? 」とあつて、中世から近世にかけて
「蔵」は濁らなかったものと認められる。ここはそれに菅公の詩句「離 K 家三四月、落涙百千行、万事皆如 x 夢、時//仰一一彼蒼一」(家
を離れて三四月、落涙百千行、万事皆夢の如し、時 > 彼蒼を仰ぐ。『菅家後集』自詠)を踏まえ、「彼蒼」を言い掛けた。「彼蒼」
の語は、『詩経』秦風、黄鳥の詩に「彼蒼者天」(彼の蒼たる者は天)とあるのに基づいて「天」を意味する。 「や」 は、疑問の助
詞としては通ぜず、詠嘆の間投助詞であろう。「ひさうあふぐや」といえば切字もはっきりするのに、何で 「や」 を上に持って行
ったのか、よく分らない。「文月やあふげば空に御光臨伊伯」(『毛吹草』卷六)「 Auogui , u , uoida . T fl >» ni auogui , chini
fusu . J (『日葡辞書』)。
nMffu 天神様は「時 k 彼蒼を仰ぐ」と詠じて、筑紫でも梅を愛されたが、私も天神御秘蔵の梅の花を仰ぎ見ることだ。
■ E 1 I ただ天神秘蔵の梅を仰ぎ見るというだけでは、この時期の作として曲が無さ過ぎる。謡曲に用いられた「秘
蔵」の語を「彼蒼」に掛けて、菅家の詩句を思わせたところが作者得意の趣向であったろう。延宝四年十一月刊の
『続連珠』初出の句で、「江戸松尾桃青」として出るので、一応四年春、信章との『両吟二百韻』の時の作と見られるが、
このおかしみは談林風よりは寧ろ貞門風であって、 r 此梅に牛も初音と鳴つべし」と並べては、かなり見劣りがする。
寛文十二年春の『貝おほひ』奉納の時とした方がしっくりする程で、その可能性も否定し難いと思う。山本健吉氏は、
r 妻妾も御秘蔵というから、梅の花を天神の思いものに見立てたエロティシズムが微かに 匂う」(『色 蕉全 発句 , b と見て
79 延宝四年
おられ、これ亦一説であろう。
60山のすがた蛋が茶臼の覆かな S 芳蕉翁全伝)
富士の山蚤が茶臼の覆かな(銭龍?
夏季(蚤)。
H 〇蚕が茶臼の覆「蚤が茶臼の覆ひ」。「蚕」は「蚤」の誤り。支考の『和漢文操』卷二、宰陀の「蚤辞」の注によると、3時
の童謡に「蚤が茶日をせたらおふて、富士のお山をちよいと越えた」というのがあり、農民から身を起して天下人になった秀吉を
諷したものだったという。到底不可能なことをする譬えにいう諺「蚤が茶臼を負ふ」を踏まえた謡で、「うそになれ蚤が茶磨を老
の春寺地壺庵」(『俳諧三部抄』)「千句より大鵬高く飛出て似春蚤が茶臼を明ぽの ゞ 空四友」(『山端千句』)「枯ひさご蚤が茶
磨を負ふこ、ろ」(素堂「芭蕉庵六物」)等の句も同時代に出来ている。諺や謡でお馴染みの蚤が背負う茶臼ということで「蚤が茶
臼」といい、更にその「茶臼の覆」と語を展開して行ったのである。「茶臼」は、葉茶を挽いて抹茶を作るのに用いる石臼。抹茶
をうける大きな円盤の台の上に二つ臼を重ね、上臼についた挽木を廻して挽く。その覆いは、渋紙か畳紙で作り、茶臼にかぶせる
と富士山のような形になるのである。「蚤」は、ここでは形式的な季語に過ぎない。「蚤……此者は古風には季に不 X 用也。当世夏
とす。故に爰に註し侍る。毛吹草にも侍る也」(『滑稽雑談』)「覆」(『毛吹草』巻三) 「 Nomi . 」 「 chausu . J 「 vouoi . 」(『日葡辞書,!|)。
I 富士山の姿は、あの諺や謡に出て来る蚤の茶臼、それよりは、その覆いの形に似ていることよ。
■ E ■土芳の『全伝』に「延宝四辰ノ夏旅立出テ、途中二冨士ノ吟有」として出し、竹人の『全伝』も同じ時の作と
している。即ち延宝四年夏江戸から郷里伊賀の上野へ帰る旅の途中、富士山麓あたりでの吟であろう。俳書に載った
ものとしては、宝永二年刊の『銭龍賦』(百里撰)が最も早いが、『全伝』の句形とは異なっており、二つの形の間に先
案後案の関係があったかどうか、卒かには定め難い。「山のすがた」とだけでは何処の山か分らず、その点は「富士
80
の山」の方が良いけれども、「蚤が茶臼」といえば支考のいう当時の童謡が直ぐ連想されたとすれば、「富士」と特に
ことわらなくても富士山のことと分るのに手間はかからない答である。土芳•竹人らの信憑性の高い伝記、それに確
かな資料に拠ることの多い『芭蕉句選拾遺』(寛治編、宝磨六年刊)が凡て「山のすがた」の形なのはやはり重視すべき
であって、その見地から本書でもこれを本位句とした。
句の趣向は、童謡を踏まえながら富士山を茶臼の覆いに見立てたもので、その奇抜さに談林風の特色を発揮してい
る。この童謡を利用した例は〔語釈〕の条に挙げたが、後年の支考の『東華集』(元禄十三年刊)に見える凉菟の句「風
呂敷を蚤が茶磨や不二の山」は、芭蕉の発句と全く同趣向の類作である。
S 雲を根に富土は杉なりの茂かな(続連珠)
夏季(茂)。
i 〇雲を根に 「根」は、下の「杉」の縁語。「花や根にさらば^^の春の暮 J (『毛吹草』卷一) 「 Negasasu . 1, Neuosasu . 」
(『日葡辞書』)。 〇富士 「フジ」。「冨士と斗も山類 也。 冨士 川、 山類にあらず」 (『御 傘』)「近江の海のふかさしらる、是程に高き
はいかに冨士の山」(『毛吹草』巻二。 〇杉なリ 「杉形」。杉の木の聳えたょうな形。上が狭く、下へ行く程左右にひろがる形で、
米俵を積んだ形の形容にもなる。「降雪も杉なりにつむや三わの山一葉子」 (『鹰 筑波』巻一)。 〇茂 「茂り」。樹木の枝葉の生い茂
ったさまをいう夏の季語。「しげみ野か原か山か、いづれも所なくては只はいかと也。草木を加へては猶異義なし。しげる、
同前。以上無言。是近年の新義 也。 古連歌にしげみとばかりしたる句 ま 、多侍り。是ひが事にあらず。木草のしげき所を云也。
……茂きみどりと云心なり。苑藪と云に同じ。野山ならでも申さる、詞也。雑なり。植物に二句也。又茂ると斗もする也。是は夏
になり、乍同直しげるとばかりはいはれず。野山草木の文字をそへねども、しげりと斗し立たる古人の連歌あるなり。是も植物に
二句也。当世座敷のしげるなど云は、夏になるベからず。非::植物 一 只繁昌の心ばかり也」(『御傘』) r 散花の跡をくろむる茂り哉
81
延卞四午
昌意」(『毛吹草』卷五) 「 xigueri . 」(『日葡辞書』)。
高い富士山は、雲を根にして茂った杉の木の形をしていることよ。
■ E ■富士は高峰だけに、普通の山なら上に頂く答の雲を逆に下にして、その上に更に聳えているさまを、「杉なり
の茂」りと面白く見立てた趣向である。「茂り」は夏の季語なので、樹々の緑濃い夏富土のさまといっても一応は通
ずるが、こうした句は山の緑を写実的に表現したわけではない。山の姿を茂った杉の形に見立てた点に、興味は専ら
かかっているので、談林風の趣向といえよう。『続連珠』に 「ti 戸套尾桃青」の作として出ており、夏の句でもあるか
ら、それ以前の可能性もないではないが、延宝四年夏帰郷の途次の吟と見てよい。
佐夜中山にて
62命なりわづかの笠の下凉み S 戸広小路)
夏季(涼み)。
i 〇 佐夜中山 「サヨ/ナカヤマ J 。 今の静岡県掛川市、 R 坂と菊川の間にある坂道。左右の谷が深く、東海道の険路として知
られ、山上には夜泣石の遺蹟や子育て観音•無間の鐘などの伝説があった。『古今集』以来の歌枕でもある。古くは「サヤノナカ
ヤマ」と呼ばれていたが、後には「サヨ」と変り、「小夜」の字が宛てられるようになった。謡曲でも r サヨ」であり、西鶴の
『一:::; . k 鉢』(元禄二年刊)に「佐夜中山」と付訓があるのによって、ここでも「サヨノナカヤマ」とよむ。〇命なリ西行の歌
パ'1--たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山」(『新古今集』卷十)を踏まえる。「命なりとは、涼しさのいはんかたな
きをいへり」(『芭蕉翁発句集蒙引』)「歌のいのちは、身命の命也。ほ句の命は、時の間のうれしきに取ての命といふ義に意をかへた
る也」(『芭蕉翁句解人成』)「いだきてねぬる心うれしきあた》むる火桶は老が命にて」(『毛吹草』巻七)。〇わづ かの笠の下凉み
「凉み」は、夏の季語。 「 F 凉み」は、普通木の下で涼を納れることをいう。それを「笠の下凉み」と転じた俳諧。「山のなから許
82
の、木のしたのわづかなるに、あふひのた^みすぢばかりあるを」(『更級日記』)「若木の T , 1 : で!^をぬげ」(『毛吹草』卷二)「いな f の
山の松の下涼して、長途の愁をなぐさむほどに」(芭蕉発句「山かげや」前書) rvasuca •一, vazzusna . J 「 Casa .」「 suzumi , U,
unda . 」(『日葡辞書』)。
El この佐夜の中山の坂路は、夏の日盛りに木蔭もない。ささやかな笠の下を唯一の頼みとして涼を取るのが命の
綱だ。
1初出の『江戸広小路』(不卜撰)は、序によると延宝六年の西瓜の熟する頃成つたという。竹人の『蕉翁全伝』
には、野ざらしの旅の佐夜の中山越えの条りに、「其十三年前初下り、 さやの 中山に て」としてこの 句を 引くが、 貞
享元年より十三年前、伊賀から江戸へ初下りの時は春の箸だから季節が合わない。次の句 (防) を 収めた 『凉石』(大
町撰、 元禄十四年刊) が、 その 句の前に「大部 長途の 興賞、わづかの笠の下す ゞ みと聞えける小夜の中山の命 も廿年前の
むかしな り」 と書いているのによつても、旅中吟 たることは 確かと して、 最も相応しいのは延宝四年夏帰郷の旅の 往
路と考えられる。
句は西行の歌を踏まえながら、意を転じて俳諧にしている、貞門風のおかしみの句である。幸田露伴は「この笠太
被つたなりでゐるのでは無いのである。笠を取つてかざしてゐる心持がある。笠と頭の間に風が通つてゐる心だ。さ
うで無いと此の句は活きて来ない」(『芭蕉俳句研究』)と見ている。いわれて見れば成程その通りで、被つたままでは暑
苦しいばかりだから、私もこのような姿として鑑賞したい。〔語釈〕に引いた古注にも言う如く、歌の方の「命」は、
西行が自らの生涯をかえりみて深い感慨を籠めた語であるのに対して、句の方の「命」は、暑熱の労苦を凌ぐ頼りと
いう軽く浅い意味に転ぜられている。加藤楸邨氏の『全句』が指摘するように、「旅衣かく来て見んと思ひきや。命
なりけり小夜の中山はこれかとよ」という謡曲「盛久」の一節も意識されていたかも知れない。更には、 「木蔭の下
涼み」ならぬ「笠の下凉み j を案じた俳諧もあつて、この句は貞門乃至談林風の作として十分成功したものである。
83 延宝 FI 年
それのみならず、この句には 何処か体験に 根ざした実感のようなものが 現われていて、専門家 ならぬ向きには高く評
価す る 意見 も 見える。 しかし 時代が時代な ので、そのような 見方は所詮 買い被りに過ぎない が、 こういう作を重ねて
行くうちには、真実な詩の動機に目ざめる因由が醸成されることになるのだから、そうした点でこの句も留*ンなけ
ればなら ない。 おかしみだけで ない 感じは、 最初に「命な り」と強く打ち出した句作りにもよるであろう。
S 夏の月ごゆより出て赤坂や(向之岡)
凉石.既七とせ
夏の月御油より出て赤坂か (俳諧曾我) |蕉翁句集.目団扇
御油を出てあか坂までや夏の月(夏の月)
夏季(夏の月)。
〇夏の月「夏月 . たとへば夏の三日月、夏のあり明いでずして夏月と申は、みじか夜•凉き•峨やすき•あつき•卯花.
橘 •時鳥などを結び入たる句を申也」(『御傘』)「夏月みじか夜の月明ゃすき月/夕の影の凉しさをめで。いる事のはやきをおしみて。
めぐるは扇車哉とも、鳴門や落す月の舟などもつらね」(『山之井』)。〇ごゆ「„」。現愛知県豊川市御油町。東海道を江戸から
数えて三十五番目の宿場である。濁点は底本のまま。「, 渺 \此宿はむかしのが街とて ilts ? 人齡女見へける。まへ <は欠幫の出
立姿、 都の時花袖をうつし、紅うらを恋風に吹かへして、か k る所にはやさしく、三縦の糸に色ふくまて? l?m ^^ MlA £ の^ g をさま
させし。又右のかたに松の並木ありて外道見ゆる」(『一目玉鉾』三)。〇出て「壯でて」。〇赤坂「ァヵサヵ」。現愛知県^ If 郡音
羽町赤坂。 御油の 西土ハ 町にある宿場で、この間隔は 辛 一二次の中で最も近い。^此宿は東海道 第一の 慰 g の 所、たは ぶれ
女の数^^ありし が、 今はむかしの形もなく淋しくなりぬ。此里に一夜®名物也。左右の山のすがた、が袠それ^^に枝ふりて、
詠めつ V けておもしろき所-^」(『一目玉鉾』三)。
夏の月が御油から出て赤坂の宿場へ入ったよ。 まことに 短くてあっけない 夏の短夜だ。
84
I 初出の『向之岡』(不卜撰)は延宝八年の刊行であるが、同じ句形を収める元禄十四年刊の『凉石』(大町撰)には、
句の前に「大都長途の興賞、わづかの笠の下す V みと聞えける小夜の中山の命も廿年前のむかしなり。今もほのめか
すべき一句には」と記されている。この文は芭蕉自身の筆ではなく、大町の付したものと見られるが、前の「命なり
わづかの笠の下凉み」(62)の句と同様に旅中吟であることを示す文意であろう。延宝八年以前の夏、しかも句の表現
通りとすれば御油から赤坂へ西上する場合とすれば、同四年夏の帰郷旅行の往路が最も有力なものと して 浮び上って
来る。その折の吟 として 恐らく誤りはあるまい。
句の趣向は、夏の短夜、月の入りの早さを、五十三次の中では最も間の近い御油•赤坂両宿に比擬したのであって、
旅人が歩いた実際やその気持を叙したものではない。この時期の作としてそれは当然のことであるが、比擬の趣向と
しても、この思いつきはそれ程警抜なものであろうか。存外つまらないと感ずるのが正直なところである。その為か
近来は、
短い夏の夜は明けやすく、空行く月もわずか御油を出て 赤 坂にはいるほどの短距離しか渡らない。空行く月とい
う発想は和歌以来の伝統であるが、俳諧でも「大空に近道あるかなつの月」(崑山集)などという。この「近道」
を r ごゆより出て赤 坂や」と言いたてた ところが自慢な のであろう。(堀 信夫氏『日本 古典文学 全集•松尾色蕉集』発句編)
夏の月は御油の宿場を出て、ほんの目と鼻の先の 赤 坂宿に入ったのだろうよ。道理で出たと思ったら、すぐに見
えなくなったわい。…… 月が 御油. 赤 坂の間を歩いたと擬人化して夏の短夜を寓した談林的寓言。 (今 栄蔵氏『新潮
日本 古典 集成•芭蕉句集』)
といった説が現われるようになった。こういう風に見ればこの寓言はなかなか面白く、特に今氏の見方によれば、
「夏の月ごゆより出て」という句作りや、 r 赤坂や」の弾んだ調子も生かされて、談林風の唯中といえるものになろう。
月みて やとき はの里へか^'るらん
85 延宝四年
よしとも殿に似たる秋風 (『守武千句』第三)
を思わせる ような 守武流なのである。
もう一つ、この句で見逃し難い点は、芥川が『色蕉雑記』に指摘した「御油•赤坂の地名の与へる色彩の感じ」
「耳に与へる効果」等であろう。夙く『山之井』秋部、月の条に「有明の光りをあぶらつきとそへ」とあり、『崑山
集』にも「赤き夜や猿の尾程もなつの月」の句があって、「赤坂」に月の赤いを思わせた色蕉の句に影響を与えてい
るかとも考えられる。妙にねっとりと生々しい語の響きは、遊興の宿場としての連想を誘う一面もある。西鶴の『一
目玉鉢』では昔とちがってさびれたような書き方であるが、後世大田南畝の『改元紀行』(享和元年)にも「御油より
赤坂までは十六町にして一宿のごとし。宿に遊女多し。同じ宿なれど、御油は鄙しく赤坂はよろし」とある程であっ
た。御油で遊んだ旅人が、目と鼻の先の赤坂で又沈没したところを思わせたとすれば、談林風の特色は更に顕著にな
るであろう。
座五を「赤坂か」とした異形は問題とするに足りない。「か」を詠嘆と取るにしても、「や」の方が自然で、且つ浮
かれた調子も出る。「か」はそれに及ばないのである。「夏の月」を下へ持って来た『夏の月』(一定撰、宝永二年刊)の
句形も、京の去来から報じて来た句形に拠ったものではあるが、去来によくある記憶ちがいであろう。こう形が整っ
ては、比擬の意ばかりが出て、談林独得の闊達な調子は失われてしまう。なお因みに、鳥酔七回忌集『既七とせ』
(烏明撰、安永四年刊)所収、鳥酔の明和三年に記した文によれば、田中百井子の家珍に「夏の月御油より出て赤坂 や」
とした真蹟があった由である。
S 冨士の風や扇にのせて江戶土產 { 土芳蕉翁全伝)
86
夏季(扇)。
〇冨士の風や 「富」は「富」と同じ。「風」 は、 下の「扇」と縁語になる。 〇扇にのせて rMiti ic " せて」。「扇」は夏の季語。
人に物を贈る時は、開いた扇に載せるのが作法である。「扇夏也。納涼なり。風鉢に嫌と云説は不 Z 用。昔のごとく風によき付合
なり。それも納涼の風ならば同意に成也。扇は夏の季を持によりて風鉢に嫌と近代申せ共、扇は5:"齡をそなへて五明共申せば、風
に同意ならず。風も又常に吹ば夏の物にあらず。可 x 嫌無謂。五徳をそなへたる事を古人知たれ共、夏の景物すくなきによりて夏
の物にしたる斗也」(『御傘』)「吹風や扇をつかふ手だすかり貞盛」(『毛吹草』巻五)「月をのせて引や觀‘の車袅び」(『毛吹草』卷一)
「 V 6 gui . 」 「艺 oxe , I , eta . 」(『日葡辞書』)。 〇江戸土産 「エド、、、ヤゲ」。江戸から携えて来た±産もの。「鳩鳴やまめなばかり
を江戸みやげ」二茶『文政句帖』)。
■ aa 旅の途中吹かれて来た富土の風を扇に載せて、江戸の土産と致しましょう。
■ES ■土芳の『全伝』延宝四年夏の帰郷のことを叙した中に、「高畑氏市隠ニテ哥仙あり」.としてこの発句を掲げ、
竹人の『全伝』も同様である。土芳によれば、郷里に入ったのが六月二十日頃で、暫く京にも赴き、江戸へ去ったの
が七月二日とあるから、六月下旬のうちの一日市隠亭でこの句が成ったことになる。久しぶりに帰って来た遠来の客
として歌仙の発句を賦したのである。市隠は通称治左衛門。伊賀上野の藤堂新七郎良精に仕えたというから、芭蕉と
は古い馴染であったろう。早く退身し、隠閑の生活を楽しんだ。その句は風虎の『桜川』、湖春の『続山井』等に見
える。
句は贈物をする時扇に載せて出すことから、「扇」の縁語の「風」を利用して、 r 冨士の風」を江戸土産にしましょ
うと軽妙に挨拶の意を寓したのである。趣向は基本的に貞門風ながら、「冨士の風や」と初頭を字余りにして興じた
あたりに談林の特色を見ることが出来る。
87 延宝 R か:
65百里來たりほどは雲井の下凉(土芳蕉翁全伝)
夏季(涼)。
-_ i 〇百里来たり 「百里」は江戸から伊賀上野までの距離の概数。伊賀.伊勢•志摩の地誌『三国地志』によれば、江戸•上野
間は百七里二十八丁という。「来たり」で句切れ。「百里きた道は百里帰る。むかしの * ようほど、うきめを見ねばつみきえず」
{ 『夕霧阿波鳴渡』中)。 〇ほどは雲井の下凉 「ほど J (程)は距離、「雲井」は空の意。「井」は宛字で、「雲§5」即ち雲の在る所をい
う。「ほどは雲井」で江戸と伊賀間の距離が空ほども遠く懸け離れていること。「雲井」は更に下へもかかって、「大空の下での涼
み」の意にもなる。「下涼」は既出(62)。「わするなよほどは雲ゐになりぬともそらゆく月のめぐりあふまで」(『伊勢物語』十一
段。『拾遺集』卷八にも見えるが、その詞書中の橘忠幹は伝誦者であって作者ではない)の古歌を踏まえた。 「 pod ? 」 rcumoi .」
(『日葡辞書』)。
ia 百里もの道をやって来ました。空ほども離れた遠い旅路でしたが、今は故郷の空の下でのんびり涼んでおりま
す。
i 土芳〇『全伝』に延宝四年夏の帰郷の際のこととして「山岸氏半残-一歌仙あり」としてこの句を挙げる。竹人
の伝も同じで、同年六月下旬の作と認められよう。山岸半残、名は棟常、通称を重左衛門といい、伊賀支城番頭藤堂
玄蕃家の臣と伝えられる。色蕉の晚年まで郷里に於ける忠実な門人の一人であったが、この人を色蕉の姉の子とする
説は根拠がない。姉が山岸家に嫁したという確証がないからである。
『伊勢物語』の古歌を踏まえている点、若年の際の「春やこし」 ( i と同様な伝統的手法である。「雲井」を上下に
はたらかせて、松などの木の下で涼むことをいう「下凉」の語を「雲井の下凉」と言い做したところが、作者得意の
ヤマらしい。ごちゃごちゃと家の立て込んでいる江戸の街中とちがって、故郷の空の広さをせいせいした思いで仰い
88
でいる気持が快く味わわれる。『伊勢物語』では東下りをした男が途中から都の友達に寄越した歌であったが、ここ
では逆に東から帰って来た男が郷里の故旧の家に迎えられているわけだ。更には『伊勢』の歌に「めぐりあふまで」
とあり、「思出ばおなじ空とは月をみよほどは雲井にめぐりあふまで」 (『新古今集』卷九、後三条院) のような 歌 もあって、
年月を隔ててめぐりあった感慨が託されたように見えるのも、強ち思いなしばかりではあるまい。「百里来たり」の
重さは、おかしみを専らにした趣向を突き抜けて、旅の体験が滲み出ているように感ぜられる。『芭蕉句選拾遺』に
「百里来たるほどは雲井の下凉し」とある異形は、根拠が明らかでないので信じ難い。
66詠るや江戶にはまれな山の月 (土芳蕉翁全伝)
秋季(月)。
H 〇 詠るや 「詠むるや」。つくづくと見遣ることよ。「ながむ」が思いを籠めて物を見る意である上に、詠嘆の切字「や」によ
って更に感情が強調される。「眺 j の字を宛てるべきところを、詩歌を声を長く引いて吟詠することも「ながむ」というので「詠」
を通用させたもの。「おもしろと尻もち月の詠哉」(『毛吹草』卷一) rcaqeinagamcruniacazu . 」(『日葡辞書』)。 〇 江戸にはまれな
江戸では滅多に見ることの出来ないことをいう。「江戸」に「穢土」(煩悩充満した穢れの多いこの世を意味する仏語)を言い掛
けたとする説が多い。そう見なくても意は通ずるが、掛詞がないとこの時期としては句の趣が淡白過ぎるので、やはり言い掛けが
あるのであろう。「まれな」は〇語調。 「 Qitai . i , Yoni marena coto . J (『日葡辞書』)。 〇 山の月 ここでは「山」は山国の伊賀を指
す。盆地の上野で眺める月は山の上に出るのである。芭蕉は後年郷里のことを「伊賀の山中」ということが多い。また、前の 「江
戸」に「穢土 J が掛けてあるとすれば、この r 山」には仏教の世界観でいう世界の中央に聳える^^;^「月」には仏道の 悟境を
示す「真如の月」の連想があろう。
Big 久しぶりに故郷に帰って、ごみごみした江戸では滅多に見られない清らかな山の月を、 つくづくと 眺める こと
89 延宝 W 年
だ。
B + t 方の『全伝』延宝四年の帰郷旅行の条に「桑名氏何某ノ催一 I 応ジ、渡 P 氏ノ方一一会あり」として出し、竹人
の『全伝』にも「桑名氏興行、渡辺何某の宅にて」として見える。桑名何某が主催し渡部某の宅で開かれた俳席に招
かれての吟で、桑名氏渡部氏共に閲歴は明らかでない。「月」は秋季であり、土芳の『全伝』によれば、この時芭蕉
は六月二十日頃上野に着き、七月二日に江戸へ向って立っているので、厳密にいえばこの句は七月一日しか詠出の機
会は考えられぬことになるが、句中の「月」はどうも新月の趣ではない。六月下旬の早い時期に、季節に余りこだわ
らずに作られたものではなかろうか。それは兎も角、句は一見極く素直に山国の故郷の月を賞して、人家が軒を並べ
た江戸市中のせせこましい空の月に比しているようである。しかしそれだけではこの時期の俳諧としては余りに曲が
無さすぎるので、「穢土」「須弥山」「真如の月」といった仏語の連想があると見た方が良い。しかも「詠るや江戸に
はまれな」というあたり、軽くはず.んだ俗謡風の調子があってその辺に談林風の特色を認めるべきであろう。
67けふの今宵寢る時もなき月見哉(続連珠)
秋季(けふの月•月見)。
d 〇 けふの今宵 「今日の今宵」。中秋の名月、十五夜の今日今宵と強調した表現。後述するように、業平の歌の詞を踏まえる。
「もちならば今よひの月やさんごべい貞室」(『玉海集』 fl 一) 「 ooyoi . 」(『日葡辞書』)。〇 寝る時もなき 月影や宴の楽しみに寝る
間もない。「寝る」と砕けた言い方をしたくなるが、まだこの時代は口語でも「ぬる」が普通の言い方であったろう。 rN pnuru ,
eta . 」 (『 U 葡辞* JI )。 〇 月見 「ッキミ」。主として八月十五夜の名月を賞する催しをいう。月に団子や秋草を供え、知人等を集め
て、宴を張るのである。「月見せん三五夜中の新在家備州岡山志貿氏俊安」(『玉海集』卷三) rT ouqimi .」 (『日葡辞書』)。
90
BHEa 中秋の名月の今日今宵こそ、月見のさまざまの楽しみに、寝るひまもないわい。
RH 『伊勢物語』二十九段の歌「花にぁかぬなげきはいつもせしかども小 >?' 、 JAr>' に P か B #' 心^'い」(『新古今集』巻
二に業平の作として 所収)を踏まえた。本歌は花の宴の終るのを惜しんだ挨搂の意であるが、 ここではそれを月見に転じ、
「似る時はなし」を「寝る時もなき」と「かすり」の技法で滑稽化している。延宝四年十一月刊行の『続連珠』 に
「伊賀上 野 松尾 桃青」として載つているので、一応四年中秋以前の成立とするが、趣向は貞門の臭いが強く、 まだ 伊賀に
居た時代の作たる可能性が高い。
歲 暮
S (六百番誹諧発句合) 江戸広小路
「(年の暮に)成りにけり」という感慨を、謡曲の詞の繰返しを摸
謡曲の終末部に「成りにけり」を繰返す例はなく、中途で繰返す
のも「小塩」の「都辺はなべて錦となりにけり」という一例のみで、意外に少い。二つの「成にけり」を区別して「最初の「なり
にけり」は、年も終わりに「なりにけり」であり、次の「なりにけり」 は、 ょく世にいわれる終わりになりにけりという言葉を引
用したのである」(岩田九郎博士『諸注評釈芭蕉俳句大成』)と見る要はなかろう。謡曲調で繰返すところに興を求めているに咼ぎない
と思う。「まで」は、「文末に置いて確認•強調の意を表し、終助詞的に用いる近世の口語」(今栄蔵氏『芭蕉句集』)。「ほんにどこで
やらおとしてのけた。たれぞひろたかしらん迄」(『心中大の網島』中) 「 zari , u , atta . 」(『日葡辞書』)。〇年の暮「街の@^」。年の終り、
歳暮。「年くれてといふに、春ちかき、春の隣、同意也」「老の暮•年の暮、夕時分に二句な り」 (『御傘』)「もちつきの鏡もてらせ
年の暮光有」(『毛吹草』卷六 ) 「Toxino cure . 」(『日葡辞書』)。
6 S 成に けり 成に けりまで 年の
冬季(年の暮)。
〇成にけリ成にけりまで 「甿 りにけり成りにけりまで」。
してこぅ表現した。但し、『謡曲二百五十番集索引』を見ると、
BMi 今年も押しつまって、とうとう年の暮に「成りにけり成りにけり」というところだ。
H この句、『六百番誹諧発句合』の五百八十六番に、松村吟松の「厄どしや借銭そへてにしのうみ」(左)と番えら
れ、「左は、厄難もおひ物もさらりとはらへる心をふくめ、右は、年の終りになるこころを、成にけりなりにけりま
でといひなせる、ともに感情の所ながら、句は詞づかひ一入なるべき物なるに、右の重詞新しく珍重也。可為勝」と
季吟が判して、桃青の勝になっている。ここにもあるように、この句の興はかかって謡曲もじりの「重詞」にあるの
であって、其処に宗因の「年たけてなりけり^^春に又」という句に似た、口拍子に乗った談林調が看取されよう。
この見地からすれば、この句に寂びの萌芽を見ようとするような説は、所詮近代の鑑賞者の恣意に過ぎないことにな
る。成立時期は、季吟判詞の奥書が「延宝五年閏士一月五日」なので延宝五年ではあり得ず、四年またはそれ以前の
年末の作と見られる。
2
9
延宝五年
門 松
明門彥やおもへば一夜三十年 ニ ハ百番誹諧発句合)
春季(門袠)。
〇門套「ヵドマツ」。正月に家々の門口の両側に立てる松。「袠」は「松」の異体字である。「あら玉の年立帰る心をつらね
ば。たて松はにほんによせて君をことぶき。かざるほながは国のとみくさになぞへて。3.を抓る」(『山之井』)「門袠たて松俳
かざり松同かざり竹同/晴明莆簋内伝に、胡旦将来が塚のしるしをなぞふとあれ ど、 世諺問答に、松は千年をちぎり、竹は万世を
契物なれば、年始の祝ひに用るよし一条禅閤の御説、仰ぎ侍べき也」(『増山井』)「門—松献 JI /IV 新—も之賀—儀各>も:划-±,之^ 1-0
或有ニー-家之侧。其式-様不こ。惟家-内之葦|索并門-前之松_竹者夏-夷1同>,。倭-俗正-月門-前左-ん各>,,松7株竹一也
上横,一竹両-竿—〇其-外面挿,& I 布果-実等物—〇名称 H 門—松?蓋孟-春之月祀 x 戸之乎」(『日次紀事』)「門套や况獻歡がはしが i り
重供」(『毛吹草』巻五) 「 cadomat - ou . J (『日葡辞書』)。〇一夜三十年「ィチヤサンジフネン」。「一夜」は、大晦日から元日へかナて
の一夜をいう。一夜の隔たりの大きさを自らの年齢にかけて強調したのであろう。「一夜の隔千里に同じ」(『おくのほそ道』)
「 Ichiya . J (『日葡辞書』)。
Baja 元日になって家々の門松が新年をことほぐようだ。静かでのどかな新年を迎えて、大晦日までのあわただしさ
93 延宝 / l 午-
忙しさは噓のよう、まことに「一夜三十年」の思いがする。
ms ■『六百番誹諧発句合』に二十六番で左の矢吹路幽の句「万歳のこ袅のうちにやきみが春」と番えられ、「左の内
にや、右の一夜、同じさまにうれたきこ V ろばへは持とす」と評されている。「うれたき」は感慨の意か。元朝の静
かさを前日までのあわただしさに対比したという解釈が多いが、それだけではこの時期の作として何処に俳諧がある
のかよく分らない。ひとり今栄蔵氏は『色蕉句集』に於いて、『太平記』等に見える一夜松の故事を引いておられる。
これは天暦九年三月十二日、京北野の右近の馬場に一夜にして松千本が生ずべしという天神の託宣があり、果してそ
の通りになったという奇瑞譚であるが、これによって「一夜」を松の縁語として出し、「一夜千本」を「一夜三十」
と転じて意外感を誘った談林的滑稽技巧と見るのである。更に n 一一十年」は、急に年がふえたことを感ずる年齢であ
るとし、『類船集』弥増の条に「人の齢も三十年斗になるを待つくるやうにして、よそぢの初の老になるをおどろき」
とあるのを引いている。これは恐らく正鵠を得た見方であって、こう見てはじめて延宝期の作として納得出来よう。
今氏は成立年次についても、色蕉自身の年を正確に詠んだとすれば延宝元年の作かとされたが、数えの三十一になっ
た翌二年正月の作とも考えられる。さきに引いた『六百番発句合』の任口判詞は、「延宝丁 E 霜月」に書かれているか
ら、この発句は延宝五年正月を降ることはないが、延宝初頭では芭蕉自身の談林風から影響を受ける過程からして、
少し早過ぎるようでもある。三年以降ならば、句中の「三十年」は概数をいったことになろう。
霞
s 大比叙やしの字を引て一かすみ (1 ハ百番緋譜発句合)江戸広小路
大比截やしを引捨し一霞(彼-」れ集) |泊船集.焦翁句集草稿
94
春季(一かすみ)。
1 〇大比叡「オホビエ」。比叡山の美称。『毛吹草』卷六に見える「手うへありや小びえ大びえふじの雪」 i 正)「大比叡も是
はゆるすや雪女」(昌意)の濁点の表記例によって「ヒ」は濁るべきであろう。謡曲でも「隠れはあらじ大比數の杉のしるしはなけ
れども、横川の水のすむ方を比截坂と尋ね給ふべし」(「浮舟」)等、「ヒ」を濁って発音している。〇 しの字を引て I かすみ 「しの
字を引いて一霞」。山にかかる一筋の霞を平仮名の「し」の字に見立てた。昔の「し」の書き方は、真直ぐ縦に引いて終りを跳ね
ない形が多い。一休禅師が叙山の法師達に何か読みやすい大きな字を書いて呉れと頼まれ、麓の坂本まで長々と紙を継がせて、七
八尺の大筆を持って一散に IE け下り、「し j の字を書いたという話が『一休咄』巻二の第九話に伝えられており、これを踏まえた
趣向である。「あかしがたおき行舟もかつきえてひとかすみなる波の上かな」(『夫木集』卷二、為家) 「 Fitocsumi .」 (『日葡辞書』)。
ia 大比截のお山に、しの字を横に引いた形に一筋霞がかかっているわい。
■ESI 比叡山にかかる霞を、一休のこの山での挿話にかけて「しの字を引て」と見立てた俳諧で、縦に引く答の
「し」を横に寝かせて霞たなびくさまにした処に、談林風らしい機智が見える。もともとこうした趣向は貞門時代か
らあって、
典谷
横にひく霞や天下一文字 安明1山集』卷一)
山眉はた ゞ 一はきかうす霞 政之(『毛 吹草』卷五)
といった例を挙げることが出来るが、貞門期の単純な見立に比して、一休の話を引合に出したこの句の思いつきは格
段に奇抜である。その上、「大比殽や」と先ず打ち出し、以下のびやかな調子にのせて春の大景を描き出したところ
は、作者の意図とは又別に、時代を超えた面白さを感じさせると言いたい。『六百番発句合』では五十四番に青木春
澄の「水掛祝/きのふこそ寒ごりみしか水あみせ」という句と番えられ、任口の判詞に「右のしの字、文字は直して
心横へ引たるにや。愚なる者悟りがたし。人皆発明せずば黒闇地獄に堕在 A / A /。 寒垢離こそ清からめ」とあって、桃
青の負けになっている。任口は縦と横のちがいには気づいていたが、一休の話に基づく趣向の根本が分らなかったら
95 延宝五年
しぃ。
成立時期は『六百番発句合』初出なので延宝五年春を降ることはあり得ず、同六年秋の『江戸広小路』にも収めら
れた。中七を「しを引捨し」とした異形が現われたのは後年のことで、『泊船集』にこの形で収められた為に、江戸
時代の注釈等は後出の形を採るものが多い。しかし、『彼これ集』(逸滴撰' 元禄六年刊)は芭蕉生前に成ったものながら
他門の集であり、元禄十一年の風国の『泊船集』も「此句は翁の吟なるよしある人にき、ぬ。実否はしらずしるし
ぬ」と注するようなあやふやなものである。信憑性は延宝期の集の句形よりも遥かに劣るであろう。土芳の『蕉翁句
集草稿』は「大比枝やしを引捨し一霞」の句形を採り、「此句翁の吟と云人有、実否をしらずと白船に書り。仍而引
句とす」と『泊船集』に拠ったことを明示している。
猫妻戀
«猫の妻へつゐの崩よりかよひけり(六百番誹諧発句合)江戸広小路•焦尾琴•みっのかほ
春季(猫の妻)。
H 〇猫妻恋「猫の妻恋」。「猫遊牝……此者陰獸也。然ば陽気に又犯されて交合を好む。是を猫の妻乞と云。又、さかる、つる
むなど、皆春也。遊牝の字を、さかりつるむとよめり」(『滑稽雑談』00猫の妻春の季語。これは牡猫の趣だから「妻」は「*?」
の意の宛字と見られる。「妻」の方が面白いという見方もあり、確かに牝も発情期にはうろついて落着かないようであるが、「かよ
ふ」のはやはり牡であろう。猫の恋は和歌•連歌に採り上げられること甚だ稀で、俳諧に到ってはじめて素材化され、季語ともな
ったものである。「両方に髭がある也猫の妻」(来山『いまみや艸』)。〇 へつゐの崩 「へつひの3 i れ J 。 「へつひ」は所謂「へっつい」
で、竈のこと。土で築いた竈の崩れた隙間等から通うわけである。 r ゐ」は「ひ」の仮名ちがい。「めぐれやまはれゐどぐる ま、 か
まどにぎはふへついどの」(『出世景清』第一) 「 Fetoui . 」 「 cuzzure.J (『日葡辞書』)。〇 かよひけり 「通ひけり」。 「 cayor -6,6 ta . 」
96
(『日葡辞書 fc 。
1 a 昔物語の男は築地(土塀)の崩れから通ったというが、妻恋する牡猫はへっついの崩れから通って来るよ。
— 『伊勢物語』五段、
むかし、をとこ有けり。ひんがしの五条わたりにいとし〇びていきけり。みそかなる所なれば、かどよりもえい
らで、わらはベのふみあけたるついひぢのくづれよりかよひけり。
とある一節を踏まえており、この事は『六百番発句合』八十二番の任口判詞に「右のへついの崩より通らば在原のの
らにや、よ ひく ごとに うち もね う^-とこ そ啼らめ」 と、 はやくも指摘されている。王朝の優雅な貴公子が築地の
崩れから通ったことを翻して、「猫の妻」が「へつゐの崩より」通うとしたところ、奇抜をねらう談林風の面目躍如
たるものがあろう。『発句合』でも左の長坂守常の句「妻恋やねじみをあげて猫の皮」と番えられ、「いづれも おとら
ぬ唐猫なれども、妻恋の物語につきて右を勝とす」と判定されている。以下、「先しるや」 ( S まで『六百番発句合』
初出の春の句の成立は、延宝五年春を降らない。
上 巳
72龍宮もけふの鹽路や土用干 (1 ハ百番誹諧発句合)
春季(けふの塩路)。
1 〇 上巳 「ジャゥシ」。「ジャゥミ」と重箱読みにすることもあるが、前者に従う。古く中国で三月の初めの巳の日に禊ぎをし
て不祥を払う行事があり、やがて三月三日に固定するようになるが、この習慣が我が国にも輸入されて朝廷や貴族の間に行われた。
三月三日に川辺に出て曲水の宴を張り、祓えを催したのである。民間では婦女子の祝い日となって、草餅•白酒等を供する雛祭が
97 ^ \i H .'\ :
行われるに至った。「巳の日のはらへ上巳三月上の巳日、水辺にてはらへして疾病をのぞくわざとかや。是周の代にはじまれ
りしを、 魏 ょり後只三月三日を用て巳:!!を不用云 AZ 事文」(『増山井』)。 〇龍宮 「リュウグウ」。龍王の住む海底の宮殿。「知ろしめ
さぬはおん理、これは龍宮わだづみの宮」(謡曲「玉井」) 「穴 iagpj (『日葡辞書』)。 〇けふの塩路や 「けふ」は「今日」で、いうま
でもなく三月三日を指す。「塩路」は「潮路」の宛字で、海流の動く道筋をいうのが原意である。上巳の節供には年中最大の干潮
となるといわれ、ここではそれを指しているのであるが、「塩路」という季語はないので、この点問題が残る。題に過ぎない「上
巳」を季語とするのは適当でなく、「塩路」を「潮干」に準じて用いたと見る外あるまい。「や」は疑問。「塩路(に)や土用干
(するならんごの意である。「しほぢにまがふなみの浮ふね水こほる河のおもてに雪みちて救済」(『寃玖波集』卷六) rxiuogi .
Vmino michi . J (『日葡辞書』)。〇 土用干 「ドョウボシ」。夏の土用(立秋前二週間ほどの間)中、衣類•書物.幅物•調度類を取
り出し、日に曝し風を入れて虫や黴の害を防ぐことをいう。夏の季題であるが、ここは趣向として引合に出したまでだから季語に
はならない。「夏草の袂や野辺に土用干宗尭」(『毛吹草』卷五) 「 Doyo >.」 (『日葡辞書』)。
■ as 上巳の節供の日の大きな潮干には、龍宮でも土用干をしていることだろうか。
■ ai 龍宮で土用干をしていると一応解したが、潮干のために海底の龍宮城まで姿を現わしたとして、それを「龍宮
の土用干」に見立てて興じたとした方が、奇抜な談林風として面白い。ただ、この表現で其処まで言えるかどうかは、
なお問題があり、『六百番発句合』百十番判詞でも左の「出替の水しは井筒の女かな」という由平の句と番えて、「左
右同じ程か。勝負までもな し」 と評し去っている程だから、其処まで読んではいないようである。
n 先しるや義竹が竹にはなの雪ニハ百番誹諧発句合)江戸広小路
春季(はなの雪)。
98
ia 〇先しるや 「先づ知る や」。 時節に先んじて知ることよ。「しる j のは「我」とも取れるが、「はな」が知るとした方が面白
い。 「 MazzuL 「 xiri , ru , xitta . 」 (『日葡辞書』)。〇義竹が竹 「義竹」は、『江戸 広小路』 に「宜竹」とあり、後者の方が正しい。
一節切を吹奏する名人で、それを製する良工でもあったという。柳亭種彦の『足薪翁記』には、宜竹を延宝頃の人と見ているが、
潁原退蔵博士はもっと早い頃の人であろうとしておられる(『芭蕉俳句新講』及後出の『町人受領記』の記事参照)。「傾」は、一
節切のこと。尺八の一種であるが普通のものより短く、一尺一寸前後で、節は一つだけなのでこの名がある。「尺八•一節切は天
竺にては 仏 在世、日本にては神代よりはじまりきたつて、宗佐老人•実相坊教院.安田•大森宗勲•是斎•宜竹•洞中節•一音な
どいへる名人出来せり」(『正月揃』卷三)「笛尺八、所//造 VN 。 其内宜竹所 Z 作為 x 妙」(『雍州府志』卷七)「宜竹、笛の元祖といへり。
一代に三拾管作る。寒竹なり。但し、うらのせみに法橋と印あり。せみといふは、裏の木の所なり」(『万宝全書』)「承応四年四月
七日、笛師宜竹叙法橋。職事昭房」(『町人受領記』)「一節切の尺八切りやうの事、節を一つこめ、長さ一尺八分に切る 故、 ±名を
付くといふ」(『糸竹初心 集』 上)「少しのいとまをたび給へ。たけをならしてきかせん」 (『御曹子 島 渡』)。〇はなの雪 落花を雪にた
とえた 季語。 「花の雪正花 也。 . ふり物に非ず」 (『御傘 J !) 「まことよりますうそなれや花の雪昌意」(『毛吹草』卷五)。
Mil 名手宜竹の吹く一節切の音に感じて、花が雪と散りかかる。時節に先んじて、先ず花が妙なる音色を知ること
だ。
11当時尺八や三味線にのせて唱われた唱歌の代表的なものに「吉野の山」というのがあって、「吉野の山を雪か
と見れば、雪ではあらで、ャ、コレノ、花の吹雪よの」と唱ったという(『糸竹初心集』等参照)。楽器の佳い音が梁
の塵を散らすということは昔からいわれる所であるが、それを尺八の歌詞の 「 吉野の山」を利用して「はなの雪」 に
転じたのが、この句の俳諧の眼目であろう。『六百番発句合』百三十八番の任口判詞に、「義竹が竹に花の雪とは、一
よ切にも花ちりたりと吹曲の候や覽」と注意している通りである。宜竹の竹の妙音によって、まだ散る時期でもない
落花の趣を知ることが出来るとするのも一解ではあるが、それよりも今栄蔵氏の説のように「花の擬人表現で宜竹の
一節切の妙音を讚えた」(『芭蕉句集』)と見た方が、談林風の時代に適うと思う。それに、「はなの 雪」 は 「言葉が比兪
99 延宝五年
である上に、ここでは虚なる風景なのだから、いっそう華麗」(山本健吉氏『芭蕉 全発句』) なのである。
時 鳥
W またぬのに菜賣に來たか時鳥(六百番誹諧発句合)
夏季(時鳥)。
〇またぬのに 「待たぬ のに」。 口語調。 〇菜売に来たか「菜 売りに於たか」。「菜」は、九月頃種を蒔いて冬から春にかけて
収穫する所謂「冬菜」の類ではなく、ほととぎすの頃に売りに来るものである。また、「菜売り」と熟した語ではなく、「菜^' 売り
に」という言い方であること も 自明 〇 r 来たか」も口語調で、「か」は濁る説もあるけれ ども、 上の「またぬ o ' 卜」が既に逆接 だか
ら 、又 逆接になるのは面白くない。「か」ではっ きり 切れた方が句の姿としてもまさる O 「 Nallotol.J 「 vri , u, utta.J (『日葡
辞書』)。 〇時鳥 「ホト、ギス」。
待ってもいないのに、うるさい声をあげて菜を売りに来たとは。肝腎のほととぎすは一向鳴かない。
■■ほととぎすの初声をきこうとする思いは古典詩歌の伝統的題材で、芭蕉にも「しばしまもまつや」5)のょう
な句が既にあった。当面の句は、「有明の月はまたぬに出ぬれどなほ山ふかき郭公かな」 (『新古今集』巻 三、 親宗) のもじ
りであることが指摘されており (今栄蔵氏『色蕉句集』)、 その外にも「ほと\ぎすあかつきかけてなくこ表を^'かぬゥざ
めの人やきくらむ」(『詞花集』卷二、伊家)等の先蹤作が作者の頭にあったことは確かであろう。この句を収めた『六百
番発句合』百六十六番の季吟判詞に、「菜うりにきたかといへる、郭公の折にもあらず、すべて心得がたし」 と ある
のは、「菜」を「冬菜」と限定した為に、夏のほととぎすと季節が合わないと思ったのである。しかし、 「菜」 を 冬菜
に限らなければ、分らない句ではない。「時鳥はいまだ鳴かず」ということを「時鳥」とだけいっているのであって、
100
その点後年の「ほと k ぎす正—月は梅の花咲り」(『虚 S ) と似ている。短詩形の制約上止むを得ない面もあるが、こぅ
した句は、やはり句作りが不束かで趣旨が一見分りにくい難点は、非難を免れぬ所である。「烏賊売の声まぎらはし
杜宇」(『韻塞』)「さしこもる潷の友かふゆなぅり」(『雪まるげ』)等、蕉風の時代に入ってからの作も、参考として挙げて
おきたい。以下「梢より」(忍)の句まで、『六百番誹諧発句合』初出の夏の句は、延宝五年夏までには成っていたも
のである。
端 午
W あすは粽難波の枯葉夢なれやニハ百番誹諧発句合)
夏季(粽)。
H 〇 端午 「タンゴ」。「端」は、初め、「午」は「五」に通ずる。五月五日の男子の節供の称。「端午の節端五ともいへり。端
五とは、はじめの五日といふ心也。五月は午の月也。よりて端午ともいへり。是もはじめの午といふ心也」(『増山井』)。「五月一ーハ
……五日端午ノ祭、薬玉御節供•競馬•日吉祭•最勝講ヲ被行」(『太平記』卷二十四) 「 Tango , i , Goguat itguca . 」(『日葡辞書』)。
〇 あす 「明日」。「木の本に汁も膾も桜哉ばせを明日来る人はくやしがる春風麦」(風麦•芭蕉両筆懐紙) 「> gc . Me 6 nichi . 」
(『日葡辞書』)。〇粽「チマキ」。糯米•粳•米の粉等を練り蒸して餅にし、笹•茅などの葉で包み、藁や菅でしばって蒸し上げた
もの。古代の中国で端午の節供に孤の葉で懦米を包んで煮た習俗が我が国に伝わったのである。「ちまきこもぢまき芦ぢまきさ
、ぢまきあめぢまきかざりぢまきかさなりぢまき角黍角粽錐粽菱粽秤鎚粽九子粽\古问辛氏の亜心子五月五日に海に沉める其
灵、水神と成て人をなやませり。或人五色の糸にて粽をして海に入しかば、五色の龍と成ける。後水神人をなやまさずともいひ、
又楚の屈原が汨羅に沉みしを、祭るわざにおこれりともいふよし世諺問答にあり。伊勢物がたり•拾遺和哥集などには、かざりち
まきといへり。天福本にはかさなり粽とかけり。もろこしには角黍•九子粽などのさま有由事文類聚-一見ゆ」(『増山井』)「草
101 延宝1〔'十
づとに国もかたぶく粽哉常久」(『毛吹草』卷五)「01〖ョ3-5..」(『日葡辞書』00難波「ナー1ハ」。今の大阪市あたりの古称。「しげ
きわが恋人やしからんつの国の難波の芦の目を見だし」(『毛吹草』卷七)。〇 枯葉 「ヵレバ」。ここは芦の枯葉をいう。殊更「芦」
を隠した所謂「抜け風」であることは後述。発音は『日葡辞書』に 「careba. i, Careta fa. J とあるのに従う。 ◦夢なれや 夢で
あることよ。「なれや」は、詠嘆の語法。
1今日端午の節供にもてはやされる粽を包んだ芦の葉も、明日は用が無くなって枯葉同然。歌にある通り「難波
の枯葉」の夢じゃわい。
■ E ■『六百番発句合』百九十四番の季吟判詞に、「西上人のなにはの春を俤にして、あすのかれはを想ひ像たるも、
え思ひよるまじき句鉢ながら」とあるように、西行の歌「津の国の難波の春は夢なれやあしの枯葉に風渡るなり」
(『新古今 集』 卷 六)を踏まえている。本歌が荒涼とした 冬 景色から春景色を回想した趣なのに対して、句の方は明日の枯
葉の姿を思い遣っており、表現も殊更「芦」を抜いて読者の想像に任せた「抜け風」である。この技巧は談林期に特
に流行したものであった。 r 粽」はもとより昔から上流社会にも行われたが、ここでは民間に普及した習俗としての
それで、芦の葉で巻いた「芦茅巻」というものもあったから、この場合殊に恰好なのである。ただ、近時の解釈にも、
「これは夏の青芦原を眼前にして、かつての「芦の枯葉」の冬景色を思いやっているのである。明日の枯葉を思いや
っているのではない」(山本氏『芭蕉全 発句』) という異説が見える。これは「あすは粽」で切って解した為に出て来た考
え方であろうが、芦の枯葉の冬景色を思い遣るのは、和歌的な情趣はあっても俳意に乏しい。芦の枯葉が粽を食べた
残り屑であってこそ、俳諧的戯笑の世界といえるのではあるまいか。「あすは粽」で切って読みたくなる句作りは、
やはり問題で、「棕」と「枯葉」を逆にして、「あすは枯葉難波の粽夢なれや」とすれば、誤解は生じなかったかも知
れない。何れにせよ、他愛ない笑いを催すだけの句に過ぎないにしても。
76
102
五月雨
五月雨や龍燈あぐる番太郞(六百番緋諧発句合) 江戸新道
夏季(五月雨)。
11〇龍燈あぐる 「龍燈」は、深夜海上に点々と現われる光を、龍神が神仏にささげる燈火と観じた語。科学的には一種の蜃気
楼現象で、漁火の光の異常屈折といわれ、肥後の海の不知火伝説もこの類である。「龍燈」が秋の季語とされるのは江戸末期頃か
らとおぼしく、比較的新しい。この句では勿論「五月雨」が季語である。『江戸新道』(言水撰、延宝六年刊)は r 龍燈揚る」と表記
している。「龍燈は浪を凌ぎ来て海上に浮かんで焰//たり」(『三国伝記』卷六ノ三)。 〇番太郎 「バンタ ラゥ」。 江戸の各町に雇われ
て木戸の番や夜警に当った者をいう。略称「香太」。木戸の傍の番小屋に住み、昼は内職として草鞋 • 骨薬•駄菓子等を売ってい
た。延宝頃にはこうした辻番制がまだなかったという説もあるが、潁原退蔵博士は『芭蕉俳句新講』に於いて、「江戸に始めて辻
番所が設けられたのは寛永六年の事で、……寛文延宝頃の俳諧には、すでに自身番や番太郎の句は相当散見する」と述べておられ
る。「いかひ音してとふもうるさし忍び来る人のさはりや番太良柴山久右衛門興社」(『朦筑波』巻四)。
■■■81 降り続く五月雨に、街はまるで海のょうだ。番太郎が番小屋に燈を入れて龍燈を揚げている。
— この句は『六百番発句合』二百二十二番に千春の「山山をかきて出たり祇園会」の句と番えられ、季吟の判詞
に「右、五月雨の海をなしたる風情、俳諧鉢にょくいへり」と評されて勝ちとなっている。「五月雨の海をなしたる
風情」というのは、解釈の眼目でもあって、即ち五月雨の降る江戸の街を海に見立て、番小屋の燈を「龍燈」に見立
てた談林得意の趣向なのである。五月雨の降り埋む街を海に見立てることは、既に季吟の『山之井』に「さみだれは。
おのへの寺も水に近き楼台となり。みやこの宮室も。海中の龍宮城かとあやしまれ。……雲の®2も IT ? をひたすかと思
ふ心ばへ。はれまもあらずふりつ\*くていなどいひなす」とあって、貞門時代からの事であったが、この句では
「海」を裏にひそめた「抜け風」とし、「龍燈」をあげるのが龍神ではなくて、しがない r 番太郎」であるところが如
103 延宝五年
何にも振るっている。謡曲「九世戸」に「龍神御燈を捧ぐれば」とあるのも影響しているかも知れない。山本健吉氏
は、 「番太郎」について、人よりもその住む小屋を言うと見ておられる(『全発句 JI ) が、龍燈をあげる主体として、や
はり人であった方がまさると思う。『一葉集』に中七を「龍燈あげる」と口語調にした根拠は不明。
蚊 帳
77近江蚊屋汗やさ ゞ 波夜の床 S 百番誹諧発句合)
夏季(蚊屋)。
i 〇蚊帳「カチヤゥ」。夏に夜の蚊を防いで安眠をはかる為に床の上に釣る i ぐカヤ」と訓んでも可いが、 Ki - Kt を St にをき
ては、夏の夜をねずして‘あかし」(『浮世物語』卷ニノ S 「ゆたかなる蚊帳に入給へば、四つの館の玉の^ T 音なして、! IAV 給ふまで」
(『好色五人女』卷ニノ三)等の用例に徴して、この字を用いた場合は「カチャゥ」と訓んだ方がよさそうである。 roach 6 .i,caya.J
(『日葡辞書』)。〇近江蚊屋 r ァフミガヤ」。近江国蒲生郡八幡郷(現滋賀県近江八幡市)を中心とした地方特産の蚊屋。萌黄染.
茜縁で汚れが目立たず廉価であった為、大いに普及した。『西鶴織留』卷ーノ四、「呢於が5;ぼ&女?^見」の章は、近江八幡出身で
京に住み、大坂.江戸に出店を出して繁昌した蚊屋•畳表の問屋扇屋の成功譚を扱っている。〇汗やさ i :' 波汗はさざ波であろう
か、の意。「や」は疑問の助詞と見られる。「さ V 波」は湖国近江の縁で琵琶湖に立つさざ波を思ったのであるが、「さ、なみ」は
琵琶湖西南沿岸の地を指す古名でもあって、「楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船まちかねつ」(『万葉集』卷一、人麻呂)「さ ゞ
浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな」(『千載集』卷一、よみ人しらず、実は平忠度作)等歌にも詠まれている
ので、その連想もあろう。「汗無言抄に夏の部に出せり。新式には是なし。汗は夏にかぎらず、病にも、又恥をかきても、おも
き物をもちても、あつぎをしても、湯茶呑ても、常に人のながす物なり。或説に、汗と斗は雑なり。汗ほすとすれば夏と申されし。
今思へば是もうきたる説なり。惣別病の名は寒暑の外は季をもたず。……是等さへ夏にならざるに、汗斗なんぞ夏にせんや」「さ
ゞ 波や大津の宮など枕詞なりとも水辺なり」(『御傘』)「 Axega taru, axeuo tarasu, nagasu.l, caqu. 」 「sazanami.i.
104
Chijsai nami . J (『日葡辞書』)。〇夜の床「夜の床」。夜の臥処。「夜」に「波」の縁で「寄る」を言い掛けた。「床夜分也。居所
也。鳥獣の床も夜分也」(『御傘』) 「 Toco . J (『日葡辞書』)。
ia 近江蚊屋を釣って夏の夜を過す。夜の床でかく汗は、さしずめさざ波といったところか。
I 『六百番発句合 j では二百五十番に広野元好の「土用干小袖有間や蘭の花」という句と番えられ、季吟の判詞
に「右、あふみ蚊屋といひて汗やさ V* なみといへる、又めづらかに優美なり。よき持とぞ申べき」とある。句はただ
「近江蚊屋」から「さ V 波」「寄る」「夜」と続けたまでで、この時代の作の常として、蚊屋の風にゆらぐさまなどを
生かそうとしているわけではない。見立の句ではあるが、談林的な闊達さは見られず、寧ろ貞門風の微温的なおかし
みに止まっている。
oap
蜱
怒梢よりあだに落けり蟬のから(六百番緋諧発句合)江戸広小路
夏季(蟬)。
i 〇梢「コズ HJ 。 「木末」の義。木の枝先。「風薫る梢の蟬やきやら衣重方」(『毛吹草』巻五) 「 cosye .」 (『日葡辞書』)。〇あ
だに落けリ「徒に落ちけり」。「あだに」は無駄なさま。何の役にも立たずに空しく落ちたことだ、の意。「人をあだにやらふと待
や江戸桜伏み任口」(『野ざらし紀行』初稿色蕉真蹟) 「 ADA . 」 「 vochi , touru , ita . Conomiga votouru . J (『日葡辞書』)。〇蜂のか
ら「蟬の殼」。蟬が幼虫から脱皮して成虫になる時の抜けがら。「蟬……蟪蛄も蟬也。夏也」(『御傘』)「蟬うつせみせみのぬけ
がら俳」「問し時露と充に名を付て千春心なからん世は蟬のから朱絃」(『鶴のあゆみ 』) 「xemiga naqu . J 「 Cara . 」(『日葡辞
書』 )0
003梢から空しく落ちて来たことよ、花ならぬ蟬の抜けがらが。
105 延宝ん年
■一一 ■この句、一見したところでは、蟬の抜けがらが梢から落ちて来たというだけで何の変哲もなく、延宝期の作と
してはおかしみが足りない。以前は「梢ょり落る物、栗柿をはじめ有用ならざるはなし。只この物のみ化なりとは、
夏炉冬扇にひとしきみづからを比興し申されしにや」(杜哉『芭蕉翁発句集蒙引』)とか、寂びに引き付けた解釈があった所
以である。潁原博士の『新講』に至って、「梢から蟬が離れた。飛ぶかと思ひきや空しく地上に落ちた。見ればその
箸だ。蟬の抜殼である」と解し、「談林時代の作であるから、とにかくそれだけのをかしみを含んで居るのだら う」
という見方が示された。その後、加藤楸邨氏の『芭蕉全句』に、「梢ょりあだに散りぬる花なれば」(「桜川」)「梢に鳴
くは蟬の唐衣の袖白妙の」(「社若」)等の謡曲の詞章が指摘され、今栄蔵氏の『句集』に右の「桜川」の一節のもじり
として、それに続く「落ちても水のあはれとは」の「あは」に「淡」をきかせて蟬の「殼」に通わせたという新説が
現われている。「淡」と「殼」の相通はなお考慮の余地があるが、この句が「桜 川」 の一節を踏まえて、落ちたもの
が花ではなく蟬の殼だったという意外性のおかしみをねらった趣向であることは確かであろう。『六百番発句合』二
百七十八番の判詞で季吟は、「蝉の題にからをいはん事、同傍題にや」として、同じ難のある左の「干瓢や夕顔つ、
む上むしろ」(小西似春)の句とは持としている。
立 秋
巧秋來にけり耳をたづねて枕の風 n ハ百番講発句合)江戸広小路
秋來にけり耳をたづねて透間風 g 蕉翁句解参考 )
秋季(秋来にけり)。
1 〇 立秋 「リッシゥ」。秋の初めに当る二十四節気の一。「初秋……立秋といふ題 も。 彼立春の心にて 知ぬべし。 おほくは ai - は
106
してもいひなせり J (『山之井』) r sxxc <. Tatguaqi . 」(『日葡辞書』)。〇秋 来にけり 立秋と同じ意をいう。〇 耳をたづねて枕の風
「枕の風」は' 枕もとに吹く風で、「枕」と「耳」は縁語というのではないが近い縁がある。秋風が寝ている人の耳を尋ねて吹い
て来て音を立てるのである。「歡に耳ありとやなかぬ巷望一」(『毛吹草』巻六) r 寐覚侘しき沢庵の耳菩提もと木 枕ーッ かどあり
て桃青」(『江戸通り町 』) 「Mimiuo vodorocasu . 」 「 Tazzune , uru , eta . J 「 Macufa . J (『日葡辞書』)。
Bama 秋が来たことだ。目にはっきりと見えるのではないが、寝ている枕許に冷いやりとした風が、耳を尋ねて吹い
て来る。
■■「耳をたづねて」といった背景には、「秋立日ょめる/あき、ぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおど
ろかれぬる」(『古今集』卷四、藤原敏行)の歌がある。「めにはさやかに見えねども」「耳をたづねて枕の風」が吹いて来て
秋を告げるという理窟で、結局は「風のおとにぞおどろかれぬる」と同じことながら、殊更理窟を言い立てたところ
に生ずるおかしみを視っているのである。「枕」は寝る時に使うものだから、「おどろく」の別義「目をさます」と関
係があるとも言えょう。こういう理窟のおかしみも談林風の一面であって、「たづねて」と風を擬人化した点も見逃
せない。『六百番発句合』三百六番の維舟判詞は「秋風枕をおどろかす鉢、耳を尋る詞づかひおかし」と的確に内容
を把握して、左の句「後世事や人間第一の水せがき」(塩川如白)に勝ちとしている。後世の『句解参考』に下五を
「透間風」とした異形を掲げ、「此句沓の五文字、枕の風と出す集あり。透間風は再案なり」と述べるが、 根拠を 全く
示していないので問題にならない。この句以下「枝もろし」 ( S 2) の句まで、『六百番発句合』初出の秋の句は、延宝
五年秋までに成ったものと見られる。
107 延屯ん年
荻
§ 唐きびや軒端の荻のとりちがへ H ハ百番誹諧発句合)江戸広小路•讓
秋季(荻)。
1〇唐きび「唐柜」。ィネ科の一年草もろこしのこと。『物類称呼』三に「蜀黍たうきび東国にて、もろこしと云。中国に
て、きみ。伊予にて、たかきび。畿内にて、たうきびと云」とある。『和漢三才図会』卷百三に「蜀黍……茎高丈—許、状似」蘆荻
而内実。……按蜀黍古—者無 VN 、 始見-一于食-物本-草 — 〇……後自こ中華一渡/種。乃黍之属也。仍称こ唐—黍 r と あり、玉蜀黍(今い
う「とうもろこし」)とは別に説いている。「もろこし」は飢饉に備えて北国に 多く 植えられたものである。『日葡辞書』は
「 T 6 qibi . J を「とうもろこし」のこととしているようであるが、この句の「唐きび」は『三才図 AW 』 に芦や荻に似るとある「も
ろこし」とすべきであろう。「蜀黍の穂は土用に出ねばよからぬと農人のいひならはせり」(『類船集』土用の条)。〇 軒端の荻のとリ
ちがへ 「軒端の荻」は、家の軒近くに生えている荻 (/; 参照)。裏に『源氏物語』空蝉の巻に出る空蟬の義理の娘軒端の荻を掛け
る。その巻で源氏は空蟬の閨に忍ぶが、空蟬は衣を捨てて逃れ、源氏は空蝉と思って軒端の荻と契ることになる。この句の表は唐
柜を荻と取りちがえたのであるが、裏には物語の人ちがいを籠めているのである。「軒端の荻の秋更けて、風の便のつて聞けば」
(謡曲「松山鏡」)「こよひ首尾した女は、下女の勝目にてぞあらん。あはて\した k かなるとりちが袅」(『新色五卷書』卷ニノー)
「 Moqiba ;「 Torichigaye , ru , eta .」 (『日葡辞書』)。
ai 軒端の荻のそよぐ音かと思ってよくよく見れば、唐柜が風にそよいでいるのだった。物語の「軒端の荻のとり
ちがへ」ではないが。
B 『六番発句合』三百三十四番の維舟判詞に「唐きび軒端の荻、其陰高き事をよせ合られたり。物語の詞、実
おかし」とあるよう に、風雅な「軒端の荻」 と 形状の よく 似て いるところから 卑俗な「唐きび」を案じ、『源氏』の
女を取り違えた失敗に結び付けた滑稽の趣向である。唐柜 かと 思ったら荻だった と 解する説は、題が「荻」である点
108
を重視したのであろう が、 雅なる軒端の荻が中心では面白味に乏しい。「唐きび」が中心であって こそ 俳諧といえる
のであって、最初に「唐き びや」 と打ち出した表現 も、 荻 かと 思ったら意外にも卑俗な唐柜だった としてこそ 生きる
のではあるまい か。 更に、物語では空蟬の積りで実は人ちがいの軒端の荻と契ってしまったのであるが、句の方は軒
端の荻と思ったら唐柜だった わけで、 こうした ずれ もおかしみの一面であろう。また、 山 本健吉氏は、
……軒端の荻と取りちがえ て、 初秋の風が唐柜の葉に吹いて、声を発しているのがおかしいというのだ。古来
「荻の声」と言って、「さや」とか「そょ」とかいったそのそょぎの音が詠まれている。そのことを踏まえて、唐
柜の声では、そんな優しい、かすかな声でなく、もっと騒々しい、ざわついた声を立てることを言っている。句
の裏にかくしている風の声を聴き取らなければ、何のへんてつもない句だ。だからこれは、やはり r 唐柜」の句
でなく、「荻」の句なのである。(『芭蕉全発句』)
と述べておられる。唐柜の句でなくて荻の句といってしまうと、句の中心にすわる物が紛らわしくなるが、この句に
風の声を聴き取るべきことは鑑賞上の眼目で、そう見れば、風を擬人化した俳諧常套の手法ともなるのである。句の
季語は「荻」であって、「唐きび」は季語ではあるまい。華雀の『色蕉句選』に「軒端の^'」とあるのは杜撰と思わ
れる。
月
a 今霄の月磨出せ人見出雲守(六百番誹諧発句合}
秋季(今霄の月)。
〇 今霄の月 「今霄の^? J 。 陰暦八月十五夜、中秋の名月をいう。「霄」は r 霄」の略体で 、 r 宵」と同じ。「今宵の 月、 今日の
109 延宝五年
月、以上十五夜の月に限りていふことばなり。月けふ、今宵と賞するこ、ろ、句中にあらざればと、のはず」(『俳諧歳事記菜草』)
「もちならば今よひの月やさんごべい 貞 室」 (『玉海集』 卷三0 0磨 出せ「磨ぎ出せ」。「月の鏡」 ( S の語を裏にひそめて、「鏡」
の縁でこの語を用いた。昔の青銅の鏡は、ざくろの実の汁や、梅酢で溶いた水銀を用いて磨き、曇りを去って光沢を出したもので、
それに従事する職人が「鏡磨ぎ」である。蒔絵にも金銀粉を磨き出す技法がある。『六百番発句合』の維舟判詞に、この句の中七
の表現について「七文字も口にたまり候歟」とあるのは、「トギィダセ」と読んだ為かと思われるが、ここは「トギダセ」でよい
であろう。「金銀めなうえださごしゆ、とぎ出しまき袅の長柄のかさ」(『丹波与作待夜のこむろぶし』上)。〇人見出 雲守 「ヒトミィ
プモノヵミ」。鏡磨ぎの名に擬した架空の人名。『人倫訓蒙図彙』鏡師の条に「室町二条上ル丁人見佐渡」、また『今様職人尽』六
十二に「出雲」の名が見え(潁原博士『新講』参照)、「人見石見」という鏡師がいたことも諸注に載せる。また前田金五郎氏は、
『諸職受領調』なる書に、「鏡屋半兵衛此者新町通四条上ル小結棚町、先祖九拾年已前より受領者不仕候得共、代ミ人見出雲と名
乗来候由」とあることを指摘され、天正頃かち元禄にかけて実在した鏡師の名に「守」を添えたものとしておられる。実在の名で
ある点注目されよう。何れにせよ、「人が月を見る/「月が雲を出る」という含意があることは言うまでもない。
ia 今宵の名月に、月が雲に隠れてしまった。人見出雲守よ、月の鏡を雲の中から磨ぎ出して、人に見せてほしい。
■■「月の鏡」の語から発想して「磨出せ」といい'「人見出雲守」という鏡師に呼び掛ける体を案じた趣向で、
「六、七、六」という字余りも弾んだ調子を出して、陽気な談林調の印象が強い。『六百番発句合』では三百六十二番
に浜田春良の句「手向草や花によるべの水せがき」と合わせられ、「月をみがく人見出雲、鏡星に有名を尤ながら、
か、る小家のいとなみ、ほり句めきたり。七文字も口にたまり候歟」として負けになっている。「ほり句」は恐らく
「穿り句」で、余り知られていない細かい事を殊更採り上げて句にしたものをいうのであろう。
no
紅 葉
S 2 枝もろし緋唐紙やぶる秋の風 2ハ百番緋諧発句合)
秋季(秋の風)。
1 M 〇 紅葉 「モミヂ」。秋になって色づく落葉樹の葉。句の内容は、散る紅葉である。「紅葉……すべて万木の色あるを。其物に
つきて。にしきとも何ともいひなして。あながちに紅葉といはざれども落題にはなり侍らず」(『山之井』)「紅葉かつちるは秋也、
ちりそむるは冬也」(『御傘 t 「 Momigi . 」(『日葡辞書』)。〇枝 もろし 「枝脆し」。「もろし」はこの場合、風に揺れて紅葉を散らし
てしまうことをいう。「からのかみはもろくて、あさゆふの御てならしにもいか^とて」(『源氏物語』鈴虫) rYeda . J 「 Moroi .」
(『日葡辞書』)。〇緋 唐紙 やぶる「緋唐紙」は、緋色に染めた唐紙。「唐紙」は、中国南部に産する書画用の紙で、竹と褚の皮を煮
て漉く。奈良時代から写経用紙として輸入された。厚くて柔かいが、右の『源氏』の用例にも見えるように破れやすい。ここでは
樹々の紅葉を緋唐紙に見立て、それを秋の風が破るといいなしたのである。 「 T 6 xi , Tait 6 nocami .」「 Yaburi , ru , utta . 」(『日葡
辞書』)。
■ aa 紅葉をつけた樹の枝は、まことにもろい。秋の風が容赦なく紅葉の緋唐紙を破って行く。
■■紅葉を緋唐紙に見立て、その破れやすい性質から、秋の風がそれを破ると言い立てた。作者の脳裡には「龍田
河紅葉乱れて流るめり渡らば錦中やたえなむ」(『古今集』卷五、よみ人しらず)「春のきる霞の衣ぬきをうすみ山風にこそ
みだるベらなれ」(『古今集』卷一、在原行平)等の古歌があったかも知れない。『六百番発句合』四百四十八番の維舟判詞
には、「枝もろしとは葉の事候や。緋唐紙を破如し。秋風の吹ちらすを申なし、興少し」とあり、確かに「枝もろし」
が聊か分りにくい嫌いがある。見立も微温的で、談林よりは寧ろ貞門風と言うべきであろう。
111 延宝 / L 年
S 3 木をきりて本口みるやけふの月 £ 戸通り町) 江戸広小路
木を伐て本口見ばやけふの月 (e 蕉句選拾遺 >
秋季(けふの月)。
1 a 0 木をきりて 「木を伐り て」。 ここは「本 口」 を言い出す為に付け加えたに過ぎないが、山などから用材を伐り出す場合と
考えてよい。「山賤の家処$にちいさく、西に木を伐音東にひ V き」(『野ざらし紀行 』) re ri, F itta.J (『日葡辞書』)。 〇本口 「モ
トクチ」。丸太材の根元の太い切り口をいう。先の方をいう「末口」の対。「うそ八百の初雁の声もと口で臼に成べきはな薄中村
西国」(『二葉集』)。 ◦みるや 「見るや」。「や」は、切字。〇 けふの月 「今日の月」。八月十五夜、中秋の名月を賞していう。既出
(9) 。「今11:の月 j (53) 参昭 f
■■5 ■一 a 今日のまどかな名月は、木を伐ってその本口を見るようだ。
■■中秋の名月のまどかな形を丸太材の本口に見立てた句で、人の意表に出た譬喩がおかしみの中心になっている。
古注に「木の本口のことに作れる滑稽見つべし。月と切口と相似たるより出づ」(杜哉『蒙引』)というのは良いが、「昼
のごとき晴光今宵は根本たりと云共、木を伐る業をも成べき也と、良夜の名光を感賞せさせ給ひての目前体也」(鷗沙
『過去種』)「海の方に樹木ある家の月見ならん」(『蒙引』)といった解のあるのは、「木をきりて」を実地の所作と誤解し
たもので、良くあるまい。「木をきりて」は、「本口」を言う為に付加された語であって、伐ったばかりのみずみずし
い本口のさまを印象づける表現であるが、一方また右のような誤解をも生む危険を抱懐しているわけである。近代に
なると、談林期という成立年代への考慮が乏しいところから、「月光は青白く明るい。その光の下に木の切口の白い
生々しい感じを想象して見る。中々魅力のある想像である」(『続芭蕉俳句研究』和辻哲郎博士)というような、実景である
112
ことを前提にした鑑賞が現われたが、談林期の句として、こういう見方は近代的過ぎよう。初出の『江戸通り町』
(二葉' f 撰)は延宝六年七月下旬の刊行。従って名月の句は同五年八月までには成っていなければならず、談林最盛期
の作なのである。一見貞門風とも思える譬喩の趣向であるが、木の切り口の新鮮な感覚は、やはり貞門よりは談林の
ものとすべく、その所以は「木をきりて……みるや」という動的な表現によるところが多い。『句選拾遺』の異形
「見ばや」は更に主情的な傾向が加わるので捨て難いけれども、『おくのほそ道』素龍清書本の r 庭掃て出はや寺に散
柳」の句を井筒屋の元禄板本が「出るや」と誤ったのと逆の関係も考えられ、「る」と「は」の書体が誤られやすい
ところから出た異同と思われるので、採ることは出来ないのである。
時 雨
S 行雲や犬の欠尿むらしぐれ c 六百番誹諧発句合}
行雲や犬の迸ぼえむらしぐれ ( 江戸新道 }
冬季(むらしぐれ)。
i 〇行雲 「t 仃く雲 J 。 空を行く雲の意。 〇犬の欠尿 「 S 船」は「1£ 4 け船」で、犬が走りながら、ちょくちょく小便をして行く
さまをいう。「欠」は、「駔け落ち」を「欠落」などと書くのと同じく、当時通用の宛字である。また、所構わず手当り次第に事を
するたとえにもなる。 「 Bari . J (『日葡辞書 J 1)。 〇むらしぐれ 一しきり降っては lh む時 pii ; のさまをいう。「しぐれ」は冬の季語。
(21 参照)。「うすくこきもみぢやいつのむら時雨法眼専順」(『新撰 lg 坎波集』卷二十) 「 Muraxigure .」 (『日葡辞書』)。
HE 1 空を行く雲の動きは速く、ばらばらと時雨が降っては止む。まるで、犬の IE け尿のようだ。
mi ■むら時雨の降っては止むさまを、「犬の欠尿」に譬えた鄙俗な趣向のおかしみで、『六百番発句合』四百七十四
113 延屯/ 1 ブ厂
番の季吟判詞にも「世話にすがりてめづらかにきこゆ。かちとし侍べし」と賞している。これ以下「白炭や」 ( S 7) の
句まで、『六百番発句合』初出の冬の句は、季吟判詞末尾の年記が「延宝五年閏士一月五日」とあるので、同年冬以
前の作ということになる。談林期の所産として、「犬の欠尿」を実景とするような解釈は問題にならない。『山之井』
に「山うばが尿やしぐれの山めぐり」と見え、また、この桃青発句よりは後ながら、西鶴にも「し- X し若子の寝
覚の時雨かな」(延宝七年『両吟 一日 千句』)という発句があって時雨を尿にたとえる趣向はこの句だけでないことが分る。
延宝六年八月上旬に成った 言 水の処女撰集『江戸新道』に見える「犬の迸ぼえ」という句形は、出典の刊年からすれ
ば再案ということになり、勿論その可能性もあるけれども、撰者の手入れ、或いは類似の諺であるところからの誤り
等、別の事情も考えられ、聊か信憑性に欠ける点がある。ここでは本位句として『六百番発句合』の句形を採りたい。
「犬の逃ぼえ」は、臆病な犬が逃げながら吠えることから、論争や口論に負けても減らず口を叩いて逃げて行く譬え
になるのである。ここにはやや当て嵌らない感じも拭い切れない。
霜
S 5 霜を着て風を敷寢の捨子哉(六百番—発句合)
霜をきて風をかたしく捨子哉 <坂東太 S
冬季(霜)。
11 0 霜を着て 捨子の衣の上に霜の置いたさまを「着て」と表現した。「霜冬也。きゆるとしても冬也」(『御傘』)「霜夜はこ
とに空さえて。 Jj の光りもさむけだち。風もみのいりて。ねびえおどろく心ばへ」(『山之井』) rximoL (『日葡辞書』)。〇 風を敷寝
「敷. M 」 は、物を'卜に敷いて寝るさま。俗語であろう。ここは、あたりを吹きめぐる風を、捨子が宛かも敷寝にしているように
114
言いなしたのである。「宝船を敷寝にして、節分大豆をも福は内にと随分うつかひもなく」(『日本永代蔵』巻四ノー)。〇 捨子 「ステ
ゴ」。「悲しやな、知らぬ筑紫の果に来て、父母さへに捨子となる。みづからは誰を頼むべき」(謡曲「藍染川^.「5&6«)0.」(『日葡辞
書』)。
ia この捨て子は、霜に掩われ寒風の吹き荒ぶ中に捨てられている。宛かも霜を衣に着、風を敷寝にしているよう
だ。
■ ■「百人一首」にも収められて有名な「きり す鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねん」(『新占今
集』巻五' 良経)の歌を踏まえ、捨子のあわれなさまを表現した句である。但し、談林全盛期の作とあって、主眼はそ
うした「あはれ」の表現よりも、「霜夜のさむしろ」から「霜を着て」と脱化し、「衣かたしき」を「風を敷寝」とも
じった言葉のあやの面白さにあろう。「あはれ」の表現について作者に何処まで自覚があったかは知る由もないが、
後年野ざらしの旅の途次、富士川のほとりで捨子を見て、「猿を聞人捨子に秋の風いかに」と悲涼の感懐を述べたの
と共通した気持の一端は感ぜられる。『六百番発句合』五百二番の季吟判詞にも「すて子あはれにかなし。かちとす
べし」と評されている所以である。延宝七年末に成った才丸の『坂東太郎』では中七を「衣かたしく」とし、「衣」
を朱で「風を」と改めてあり、潁原博士はこれを後人の訂正でなく、出板当時誤刻を正したものと見ておられる(『新
講』)。年代からすれば『坂東太郎』の句形が後案ということになるが、前後関係はそう簡単には判じ難い。この句の
表現は直ちに良経の「きりぐす」の歌を想起させるところから、「衣かたしく」と和歌の詞をそのまま裁ち入れた
句形は、誤伝の可能性も考えられるわけである。それを「風を」と直したのは『六百番発句合』の句形を知っていた
為の訂正であろう が、 「敷寝」までには及ばずに不完全な訂正に終ったものかも知れない。何れにせよ、 r かたしく」
は典型的な歌語で、「敷寝」の俳諧的なのに及ばないであろう。私は斯く考えて、『六百番発句合』の句形を信じ得る
ものとしたい。「霜置て衣かたしく捨子かな」(『句解参考』)という所伝は、『坂東太郎』の初五を誤ったもので信じ#い0
115 延宝五年
雪
S6 冨士の雪廬生が夢をつかせたり ( S 番誹諧発句合}
冬季(雪)。
H 〇冨士の 雪下に引く 『御 傘』の貞徳の説では雑とされているが、それではこの句に季語がなくなってしまう。『六百番発句
合』では冬の部に収め、且つ「雪」と題しているので、ここでは「雪」で冬季の句としたい。「冨士の雪、連に近年常の雪のごと
く、消を春とし初雪迄を冬とするは、近代の宗匠万葉の哥を知ながら、和哥不,1相伝 I 故に万葉集をあがめず、先達をあなどるあさ
ましき義也。誹には万葉の哥を用て冨士の雪は雑なり。消も初雪も皆夏にするなり。冨士のねにふりつむ雪は六月の望の日きえて
其夜ふるなりと侍る上は、今みな人の目に相違する共、上代の哥を用が此道の本意なり。……世間公事沙汰の批判にさへ古哥を証
跡にせし事多し。まして連誹に万葉の哥を不 X 用事あるべきや。宗祇.宗長時分には、冨士の雪を雑にせられしを、近代赤人の田
子の浦の哥を新古今の冬の部に入たれば、定家降の時万葉の哥をば不 X 被 X 用と推量して、冬にあらため定といへり。是和哥撰
者の心持を不/知故歟。……新古今の部立を信じて、万葉の望の日きえてその夜ふるなりとた V しく読たる哥を虚言にすべき道理
はいさ、かあるべからず。誹には宗祇.宗長の見立を信じて、消と初雪は夏にし、只冨士の雪は雑にするなり。若又此外に分明な
る義理あらばしたがはるべし。愚案の及ぶ ところ かくのごとし」(『御傘』)。 〇廬生が夢 「廬生」は、唐の李泌の著『枕中記』に見
える邯鄲の夢の話の主人公。『枕中記』では「盧生」となっている。この青年が邯鄆市上の宿屋で道士呂翁と出逢い、呂翁の持っ
ていた枕を借りて睡った処、富貴を極めた自分の生涯を夢に見たが、覚めて見ると炊きかけた黍がまだ出来上らない僅かの間の事
に過ぎなかったという。栄枯盛衰のはかなさを譬えた有名な話である。「が」は所有格で、「の」と同じ。 「 r 州の竹特も„の T
時。盧生が夢も a 十年」(『浮世床』二編下 ) 「Yumeuo miru . J (『日葡辞書』) 。◦つかせたり 「築かせたり」。後述するょうに、謡曲
「耶 W 」 の詞を取った表現である。「継がせたり」と解するのは良くない 。 「Touqi qu , ita . Yamauo touqu , 一, touqiaguru . J
(『日葡辞書』)。
116
1 a 富士山の雪を被つた姿は、あの盧生の夢の、銀の山を築かせたというそれに似ている。
1 盧生の夢を扱つた謡曲「邯鄲」の詞章に、「東に三十余丈に白金の山を築かせては、黄金の日輪を出されたり。
西に三十余丈にこがねの山を築かせては、しろかねの月輪を出されたり」とあるのを踏まえて、雪の富土の姿を白金
(銀)の山に譬えた。「白金の山」の語を抜いて「廬生が夢」と「つかせたり」で仄めかしている「抜け風」も、談林
調を強く感じさせる。「富士の初雪」の趣ではなく、冬の雪に覆われた富士山を考えたい。『六百番発句合』五百三十
番の判詞で季吟は「かんたんに銀の山をつかせたる事ある心にや。心たくみに風情面白し。勝とすべし」と賞してい
る。
炭
S 7 白炭や彼うら島が老のはこ M ハ百番緋諧発句合) 江戸通り町.江戸広づ路
冬季(白炭)。
〇炭 「スミ」。冬季媛をとる料とするもの。「炭やき冬 也。 炭と斗も冬 也」 (『御傘 』) 「sumiuo yaqu . 」(『日葡辞書』)。 〇白
炭 「シロズミ」。 躑躅 •椿等の村を石窯で焼き、里〗炭になつたものを再び焼いて赤くなつたのを灰に埋めると、霜のょうな粉を吹
くに至る。之を白炭という。茶の湯の席に珍重され、铸物にも用いられる。「又、枝炭•細炭ともいふ。和泉の横山、河内の光の
滝等から産するものが古来名高い。元来炭の色が白いから 言 ふのであるが、今日では一般に胡粉を塗つて用ひる事は人の知る通り
である」(潁原博士『新講』)「口きりのていたらく。ひらくいろりの火花をめで。しろずみと雪のまがふをあやしみ」(『山之井』)。 〇
彼うら島が老のはこ 「彼の浦島が老いの箱」。「彼」は周知のものを強調したい時に冠する語法。あの龍宮に行つて来た浦島の携
え帰つた玉手箱、それは開けたら直ぐに白髪になつてしまつたものなので「老のは こ」 と言つた。聊か窮した言い方である。「う
ら島が J は所有格。「浦島の子が玉手箱、汝がまゆもや k 老たり」(『野ざらし紀行』)「つえつく老も若やぎにけりあら玉の春にぼ
117 延 ' iZ/ilA
うさき力たふけて」(『毛吹草』卷七) rcano . 」 「 voiniforuru . 」 「 Faco .」 (『日葡辞書』)。
eaa 白炭は、黒い炭を灰に埋めると白くなって出来上る。あの浦島の玉手箱を開けると、忽ち白髪になった ような
ものだ。
11黒い炭が白くなるのを、浦島が白髪になったことに譬えた趣向であるが、この場合見立が壺にはまっていると
は必ずしも言い難い。『六百番発句合』五百五十八番の季吟判詞にも「右、うらしまの子が箱をあけて一時に白頭と
成し事を、白炭になぞらへしにや。聊いひかなへぬに似たる所あれば」として左の黒川行休の句「寒垢離のあびぬる
水や鼻の滝」を勝ちとしている理由も、その辺にあろう。潁原博士の評の如く、正知の「白炭はやきし翁がかしら
哉」(『崑山集』)の句の平凡ながら穏やかな作意に如かず、有名な忠知の句「白炭ややかぬ昔の雪の枝」(『佐夜中山集』)の
方が遥かによく働いている。
卵あら何ともなやきの ふは 過て ふくと 汁 (江戸三吟)
あら何ともなきのふは過てふくと汁(泊船き
冬季(ふくと汁)。
〇あら 何ともなや 「あら何とも無や」。ああ何事もなくて良かったと、ほっとした気持をあらわす。本来は、予想が外れて
失望落胆、或いは困惑自嘲等の気持をあらわす語で、「ああどうしようもない困ったことだ」「何だ、つまらない」「おや何の事だ」
等と訳せば当る。中世の歌謡にも用例はあるが、俳諧の常として、これも謡曲の詞取りであろう。謡曲にもこの表現は頻出するが、
就中「芦刈」には「あら何ともなや候」と「あら何ともなや」が各一回用いられた上、「今とても為す業もなき身の行方、. s'b
過ぎ今日と暮れ、明日又かくこそ荒磯海の」という一節もあるので、この曲の詞を特に意識したものかと思われる。そういうもと
の意味をもじって、文字通り r 何事もなかった」の意に用いたのが俳諧としてのおかしみである。「>3.」 「 zanitomo .」 (『日葡辞
桃青三百韻附両吟二百韻.宇陀法師.蕉翁句集
草稿.誹諧参人張
118
書 t 。 〇きのふは過て「昨日は ii + ぎて」。河豚を食べた昨日は過ぎて、と昨日を取立てて強調した。「きのふはけふのむかし」(『毛
吹草』卷二) 「 suguiuru , ita .」 (『日葡辞書』)。〇ふくと汁「 I :豚汁」。11豚の味噌汁。『桃青三百韻附両吟二百韻』に「河豚汁」、
『毛吹草』卷三にも「"鱈汁」「ふ餱汁」とあって、何れも「ク」を濁っていない。古くは『和名抄』も「布久、布久閉」であり、『日
葡辞書』の 「 Fucu . l , fucuto <」 という表記も清音だったことを証している。この句は「ふくと汁」を冬季に用いた早い頃の例で
ある。「ふくとう汁は、かわをはぎ、わたをすて、かしらにあるかくしぎもをよくとりて、ちけのなきほどよくあらひきりて' ま
づどぷにつけてをく。すみさけも入候。さて下地は中味增より少うすくして、にえたち候てうをを入、一あわにてどぶをさし、塩
かげんすい合せいだし候也。すいくちにんにくなすび」(『料理物語』)「縦死んでも弥陀の本願西吟ふくと汁くふ'^じやく
<腹心西鶴」(『西鶴五百韻』早何)。
1 a ああ何事もなくてほっとした。河豚汁を食べて昨日からびくびくしていたが、無事に一晩過ぎて。
1「河豚は食ひたし命は惜しし」の心理を題材に、謡曲の詞をからませた趣向で、「あら何ともなや」を更に一ひ
ねりして「何事もなかった」という文字通りの意味にしたところにも笑いがある。*村の「ふく汁の我活キて居る寝
覚哉」(『其 雪 影』 等) は恐らく色蒸のこの句を頭に置いての作であろうが、古風の俳諧とはおのずからちがった味わい
が感ぜられるようだ。『桃青三百韻』に r 延宝五之冬」と前書があるように、この年の冬京の伊藤信徳が江戸に下っ
て来て翌年春まで滞在した間に、桃青•信章と三吟三百韻を成したうち、冬の巻の発句である。鷺水の『誹林良材
集』 (元禄十年成) に、「一とせ、きのふも過ぬふくと汁といふ句をまふけ、五文字を置わびて、洛の信徳の東武に筇を
ひかる k を待て、あら何ともなの七字を得られつる」と伝えているのはどういう根拠に基づくのか明らかではないが、
芭蕉歿後間もない頃の書ではあり、鷺水もやはり京住で信徳とも交流のあった人なので、句の成立についての参考ま
でに掲げておく。「あら何ともな」の句形は『泊船集』に初出し、『芭蕉句選』も同様であるが、『泊船集』は芭蕉最
初の作品集ながら杜撰の聞えの高いものだから、『江戸三吟』等の古板本の句形に従うべきであろう。『句選』の中七
「きのふも過て」も信じ難い。
119 延宝ハ:年
S 9 一時雨礫や降て小石川(江戸広小路)
冬季(時雨)。
i 〇 I 時雨「ヒトシグレ」。一しきりさっと降って止む時雨。「時雨 J は既出(2;)。「人のもとにありて、たち出むとしけるに、
またしぐれければ/衣着て又はなしけり一時雨鼠彈 J (『あら野』卷八) 「 Fitoxigure . 」(『日葡辞書』)。 ◦礫や降て 「配」 は 小石。
「や」は、疑問。「降て」は「降りて」ともよめるが、礫の勢いをあらわすには r , つて」と促音便によむ方がまさる。 rlfAiwi 恥
に礫をうつ事狼藉なり」(『本朝二十不孝』卷一) rToubuteuovt 5 U .」 (『日葡辞書』)。〇 小石川 「コィシヵハ」。今の東京都文京区を
流れていた神田川の支流。源を豊島区長崎に発し、巣鴨から小石川村、伝通院の後、柳町を経て水戸藩邸内を通り、仙台橋の下を
流れて神田川に注いでいた。江戸時代初期にこれらの地はまだ郊外で、漸次台地上には武家や寺社の屋敷、低地の街道沿いには町
屋が発達し、やがて水道橋より外、白 III あたりまでの総称ともなった。戦後文京区が成立する以前には小石川区があり、それが本
郷区と合併して文京区となったのである。「小石」は「礫」の縁語。「小石川」を「礫川」と書くこともあり、この句の洒落の眼目
になっている。
8 a 時雨が一しきり降って来た。さては、雨の礫が降って小石川になったのかな。
■■ 雨の滴を礫に見立て、「小石川」の地名に掛けて洒落たまでで、談林風としては然程はたらいていない。延宝
六年秋に成った『江戸広小路』(不卜撰)初出だから、前年冬までには成っていた害である。『芭蕉句選拾遺』には「戸
田権太夫利胤青龍院渓即日節と翁手帳に書付有」と頭注して収めており、これに拠ってか、『芭蕉翁発句集』は 「戸
田権太夫亭にて」と前書している。『句選拾遺』のいう r 翁手帳」なるものが信頼出来るものかどうか、何ともいえ
ないが、^ • 田権太夫は美濃大垣藩の重臣である。『おくのほそ道』の旅の最後に大垣で元禄二年九月四日に色蕉は権
太夫と対面しているが、この人とは初対面であった。 r 翁手帳」が信じ得るものとすれば、それに見える「権太夫」
120
は或いはこの人の父親かも知れない。何れにせよ、小石川の地を訪れて俳席の挨拶句として作られたものであろぅ。
121 延宝六年
延宝六年
90かびたんもつくば〜せけり君が春(江戸通り町)
春季(君が春)。
i 〇 かびたん 長崎出島のオランダ商館長。毎年正月に長崎を立って江戸に出、三月に将軍に謁見する慣わしであった。通商
を許されていることへの御礼と貢物を献上する為である。毎年一回(後には五年に一度)医師や通辞が同行して総勢百人にも及ぶ
行列が長崎から江戸へ往復した。日程は年によって違いはあるものの、大体は一月十五日長崎を発して二月十五日に江戸着、三月
一日と五日の両度にわたって江戸城に伺候したが、その沿道には見物人が蜎集する有様だったといぅ。因みに、定宿は本石町三丁
目長崎屋源右衛門であった。また、「かびたん」は、江戸時代に来航した mla ッパ諸国の交易船の船長を指すこともある。ポル
トガル語 cautao に基づく外来語で、「甲比丹」等の字を宛てる。「び」の濁点は底本のまま。「加毘旦ヵピタン又加必且に作る。阿 Mi 陀の
舶首 J (『書言字考節用集』)。〇つ くば、せけり 「つくばふ」は俗語で、平伏する、平身低頭すること。将軍が「かびたん」を平伏さ
せたといぅのである。「ば」の濁点は底本のまま。「いや汝らがつくばふて居る所は白犬に其ま X じや」(狂言「二人大名 t rTr '
ucubai, 6, 6ta. 」(『日葡辞書』)。 〇君が春 治まる御代をことほぐ初春の季語。従って rglJ は天皇を指すのが原意であるが、こ
こでは徳川将軍の意に転じている。「君人倫也、恋也。依,一句鉢 — 〇大君ならば非,人倫-〇大君とは天子の御事也。もとより恋にも
ならざるなり。大君とする句も君が代とするも、皆帝御事なり。恋にあらずして君とさすは、面 A / の主君をさすなり。是は人倫な
り。……和漢に王の名人倫にあらず。その人倫にならぬ王は帝王斗也。天下をもたれぬ覇王の名は人倫なり。誹にも君と云句をよ
122
く聞分て去嫌べき也」(『御傘』)「君が春蚊屋はもよぎに極りぬ越人」(『去来抄』先飾評) rQimi .」 (『日葡辞書』)。
HE 3 外国の「かびたん」までも平伏させたことだ。将軍様の御威勢は大したもの。今年も太平の初春だ。
■2 ■延宝六年七月刊の『江戸通り町』(二葉子撰)初出なので、同年正月以前の歳旦吟と推定される。新春のめでたさ
をいうのに、「かびたん」の将軍謁見という新奇な材料を取合わせたところが、如何にも談林好みの ハィヵラ ぶりで
ある。芭蕉には案外こうした新し物好きの一面があって、同じ延宝期に付句の方では「みいら」 r ふらすこ」の如き
舶来の新語を使っている。この発句もそうした一例と見るべく、謁見が実際には三月に行われたことで、新年の句と
してはずれがあることも、この場合さして問題ではない。もともと オランダ 商館長の江戸入りを目撃しての作ではな
く、歳旦の句の題材として智巧的に採り上げたまでなのである。この題材のために、「君」が本来の天皇ではなく、
将軍を指すことになったのも、徳川将軍が実質的支配者である時代の反映であった。ユーモ ラスな 表現のうちに、国
威発揚をよろこぶ素朴な民族主義が感ぜられる。
a 庭訓の往來誰が文庫より今朝の春£尸広小路)
春季(今朝の春)。
1 i 〇 庭訓の往来 「庭訓の往来」。中世から近世にかけて世にひろく流布した往復書簡文範。寺子屋で初等教科書として用いら
れ、巻頭には年賀状の文範が収められていた。玄恵法印の作と伝えられるが疑わしく、室町初期、応永年間頃の成立かという。
「庭訓」は、孔子が庭を趨る我が子伯魚を呼びとめて、「詩」と「礼」を学ぶべきことを教えたという『論語』季氏篇に見える話か
ら、子に与える教訓、家庭教育を意味するようになった語である。「十歳の秋、また課をたてられて庭訓往来を習はしめられ」
(『折たく柴の記』上)。〇誰が 文庫より 「誰が文庫より」。「文庫」は、書物や筆.紙等を入れておく手箱。寺子たちが誰でも持って
いた。「たが手にもおるや流のをんなへし弘永」(『毛吹草』巻六)「品下りたる人は日用の事 A / にも用ゆれば、或は文奉の覚書に、
123 延‘ゼ六勺•-
. 定家やふの筆法もいと口おしく」(『鶉衣』四芸賦) 「 Taga . 1, tarega . J 「 Bunco . Fumino Cura . 」(『日葡辞書』)。〇 今朝の春
「今朝の春」。元日の朝のめでたさをいう春の季語。「仏より神ぞたうとき今朝の春京とめ」(『あら野』卷二) 「 Qesa.J (『日葡辞書』)。
1 M めでたい元日の朝、寺子たちが文庫をあけて「庭訓往来」を取り出して手習を始めるが、一体どの子の文庫か
ら新しい年が明けるのかな。
S 「庭訓往来」は手習の手本としても広く用いられていた。この句は寺子が文庫を「開ける」のと新しい年が
「明ける」のとを掛けて、宛かも「庭訓往来」がしまってある子供達の文庫から年が明けるように言い立てた談林的
趣向である。
寺子屋の景でなく、寺子たちの各家でのふるまいと取った方がよい。延宝の句としては、味わいがある。各町家
の子供たちを、鳥瞰的に描き出しながら、長松もよだれくりも含めて、「誰が文庫より」と言って、春到来のめ
でたさを表現したのが、気が利いている。(『色蕉全発句 fc
という山本健吉氏の鑑賞は' 的確で余蘊がない。初出の『江戸広小路』が延宝六年初秋頃の成立なので、同年乃至そ
れ以前の年の正月の句ということになる。『句解参考』等に下五を「明の春」としてあるが、その根拠は不明である。
92 初花に命七十五年ほど£戸通り町)
春季(初花)。
1〇 初花 「ハッハナ」。春に初めて咲く桜の花を賞美していう。「初桜」と同じ。「青葉がくれの遅桜、初花よりもめづらかに」
(謡曲「大原御幸」) 「 Fat « oufas . 」(『日葡辞書』)。 〇命七十五年ほど 「命七十五年程」。命が七十五年ほども延びた感じがするという
のである。「ど」の濁点は底本のまま。
124
lag 初花の珍しさに、命が七十五日どころか、七十五年も延びた思いがする。
■諺に「初物七十五日」といって、季節の初物を食べると命が七十五日延びると言い習わされている。 この 句で
は、それを食べ物ではない初花に転じ、誇大に「七十五年」として、おかしみを出した。花を賞める気持はそれなり
に出ているが、所詮はつまらない思いつきの趣向に過ぎぬ。『通り町』の刊行時期からして、延宝六年春以前の作で
ある。
55大裏雛人形天皇の御宇とかや {江戸広小路} 高名集
春季(雛)。
Eaa 〇大裏雛 「ダィリビナ」。天皇•皇后の御姿に擬した一対の雛人形。男雛は束帯姿、女雛は十二単衣姿で、三月三日上巳の
節供に雛壇に飾られる。延宝の頃にはまだ紙雛が多く、三人官女や五人攤子といったものも整っていなかったが、元禄から享保期
にかけて漸次華美なものが出廻り、禁令が出されることもあったという。「内裏雛」と書くのが正しく、天和二年の『高名集』(風
黒撰)ではそうなってぃる。「雜 SP の S ? に& ■を立て、齡靈がっまり、觀の歡避び」(『本朝一一十不孝』巻三) 「 Dairi .
V 6 vchr - J 「 Finaasobisuru . 」(『日葡辞書』) 〇 〇人形天皇の御宇とかや 「人形天白 1 」は己呢天皇」(第五十四代)のもじり。後
述するように謡曲「杜若」の詞を踏まえており、「人形」は「雛」の縁語である。 「®! f 于」の「宇」は、宇内即ち天下、「御」は、
御す る、 治めるの 意で、「治世」 というに等しい。謡曲の 発音に 従って「ギョオ」とよむ向きがあるが、必ずそうよんだ確証はな
い。 人形天皇が世を治められた御代とでも申すべきであろうか、の 意。 「か」は疑問、「や」は詠嘆の助詞。「にんぎやうにもいし
やう」 (『毛吹草』卷 二) 「 Ningui 6 . Fitonocatachi . 」 (『日葡辞書』)。
HB 3 桃の節供に雛壇に並んだ内裏雛。その優雅で平和な有様は、人形天皇の御治世と でも 申すべき であろう か。
MH 謡曲 「杜 若」の「仁明天皇の御宇かとよ、いともかしこき勅をうけて、大内山の春がすみ、立つや弥生の初6
125 延节六年
つかた」という一節を踏まえ、内裏雛の優雅なたたずまいを描いた。「人形天皇. 一 のもじりが俳諧のおかしみで、「か
とよ」「とか や」の違いは、どちらでも大差はないが、 「とか や」の方が推量の気持が強くなるとは言えよう。「人形
天皇の御宇」は架空の談林的世界ながら、さすがに優雅泰平の気象に溢れている。『広小路』の刊行時期からして延
宝六年春までには成っていた句であろう。『芭蕉句選』に下五が「御宇 かとよ」 とあるのは、恐らく r 杜若」の詞に
引かれた誤りで、信じ難い。
端 午
s あやめ生团り軒の觸のされかうベ(江戸広小路)
菖蒲生けり去年の鰯の躅髏(色焦辑
あやめ生けり軒の觸のしやれ頭 soe か S
夏季(あやめ)。
H 〇 端午 既出( 75 )。〇 あやめ 菖蒲の古称。漢名石菖。サトィモ科の多年生草本。池沼等水辺に自生し、地下に長い根茎が
あって年々ここから葉が叢生する。葉は剣状、はっきりした中肋のある平行脈が通り、初夏の頃葉の間から花軸を出して、淡黄緑
色の細かい花を穂状に開く。端午の節供の前日五月四日にこれを軒に葺く習慣がある。アヤメ科の「あやめ J もあって紛らわしい
が、これとは別種である。「菖蒲水辺なり。軒の菖蒲も、かつらの菖蒲の枕も、簾の菖蒲の輿も皆水辺なり」(『御傘』)「こ、らか
とのぞくあやめの軒端哉秋芳」(『あら野』巻三) 「 Ayame.J (『日葡辞書』)。〇 生¢11り 底本『広小路』の原態は「生り」で、これ
を「おへり」或いは「いけり」とよむことも考えられないではない。しかし、前者は文法的に明らかな誤りであるし、後者も力行
四段活用の「生く」という古い語が江戸期には相応しからぬ嫌いがあろう。『広小路』とは異同ある句形ながら、『芭蕉盥』(朱拙.
有隣撰、享保九年刊)『みつのかほ』(越人撰、享保十一年刊)は何れも初めの部分を「あやめ生けり」と伝えており、これは「生ひけ
126
り」とよみ得る表記である。且つ、後述する小町伝説の付句「小野とはいはじ薄生ひけり」を踏まえた作意とすれば、ここは r #
ひけり」とよむのが最も妥当に思われて来る。「感ずる」を「惑る」と書くような当時の慣習的表記法として、殆んどの注釈書の
例にならい、ここでも「け」を補ってよむことにしたい。 「 voi , vo > ru , 一, voyuru , voyeta . J (『日葡辞書』)。〇 軒の綾のされかう ベ
「軒の鰯」は、節分に鰯の頭を柊の小枝の串に通して門口に刺しておく習俗をいう。節分にやって来る鬼が串で眼を傷つけ、鰯
の臭いに閉口して逃げ出すようにという呪ないである。ここは冬の終りのそれが端午の節供の時まで残って干からびたのを「され
かうベ」(髑髏)に見立てた。「節分は……夜にいればむくりこくりのくるといひて。せど門窓の戸などかたくさして。外面にはい
はしのかしらと。ひらぎのえだを鬼の目つきとてさし出し。うちには袅びす棚大こく柱のくまに。灯をひまなくたて沉香など
かほらす」(『山之井』)「あやめさす軒 さへ よそのついで哉荷兮」 (『あら 野』卷七)「いわしのかしらもしんじんから」(『毛吹草』卷
二)「先錠前を明させて御覧なされけるに、年ひさしき瀑首五つ女の黒入乱れし」(『本朝桜陰比事』卷四ノ七) rNoqi .」 rluaxi .」
(『日葡辞書』)。
Bail 節分の時、軒にさした鰯の頭が干からびている傍に、端午の節供のあやめが葺いてある。小1;-小町の髑髏の話
ではないが、鰯のしゃれこうべに、あやめが生えたといった様子だ。
■ E ■長明の『無名抄』に業平東下りの時の話として次のように見える。
みちの国に至て、やそしまと云所にやどりたりける夜、野の中に哥の上句を詠ずるこ袅有。そのことばにいはく、
秋風のふくにつけてもあなめ-^-
と 云。 あやしく おぼえて、こ袅を尋つ V 是を もとむ るに、 さらに 人な し。 只死人の頭一 あり。あくる朝猶 これを
見るに、彼どくろのめの あなより 、す ゞ きなん一本おひ出たりける。その薄風に なびく おとの、 かく 聞えければ、
あやしく おぼえてあたりの人に此事を問。或人語て云、小野小町この国に至りて、此所にして 命 終りにけり。 則
彼頭是 なりと 云。こ X に 業平哀にかな しく 覚えければ、涙をおさへて下句つけ M り。
小野とはいはじ薄生けり
127 延宝六年
とぞつけたる。その野をば玉つくりの小野といひけるとぞ侍。
この話は『古事談』巻二にも載せる。『袋草紙』では同じ話ながら業平は登場せず、連歌ではなくて一首の歌になつ
ており、これらが中世の『小町草紙』や『鴉鷺合戦物語』に種々の形で脚色される ことに なつた。謡曲「通小町」で
は舞台が京の市原野に変り、
或る人市原野を通りしに、薄一村生ひたる蔭ょりも、秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじ薄生ひ
けりと あり。 これ 小野の小町の歌なり。
とある。芭蕉の当面の発句はこの有名な説話を踏まえ、端午の節供にあやめを葺いた庶民の軒端の景色に転じた趣向
で、節分の鰯の頭を小町の「されかぅベ」に比したのが自慢である。薄の代りにあやめが生えているわけだが、「あ
やめ」には原歌の「あなめ」が仄めかされていょぅ。幽暗な感じの原話に対して、発句の世界は庶民的な明るさに満
ちている。『江戸広小路』初出の夏の句とあつて、年代は延宝六年五月以前となる。『芭蕉盥』『みつのかほ』等やや
時代の降る書に見える異形は、問題とするに足りない。
不卜亡母追悼
95水むけて跡とひたまへ道明寺(江戸広小路)
夏季(道明寺)。
11〇不卜亡母追悼「不卜」は江戸の俳人。岡村氏、通称市郎右衛門、別号一柳軒。石田未得の門人で、江戸堀江町に住んだ。
芭蕉はこの人とかなり親しく、この発句を収めた不卜撰の『江戸広小路』には十七句の作が見える。元禄四(一六九一)年四月九日歿、
享年未詳。芭蕉は翌年彼の一周忌に「杜鵠鳴音や古き覘ばこ」の句を手向けた。不卜の母が何時亡くなつたか明らかではないが、
128
その「亡母追悼」の意を寄せたのがこの句である。「さては亡母の手跡かと、ひらきて見れば」(謡曲「海士 .1) 「青亜追悼/乳のみ
子に世を渡したる師走哉尚白」(『猿蓑』卷一)。〇 水むけて 「水向けて」。本来は霊前に水を手向けることであるが、ここでは下
の「道明寺」(糖)に水を掛ける意に転じ、水を手向けることは裏の含みとした俳諧的表現である。 rM * lt の比ょりなじみをかさね
たるおのこ世をはやうなりぬるを、ともなはれぬみちとふかくなげき、せめては水むけるばかりの心ざしにとて」(『好色万金丹』卷
ニノ ー) 「 M 6 janimizzuuomuquru . 」(『日葡辞書』)。 〇跡とひたまへ 「跡訪ひ給へ」。「跡訪ふ」は、死者の霊を吊うこと。「跡^6
ふ」と同じ意で、「跡弔ひてたび給へ」は謡曲の常套表現だから、ここでも意識されているであろう。「なげきてもかへる道にはあ
らず。能ミあととひ給へとょ」(『薄雪物語』下) rMaqiatouotomur 6 ,一, to '. 」(『日葡辞書』)。 〇道明寺 「ダゥミヤゥジ」。「道明寺
糖」のこと。「ほしい」即ち「乾飯」は、飯を天日で乾燥させたもので、旅行用または軍用の携帯食糧とされた。「道明寺」■は現大
阪府藤井寺市にある真言宗御室派の尼寺で、山号を蓮土山という。この寺の尼達が、糯米を蒸して粗く磨り砕いた糖を 造り 出し、
「道明寺糖」と称して有名であった。楠は暑中冷水に浸して食べるので夏の季語になる。「道 M :#'; ……引 MSJt 巧ノ」(『毛吹草』卷 S
「乾飯……此者和漢ともに、蓄て軍旅の種となす事、史記にも侍る。伊勢物語等にかれいひと云も乾飯にて、此糖の類なりと云一
説侍る。和俗又楠を、引飯又は道明寺と称す。引飯は磨成する故也。道明寺とは、河州道明寺の比丘尼是を製して寺料となす。尤
世上に流布す。故に名とす。此者寒水に製するを上品とす。尋常には蓄へ侍れど、夏月冷水に浸して専ら賞す。故に季に 用」 (『滑
稽雑談』)「ヲィ、水屋。雪女でも氷坐頭でも入て、四文がくだつし。水うり「ハィ M 败寺を A 1 れませうか」(『浮世風呂』四編上)。
31 暑いさ中、道明寺糖に水をかけて手向け、母御の霊をお弔いなされ。
■ E ■江戸貞門出身の不卜は、出府以来芭蕉の親しく交わった地元の俳人の一人であった。この句、 r 水むけて跡と
ひたまへ」までは尋常な 悼 意の表現であって、何処に 俳 意があるのか分らないが、「道明寺」が出ると、「水むけて」
に忽ち二重の意味が生じて面白くなる。「道明寺」自体も、掮の名として俳諧らしい素材なのである。山本健吉氏は、
潁原博士が「道明寺」の名の追善に因みがあることをいわれたのを引いて、「それだけでは道明寺を持って来た必然
性に乏しい。道明寺は 不 卜の母の好物だったのか、あるいは道明寺は 不 卜の母に何かゆかりがあったのか」(『全発句』)
といっておられる。私の思いつきだが、不卜の母は老境に入って尼になっていたのかも知れない。年代は前の「あや
129 延1、ソく¥
め生けり」の句と同じく、延宝六年の夏までには成っていたと推定される。
96 秋きぬと妻こふ星や鹿の革 <江戸通り S
秋季(妻 こふ 星)。
n 〇 秋きぬと 「秋来ぬと」。有名な古歌「あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」(『古今集』卷四、
藤原敏行)の詞を取る。〇 妻こふ星 「#?恋ふ星」。七月七日の七夕の夜、牽牛星が天の河を越えて、一年に j 度織女星に逢うとい
う伝説による。「七ダ」 ( S ) 参照。「秋さらば今も見る如妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原のうへ」(『万葉集』巻!、長皇子)を始め、
「妻恋ふ鹿 J ならば尋常の表現である。それが「妻こふ星」とはぐらかされるところに笑いが生ずるわけだ。なお、動詞「恋ふ」
は上二段活用で、連体形は「恋ふる」となるべきであるが、近世には「ち ir のあはれは.つまこふしかのね」(『松の葉』第二巻、のん
やほぶし)のように四段型の例外的活用が現われる。この句もその一例である。「たなばたの妻まつとも、彦星の妻まつとも云、往
来のやう説4也」(『滑稽雑談』)。〇 鹿の革 「鹿の il 」。 ここは鹿の革の敷物であろう。秋になると、鹿の上毛には星のような斑点
があらわれる。それで上の「星」とつながるのである。「鹿の毛の星も射る矢の目当哉宗房」(『毛吹草』巻六) 「 caua .」 (『日葡辞
書』)。
3 a 鹿の革の敷物に点々と星が見える。星といえば、秋が来たというので、牽牛.織女の二星も互いに慕って一年
i 度の逢瀬を楽しむ頃だ。
1 鹿の革の「星」から七夕の星合を連想した趣向である?途中までは敏行の歌や「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の
こ袅きく時ぞ秋はかなしき」(『古今集』巻四、よみ人しらず)等が思われる優雅な表現であるが、それが「星」ではぐらか
されて乂「鹿」に戻り、更に「鹿の革」となるに及んで、全く談林的なおかしみの句に成り了っている。延宝六年七
i-J 刊の『江/通り町』初出の七夕の句なので、成立は同年七月を降らない。
130
97 實や月間口千金の通り町(江戸通り町)
秋季(月)。
〇実や月「実にや月」。本当によい月だなあ、の意。「や」は、詠嘆。「実にや」は謡曲によく出る言葉で、ここは後述する
ように「田村」の詞章を踏まえる。「連理のはしのかたしをもつて信徳実や花白楽天がやき筆に桃 青」へ 『桃 青三百韻』一
「 Gueni . 1, gusiglleni . 」(『日葡辞書』0〇間 □ 千金「マダチセンキン」。「間口」は、家屋や地所等の通りに面した部分の幅。「奥
行」に対していう。この時代、商業地の地価は間口一間(曲尺の六尺、約一、八ニメートル。田や土地の場合、六尺五寸を一間と
することがある)幾らであらわす習わしであった。間口一間が千金(千両)もする程地価が高いのである。「ナニサ松 ^ IJO 袅らい見
世ではないわいの。間口がやつと三拾三間あつて」(『東海道中膝栗毛』五編追加)「一{子千きん」(『毛吹草』卷二) 「 xenqinnovair ?」
(『日葡辞書』)。〇通リ 町 「通り町」。江戸の繁華街を貫く大通りの称。広くは、北は筋違橋の内、神田須田町より南へ、今川橋.
日本橋•中橋•京橋•新橋を経て金杉橋の辺までの惣名であるが、中心は日本橋の南を京橋に向う通り 一丁目乃至四丁目(現東京
都中央区)あたりである。この句の詠まれた二葉子の家は鍛冶橋にあり、通り町からは近かった。「船から;1^一と尸の^^にて、314り
町に大屋敷を持て」(『日本永代蔵』卷ニノ三)。
gaai 本当によい月だなあ。間口一間が千両もする江戸の通り町で、それに相応しい一刻千金の眺めだ。
HH この句は二葉子の撰した『江戸通り町』(延宝六年七月刊)の下巻に追加として載っているから、季語の「月」か
らして延宝六年七月の作と推定され、これを発句として桃青•二葉子•紀子•卜尺の四人の連衆による歌仙一巻が興
行された。二葉子の脇は「爰に数ならぬ看板の露」である。この人は神田蝶々子の子で当時まだ十二歳の弱冠であっ
たが、この卷でも他の大人達の作に遜色がなく、稀に見る早熟の才人と思われる。それはともかく、発句にはこの二
葉子に対する挨拨として、その家から近い江戸の繁華の中心地「通り町」の月を賞したのである。蘇東坡の「春夜-
131 延宝六年
の詩「春宵一刻直千金、花有二清香一月有 x 陰」は有名であるが、ここは謡曲「田村」の一節「春宵一刻価千金、花に
清香月に影、げに千金にもかへじとは今此の時かや」を踏まえた趣向であろう。これらから「月千金」といった成句
が出来ていたらしく、『江戸十歌仙』(春澄撰、延宝六年十一月刊)には「詞のかはせ千金の月」という似春の付句も見える0
この発句ではその「千金」について「間口千金」と思い切って俗な商人感覚を持ち出したのが 眼目で、 「土一升金一
升」の地価の高さは、昔も今も変らぬことらしい。この句の弾むような明るい調子と、月見の風雅にも金勘定の俗情
を持ち込んだ内容は、向上期にあった近世町人の意気をさながらに反映している。
划水學も乘物かさんあまの川(江戸広小路)
秋季(あまの川)。
〇水学「スヰ ガク」。盲目の細工人。くわしくは水学宗甫という。.長崎から術を伝えて、船に諸種の細工を施し、水からく
りにも妙を得ていた。水中船や揚水機等を発明した人である。初名木原佐助ゴ長崎港外の沈船引揚や、佐渡金山の排水にも貢献し
た。『好色盛衰記』には、「工夫の水学、 礙 なり。江戸橋の下より歡出しせ、1するまによし g へかよひ艇たくみて弍挺立をしか
け」(卷 ニノニ) という記事も見える。 〇乗物かさん 「乗物貸さん JO 乗物、この場合は天の川を渡る船を貸すであろうというので
ある。七夕の宵に竹二本を立て、横にも竹を渡して小袖を掛けて、「貸小袖」「星の貸物」などと称する。 g ® つ V が織り上げる布
の足りないのを悲しむので、それを補うために衣を貸すというところから起った習俗である。その小袖を転じて「乗物」とした俳
諧。「乗物舟 車」 (『毛吹草』卷三)「たなばたにかせるころもの露けさにあかぬけしきをそらにしるかな」(『金葉集』卷三、中納 一5 国
信) 「 caxi , su , aita .」 (『日葡辞書』)。〇 あまの川 「天の川」。天空に無数の星が密集して銀光を放つのを川に見立てていう。七月
七日の「七夕」と常に一体のものと考えられており、ここもそうである。この日の夜少しでも雨が降ると、天の川の水が溢れて、
牽牛•織女の二星が逢えなくなる。 ( S ) 参照。「あまの川 . 七夕の事なれば夜分也。天上の事なれば水辺にはあらず。たとひ
134
発想契機は勿論堺町で、その名から出た名辞的発想であるが、この句で見遁してならぬのは、この句に滲んでゐ
る落ついた調子である。この辺になると、存分に奔放な談林口調に入りながらも、実際の事象に触れて、そこか
ら感合する気分が、談林のあそびの割目からちら^-頭を見せ始めてゐるのではないかと思ふ。殊にこの句は、
堺町の繁華を、「実にや月間口千金の通り町」のやうに、明るい面だけから描かないで、世間の秋といふやうな
ものと対照させて、明暗の相で摑んであるのである。この時代は、都会の消費的な一部は繁栄してゐたが、その
一面、社会は非常に困窮してゐたのであつて、延宝二年の飢饉には餓死する者が多かつたし、—一年には、諸士が
困窮して舂切米を出して居り、五年には、奢侈禁止令、七年にはかなり困窮が酷くなつて来てゐたのであつた。
芭蕉は意識してそれを出したのではないが、当時の文学が一部町人の繁栄の上に立つてゐて、士農の困窮がその
反面にあつたことを思ふと、さういふ感じが感じとられる。この頃、さういふ町人的地盤の流の中にゐたとはい
へ、それになりきつてしまへない色蕉の姿が、いくらか滲んで来てゐるやうに思はれるのである。(『芭蕉講座』発
句篇)
■ 色付や豆腐に落て薄紅葉 <真績短冊) 1杉風両吟百員
秋季(薄紅葉)。
1 〇色付「色付く」とよむ説もあるが、私は「色付」とよみたい。陶器などに文様や絵を染め付けることで、加藤揪邨氏も同
説である。豆腐に薄紅葉が落ちて白い物に色が付くとだけでは、この時代の俳諧として面白味が足りない。『一葉集』は「色つく
や」と仮名書きになつているが、その根拠は明らかでなく、右に掲げた真蹟短冊と板本何れも「色付や」とあるのによつて解すベ
きである。「明闇は色付ならし霜柱正章 J (『毛吹草』巻六)。0豆腐「トゥフ」。大豆を原料にした加工食品。僧家で用いる代表的
135 延六年
な精進料理で、中国から我が国に伝わったのは古く奈良時代という。ここは「紅葉豆腐」というものを考えていること、〔考〕の
条で述べる。「釣柿に屋根ふかれたる片庇羽笠豆腐つくりて母の喪に入野水」(『冬の日』) 「 T 6 fu . 」(『日葡辞書』)。〇落て
—落ちて」。「風ふけばおつるもみぢば水きよみちらぬかげさへそこに見えつ VJ (『古今集』卷五、躬恒) rvochi , tguru , ita . 」(『日葡
辞書』)。〇薄紅葉「ゥスモミヂ」。うっすりと色を染めた程度の、紅くなりきらないもみじをいう。 r いろは」(招) r した船〕 («)
参照。「紅葉か.つちるは秋也。ちりそむるは冬也」「紅葉のちりて物を染る新式、冬に成也」(『御傘 J 1) 「錦手や伊万里の山の薄紅
葉梅翁」(『誹枕』下) 「 vsumomigi 」( 『日葡辞書』)。
Baja 豆腐の上に薄紅葉が落ちたように、この紅葉豆腐は恰好の色付けになっているよ。
■31 この発句は、早くからの江戸の門弟杉風との両吟百韻の発句で、その年代は、巻中の付合一連が延宝六年秋刊
行の『江戸広小路』に抄出されているところから、その頃までには成っていたものと見られる。百韻の全貌が紹介さ
れたのは、独歩庵三世寛美が天明六(一- fc : 八〇年に独歩庵に伝来した芭蕉真蹟懐紙を摸刻し、『 II 両吟百員』と題して
刊行したのが最初であった。延宝の半ば、談林最盛期の句であるから、句の内容もそのつもりで解いて行かなければ
ならない。紅葉狩の宴で豆腐の上に紅葉が落ちて白い物の上に色が付いたというだけではない答なのである。文様な
どを染付ける「&付」に見立てるような類の趣向は、〔語釈〕に引いた宗因の r 錦手や」の句の外、加藤揪邨氏の
『 e 蕉全句』に、
うすやうか紅葉がさねのかみな月
落葉や青地のにしきこけの庭
羽二重は人のそめたる紅葉かな (『山之井』年中日 t 之発句)
朝風や紅葉をさそふ豆腐箱 重秀(『当世男』)
等の例が挙げてある。ここで思い合わされるのは、江戸時代にあった「紅葉豆腐」という料理である。既に天和三年
136
に成った『堺鑑』(衣笠一淳著)下、紅葉豆腐の条に「今豆腐ノ上二紅葉ヲ印ス。詞二就テ形ヲ顕成べシ。買用モ通テョ
シ」 とあり、「鶏の御斎を申今朝の 月信 章龍田の紅葉豆腐四五丁桃青」(延 宝 四 年『両吟二百韻』) 「桜にあらぬさく
らごんにやく、予たはぶれに日、彼は紅葉豆腐に増れるといはんか」(延宝 八年 『常盤屋 e 句 合』) 等に見える「紅棄豆腐」
はこれであろう。後年のものながら天明三年の『豆腐百珍』(醒狂道人著)続編には、その製法が左の如く精しく記され
ている。
……よく水をしぼり、小麦粉をよくまぜ、唐辛子の芯と種を取りさり、酒にて半日ばかり煮て、細かく針にきざ
み、また生姜を針にきざみ少しと二品を、右の豆腐にほどよくまぜ合わせ、一丁の大きさの角にとり、丸揚げに
して小 P 切りして蒸して、服紗味噌を水にてゆるめたるを温め、敷味噌にするなり。
これによると豆腐に唐辛子と生姜を混ぜ、揚げて蒸したものであって、山本健吉氏は、「大根おろしに唐辛子粉を加
えて、紅葉おろしなどと言っているし、……唐辛子の紅い部分を細かにきざんで味噌の上面にふりかけた紅葉田楽と
いうのもある。紅葉何々と料理に言ったら、……唐辛子を連想すべきものらしい」 (『色蕉全発句』) と言っておられる。
恐らく「紅葉豆腐」なるものは、混ぜた唐辛子のために薄赤くて、上に紅葉の型を捺してあったのであろう。そこで
正解は、今栄蔵氏が「真赤な唐辛子が、散る紅葉のように豆腐の中に落ちて、豆腐が薄紅葉に色づいたよ」とし、
「句面から肝心の「唐辛子」を抜き、読者の機智で気づかせる「抜け」の手法……を併用」(『芭蕉 句集』) と補足された
見方に落着くであろう。但し今氏は初五を「色付くや」とするのであるが、私は豆腐に捺された紅葉の型も含めて、
これを「色付」に見立てたものと考えたい。古く何丸の『句解大成』に「是必唐がらしの隠し題成べし。奴豆腐に唐
がらしをふりかけたるが目に見る如し」とあるうち、後半は見当ちがいであるが、「唐がらしの隠し題」というのは
正しかったことになる。
137 延宝六年
拙鹽にしてもいざことづてん都島(江戸千歌仙)
冬季(都鳥)。
i 〇塩にしてもいざことづてん「言伝てん」は、伝言する意が本来であるが、人に依託して送る手紙を「ことづて文」という
ように、ここでは「依託する」意に転用したのであろう。都鳥を塩漬にしてでも託そうというので、「も」には r ……してでも是
非」という気持を籠めている。『伊勢物語』の歌をもじったことは後述。なお、 r 言伝つ」という動詞については、『日葡辞書』に
「 cototoute , curu , teta . J 「 cototoute ; 等の清音の語を挙げる一方、 「 cotszute .」 の項には 「 cototgute .」 という方がまさる
とある。十七世紀初頭に於いて既に濁音の語が現われていたことは、これによっても明らかであるし、ここは俗にした場合でもあ
るから、「ことづてん」と濁るべきであろう。「春も雪に野は塩をしの若菜哉宗房」「いざのまん木に巵の花の陰重頼」(『毛吹
草』卷五)「かまくらへくだりける僧の有けるに、ふみ一つかきてことつて」(『さいき』) 「 xiuo .」「 Izaiteqic 6.」(『日葡辞書』)。〇
都鳥「ミヤコドリ」。百合鷗という水鳥。『伊勢物語』九段、隅田川の条で有名な鳥で、其処に「しろきとりの、はしとあしと、
あかき、しぎのおほきさなる、みづのうへにあそびつ X 、いををくふ。……これなん宮こどり」と見える。この鳥の季節について
は、「都鳥水辺なり。……都鳥を冬也と無言にあり。此抄は高野木食興山上人、紹-巴に問てせられしゆへに、指合の奥義を極め
たまはず。水鳥なれば冬と思はれたりと見えたり。冬になる水鳥ならぬ水鳥、差別するは子細ある事也。かもめ•鵜•都鳥•塢な
どは雑也。大事の師説ある故、爰にしるさず」(『御傘』)のように雑とする説もあるが、『毛吹草』『温故日録』『鼻紙袋』等は冬十
一月としており、ここも冬の季語として扱ったものと思われる。 rMiyacodori ; (『日葡辞書』〇
HEi さあ、都へのお土産に、名も恰好の都鳥を、塩漬にしてでも是非お託けしましょう。
■ E ■京の青木春澄は延宝六年の秋奥州に赴き、宮城野や松島をめぐったが、その帰途江戸に立寄って当地の俳人達
と風交を重ねた。桃青•似春と一座した三吟歌仙三卷がこの旅の記念集『江戸十歌仙』(延宝六年十一月刊)に収められ、
この句は最後の巻の発句である。春澄の脇「只今のぼる波のあぢ鴨」からしても、江戸を去る彼を送る餞別の会での
138
作であったろう。右にも引いた『伊勢物語』九段の記事の後に見える「名にしおはばいざこと i ' はむ宮こ鳥わがおも
ふ人はありやなしやと」を踏まえ、「こととはむ」を「こと、つてん」に変えた俳諧である。王朝の古典によりながら、
風雅な都鳥を塩漬にしてしまうところは、卑俗なおかしみを強調する談林風の面目躍如たるものがある。勿論都鳥を
実際に塩漬にして土産にするわけではないが、京の春澄に「都鳥」は良い取合わせでもあった。『紅梅千句』第三に
蘆をかり荒薦にしもこしらへて 友仙
羽ぬけの鴨や塩鳥にする 長頭丸
という付合も見える。
脱わすれ草菜飯につまん年の暮 t 江戸蛇之鮮 ) 緋響我.蕉翁句*
萱キ菜飯につまむ年の暮(色蕉 M )
わすれ草煎菜につまん年の暮(一葉集>
冬季(年の暮)。
1 M 〇 わすれ草 「忘れ草」。ユリ科の多年草藪萱草の異名。原野に広く分布する草で、春の芽生えを摘んで酢味噌和えなどにし、
夏には黄橙色の百合に似た花を開く。花の時季によって夏の季語とされるが、この発句では季語ではない。「わすれ草雑也。花
を結ては夏也。……萱草の異名を忘憂草と有ゆへ忘れ草と和訓したれば、……此萱草の薬性人の憂^!よくなをすにより、$6?ある W
などの居らる X 所には植置、絵にも書てもろこしの人は置也。是花の咲わすれ草也。萱草の事也。又軒に生る忘れ草は別の物也」
(『御傘 Jl )「 vasuregusa . J (『日葡辞書』)。〇菜飯「ナメシ」。菜を炊き込んだ飯。『花火草』『世話尽』『鼻紙袋』『滑稽雑談』等に冬
139 延七 :/ vr
季とする。 r 此者和製にして、唐の食品に見へ侍らず。菜を細に刻み、塩少加へて、揉て青汁出るをとりて、飯上に置蒸して、飯
熟して器にうつす時、是を拌て饗す。是を田舎にてはむしこ食と云也。又細末の菘と塩を合、始より米に雑て炊ぐ者、飯の色黄に
染りて味甚佳也。然ども是は水を入る加減有て、過れば飯乾かず、足ざれば飯熟せず。功手の人を得て炊べし。江州の土俗、かぶ
ら菜を根葉ともに刻みて飯にまじへ炊ぐ。冬月の常食とす。其味宜して余国の及ぶ所にあらず。他月生菜なき時は乾菘を用ゆ。味
劣れり。其生菜有時をさして冬に許用し来れるならし」(『滑稽雑談』)「農村の素朴な食事で、油菜•小松菜、あるいは蕪•大根の
葉をこまかく刻んで、ざっと熱湯を通し、塩を加え、炊きたての飯に交ぜ合せて食べる。遠江の菊川や近江の目川の宿の名物で、
昔はあんかけ豆腐を副にして出したという」(山本健吉氏『芭蕉全発句』)等の解説があり、「ナハン」という言い方もないではないが、
普通は「ナメシ」である。『一葉集』の「煎菜」は、水菜の茎を二三寸ずつに切って茹で、酒と醬油を加えて煎りつけた料理をい
う。「糊剛き夜着にちいさき御座敷て泥土夕辺の月に菜食嗅出す怒誰」(『ひさご』)。〇 つまん 「摘まん」。摘み草をしようと
いうのである。 「 Tgumi , u , unda . J 「vacanauo tgumu . J (『日葡辞書』)。
HBa 年の暮に忘れ草を菜飯の材料に摘んで、年忘れをしましょう。
RH この句を発句とした千春•信徳との三吟歌仙が『一葉集』に載っており、これは今逸して伝わらない『仮舞
台』(千春撰、延宝七年三月刊)なる俳書に収められたものと思われる。京の千春と信徳が延宝六年冬から翌年春にかけて
江戸に下向した時の作で、信徳は五年冬の下向に続いて再度江戸へやって来たのである。『一葉集』が原典に忠実な
らば、「煎菜」は恐らく初案であって、それを『江戸蛇之鲊』(言水撰、延宝七年五月成)に収めるに当って「菜飯」に改
めたのであろう。『芭蕉盥』の「菜飯」という振仮名は、「菜飯」をこう呼ぶこともあったので挙げたが、これは小異
に過ぎない。
さて、句の内容は、萱草即ち「わすれ草」が昔から憂を忘れる草といわれるところに趣向を構えている。それを菜
飯のような俗な物の材料にしようというところは、前の句の「都鳥」を塩漬にしてしまうのと同様な思い切った俳諧
で、ここでは「わすれ草」の名を年忘れに掛けたのであろう。憂を忘れるということを重視すると、全体がしみじみ
140
とした感じのものと見え、現にそういう見方の解釈が多いのであるが、それはこの時期の句に相応しくあるまい。
「年忘れ」に掛けて考えれば、宴集に浮き立つ気分が強く出て、談林風の句として納得出来るように思う。
延宝七年
側發句也松尾桃靑宿の春(延宝七己未名古屋歳且板行之写シ)
歲 首
發句なり芭蕉桃靑宿の春 — g
春季(宿の春)。
n 〇発句「ホック」。連歌や俳諧の付合に於ける最初の句。それだけ独立して作られる場合でも、この名で呼んだ。「俳句」と
いぅ呼び方がこれに取って代るのは、明治中期の正岡子規以降のことである。「発句は門人の中予にをとらぬ句する人多し。俳諧
におゐては老翁が骨髄」(『宇陀法師』) 「 Foccu . i , lydasufajimenocu . 」(『日葡辞書』)。〇松尾桃青「マッヲタゥセィ」。作者自ら
名乗を揚げた感じである。「桃青」号は、延宝三年五月宗因を迎えての百韻(『談林俳諧』所収)が初見であった。ここではそれに門
松の青々としたさまが隠されているかも知れない。〇 宿の春 「宿の春 , -〇「宿」は、我が家の意。我が家で迎える初春(正月)を
ことほいでいぅ。「家の春」「庵の春」等と同じ。当時の作者の江戸の住居は「小田原町小沢太郎兵衛店」(延宝八年下里知足筆俳人
延 住所録)即ち今の中央区日本橋室町 一丁目にあった小沢卜尺の借家だったと思われる。
11 a 我が松尾桃青の家の初春で自慢出来るものといえば、自分が作る発句です。
111 ■『色蕉盥』に「貞享年中の吟。素堂•其角と三ッもの有り」とあるが、森川昭氏の紹介された尾張鳴海千代倉
142
家所蔵知足自筆「延宝七紀名古屋歳旦板行之写シ 」( 『俳文藝』二号)中の「江戸衆歳旦」に前掲の如き形で見えるのは、
年代と句形についての決定的資料といえよう。この句は延宝七年の歳旦吟として桃青の歳旦帳に載ったに違いなく、
中七の句形も「松尾桃青」が最も信ずべきものと考えられる。抑々深川の色蕉庵に入る以前の作では、「芭蕉桃青」
という表現はあり得べくもなかった。ただ『芭蕉盥』の形は、深川移居の後の改案かも知れないが、誤伝乃至私意に
よる改竄の可能性が大きい。素堂.其角との三物は、歳且帳の例としてあり得ることであるが、これを裏付ける資料
は今のところ皆無である。異形としては他に中七を r ばせを桃青が」(蚕臥著『色蕉新卷』 ) 、初五を「発句あり」(甘井編
『金蘭集』)等と伝えるものがあるが、問題とするに足りない。
談林風盛行の時代の作とあって、 r 発句也」と強くきっぱりと打ち出し、「松尾桃青」と自ら名乗を揚げて、ひたす
ら明るい調子で貫いている。以前は年代を貞享中と考えるのが支配的だった為に、「我が草庵の春は、た V 発句にあ
り、俳諧にあるのみといふので、世の花やかな新春のさまに対して、佗びた風雅の生活をよんだのである」(潁原博士
『新講』)というような解釈が多かったが、これらは余りに後年の色蒸の生活気分を持ち込み過ぎた見方であろう。森
川氏は前記の資料紹介文中で、芭蕉の宗匠立机の問題と関連させて、
……俺もいよいよ:人前の宗匠になった。この新春は、この松尾桃青宗匠が、我が宿において、歳旦三物の発句
を詠むことになった、と新宗匠迎春の得意さを詠んだ句と解釈できないだろうか。もしその解釈が可能ならば、
芭蕉の立机は延宝六年ということになるのである。
と述べておられる。奥州須賀川の相楽等躬が桃青の万句興行に際して詠んだ「三吉野や世上の花を目八分」という発
句が、延宝七年初夏に成った岸本調和の撰集『富土石』に見えることとも時期が合うので、右の推測は面白いけれど
も、森川氏も注意している延宝六年の桃青歳旦帳の存在は、現在は伝わらぬながら確実視されることでもあり、色蕉
の立机は遅くとも延宝五年中と考えた方が良いと思う(委しくは拙著『新修芭蕉伝記考説』行実篇を参照されたい)。
143
延宝七年
宗匠立机の翌春でなくても、この発句に宗匠としての得意の情があらわれていることは、見逃し得ない事実である。
最も新しい解釈としては、左の如き今栄蔵氏の説がある。
一年を連句に譬えれば、元旦はさしずめ発句に当る。宗匠の名を得たばかりのわれ松尾桃青は、まずその発句を
詠んでわが家の春を祝うものだ。……旧暦で一口に一年三百六十日という。それを三十六句の歌仙連句になぞら
え、元日を発句と見立てた。(『芭蕉句集』)
従来の説では「発句あり」と紛らわしい解が多かったから、元日を発句に見立てたという見方は注目に値する。しか
し、そのような意味を表現したにしては、この句は聊か独りよがりの傾きがありはしまいか。〔大意〕に示した私見
は、初五中七の強い明るい調子を生かすべく、「自慢出来るものといえば」と補って見た試案である。
s 呵蘭陀も花て來にけり馬に鞍(江戸蛇之鮮 ) 辨諧曾我•放鳥集•蕉翁句集
春季(花)。
11〇阿蘭陀「オランダ」。江戸時代にョ — a ッパ人として唯一、日本との交易を許されていたオランダ人をいう。ポルトガル
語 01 anda に基づく語。「かびたん」( 90 )と同じく、珍し物好きの異国趣味のあらわれである。「紅毛は出嶋によふで戯れ、上方の
町? g ? へも自由に取よせ」(『好色一代男』卷八)。〇馬に鞍「馬に鞍」。馬に鞍を置いて、の意。〔考〕の条で述べるように、謡曲「鞍
馬天狗」の詞取りであり、ここの表現の働きについても後に細説する。「雲はやし馬に鞍をけ時鳥調栄 J (『東日記』) 「vmani
curauovoqu . 」(『日葡辞書』)。
ai 異国のオランダ人も、江戸の花盛りに馬に鞍を置いてやって来た。我々も馬に鞍置いて花見に行こうじゃない
3 〇
力
144
—「かびたんも」( 90 )の句と同様、オランダ商館長の江戸参府を題材にした句である。それに謡曲の詞をからませ
た句作りがこの時期通有の好みであつて、「鞍馬天狗」の「花咲かば告げんといひし山里の使は来たり馬に鞍、鞍馬
の山の雲珠桜」を踏まえている。〔語釈〕に挙げた『東日記』の句の外、『毛吹草』巻五の「待し花さくの!!をけ鞍51
山」(宗治)『当世男』の「徳利にも使はきたり花盛」(億丸)等しきりに利用された有名な詞章である。オランダ人の
登城は騎馬による仕来りだつたというから、「馬に鞍」が先ずオランダ人のさまをあらわすことは確かで、遠く離れ
た異国からの「使は来たり」の感じを裏面に持つことも論がない。それと共に、「鞍馬天狗」の踏まえた『源三位頼
政集』の原歌が「花さかばつげよといひし山守のくるおとすなり駒にくらおけ」であり、謡曲の詞の意味も「馬に鞍
を置いて出かけよう」ということなので、当面の発句もその含みで解釈すべきであろう。「これをただ単に「オラン
ダ人が馬に鞍を置いて来た」と解すると、下五「馬に鞍」が散文的な説明になつてしまうであろう。「来にけり」の
すつきりした切字の働きに対して弾むような「馬に鞍置け」という心躍りで応えていると見るほうが、句の調子にも
合うようである」(『鑑賞日本の古典.芭蕉集 fc という堀信夫氏の説は確かな見方である。潁原博士は、
……この句は先づ言葉の技巧があつて、然る後句意が存するといふのではなく、先づ江戸の春に蕃夷も来り服す
るといふ句旨が立つて、然る後謡曲の文句に発想を求めたといふべきものである。しかもその文句の摘採が誠に
適切を極めて居る。すでにこれよりさき次の句 (注、「かびたんも」の発句を指す) があつたのである。それはもはや縁
語掛詞等の技巧を離れた所に趣向を構へては居るが、表現があまりに露骨で詩趣に乏しい。この句は謡曲の文句
を仮りて言語遊戯に堕せず、却つて余情を豊かならしめて居る。ともあれ延宝末年に於ける芭蕉の作として、そ
の句旨発想には注目すべきものがある。 (『新 講』)
と高く評価しておられる。私かに按うに、談林の趣向としては「かびたん も」 の句もこの句 もさして 大きな差がある
わけではない。ただ前者は「君が春」のめでたさを言おうが為に r つくば-!せけり」に民族主義の如きものが強く感
145 延屯七ヤ
ぜられる結果になっている。「阿蘭陀 も」 の句にもそうしたものが含まれてはいるものの、凡ては駘蕩たる花見時の
気分に包まれて、読む者を酔わせる印象が強く、その辺に二句の差が出来ているようである。謡曲の詞取りがこれ程
成功した例も稀といってよかろう。次の句と共に延宝七年五月に成った『江戸蛇之鲊』(言水撰)初出なので、作年次
は同年春を降らない。
雨降ければ
仍草履の M 折てかへらん山 fl (江戸蛇之鮮) 真瞋短冊•誹諧曾我.泊船集書入.蕉翁句集
春季(桜)。
1〇 降ければ 「,りければ」。〇 草履の S 祈て 「草履の戻折りて」。長く歩いていると、草履は踵の方が伸びたりして形が崩
れて来る。埃やはねがあがらないように、その尻の方を上に折り返して踵で押さえるようにして歩くことをこう表現した。ここは
それに衣を尻端折りすることを利かせているのであろう。なお「折る」は下の桜の枝を折ることにも掛けてある。「戻」は「1」
の異体字。「はつ雪や先草履にて隣まで路通」(『ぁら野』卷一) 「 Z 6 ri . 」 「 xirLJrvori , u , otta . 」(『日葡辞書』)。〇か へらん 「帰
らん」。「折かへる桜でふくや台所孤屋」(『炭俵』上) 「 cayeri , ru , etta .」 (『日葡辞書』)。〇 山桜 「ヤマザクラ」。桜の品種として
のャマザクラは一重桜を指すといわれるが、『増山井』には「山桜•庭桜も、其山に咲庭に■咲をいふを、名木のやうにしたつるは
あしきとなり」とあり、例句を見ても必ずしも品種の名とは限らぬようである。『芭蕉句選年考』には「庭の卷集に、草履の尻を
りて帰らん山ざくら桃青、……上野花見に雨にあうて吟じたるむかしの句也」とあ•り、『庭の巻』なる俳書は未見であるが、こ
の句が江戸のヒ野の花見で詠まれたことは十分考えられ、「上野の山の桜」と解して通ずると思う。「おらずんばむなし宝の山桜」
(『毛吹草』巻 J 「 Yamazakura . 」(『日葡辞書』)。
ai 花を求めて 歩き疲れ、雨も降って来た。伸びた草履の尻を折り尻端折りして、山の桜を折ってそろそろ帰ろう。
146
_ M 「 M 折て」を草履と着物に、「折て」はそれらに加えて桜の枝を折ることにまで掛けて興じた句である。
撕待花や藤三郞が よしの山 S 手営)
春季(花)。
№1〇待花「待つ花」。ここは藤三郎の「芸の花」を待つ気持を、桜の咲くのを待つ気持に譬えた。「花は待かちるか、月は曇る
かはる\か、なに k よらず、わがおも ふこと を一句に申の ベ 候までのはいかいにて」(『聞 書七日草』) 「木ミの雪は花待比の下絵哉
重長」(『毛吹 草』 卷五)。〇藤 三郎がよしの山 「藤 Hi - 郎」 は、 一節切の名人宜竹 ( Z ? 参照)と同一人といわれる。その根拠は不明
ながら、この句の内容は、そう考えてよく合うようである。「よしの山」は一節切で歌う唱歌の一種。 (U) 参 Bg y, o
E 3 SE 3 藤三郎の吉野山の曲を吹奏するのを待つ気持は、丁度吉野山に爛漫と花が咲くのを待つ気持と同じだ。
B — 花を待つ気持は藤三郎の曲を待つのに似ると解するのは、〔大 S に述べた解に比べて、主想と比擬するもの
との関係が逆になって、何れが正しいか問題になる。しかし、談林風の人事趣味からしても、これは藤三郎の芸を扱
った句とすべく、それを吉野山の曲の縁で「待花」に結びつけて譬喩したと解するのがよかろう。山本健吉氏の『全
発句』は、これを「先しるや」§の句の初案と推定している。何れが初案かは一概に判じ難いが、両者が類想の句
であることは事実である。初出の『玉手営』(蝶々子撰)は延宝七年九月の刊行であるが、同四年七月に 成った 同じ巽
者の『当世男』より前に編纂を終っていたものであった。何等かの事情で前者の方が刊行が遅れたもので、その間に
増補が行われた可能性もある。従ってこの句は一応延宝七年春以前の作と推定されるが、右の後で増補された 分で な
ければ延宝四年以前まで遡るとも考えられよう。なお、潁原博士の『新校色蕉俳句全集』によれば、真蹟 短® が 伝
存するというが、図録類に収められていない。
147 延策七年
707見わたせば詠れば見れば須磨の秋 ■
秋季。
BiMsa 〇見わたせば「見渡せば J 。 「Farucano mucaiuo mivataxeba , 」(『日葡辞書』)。〇詠れば 「ii むれば J 。 既出(66)。〇須磨
「スマ」。現神戸市須磨区。在原行平や光源氏が失意の日を送った所として名高い歌枕である。「須广郡の名なれども水辺也。
須广の上野は非水辺」「須广のながめ源氏より出たる詞也。昔は夏也。新式に不/当„其儀一とあれば、今は雑也」(『御傘』)。
ia 見渡したり眺めたり、さまざまに見れば見る程、須磨の秋景色はあわれ深いことだろう。
■■小西似春と土屋四友という江戸の二俳人が延宝七年秋に上京し、翌年暮春に帰郷するまで、西山宗因との三吟
『山の端千句』を始め、京坂の俳人達と風交を重ねた。近世後期の俳人枯魚の稿本『色蕉翁俳諧大全』には、似春の
撰著『芝肴』から、この旅の餞別会に於ける作と思われる百韻二卷を収録している。『芝肴』は伝本を聞かない集で
あるが、刊行は凡そ延宝末から天和にかけての時期と推定される。百韻は「於四友亭興行」とあり、似春.四友.桃
青の三吟ながら、四友は二卷共脇を賦しているに過ぎない。第一の巻は似春の発句「須广ぞ秋志賀奈良伏見でも是
は」であって、第二の巻が桃青のこの発句である。二句とも須磨の秋を主題にしているのは、旅人達にこの有名な歌
枕への関心が強く、話題に出たからでもあろうか。何れにせよ、成立時期は延宝七年秋と見て誤りはあるまい。蝶夢
の『芭蕉翁俳諧集』(天明六年刊)は最初の一折を収めるだけであるが、『芝肴』の伝本が不明なので、比較的年代の古
いものとして之に拠った。
句は、似春•四友の両人に対して、須磨の秋のあわれさは嘸かしと思い遣ったわけで、「見わたせば詠れば見れば」
と同じような 言葉を三つ重ねた ところに 趣向がある。古注には r 見渡せばとは、明 石より 淡路の風景に およべる か。
148
詠ればとは、旧事をおもひながむる心にや。見ればとは、須磨の眼前をいふなるべし」(蓼太『芭蕉句 解』) というように、
一々の語に意味のちがいがあるように言うものが多いが、これは思い過しであって、似たような言葉を重ねて畳みか
けるところに談林的な興があったものと思われる。『源氏』の須磨の巻に「またなくあはれなるものは、か、るとこ
ろの秋なりけ り」 と述べられたのが元になっているだけに、しみじみとした気分は争えないながら、作者のねらいは
寧ろそれを打ち翻して、口拍子に乗せて興じた調子を出したところにあろう。「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦
の苫屋の秋の夕ぐれ」(『新古今集』巻四、定家)「詠ればち i : に物思ふ月に又わが身一つのみねの松風」 tfii ®、 鴨長明)
「さびしさにやどをたちいでてながむればいづくもおなじあきのゆふぐれ」(『後拾遺集』卷四、良暹法師)等の■歌*?、作者
の脳裡に去来したことは十分考えられる。また堀信夫氏が、
元禄十一(一六九 八) 年に戸田茂睡は『梨本集』を著わし、「見渡す」 r 詠る」を初五に置く ことをきらう 禁制の愚を
論破し、「詠る」は「見る」 と 違って過去の ことに かかわる という 論のまちがいなどを指摘している。 このよう
な時代の空気を背景にし、須磨•明石関係の歌に「見渡す」「詠る」「見る」の言葉がよく用いられるので、これ
らをたたみかけて句作りしたのであろう。……須磨に縁の深い、しかし禁制の詞をわざと重ねて、しかも「此浦
の実は秋をむねとする」(笈の小文)須磨の本情を強調してみせた ところが 俳諧。 (『日本古典文学全集.松尾色蕉集』)
と述べておられるのは、新しい視点からの説として参考になる。
側はりぬきの猫もしる也今朝の秋(下郷家遣£
秋季(今朝の秋)。
i 〇はりぬきの猫「張り抜き」は、木型に紙を糊で張り重ね、乾いてから中の木型を抜き取る技法をいう。ここは、その方法
149 延尘ヒ牢
で作った猫の玩具で、犬•虎.雛等も作られる。「張子」に同じ。「人^ f 屋の ffi 六といへる人、手脈エに獅子配あるひは齡齡の獻
またはふんどしなしの赤鬼、……これみな童子だらしの様^/持へて」(『男色大鑑』卷七ノ三)。〇 しる也 「妒る也 J 。 〇 今朝の秋
■—1' 今朝の秋」。立秋の日の朝をいい、「秋立日よめる/あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬ る」 (『古今
集』卷四、藤原敏行)の歌を誰しも連想する。「初秋文月けさの秌きのふの空にかはる気色もあらねど。吹風もひやりとけさは身
にしられ。……草の朝露も。夕の虫の音も。漸さびしさのおさなだちとき V なされ」(『山之井』)「目に見ねど RfMt するや今朝の秋
安知」(『毛吹草』卷六)。
ia 張り抜きの猫が風に吹かれて首を振っている。こんな無心の物までも、秋立つ朝の風の冷えを感じているのだ。
1この発句を録した尾張鳴海の下郷家(蕉門知足の家)伝来の書留には、三組の付合が一紙同筆で書かれている
(筆者は不明)。「はりぬきの」の句には「七つに成子文月の哥」といぅ素堂の脇が付けられ、外に素堂•芭蕉の発
句.脇、素堂•夷宅•色蕉の三物が見える。第一の付合の素堂発句の前書に「市中より東截山の麓に家 I ’せし比」
とあるが、素堂の上野移居は彼が延宝七年晚春に長崎から帰って間もなくの頃といわれる。当面の付合には何れも素
堂が顔を出しており、三組共発句は秋季なので、延宝七年秋の作と推定してよかろぅ。天和期以後の「ばせを」号を
用いているのは、後年の筆録だからである。
句は、敏行の古歌や『山之井』に述べられた伝統的季節感を基調としながら、「はりぬきの猫」を取合わせること
によって卑俗なおかしみに転じた。中七を「猫も知るべし」(『芭蕉句選拾遺』)「猫に見えけ り」 (『一葉 集』) 等とした異伝
は、根拠が明らかでない。
卿蒼海の浪酒臭しけふの月 S 東太郎)
150
秋季(けふの月)。
i 〇 蒼海の浪 「蒼海の浪」。「蒼海」は、青齡&。「ひがしをはるかにみわたせば、さうかいなみしづかにして、みぎはのふね
はかぎりなし」(『竹斎』下) rs 6 cai . Auo vmi ; (『日葡辞書』)。〇 酒臭し 「酒臭し」。酒の臭いを発散するさま。『類聚名義抄』に
「醺 サヵクサシ」と あるので、「サ ヵクサシ」とよむ 可能性もある 〇 r 是へ追出し申べし。酒くさいものをあひづにう ち 取給へ とい ひ
ければ」(『吉野都女楠』第四)。 「 cusai.J (『日葡辞書』)。〇けふ の月 「今日の月」既出(5)。中秋の名月をいう。
Baa 青海原から上る今宵の名月は盃のようで、浪までが何だか酒臭い。到る処で月見の宴があるわけだから、月は
盃、浪は盃洗の水といったところか。
BE * 名月を盃に、「蒼海の浪」を盃洗の水に見立てた海辺の月見の即興であろう。今栄蔵氏の『句集』は、謡曲
「舎利」の詞「孤山の松の間には、よそ^^白亳の秋の月を礼すとか。蒼海の波の上に、僅に四諦の暁の雲を引く空
の」を踏まえるとし、「月」に「杯」を掛けたと見ている。一見したところ、見立の句のようではないが、談林風の
突飛な見立を愛する傾向が極まると、このように暗喩めいた趣向が現われることになるのである。次の句と共に才丸
の『坂東太郎』(延宝七年十二月下旬言水序)初出の秋の句なので、延宝七年八月までには成っていたものと推定される。
別盃や山路の菊と是を干す(坂東太郎)
秋季(菊)。
〇 山路の菊 「山路の菊」。中国の古伝説に基づく語。南陽酈県の甘谷を流れる菊水の水を飲むと長寿を保つといわれ、其処
に流された周の穆王の臣慈童の故事として謡曲「菊慈童」に脚色された。 r 盃の下ゆく菊 や」 ( 54 )の句参照。「菊に めでたき ^<能
あるは。 慈童が山路の菊の露に齢をのべしふる事」(『山之井』) 「 Yamagiuotadoru . 」 (『日葡辞書』)。〇是を 干す 「 ^をデす」。「干
す」は、飲み干す意。重陽の佳節の宴で、盃の酒に菊花を浮べて長寿を祝う所謂「菊の盃 」 を飲み干すのである。「その さかづき
151 延屯ヒ年
を、五郎三度ほしてをきければ」(『曾我物語』卷七) 「 core . 」 「 Foxi , su , Oita. 」(『日葡辞書』)。
今日のめでたい菊の盃、これをあの甘谷の山路の菊と思つて飲み干し、長寿を祝いましょう。
1 『坂東太郎』の重陽の部にあり、型通りの菊水の伝説を踏まえた趣向である。表現は「ぬれてほす山ぢのきく
のつゆのまにいつかちとせを我はへにけむ」(『古今集』卷五、素性)を踏まえ、「ほす」を飲み干す意に転じて俳諧にした
のであるが、この古歌は謡曲「俊寛」にも「ぬれてほす山路の菊の露のまに、我も千年を経る心地する」と用いられ
ている。重陽の節供を題とすれば「菊の盃」の趣向は誰しも思いつくことであるが、恐らく杯に菊の蒔絵が施してあ
つたことも、重要な動機になつていると思われ、「山路の菊と是を干す」には悠揚迫らぬ謡曲調が感ぜられる。初出
板本の年代からして、延宝七年九月以前の作。
土屋四友子を送りて、かまくらまでまかるとて
m 霜をふむでちむば引まで送りけり(茶のさぅし)放鳥集.もとの*
冬季(霜)。
1 M 〇 土屋四友子「±?ぎ四友」は'『誹家大系図』に宗因門として通称外記、松平出羽守の家臣とあり、出雲国松江の藩士で江
戸に住んでいたらしい。「子」は、親しみを籠めた敬称。「荷兮子が奴僕をしておくらす」(『更科紀行』)。〇送リて旅人について
行つて別れを惜しむのである。 「 Fitouovocuru.J (『日葡辞書』)。〇かまくら「鎌倉」。現神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いた
地である。「かまくらの海に、かつほといふ魚は、かのさかゐにはさうなき物にて、此比もてなすものな り」 (『徒然草』百十九段)。
〇まかる「罷る J 。 ここは「行く」の丁寧語。「七野の社ちかき所へまかりて」(『毛吹草』卷五) 「 Macari , u , atta . J (『日葡辞書』〇
〇霜をふむで「霜を踏むで」。「む」は撥音便の変則表記である。「履 Z 霜堅冰至」(霜を履んで堅冰至る。『易経』坤卦初六に見え
る辞)を踏まえたか。禍害が兆して漸次顕著になることの譬えであるが、句意に関する所はないようである。 「 Fumi , u , unda ;
152
(『日葡辞書』)。〇 ちむば引まで 「跛足引くまで」。「む」は前と同じく撥音の変則表記である。疲れて足を引きずるようになるまで
の意。「しやみせんやめて、こなたも石うすかちんばひかしやれ」(『博多小女郎波枕』上) rchinba . 」 「 Fiqi , u , ijta . J (『日葡辞書』〇
HE 3 霜を踏んで送りに出て、佐野源左衛門の馬ではないが、足を引きずる程遠くまで来てしまったよ。
■ E ■初出の『茶のさうし』(雪丸•桃先撰、元禄士一年刊)には、「此句はいまだ俗なりける比歟。当流世にさかむならざ
りし比也。そのおかしくなつかしさに」と付記があり、『放鳥集』と『もとの水』には「鎌倉に行人をおくりて」と
前書がある。芭蕉が剃髪した時期は明らかでないが、四友を送って行ったというのは、「見わたせば」(吧の句の条
に述べた似春•四友の両人が西上した延宝七年のことと思われる。秋のうちに須磨を見る答が、遅れて冬に入っての
出発となったのであろう。「鎌倉に行人」という前書は正確でなく、『茶のさうし』の前書を匇卒に読んで誤解したに
違いない。
霜を踏んで出掛けて、疲れた足を引く程遠くまで送って行ったと解するだけでは、別れを惜しむ気持は出ていても、
おかしみは言葉の興にとどまって物足りない。加藤揪邨氏の『色蕉全句』では、謡曲「鉢木」の「これは唯今にても
あれ、鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足とつて、……瘦せたりともあの馬に乗り」を心に置いた発想で
あろうと し、延宝四年の『江戸両吟集』梅の風の巻の「日本橋ちんば馬にて踏ならし桃青方<見せうぞ佐野の
源介信章」という付合を参考に挙げて、改まった漢文口調から*倉の連想で「ちむば」に急転するおかしみと見て
いる。「霜をふむで」には「踏;,花同惜少年春」(花を踏んでは同じく惜しむ少年の春。『和漢朗詠集』上、白楽天)あたり
も響いているのではないかと思うが、加藤氏の考え方は概ね穏当としてよかろう。『はるの日』に「芭蕉翁をおくり
てかへる時」と前書した「この比の氷ふみわる名残かな」という杜国の句が見えるが、「 I 相をふむで」の 句と この 句
との差異は、談林風と蕉風のちがいを端的に示しているといってよい。
153 延乍 L : 勺-'-
瓜今朝の雪根深を菌の枝折哉1 向之岡.続深川
冬季(雪•根深)。
is 〇 今朝の雪 「ゲ朝の 雪」。 「名をおるな大名竹にけさの雪一正」(『毛吹草』卷六)。〇 根深 「ネプ ヵ」。葱の異名。これも冬
の季語である。「冬葱ねぎ〇関西に て。 ねぶかと 云。 ……関東に て。 ねぎと いふ。 ねぶかとは根深く土に入こ-'ろ」(『物類称呼』)
「霜先は鴨なつかしき根深かな松江維舟」(『桜川』冬 一)。 〇菌の 枝折 「蘭の枝折」。「菌」は、ここでは菜園、野菜畑をいう。
「枝折」は、山路を行く時など帰路を見失わないように木の枝を折り掛けて道しるべにすることであるが、この場合「根深」は畑
以外の所にあるわけではないので、畑へ導く道しるべというより、此処が畑だという目じるしの意に用いたと見られる。「花は淵
S 4 は大 is ? ぞ圍の菊宗房」(『毛吹草』巻六)「武士の鷹うつ山もほど近し越人しをりについて滝の鳴る音野水」(『あら野』員外>
「 sono . 」 「 xiuori .」 (『日葡辞書』)。
1 a 今朝起きて見ると一面の雪、何処が何処やら道も畑も見分けがつかない。わずかに頭を出した葱の緑が菜園の
目じるしになっていることだ。
I 『坂東太郎』初出の句だから、延宝七年冬以前の作と見られる。和歌では「あともたえしをりも雪にうづもれ
てかへる山ぢにまどひぬるかな」(『千載集』卷ーハ、実房)等、山路の雪の枝折を詠むことが多い。ここでは俳諧として雪
中の「根深」を目じるしに見立てたのが、おかしみの狙いであろう。ただ全体の表現がおとなしい為に、蕉風の叙景
句としても通用するような外見を呈しており、雪の白と葱の緑の対照があざやかである。
154
延宝八年
於春//大ナル哉春と云// (向 之 岡)
0 〇於春 t 「於春 A /」。 「於」は『書経』『詩経』等中国の古典によく用いられる感嘆詞。「ああ、春だ、春だ」と新春を謳歌す
る気持の表現である。「あ、降つたる 雪 かな。如何に世にある人の面白う候らん」(謡曲「鉢木」)「嗚呼ァ、、於戯同」(『易林本節用
集 』) 「Aa vrexiya . 」(『日葡辞書』)。 〇大ナル哉春 「大いナル哉春」。春は大きなものだな あ、 と感嘆した表現。「大哉乾元。万物資
始 J (大なる哉乾元。万物資りて始まる。『易経』乾卦、彖伝の語)「孔子孔子。大哉孔子」(孔子孔子、太なる哉孔子。北宋の米!^
の「孔子賛」の一節)等を思わせ、表記法も漢文訓読式になっている。「好なる哉」ともよめるが、『易林本節用集』に p ^: ナ U
と振仮名があるのによって、ここも「犬」は訓読する。「おほいなり」という語は「丸きなり」の音便形で、 抑々 が漢文訓読語で
ある。 〇と云々 「云 A /」 は、一続きの引用文以下を 省略す る場合の言い方。「と」を伴なう時は、「といへり」「てへり」とよむ 慣
用もあるように、「 . ということだ」と、文末を間接話法(伝聞)の形で結ぶ働きをする。「ウン!^ン」は連声であるが、『日葡
辞書』には 「 vnvn .」 とのみあって、連声の語は載っていない。「五斗を一俵とさだめられし事は、神亀五年諸兄大臣の所為と云
//」
ia
(『名語記』
ああ春よ春よ、何とめでたいことか。物の本に「太ナル哉春」といわれている通りだ。
155 延1,(八ヾ I
RH この句は「於春々」で切れるのであろう。そして「大ナル哉春」を何か物の本からの引用めかして、その通りと
強調した ものと 思われる。延宝八年刊と推定される『向之岡』 (不卜 撰 一 初出なので、延宝八年以前の歳旦吟である。
延宝も末になると、和文の古典や謡曲の種もそろそろ尽きかけて、俳人連の眼は漢詩文に向けられるようになった。
これがやがて天和の漢詩文調全盛期を導くのであるが、この芭蕉の発句は、その早い頃の作として先駆的意義を持つ。
「於」 「云 A /」 といった固い用語、字余りの破調•振仮名•送り仮名の多用等がその特色で、『東日記』 (延宝九年夏惑
所収の 言 水の発句にも、「於 A / 峠吐息の霧に富士はなし」といった例が見える。
似かなしまむや墨子芹燒を見ても猶(向—
春季(芹)。
1 0 かなしまむや 「槪しまむや」。悲しむであろうか。「悲しみはしまい」という含意が感ぜられるが、この「や」は、反語と
いう程の強さはないようである。「これを如何にと悲しめば、さすが心もよわくとなり行く事ぞ悲しき」(謡曲「唐船」)
rcagximi , u , c - da . 」(『日葡辞書』)。 〇墨子 「ボクシ」。中国戦国時代初期の思想家。一種の博愛主義たる「兼愛」や非戦論の
「非攻 J を説いた『墨子』五十三篇がある。「子」は「孔子」と同じ敬称。この句の趣向とした「墨子悲糸」の故事については
〔考〕の条で述べる。「墨子の同じく克舜を崇びて夏の道を主張せられたるは、是は又孔子の文武を憲章せられたる、その上を出た
るものなり」(富永 仲 基『翁の文』)。 〇芹焼 「セリャキ」。この名で呼ばれる料理に二種あり、一つは『料理 綱目 調味抄』 (嘯 夕軒蠢
冥、」7-保卜五年3に「地を掘り石を並べ、その上にて火を焚き、焼石の上に芹を置き、上を覆ひ蒸焼にし、醬油に柚酢をかくる」
と見えるもの。今一つは、『和漢三才図会』に、「芹正-二-月連ぃ根与=鳧雉肉一同用,一豆醬及醋:煮食、謂, I 之芹焼?香-味甚美。普
通賞 VZ 」 とある、鳥肉を主材とした鍋焼式の料理である。この句の芹焼が何れを指すか、従来の諸注区々であるが、古朴の世を
理想とした墨子との取合わせからして、簡素にして野趣に富んだ前者とすべきかと思う。また、季語として「芹焼」で冬とする説
156
があるが、どんなものか。 r 芹焼」を冬の季語とするのは近時の歳時記類であるけれども、古い書には季語として採り上げたもの
を見ない。この句と略々同時期の『東 H 記』所収の言水の発句「法師又立リ芹やき比の沢の暮」は春の部中「芹」の題下にあり、
元禄六年の芭蕉発句「芹焼やすそわの田井の初氷」(『其便』)は、「初氷」を季語とすべきものである。『毛吹草』に「私近でも5:;や
きするか水烟作者不知」とあるのも春の部であって、春の七草の「芹」を季語としたと見られよう。従って当面の句も、「芹」
で春の句とするのが良い。「芹焼く」とよむのは非。「芹七種内……冬月より出で、和俗臘寒の間ことに賞翫す。然ども芹は春の部
也。和名にせりと いふ。 其生ずる事、一所にしげくせまり合ふ也。……異名を根白 草、 又つみまし草、又袅ぐと同じ」(『滑稽雑
談』) 「 xeriyaqi . J (『日葡辞書』)。 0 猶 「ナホ」。「やはり」の意。上の「かなしまむ や」 にかかる。「月に星猶 g うての今夜哉重
頼」(『毛吹草』巻六) 「 Nauo . J (『日葡辞書』)。
83113白い練糸を見て悲しんだという墨子は、芹焼の芹を見ても、やはり悲しむであろうか。いや、きっと喜んで食
ベるだろう。
I 『蒙求』の「墨子悲糸」の故事を利用したのが、この句の趣向の根本である。即ち、
淮南子日、……墨子見 II 練糸 I 而泣\之。為 T 其可11以黄 I 可+以黒-|10高誘日' 憫 n 其本同而末異 ?(«* 11尸に日く、
……墨子練糸を見て之に泣く。其の以て黄にすべく、以て黒にすべきが為なり。高誘日く、其の本同じくして、
末異なるを職むなり)
とある話で、墨子は白い絹の練糸が黄にも黒にも染まるのを憫んで泣いたという(『淮南子』を直接の出典とする注
が多いが、専門の漢学者でもなければ、なかなか目をさらしてはいない書物である。手近の『蒙求』を出典とした方
が良い)。ここではそれを芹のことに転じ、白い芹の根が焼かれて色が変って行くのを見ても、墨子は やはり 悲しむ
だろうかと興じた。「芹焼」が日常身近の素材である上に、「かなしまむ や」 の裏には'「悲しむどころか、喜んで食
ベるだろう」という含みがあって、俳諧味が十分である。散文的にいえば「墨子芹焼を見ても猶かなしまむ や」と あ
るべき文脈を倒置した句作りも、唐突な戸惑いを読者に感じさせて効果的といえよう。出典からして延宝八年春以前
157 延 II 八年
の成立と見られ、字余りの佶屈調も著しい。「於春 A /」 の句と共に、漢詩文に目を向けて来た初期の作なのである。
7/5 花にやどり瓢簟齋と自いへり(向之岡) •
華にやどり瓢單堂と自云り-真蹟草稿切)
花に舍り瓢先生と自云り(色蕉翁句解参考)
春季(花)。
I 〇花 にやどり 「花に宿り」。花の下に一夜を明かす意。『平家物語』巻九、一谷合戦に於ける平忠度最期の条に、忠度の菔に
結び付けられていたという「旅宿花」と題した歌「行くれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」(謡曲「忠度」
にも出る)、また『撰集抄』卷八、実方中将の歌の事の条に見える実方の歌「桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花の陰にく
らさむ」(『拾遺集』卷一に、よみ人しらずとして末句「影にかくれむ」)等を心に置いているであろう。 「 cocagueniyadoru .」
(『日葡辞書』)。〇瓢 簟斎 「へ ゥタン サィ」。「簟」 は 「 簞」の字を用いるのが正しい。分けていえ ば、「瓢」は、 飲物を入れる器。
所謂「ひょうたん」ではなくて、丸いひさごを半分に割って作った半球型の椀である。「簞 J は、飯を入れる器で、そういう身の
廻りの品を持つ我が栖を、中国の隠者めかして「瓢簞斎」といった。勿論戯号であって、「瓢簞屢空、草滋 n 顔淵之巷一」(瓢簞屢
空し、草顔淵が巷に滋し。『和漢朗詠集』下、橘直幹)「子日、賢哉囘也。一簞食、一瓢飲、在,一陋巷—〇人不 x 堪 n 其憂 — 〇囘也不 Z 改其
楽?賢哉囘也」(子日く、賢なる哉囘や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂ひに堪へず。囘や其の楽しみを改めず。
賢なる战囘や。『論語』雍也)等の漢詩文を踏まえている。陋巷に住んで貧しい生活をしながら、道を楽しむ自らの在り方を貫いた
孔子の弟子顔淵(回)を意識しているのである。それと今一つ、この句では花下に宿る趣であるから、酒を入れた瓢簞(ひさごの
実の種を取り去って乾かした容器)の意もほのめかしているのであろう。 「 Fe 6 tan . l , fi 6 tan .」 (『日葡辞書』)。〇自い ヘリ 「0ら
云へり」。みずからそういう名を付けている、の意。杜甫の「飲中八仙歌」の一節「李白一斗詩百篇、長安市上酒家眠、天子呼来
不一上 k 船、自称臣是酒中仙」(李白は一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る。天子呼び来れども船に上らず。自ら称す臣は是れ酒中の
仙)を心に置いた表現と思われる。「自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有」(『笈の小文』)
「 Mizzucara . 」(『日葡辞蚩日』)。
■ ana 花の下に宿って顔回を気取り、瓢簞斎と自ら名乗っている。瓢箪の酒があるので楽しみも十分だ。
■ BS 1 花の下で一夜を明かす興を、古歌や漢詩文を踏まえてあらわし、その間おのずから風狂の情を盛っている。天
和から貞享にかけての時期に著しい風狂の傾向の早い頃のあらわれとして注目されょう。加藤楸邨氏の『芭蕉全句』
にいうょうに、貞門時代の正章の句「人心へうたんなれや花の波」(『毛吹草』巻五)を漢詩文的に翻すと、こうした句
になるのである。異形として掲げた真蹟草稿切は、江戸後期の俳人梅人が描いた芭蕉像に貼付されているもので、他
に「青ざしや」「椹や」の句も書かれているが落款はない。句形や筆蹟の面から『向之岡』板本との先後を決定す
る根拠は見出し難いので、板本所載の句形を本位句とする。『句解参考』の句形も何に拠ったものか分らないが参考
までに掲げた。延宝八年春までには成っていた句である。
酒 狂
抓花に醉 y 羽織着てかたな指女(真潰集覧) 題名家発句集
上野-'春興
花に醉り羽織着てかたれ指す女(続深川)
春季(花)。
〇酒狂「シユキヤゥ」。酒に酔って常軌を逸した行動をするさま。「白菊の花を肴に立ち舞ふ袂、酒狂の舞とや人の見ん」
(謡曲「三笑」) 「 xuqi 6 • sacagurui . 」(『日葡辞書』)。〇花に 酔リ 「花に酔へり」。爛漫たる桜花に浮かれているさまを、酒ではなく
159 延'セ八年
て花に酔っていると表現したもの。実際には花見酒に酔っているのである。謡曲「田村」の詞章「天も花に酔へりや。面白の春べ
や。……げにやけしきを見るからに、た ir 人ならぬ粧の、その名いかなる人やらん」を踏まえる。「酔へり」ともよめるが、謡曲
も「袅へり」と発音するから、それに従う。「リ j の片仮名は、漢籍訓読の際の送り仮名を摸した。 「 Yei , yo >, yolta . 」(『日葡辞書』)。
〇羽織着てかたな指女「羽!!」は、和服の上半身に縷う装飾用の服。「かたな指女」は、「刀指す女」とよむ。当時羽織は女性の
着る物ではなかったというから、刀を腰に指すことと共に、女らしからぬ風体であることが分る。「不断の風俗、つねの女に替り
て、心のま、成事ぞかし。わざと羽織を仕立、男のすけるありさま、大かたの町人はなるまじき事なり」(『好色盛衰記』巻四ノー )
「ころもがへ刀もさして見たき哉釈鼠弾 J (『あら野』卷三) 「 Qi , s '. ta . 」 「 catanauosasu . 」 「 vonna . J (『日葡辞書』)。
3a 女だてらに羽織を着て刀を腰にさしているのは、酒を呑んだ上、この盛りの花に酔っているのだ。
I 『続深川』(梅人撰、寛政三年刊)には、この句について「上野 k 花見の一章は深川のことにはあらねど、先の雪中
庵このたん ざく の正筆をえて社中に おくり 侍れど、句撰•泊船集にこの句もれ侍れば、こ、ろにか X りたる となむ。
予所持翁自筆句帖を開きみて横手打、年来のおもひはれにきとよろこべるこ、ろざしの切なるをおもひ出て爰にしる
す」とあり、『真蹟集覧』(松栄軒編、天保十三年刊)『類題名家発句集』(惹逸編' 嘉永元年刊)には真蹟の摸刻が見える。『続
深川』の「かたれ」は、「那」の草体の仮名を「れ」と誤ったものであろうが、同書所収の句は、その跋によると延
宝末年から貞享末までのものという。謡曲「田村」の詞を裁ち入れて享楽的な当世風俗を写した句柄からして、この
句は延宝の末、深川移居以前に成ったものと推定される。原物は伝わらぬながら、真蹟の存在したことは確かである。
先ず「花に酔リ」と強く打ち出した句作りが印象的で、いずれ玄人らしい女性の寛闊ぶりが面白い。『続深川』の前
書によれば、江戸の上野の花見の一点景ということになる。
抓五月の雨岩ひばの綠いつ迄ぞ Is f 庵句藻
118
160
五月雨に卷柏の綠いつまでぞ?家類題集)
夏季(五月の雨•岩ひば)。
I 〇五月の雨 「五の 1 」。 「さみだれ」と同じ意味で「五月雨」の語はよく用いられるが、間に「の」を入れた例は珍しい。
長雨に倦んだ気持をあらわしたものか。「ひね麦の味なき空や五月雨木節」(『猿蓑』卷 二 ) 「 satguqiame. i, Samidare.J (『日葡辞
書 JI )。 〇岩 ひばの緑 「君檜葉の! I 」。山地の岩壁などに生えるィヮヒバ科の常緑多年草。広い意味では羊歯類の一種といってよい。
盆栽としたり、庭石の間、藁屋根の上などに観賞用として植えられる。直立した茎は高さ二十センチ以上にもなり、茎の頂や枝の
先に又細い枝が八方に展開する。こまかい鱗片状の緑の葉が密生し、そのさまは檜木の葉を思わせるのでこの名がついたのであろ
う。その葉は乾燥したり冬の寒さに遭うとちりちりに縮み、湿り気を与えると又もとに戻る特性がある。「卷柏」は漢名であるが、
『十家類題集』のその字はやはり「ィハヒバ」と訓んでよい。「卷柏の月に手をさす今宵哉言水」(『団袋』)「秋の色にすねたる松
の&哉冨沢」(『毛吹 草』 卷 六 ) 「 Midori . 」 (『日葡辞書』 〇◦いつ迄ぞ 「何時迄ぞ」。みずみずしい緑が何時まで保つことかと疑う
意であるが、初めの「五月の雨」が何時まで続くことかと倦み厭う気持も兼ねている。「いつ迄か雪にまぶれて鳴千鳥千那」
(『猿蓑』卷一) rltgumade.J (日葡辞書)。
ia 五月の長雨が続く。岩檜棄の緑が鮮やかだが、このみずみずしい色も何時までもつことか。
RH 『向之岡』初出の夏の句なので、成立は延宝八年夏を降らない。梅雨の長雨に倦んだ気持と、「岩ひばの緑」を
何時までもと願う気持は本来矛盾したもので、それを 一口に「いつ迄ぞ」という表現でまとめている。自然を対象に
して、矛盾する二つの願望の間を揺れ動く気持をあらわしているが、それ以上に作られたおかしみが認められないの
は、この時期の作として珍しい。『十家類題集』(屋烏編、寛政十一年刊)の句形は誤伝らしく、問題にはなるまい。
無な星ひじき物には鹿の革(句稿断簡)
1G1
mu./
秋季(星合)。
1 M 〇 嘸な星 「|1な&」。「星嘸な」を逆置した表現。星は定めし、以下のようであろうと思いやったのである。「な」は、感動
詠嘆の助詞。「さぞな都浄瑠璃小哥はこ ゞ の花信章」(『桃育三百韻』) 「 SSO . :…: i , sacoso . J (『日葡辞書』)。 0ひじき物 「引敷
M 」。 「ひきしき物」の意で、敷物のこと。「ひ」「ひき」は接頭語である。〇 鹿の革 鹿皮の敷物をいう。既出(96)。
3 a 七夕の夜、牽牛•織女の二星は、定めし鹿の革を敷物にして逢瀬を楽しんでいるだろう。あの通り鹿革には星
があるのだから。
1 『伊勢物語』三段の歌「思ひあらばむぐらのやどにねもしなんひじきものにはそでをしつ k も」を踏まえ、「そ
で」を「鹿の革」に転じて俳諧にした。これは海藻の一種「ひじき藻」を贈る時に添えた歌で、その名が詠み込まれ
ているのであるが、この藻は漢字で「鹿尾菜藻」と書き、やはり鹿に縁があるのもおかしい。この句を載せる句稿断
簡は笹見京子氏蔵。『連歌俳諧研究』五十一号に富山奏博士が紹介されたもので、桃青.幸入.立詠.松意•信建ら
の七夕の発句五句を列記してあり、撰集の草稿として書かれたものの断片かという。桃青以外の四人も延宝期江戸に
於ける談林俳人である。『江戸通り町』に収める桃青の七夕の発句「秋きぬと妻こふ星や鹿の革」( 96 )が当面の句と
類想であるところから、富山博士は延宝六年頃の作と推定しておられるが、当時の板本に所見がないので、ここでは
姑く深川移居より前とだけ見ておきたい。内容は漢詩文調以前の、おかしみを専らにした談林風である。
//9夜ル竊一一蟲は月下の栗を穿ッ(東日記)
秋季(栗名月)。
1 〇 夜ル 「ル」は、「夜」の字を「 3 ル」と訓ませようとする表記法である。「ぬれはなけれど弥陀風がよい昼はおい夜るは
162
おはれて通ひ路の」(『投盃』第八) 「 Yoru . 」(『日葡辞書』)。〇窃二こっそりと音も立てずに。「詩の正義にいへる五つのしな、あ
るはやまとの卷< のたぐひにはあらねど、例の口に任せたるにもあらず、窃により所ありつる事ならし」(『炭俵』素龍序)
「 Fis 8 ani .」 (『日葡辞書』)。〇 虫は月下の栗を穿 .7「虫」は、栗の実を食べる栗虫の類。「虫」も秋の季語であるが、ここでは
「月」と「栗」の取合わせで栗名月と呼ばれる九甩十三■夜の月(後の名月)を思わせている。「甩 T A 」 「齡 ッ」 等は漢詩調。事々し
い用語で人の意表をつく効果がある。「此虫といふは抹の虫の事なり」(『御傘』)「九月十三夜は。栗名月とも。まめ名月ともいひ。
又ふた夜の月。後のこよひなども申し侍る。名月のおさめなれば。夜をのこすいりかたをうらみ。つねにも似ず月の名残をしたふ
心ばへなどすべし」(『山之井』)「庭には池水をた、へつ、、鳥は宿す池中の樹、僧は敲く月下の門 」 (謡曲「東北 t 「むべ もむかしの
をとこは、さをはうがつなみのうへのつきを、ふねはおそふうみのうちのそらを、とはいひけむ」(『土佐日記 』) 「scxi .」
「 GVECCa . Tguqinoxita . 」 「 curi . J 「 vgachi , 1 5 u , atta . 」(『日葡辞書』)。
nuns 深夜、こっそりと音も立てずに、虫は皎々と月に照らされた栗の実に穴をあけている。
■2 ■延宝九年六月奥書の『東日記』(言水撰)初出の句で、同書には「後名月」四句の冒頭に載っている。従って前
年の九月十三夜までには成っていたものと見られよう。漢詩文に材を採り、表記にもそれを思わせる工夫を凝らした
上、字余り等の佶屈調を特色とする天和調の俳諧は、芭蕉の発句にあってはこの作あたりから本格化する。『東日記』
という撰集全体にも、こうした特徴は著しい。『和漢朗詠集』下の最初に見える傅温の詩句 r 春風暗剪,一庭前樹(夜雨
偸穿 M 石上苔一」(春の風は暗に庭前の樹を剪る。夜の雨は偸かに石上の苔を穿つ)を踏まえ、「夜雨」を「虫」に「石
上苔」を「月下の栗」に変えて俳諧にした趣向で、「栗」を出すことによって九月十三夜を K めかしたところにも、
談林風らしい機鋒があらわれている(十三夜には栗を月に供える慣わしから、「栗名月」の称が起った)。また、 「月
下」の語は、推敲の故事で有名な賈島の詩句「鳥宿池辺樹、僧敲月下門」(鳥は宿す池辺の樹、僧は敲く月下の門
『苕渓漁隠叢話』)を思わせるところもある。秋の虫はその鳴く音を賞するのが本意であるにも関わらず、 栗の実を 爹 う
虫などを持ち出したのも、殊更奇をねらった感じは覆い難い。勿論栗虫の姿を見ることは出来ないから、この句の内
容は写実ではなく、想像を動機とした箸である。談林風のわざとらしさをこのように十分具えながら、句の世界に遍
満する静寂、天地の間の自然の営みに息を詰めて見入り聞き入るような深沈とした気分を見逃すことは出来ない。空
にある十三夜の月は大きく、地上で栗を穿つ虫は極く小さいけれども、何れも自然の大きな運行の流れに棹 さす 物な
のであつた。そんなことまで考えさせる深いものが、この句の調べの中には確かにある。やがて蕉風の寂びに結び付
くものが、早くもここに現われていることは注目してよいと思う。
必蜘何と音をなにと鳴秋の風(向之岡)
秋季(秋の風)。
i 〇蜘「クモ」。節足動物の一種。,蜘蛛」と書くのが正しいが、この時代には「蜘」或いは「蛛 J 一字で「クモ」と訓ませた
例も多い。「蜘の巣の是も散行秋のいほ路通 J (『あら野』卷七) rcumoamiuomusubu . J (『日葡辞書』)。〇何と「傾と」。どうだ
ね、と相手に呼び掛ける言葉。「何と」とよめば、「なんだつて」と相手に反問する気持になるから、ここは rg と」 とよんだ方が
良い。「なんと伝兵衛、町人は爰が心やすい。侍なれば其ま ゞ せつぷくするであろの」(『心中天の網島』下)。〇音をなにと鳴「1日
を何と鳴く」。声をどのように出して鳴くのか、の意。この「なにと」は副詞で、「どのように」 r 何と言つて」の意をあらわす。
「音を鳴く」は鳥や虫が声を立てて鳴くこと。人間が泣く意に用いることもある。「あまのかるもにすむむしの我からとねをこそな
かめ世をばうらみじ」(『伊勢物語』六十五段)「いかに旅人、今の歌をばなにと詠じ給ひさふらうぞ」(世阿弥筆本謡曲「江口」)
「Mlzzuno socode toxmo furu cauazzu bacanzo neuoba naqu . J 「^ anito . J (『日葡辞書』)。
价へ casa 蜘蛛よ、どうだね、このわびしい秋の風の吹き渡る中でお前は何といつて鳴くのかね。
3 BB この句の趣向は、『枕草子』に見える蓑虫のことを背景にしている。即ち、
みのむし、 いと あはれなり。おにのうみたりければ、おやににて、これもおそろしき心 あらんと て、おやのあや
164
しききぬひききせて、いま秋風ふかむをりぞ、こんとする。まてよといひおきて、にげていにけるもしらず、風
の音を聞きしりて、八月ばかりになれば、ちちよちちよとはかなげになく、いみじうあはれなり。(四十三段)
とあるように、蓑虫は秋風を聞いて「ちちよちちよ」と鳴くというのに、蜘蛛はどうなのだと言っているのである。
しかも蓑虫の事は裏に隠した所謂「抜け」の技法であり、鳴くことのない蜘蛛に対して鳴くことを求めるところも談
林風の寓言趣味で、蜘蛛に向って禅問答を仕掛けるような感じがある。しかし、何と問い掛けられようと蜘蛛が鳴く
音を出す箸はないし、その問い掛けは身にしむ秋風のわびし さと 共に、自らへ返って来ることになろう。前の「夜ル
窃二」 (§) の句と同様に、談林風の型を踏襲しながら、その枠に納まりきらないものがあるわけで、それがこれから
先新しいものを拓いて行くきっかけになるのだ。索々たる秋のわびしさが、黙して語らぬ蜘蛛の姿と共に、作者の孤
独感を象徴している。同時代の類作に、
何を音にすぽん鳴らん五月雨闇 (其角『田舎の句合』)
田中菴水鶏音を何と鳴鼈 才丸( I )
といったものが見えるが、これらはまだおどけた調子が目立ち、芭蕉の句の持つ深沈とした気分には及ばない。次の
句と共に『向之岡』初出なので、延宝八年秋を降らない時期の作と思われる。
切愚案ずるに冥途もかくや秋の暮(向之岡)
秋季(秋の暮)。
i 〇 愚案ずるに 「愚案ずるに」。「愚」は、自らを謙遜していう一人称。「拙者」等と同じ気持である。私が考えるに、の意。
漢籍の注釈書(抄物)の口調を摸した。「愚按伲ならぬもの。加茂川の水、双六の賽と申伝へ侍る」(『役者論語』賢外集) rGuan .
165 延宝八年
Vorocanaru xian . 」 「 Anji , zuru , ita . J (『日葡辞書』)。〇冥途 もかくや 「冥途も斯くや」。「冥途」は、死者の霊魂が迪って行く道。
仏教でいう地獄•餓鬼•畜生の三悪道など、人間死後の世界である。「かくや」の「や」は疑問。「斯くやあらむ」を省略した言い
方である。「なかぬ日は冥途に行か時鳥宗除」「口の中冨楼那もかくや子規貞助」(『毛吹草』卷五) rMeido . curaqimichi . i ,
Xixite yuqu michi . 」 「 cacu . J (『日葡辞書』)。〇 秋の暮 「秋の暮」。この語は、秋の夕べの意味と秋の末の意味と両様に用いられ、
一々の場合によって判断しなければならない。この句の時節は秋も深まった頃であろうから、秋の末の意と見られる。「九月尽
秋の暮……あきのくれは。.•.…よろづおとろへたるていたらく。又ゆく秋の名残をおしみ。かへるかたをもしたはまほしき心ばへ
などすべし/やねにふけあすはしぐれん秋のくれ」 (『山 之井』)。
不肖私がつくづく考えて見るに、死後に行く冥途もこんなであろうか、この秋の末の寂しさは。
■一■秋の末の寂しさを「冥途もかくや」と表現したのは、別に珍しい思いつきでもないが、抄物などの口調を摸し
て「愚案ずるに」と事々しく言い立てたところは、おかしみをねらった談林風である。しかも、「夜ル窃ュ」 ( g ) r 蜘
何と」 (§) 等の句に比べると、しみじみとした気分は然程伝わって来ず、事々しい言い振りだけが徒らに目立ってい
る。勿論しみじみとした深さは、この時期の作者の初めから意図したものではなく、何れも似た動機から発想された
のではあるが、後の蕉風へとつながる指標としての意義は、前の二句より低いと言うべきであろう。なお類作として、
其角の『田舎の句合』に「今案ズルニ寒食の家には自身番」という句が見える。
あら野.真蹟懐紙•真蹟画賛.真蹟集覧.泊船
似枯朵にからすのとまりけり秋の暮(真蹟自画賛短冊) 集•三冊子•蕉翁句集草稿.蕉翁句集•鵠尾
冠•冬のうちわ.種瓢
枯枝に烏とまりたりや«の暮 (ほのぐ立)
枯奎にからすとまりたるや秋の暮(真蹟短冊)
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮(東日記) 一囊画賛.真蹟短冊
166
秋季(秋の暮)。
1 M 〇枯朶 r ヵレヱダ」。 晩秋に葉の落ち尽した枝であって、枯死した木の枝ではない。「あきのくれは。 野 はらの虫けらも声し
はがれ。やまの紅葉もえだばかりと見え」(『山之井』)「枯枝に麗龍見たり蔦紅葉」 ( r 蕪村句集拾遺』) 「 careyeda .」 (『日葡辞書』)。 〇
からすのとまりけり 「烏が止まりけり」。「米つく音は師走なりけり其角夕膜宿の長さに腹のたつ同」(『あら野』 員外) 「あけ
ぼのや驚とまるはね釣瓶伊®一 桐」 (『あら野』卷二) 「 carasu . 」 「 Torigaqinoyedanitomaru . J (『日葡辞書, I )。 〇秋の 暮秋の夕べ
と、秋の末と、両義に用いられることは、「愚案ずるに」 ( g ) の句の条に述べた通りである。当面の句は、『東日記』では_之部
の最後「秋晩」の条にあり、同じ所には「碁打坐頭暮ゆく秋や馬に鞍」という露沾の句も見えるから、時節としては晩秋の趣に解
すべきであろう。但し、この句の場合、井本農一博士が『鑑賞日本古典文学.芭蕉』で指摘されたょうに、暮色が漂い始めた風景
と取る方が、単に晚秋と取るょりィメ—ジがこまやかに具象的になる。従って語の意味は「秋の夕暮 J と解し、背景としての時節
は晩秋と見たい。『あら野』で仲秋の部に収めているのは、撰者荷兮独自の解釈か。
HB 1 枯枝に烏がとまったなあ、この寂しい秋の夕暮に。
I 『泊船集』(風国編、元禄十一年刊)の前書には「秋のくれとは」とある。『ほの立』(高政撰、延宝九年三月自序)には、
巻頭に当風•中古•古風の代表句を各三句挙げた中に、
木食やこず袅の秋に成にけり
枯枝に烏と まりたり や»の暮
雪の果大仏瘦て影もなし
と見えており、年代的にはこれがこの句の板本所出として最も早い。『東日記』の「烏のとまりたるや」との異同が
問題になるが、『ほの立』の撰者高政は芭蕉とは終生没交渉だったとはいえ、異同を態々傍注して示した慎重な
態度からして、一概に誤りとして却けるのも如何かと思う。しかしまた、『東日記』との違いは小異に過ぎず、時期
も殆んど同じ(『東日記』は延宝九年六月中旬成稿> であって見れば、色蕉の作を多く収めた江戸板の『東日記』(板
167 延宝八年
下は其角筆といわれる)の方が信憑性が高いといえよう。但し、最近『芭蕉全図譜』(今栄蔵氏ら編)に紹介された、中
七を「からすとまりたるや」とした真蹟短冊の句形は、基本的には『ほのぐ立』型で、「たりや」が同書の誤記と
すれば、両者は全く一致する。この真蹟短冊によって、『東日記』の句形に先立って「からすとまりたるや」の案が
あったことは確実になった。何れにせよ、これら板本の年代によって、延宝期の初案の成立は、同八年秋を降ること
はなく、恐らくは八年秋に成ったものと推定される。この初案の作意は、「秋の暮 J の寂しさを、古来の画題「枯木
寒鴉」を引合に出して見立てたところにあるらしい。だから、『泊船集』の「秋のくれとは」という前書は、初案の
「烏のとまりたるや」に対してこそ相応しいのであって、改案の「とまりけり」には余りぴったりしないものなので
ある。「烏のとまりたるや」と十音にも及ぶ字余りで興じた調子を出しているのも、談林風のおかしみが狙いだった
ことを示している。こうした見方の参考に資すべきものとして、『東日記』と同形の句を賛した岡田知浩氏蔵の芭蕉
自画が挙げられる。これは横八十センチ以上の絹地に描かれたものであるが、中央に「笠やどり」と題した文章があ
り、絵は左右二つに分れる。左の絵については後に「世にふるも」(ぞの句の条で触れるが、「枯枝に」の句に関係
するのは右側の絵で、枯木に紅葉した蔦もみじが絡み、枯木の枝には七羽の烏、空には更に二十羽の烏が飛んでいる
図である。とまっているものも上下左右様々の方向を向いた動きのある姿態で描かれている。つまり「枯木寒鴉」の
取合わせで想像される侘びた寂しい景色ではなく、こんな動きのある賑やかな情景を初めはィメージしていたので、
其処に「烏のとまりたるや」という弾んだ調べの動因があったのであろう。この絵には「泊船堂芭蕉翁」の落款があ
り、筆蹟から天和初頭の染筆と推定されている。
この自画賛に続く次の時期の重要な資料が、出光美術館蔵の真蹟自画賛短冊である。薄墨で枯木を描き、左向きに
口を開けた烏が一羽とまっている絵に「枯朶にからすのとまりけり秋の暮 J の句を書き、「華桃青」と署してある。
この署名は「乞食の翁」句文や「餅を夢に」 ( B ) の句真蹟等、何れも天和元年(延宝九年)染筆と推定されるものに見
168
えるので、筆蹟の特徴とも相俟って、右の自画賛短冊の成ったのは天和元年か二年、多数の烏を描いた画賛よりは後
と見られる。烏は止まったばかりと見えてまだ動きのある姿であるが、一羽だけになっており、前の絵とのこの違い
は井本博士も説かれたように「からすのとまりけり」とした推敲と密接な関係があろう。「とまりたるや」に顕著な
談林風の見立ではなく、「おや、とまったなあ」と、その瞬間に眼を留めて興じているのである。その興じ方も「と
まりたるや」の浮わついた調子よりは落着いている。延宝末から天和にかけて、僅々一年ほどの間の句風の変化を端
的に示した例ともいえよう。「とまりけり」の形が公表されたのは、元禄二年春刊の『あら野』(荷兮撰)であったが、
実際にはそれより七八年も早く推敲されていたわけである。
談林風の見立を契機としたものだけに、勿論写生的な自然観照の句ではなく、「枯木寒膜」の画題を俳諧 化しよう
と意図したに過ぎない。同時期の作では「夜ル窃- 一」 r 蜘何と」等の方がしみじみとした気分の表現ではまさっている。
しかし閑寂味の典型とされる題材によっていることもあって、特に「とまりけ り」 の形で人口に膾炙し、古池の句と
共に蕉風開眼の句などと言われて、季吟.芭蕉•素堂三翁が会談して一流新立をはかったという所謂「茶話 口伝」 の
伝説をさえ生ずるに至った。なお「からすのとまりけり」の形の発句に「鍬かたげ行霧の遠里」という素堂の脇を添
えた真蹟懐紙や、門人森川許六の烏の絵に賛した晩年の筆蹟も知られている。
似 よるべを いつ一葉に蟲の旅ね して(東—
秋季(一葉)。
i 〇 よるべをいつ 「寄る辺を何^-」。「よるべ」 は、 頼りとする処。ここでは葉が漂い着く岸辺を意味する。「寄る辺を何時と
知るべきぞ」の略で、何時になったら岸に着けるのだろう、の意となる。「我身のよるべにたのまむにも、いとたの もしき 人な り」
169 延宝八年
(『源氏物語』玉鬉)「花よめとよばれしはいつ姥桜秀重」(『毛吹草』卷五) rYorube . 」 rlt9u . 」(『日葡辞書』)。〇-葉「ヒトハ」。中
国の古典『淮南子』の「見一一一葉落一而知一一歳之将 I .暮 J (一葉落つるを見て歳の将に暮れんとするを知る)という一節に発して、秋
に木々の葉の落ちそめることをいう。「一葉ちるに桐.柳•揪•柞など付るは同意也。初秌に是等の木の葉落初る故なり。一葉衣
も一葉とばかりも初秌也」(『御傘』)「一葉ひとはの舟 i は桐也」(『増山井』)「水の蛛一葉にちかくおよぎ寄晋子」(『となみ山』)
「 Fitofa . J (『日葡辞*』)。〇 虫の旅ねして 「虫の旅寝して , -〇葉の上に虫が取り着いて水 t を漂うさまを「旅寝」に見立てた。「の」
は主格をあらわす。「虫」も秋の季語で本来は秋鳴く虫をいう語であるが、ここの「虫」は謡曲の典拠によって、「蜘蛛」を心に置
いているものと思われる。精しくは 〔考〕 の条で述べたい。「鳴虫の声の薬や野辺の露重方」(『毛吹草』卷六)「ひと、せ此郷に旅
寝せしおり^^の云捨あつめて」(『あら野』序) 「 Tabineuosuru .」 (『日葡辞書』)。
ia 水に落ちた一葉の舟に乗って虫が旅寝をしているが、何時岸に寄り付けることか。
■3 ■謡曲「自然居士」に左のような一節がある。
……黄帝の臣下に貨狄と云へる士卒あり。ある時貨狄庭上の池の面を見渡せば、折節秋の末なるに、寒き嵐に散
る柳の一葉水に浮びしに、又蜘蛛といふ虫、これも虚空に落ちけるがその一葉の上に乗りつ\、次第// A / にさ、
がにのいとはかなくも柳の葉を、吹きくる風に誘はれ、汀に寄りし秋霧の、立ちくる蜘蛛の振舞実にもと思ひそ
めしより、エみて舟を造れり。黄帝これに召されて烏江を漕ぎ渡りて蚩尤を安く亡ぼし、御代を治め給ふ事一万
八千歳とかや。
この中国の古伝説は「藤栄」にも同文で見えているが、今栄蔵氏の『色蕉句集』が指摘するように、この句の趣向は
これらの謡曲から得て来たものと思われる。古くから秋季とされた二葉舟」の語も利かして、その上に乗って流れ
る「虫」を旅寝と見立てたのである。また、「よるべをいつ」については、謡曲「浮舟」に「亡き影の絶えぬも同じ
涙川、よるべ定めぬ浮舟の、法の力を頼むなり」「橘の小島の色は変らじを、此浮舟ぞよるべ知られぬ」等とあるの
が指摘されており、字余りも併せて、これらは凡て談林風の表現技法の枠内のものであった。『東日記』初出で延宝
170
八年秋以前という時期の作とあれば、そうしたことは謂わば当然であるが、これまでの数句と同様に、この句にも談
林の枠に納まり切らないものがある。つまり、一葉舟に乗って流れる虫を旅寝と観じ、その「よるべをいつ」と思い
遣った趣は、「虫」に作者の境涯を象徴し、自己の生を行方知らぬ旅寝としたわけであって、もう滑稽戯笑の作とは
事変り、しみじみとした生の孤独感.寂寥感を思わせるものになっているのだ。そういう俳諧の変質を際立たせる里
程標の一として、この句も記憶にとどめておく価値があろう。〔語釈〕に引いた其角(晋子)の句「水の蛛一葉にち
かくおよぎ寄」は、蕉風の時代に入ってからの作ながら、当面の芭蕉の句と同想といえるものである。
似花むくげ裸わらはのかざしかな S 瞋雲) 東日記•吐緩雜.東西夜話 • I ®
花木槿裸童 P のかざしかな < 真蹟短冊) I 蕉翁句集
秋季(むくげ)。
1 〇花むくげ「花木!!一」。むくげの花をいう。ァオィ科の落葉灌木。枝葉が密に茂るので、人家の生垣などによく植えられる。
晚夏から初秋にかけて五弁の花を開き、俳諧では秋季とする。花の色は普通紅紫色、園芸品には薄紫、薄紅、白などとりどりであ
る。「木槿……木-槿人-家多種- W , 為 M 難-障小木。……其花如=小-葵一小而豔、或白或粉—紅有,一単葉千葉者?五-月:^開。此—花 I
開暮歛」(『和漢一-一才図会』)「賤の戸や裾にしぼむ花むくげ言水」(『東日記』) rMucugue .」 (『日葡辞書』)。〇裸わらは "nit 盤 Mi 1。裸
の子供。『東日記』『吐綬難』(秋風撰、元禄三年 S 『芭蕉盥』等には「童」と漢字を用いているが、真蹟画賛の下に便宜一括した。
「 Fadaca . 」 「 vasua . 」(『日葡辞書』)。〇かざし「挿頭」。髪や冠に植物の花の枝をさして飾りとするこ.と。また、その物自体を指
す。生物の生命力を身につけようとする感染呪術に発した習俗であるが、宮廷人の優雅な装いを思わせる。「いまかりする、かた
ののなぎさの家、そのゐんのさくら、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝ををりてかざしにさして、かみなかし も、
みな歌よみけり」(『伊勢物語』八十二段) 「 oazaxi , su , aita . 」(『日葡辞書』)。
171 延宝八年
wi 木槿の花を裸の子供が頭にかざしているよ。(大宮人なら桜の花の枝をかざしにするところだが)
1111『蕉翁句集』には「一桐所持のたんざくに二句」と前書がある。板本としては『東日記』初出なので、延宝八
年秋以前の作と見られる。伝存の真蹟画賛は、金太郎のような腹掛をし fc - 裸の子供が足を投げ出してすわり、両手で
木槿の花の枝を掲げ持っている絵(英一蝶作)に句を賛したもので(『俳人の書画美術2色蕉』参照)、「色蕉庵主桃青」と
署している。書風は天和期の特色を示しており、「芭蕉庵」の呼び名が定着して以後の染筆であろう。「裸子の木槿の
花もちたる画の讚に」(『東西夜話 JI ) 「裸子の木槿の枝持たるに」(『芭蕉盥』)等の前書も、現存の画を思わせるし、『東西
夜話』(支考撰、元禄十五年刊)には越中石動の従古亭にこの掛物がかかっていたことが記されている。また、最近『芭蕉
全図譜』に紹介された真蹟短冊も天和期の筆蹟で、「はだかわらべ」という『蕉翁句集』所伝の句形と一致するので、
或いは「一桐所持のたんざく」がこれに当るのかも知れない。「わらは」「童 P 」 と同じ時期の筆蹟に二様に書かれて
おり、ここでは姑く r わらは」の形を本位句とした。
山本健吉氏が指摘されたように、『東日記』入集当初から画賛の句だったとは限らないけれども、談林の風をまだ
脱し切らない時期の作として、ただ属目のものを写したというのではなく、必ず何か趣向がある箸である。この場合
は諸注に説くように、「も、しきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ」(『新古今集』巻二、赤人)等の古歌
を背景にして、大宮人なら桜や梅をかざしにするだろうが、鄙びた趣の「花むくげ」は田舎の裸童のかざしが丁度よ
い、といっているのであろう。情景の直叙でなく、間に理知の働きが介入して俳諧のおかしみを助けているわけだ。
しかし、「裸わらは」と「花むくげ」の取合わせは、田舎らしい日常の断片を俳諧に採り上げたものとしてそれなり
の意義はあり、『炭俵』(元禄七年刊)に見える利牛の発句「子は裸父はて k れで早苗舟」や、
うどんうつ里のはづれの月の影 荷兮
すも、もつ子のみな裸むし 越人(『ひさご』)
125
172
といった付合の世界に通うものを持っているといえよう。
於君崎ュ古吟に
松なれや霧袅いさら袅いと引ほどに ¢1)
秋季(霧)。
H 〇於 君崎 —「君崎-一於いて」とよむ。「君崎」は、今の横浜市金沢区片吹にある能見堂跡の入江に臨む景勝の地。ここに筆捨
の松と呼ばれた古松があった。平安時代の著名な絵師巨勢金岡が来て景色を写そうとしたが、余りの絶景に筆を捨てたという伝説
があり、即ち句中の「松」である。一丈八尺ほどもある巨松で、大正の頃まで命脈を保っていたが、その後枯死したという。 〇古
吟 r コギン」。昔作った句、という程の意。この前書は『翁草』(元禄九年成)の撰者里圃が付けたもので、蕉風創始以前の作であ
ることを、このように表現したのである。 〇松なれや 「なれや」は、詠嘆の語法。 既出 ( 75 )。さても見事な松だ、と感心してい
るのである。〇 霧 「キリ」。秋の季語。 r 霧はよろづへだつる物なれば。海 2-= は見えずして。波の 1 日のみざ V らめくけしき。&松
はこず表もかくれて。声ばかりざ V んざとするありさまをつらね」(『山之井』)「霧不—断の香をたきと詩にも作るは、只秋の霧の事
也」 (『御傘』) rQiri .」 (『日葡辞書』)。 0系いさら系いと引ほどに 「袅いさら袅い」は、物を引く時の掛声で、「エンヤラヤ」等と同
じ。「袅」を用いる必要はないが、慣用的な表記法である。「引く程に」は、「引くうちに」「引くと」の意。「春の野の駒かけちら
す中にも、 J ?. いさら表いと網をひく」(『尤之双紙』) 「 Yeisara , yeisato , yeitocosa , yeiy 6 sa , yeiyei , yeitomona , yel ^ a , yn > lyato ,
yeitomo yeitom ? 」 「 Fiqi , u , ijta . 」 「 Fodoni . 」(『日葡辞書』)。
caa さても見事な松だ。立ちこめる霧がえいさらえいと退いて行くと、はっきり姿が現われて来た。
■ s ■芭蕉歿後の追善集『翁草』に初めて見える句である。撰者は芭蕉晚年に江戸の草庵に出入りした人なので、芭
蕉作たる信憑性を疑う要はあるまい。前書にあるように、里圃はこれを蕉風成立以前の「古吟」と見ているのである
173 延宝八年
がそのことは句の趣向からも察せられる。即ち謡曲の詞取りであって、「宝をよする波の鼓、拍子を撤へてえいや
くえいさらえいさ引けや岩船、天の探女か、波の腰鼓、ていたうの拍子を打つなりや、さ V ら波経めぐりて住吉の
松の風吹きよせよ、えいさ、えいさらえいさと、おすや唐艙の」(「岩船 , 3とあるあたりを踏まえたのである。「霧」を
擬人化して宛かも霧が松を引張り出すように言い做し、実は霧が退いて行くにつれて、ぼやけていた松の形がはっき
りして来るさまを表わしたのであった。深川移居以前の作として一応 ここに 置いたが、中七を字余りにして興に乗っ
た調子を出しているところから、実際は談林最盛期の延宝中頃の作かと思われる。
こ、のとせの春秋市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古來名利の
地、 空手にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覺へ侍るは、この
身のとぼしき故にや
; 26 しばの 戶にちやを この 葉 かくあらし 哉 S 深川)
冬月江上に居をうつして、寒を侘る茅舎の三句、其一
草の戶に茶を木葉かくあらし哉 g 蕉翁真蹟拾遺)
冬季(この葉)。
〇 こ-のとせの春秋市中に住侘て 「九年*の春!*; t 市!-に tt + み! T ひて」。九年の歳月の間江戸の町中で苦しい生活をして来て、
の意。「春秋」は、歳月のこと。「市中」は、下の深川との関連からしても、隅田川以西の江戸の町中を指すこと明らかである。
「侘ぶ J は本来、窮乏し苦しみ悩む意。「住み侘ぶ j は、苦しい生活をする意になる。「こ、のとせ」は、芭蕉が寛文十二年春、郷
174
里伊賀ょり江戸へ出て来た時から延宝八年冬までの数えの年数である。「しばの戸に」の句が冬季であることと、後に草庵の名と
なる芭蕉の樹を植えたのが延宝九年(天和元年)の春であることから、深川移居は延宝八年冬と推定されることになる。ここに明
示された年数は、移居の時期を考えるに当って重要な根拠を提供するものである。「予モノ、心ヲシレリショリ、ョソヂアマリノ
春秋ヲ、クレルアヒダニ」(『方丈記』) r 予又市中をさる事十年計にして」(「幻住庵記」)「くさの戸ぼそに住わびて、あき風のかなし
げなるゆふぐれ」(「あつめ句」) 「 xichpj 「 sumiuabi , uru , ita . 」(『日葡辞書』)。〇 居を深川のほとりに移す 「居を深川の辺りに移
す」。住所を深川の片ほとりに移した、の意。芭蕉はこれまで江戸の日本橋に住んでいたが、この時隅田川の向側深川(現東京都
江東区)へ移った。その場所については〔考〕の条で述べる。「居は市中にありて自ら隠れ、躬は俗間にありて自ら雅なり」(『浮
世風呂』四編、金龍山人跋)「みかはのくにやつはしといふ所にいたれりけるに、その河のほとりに、かきつばたいとおもしろくさけ
りけるを見て」(『古今集』卷九、業平歌詞書)「いづれのとしにや、栖を此境に移す時、ばせを一もとを植」(「色蕉を移詞 」) 「Qiouo
saru . 」 「 Fotori . J 「 Iyeuovt > ousu .」 (『日葡辞書』)。〇長 安は古来……行路難し 白楽天の詩「送三張山人帰二嵩陽この一節「長安
古来名利地、空手無/金行路難」を引用したもの。「長安」は今の陝西省西安。秦•前漢•唐等の都として繁栄を極めた。「名
利」は、名誉と利益。「空手」は、何も持たないこと、素手。「金」は「コガネ」と訓む。「行路難し」は、道路の艱難を以て世渡
りのむずかしさに喩えた。長安の都は昔から名誉と利益を求める人々の集まる地であって、何も持たず金のない者は世渡りがむず
力ししとしうのである 「 C0 31 • Imxiye , cono cata. 」 「Mlormo futatgum lodasasru , 一, t - ounagaruru . 」 「 chi . rouchl.J
「 cogane . J 「c o < ro . Yuqu miccri . J 「catai fit ? J (『日葡辞書』)。 0云けむ人 「云ひけむ人」。「云ひける人」を、推量の助動詞を用
いて婉曲に表現した。いうまでもなく白楽天を指す。〇か しこく覚へ侍るは 「賢く覚え侍るは」。賢明に思われるのは、の意。白
楽天の詩句に対して、まことにその通りと同感出来る心境なのである。「覚へ」は「覚え」の仮名ちがい。「むかしょり、かしこき
人のとめるはまれな り」 (『徒然草』十八段) 「 caxicoi . 」 「 voboye , ru , etaL 「 Fanberi , u . i , Gozaru , so < r 6, 」 ( 『日葡辞書』)。 〇この
身のとぼしき故にや 「此の身の乏しき故にや」。「この身」即ち芭蕉自身が貧乏だからであろうか、の意。「にや」の下に「あら
む」が略されている。「今の貧につれて無理なる事に人をねだるとは、身に覚て口おし」(『世間胸算用』卷ーノ ニ ) 「 Mi. 」 「Toboxij
teidegozaru .」「 Yuye .」 (『日葡辞書』)。 〇しばの戸 「柴の戸」。枝折戸の意から、ここでは粗末な草庵の意に用いている。「雲は
れて後も時雨る柴の戸や山風はらふ松の下露」(『新古今集』卷六、藤原隆信) 「 xiba.J (『日葡辞書』)。〇ちや をこの葉かく 「茶を木
175 延宝八年
の葉搔く」。「木の葉搔く」は、落葉を掻き寄せること。煮炊きや焚火等の料にする為で、「木の葉」は冬の季語でもある。ところ
で、「茶を木の葉搔く」とはどういうことか、一見その意を得難い。「茶の樹の裏を搔き集める」と解する説は、句の表現に即し
ておらず、常盤樹の落葉は夏季である点からも無理が目立つ。「茶を煮る為に落葉搔きをする」と見るのが、無理ながら作者の意
を得たものではあるまいか。恐らくは談林風の見立の為に、表現が晦渋に陥った例であって、落葉は茶の樹に限らない雑木の落葉
と見るべきであろう。「葉字……一葉散は秌也。木の葉ちる、おち葉は冬也。乍去、色の字をそゆれば秌也。ときは木の落葉は夏
也。松竹のおち葉は雑也。それも色の字あれば秋也」「落葉……木の葉ちるも同事也。ちるとなくて木の葉といへど、枝に付てち
らぬ句鉢ならば雑たるべし」(『御傘』)「我くひ物いとなむ時は柴折くぶるたすけとなり、ちやを煮る夜はきたりて氷をた、く」
(『花膾』所収、芭蕉「きみ火をたけ」の句前書)「このはたく跡は淋しき囲炉裏哉一髪」(『あら野』卷五)「落ばかく身はつぶね共なら
ばやな越人」(『あら野』卷七) 「 chauotatguru . J 「 conofa . 」(『日葡辞書』)。〇あらし「嵐」。強い風。この場合は冬の木枯であ
る。「秋寒げなる夕まぐれ、嵐木枯村時雨」(謡曲「錦木 trAraxi .」 (『日葡辞書』〇
1 a 我が草庵に荒い風が木の葉を吹き寄せて来る。まるで茶を煮る料にと、嵐が木の葉を掻き寄せているようだ。
Bi 出典の『続深川』(梅 人 撰' 寛政 三 年刊)は、色蕉在世時よりかなり後の書ではあるが、杉風の採荼庵に伝わる真蹟
類を紹介したものなので、この句文も信憑性が高い。これ自体が深川移居の年次を証する重要な資料であり、その当
時の心境を託した作なのである。移った場所は深川本(元)番所付近、現在の江東区常盤町 一丁目あたりであったろ
う。六間堀の杉風の持地とする所伝は、これとは位置がややずれるようである。また、松尾靖秋.暉峻康隆両氏は、
出羽荘内藩の記録『藩邸記』によって、森下町二丁目の長慶寺門前、荘内藩下屋敷と道を隔てて対していたと見てお
られ(暉峻氏稿「色蕉と 江戸 JH 『俳句研究』平成 三年一月 号)、森下町となると東北へかなり離れた所である。芭蕉は長慶寺の
住職松山嶺吟和尚と親しく交わったといわれ、荘内藩下屋敷のあたりは用水の水道がなくて船水を買っていたという
点は「茅舎買\水」と題した「氷苦く堰鼠が咽をうるほせり」 (§) を思わせるけれども、『藩邸記』自体が元禄期以降
の資料だから、同時代のものから推定される所に比べて信否の程は果してどうか、確定的とはいえないように思う。
176
句は中七の表現が分り難く、諸説あるけれども、私は右のように解して見た。つまり嵐が木の葉を吹き寄せるのを、
宛かも茶を煮る時にお使い下さいといって嵐が木の棄を搔き寄せているように言い做した俳諧で、その辺に談林風ら
しい見立の興が見えるわけである。しかし、それだけではなく、白楽天の詩句を引きつつ前書に述べられた清貧の隠
者の擬態と、それを承けた句に見える侘びた気分の表出は、おかしみだけにとどまらない俳諧の新しい境地を示して
いるといえよう。市中を引き払って始めた郊外の新しい生活は、やがて「寂び」を士心向する蕉風を拓くことになるが、
その新風を予想させるものが、移居早々のこの句にも既に存するのであった。後に、元禄元年秋に作られた越人との
両吟歌仙(『あら野』員外所収)に於いて、
風にふかれて帰る市人 芭蕉
なに事も長安は是名利の地 同
という 付句を作っている こと も思い合わされる。『真蹟拾遺』(大虫編' 明治初年頃成)の異形「草の戸に」は小異に過ぎ
ず、まだこれを裏付ける真蹟資料は現われていないが、参考までに掲げた。「寒を侘る茅舎の三句」 という 他の二句
は、 「けし炭に薪わる音かをの、おく」( 752 ) と 「櫓声波を打て腸氷る夜やなみだ」 ( I ) である。
/27小野炭や手習ふ人の灰せ、り$之@
冬季(炭)。
gBi 〇 小野炭 「ヲノズミ」。洛北小野(現京都市北区 小 野)より産する炭。鞍馬炭•池田炭と並んで有名だった。 rM やき冬 也。
炭と斗 も 冬 也。 ……炭やきは山類に あらず、 人倫 也。 炭の字は、連に其定未聞」(『御傘』)「をのが先祖はよくしつたと。いふを 小
野炭に。とりなされたる事」(『貝おほひ』廿九番 ) 「sumiuo yaqu . J (『日葡辞書』)。〇手習ふ人 「 P 習ふ人 J 。 「手」は筆漬の意で、
177 延宝八年
「手を習ふ」は、文字を筆で書く稽古をする こと。 文字を書きすさぶ意にも用いる。「このふた歌は、うたのち V は V のやうにてぞ、
てなら ふ人のはじめにもしける」(『古今集』仮名序) 「 Tenarai . 」(『日葡辞書』)。 〇 灰せ、り「灰せ i り」。 「せ、る」は、つつき廻
す こと。 火鉢の灰を火箸でつつき廻す ことで、 文字を灰の上に書きすさぶ こと も ある。 「庭に 立ちながら、 火箸を取灰せ、 りして」
(『好色二代男』* J 一. 7 三) 「 Faiuocaqu . 」 「 xexeri , u , etta .」 (『日葡辞書』)。
1 a 小野炭が火鉢に熾っている。手習する人が、灰をつついて文字を書くのも道理だ。
I 『向之3初出の冬の句なので、延宝八年冬までには成っていた句と見られる。「小野炭」は貞門時代から俳諧
に採り上げられているが、「ふすぼるや小町が貌も小野の炭」(久恵)(『玉海集』)「売炭や雪ふみ分て小野のもの」(『遠近
集』)等、小野小町や『伊勢物語』の連想による趣向が多かった。当面の芭蕉の句の新味は、「小野」と「手習ふ」と
の縁で、王朝三蹟の一人小野道風を思い寄せたところにあるとされる。名筆の人の名に寄せて「灰せ、り」という俗
語を取合わせたところに俳諧を見出すこの解釈は筋が通っているが、私はもう一つ別の考え方もあり得ると思う。
『源氏物語』の末尾に近い「手習」の巻は小野の里が舞台になり、浮舟が登場する。この里に住む尼に救われた入水
後の浮舟が、尼の家に隠れてやがて出家するのであるが、女が手すさびにする「手習」の語が頻りに用いられて卷名
となり、浮舟のことを一名手習の君とも呼ぶ程である。この句の趣向は『源氏』のこの卷あたりを思わせたもので、
それに「灰せ V り」のような俗語を取合わせた俳諧ではあるまいか。延宝末期という作年次からして、何れにせよそ
うした趣向のある句に違いないが、その点を抜きにしても、この句は鑑賞に堪える。山里の侘住居で火桶の灰に手す
さびをする艶やかな女性の姿が髡髴するところが見所といえよう。後年の「棕結ふかた手にはさむ額髪」.(『猿蓑』)の
句に似た「物語の姿」なのである。其処までの意識を、まだこの時期の作者自身は持っていなかったであろうが。
178
、つく 霧傘を手にさげて歸る僧 (東日記)
真績短冊.蕉翁句集.土芳蕉翁全伝•色蕉句選
拾遺.雪のかつら
冬季(霽)。
i 〇 いづく靄 「何処!:」。何処で時雨に逢ったのか、の意。「*」は、雨があがる意をあらわす字であるが、この時代、「しぐ
れ J に宛てることがあった。冬の季語。既出(2;)。「いづくにかたふれ臥とも萩の原曽良」(『猿蓑』卷三)「つ、みかねて月とり
落す霽かな杜国」(『冬の日 t 「 ISUCU . 」(『日葡辞書』)。〇 傘を手にさげて 時雨に逢った時はさしていた傘を' やんだ今は手に
さげているのである。「五月雨は傘に音なきを雨間哉亀洞」(『あら野』卷三)「冬ざれや-«宜のさげたる油筒落梧」(『あら野』卷
八) 「 Casa .」(『 R 葡辞書』)。 0帰る僧 外出から寺へ戻って行く僧。「茴香の実を吹落す夕嵐去来僧や- 1 さむく寺にかへるか
凡兆」(『猿蓑』卷五) 「 S 6. Fijiri . 」(『日葡辞書』)。
_何処で時雨に逢ったのだろぅ。傘を手にさげて寺へ帰って行くあの坊さんは。
E * 『東日記』初出の句で、延宝八年冬までには成っていた箸である。土芳編の『蕉翁句集』には元禄一一年の部に
入れてあり、同じ土芳の『蕉翁全伝』には元禄二年の条に挙げて「此句短冊二書テ調木-一玉ゥ也」とある。『句選拾
遺』に「元二、短冊に書て桐木にたまふ。当地ノ吟也」とあるのは、伊賀所伝によったものであろぅ。元禄二年に伊
賀の門人にこの句を書き与えたことは事実としても、その時に成った句ではなく、以前の句を書いたに過ぎまい。
延宝も末年になると、俳人達は日本の古典や謡曲に趣向を求めるだけではなく、漢詩文に眼を向けて来る。「僧寺
に帰る」といった趣は、漢詩を作ろうとする初心者の好題材であった。この句なども、『和漢朗詠集』下、僧の条の
最初に収める、
蒼茫霧雨之霽初
蒼茫たる霧雨の霽れの初め
179 延宝八年
寒汀鷺立 寒汀に鷺立てり
重畳煙嵐之断処 重畳せる煙嵐の断えたる処
晚寺僧帰 晚寺に僧帰る .
という張読の「閑賦」の一節、或いは謡曲「項羽」の「蒼苔路滑かにして僧寺に帰り、紅葉声乾いて牡鹿鳴くなる夕
まぐれ」という詞章に用いられた、
蒼苔路滑僧帰寺 蒼苔路滑かにして僧寺に帰る
紅葉声乾鹿在林 紅葉声乾いて鹿林に在り
という温庭筠「宿,一雲際寺 I 」の詩(これも『和漢朗詠集』上、鹿の条に所収)を踏まえ、こうした漢詩文の持つ情趣
を俳諧に取り込もうとしたのであった。憎の手にさげている傘は檀家などから借りて来たものか、兎に角雨雫がまだ
垂れているょうな感じがあり、それにょって何処かで時雨に逢ったのかと推量するわけで、其処には陰晴定めなく局
地的に降る時雨の本情が生かされてもいる。恐らく写生ではなく想像裡の情景であろうが、六八五といった字余りの
破調以外には、殊更なおかしみは見られず、「いづく霽」と疑ったあたりに、わずかに智巧的表現の名残をとどめる
に過ぎない。漢詩文的風韻に薫染されて、俳諧の新しい方向へ踏み出して行く消息が分る句なのである。
富*-.^:肌-を丈*..齡 M : 之し
729雪の朝獨 y 干鮭を噛得夕 y (東日記)
冬季(雪•千娃)。
1 〇 富家喰. 一 肌-肉- 富裕な家では美食を食べる、の意。「||家」は、金持の家。白楽天の「秦中吟」十首のうち、「議婚」の詩
芭蕉の筆蹟所収真蹟短冊•俳人真蹟全集所収真
蹟短冊
180
に「富家女易 k - 嫁、嫁早軽 一一 其夫一」(富家の女は嫁し易く、嫁すること早うして其の夫を軽んず)と用いられている語である。「肌—
肉」は、皮膚と肉、即ち人間の肉体をいうこともあるが、ここでは食物としての肉で、美食を意味する。字間中央の線は音読のし
るし。「うへたる人の、も ゞ のにくを切てくらはんがごとし」(『若みどり』)「筋ボネヲヵタメ、肌肉ヲヤシナフ」(『全九集』二)
「 curai , 6 , 6 ta . 」 「 Qinicu .3 fu , Xiximu 3. J (『日葡辞書 J 1)。 〇 丈夫喫 こ 菜-根. 雄々しいますらおは大根のような粗末な物を食べ
ている、の意。「丈夫」は、一人前の男、気概ある立派な男子をいう。「菜-根」は、野菜の根で、蕪や大根のようなものを指し、
前の「肌-肉」に対して粗食の意になる。字間中央の線は音読のしるし。この部分は明の洪自誠の著「菜根譚」中の r 聞見録」に
宋の汪信民の言として見える「人咬,一得菜根一則百事可 x 做」(人菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし。貧窮の中にあって大事を成
す素地が出来ることをいう)に拠った表現であろう。この典拠は句の下五 r 嚙得タリ」にも響いている。「菜根を喫して終日丈夫に
談話 ス」(色蕉真蹟懐紙「もの、ふの」の句前書) 「 Go ; bu . Tguyoi coto . Dai go;bu riqenuo toru . 」 「 Qixxi , suru . 」(『日葡辞書』)。
〇予乏し「予乏し J 。 私は貧乏だ。「予」と特にいったのは、自分は前の「富家」でも「丈夫」でもなく、ただ貧乏なだけだ、と
いうニュアンスと思われる。「乏し」は既出(/ 26 前書 0 0雪の朝「朝」を「アシタ」と 1)1 んで字余りにする向きも多いが、特に
「アシタ」と訓むべき根拠は見当らない。普通に「アサ」でよかろう。〇独リ「独リ」。唯一人で。一人住居の生活をあらわす。
「干鮭だけを」ではない。「おさな子やひとり食くふ秋の暮尚白」(『あら野』巻七)。〇干鮭「ヵラザヶ J 。 鮭を干したもの。寒中
の薬喰いにする。当時の辞書に「サ J を濁らないものもあるが、『日葡辞書』に rcarazaqe .」 とあるから濁音と認めてよい。濁
点を付さないものが必ず清音とは限らないのである。「作法采,一生—鮭 一 去 x 腹投 n 屋上-以曝—乾。又有 T 自 x 腹至 Z 背連\皮割— St 曝乾者上
肢:鼓4^其松—前秋—田多出 VN 」 (『和漢三才図会』)「干鮭は霜先の薬唤ぞかし」(『好色一代男』卷三)。〇噛得タリ「嚙斯夕 UJ 。 かじるこ
とが出来た。「得タリ」の可能を余り強調する要はないが、前記の汪信民の語「咬得」を踏まえている表現だから、全く無視は出来
ない害である。「涼しさやともに米かむ椎が本如行」(『猿蓑 i 巻六、几右日記) 「 cami . u . 6 da .」 (『日葡辞書』)。
ia 雪の積った寒い朝、私はただ ひとり 干鮭を かじって自ら 足れり としてい る。
Km 『東日記』初出の句で、延宝八年冬以前の成立であるが、前書も含めて佶屈な漢文調の表現や、乏しさを強調
しているところが 「しばの戸に」 (§) の 句と 共通す るから、 深川移居の冬の 草庵 生活を材 とした句と見て誤りはある
まい。岡田利兵衛氏の『芭蕉の筆蹟』所収の短冊は春海商会蔵、 r 桃青」と署してあり、延宝最末期の染筆と見られ
181 延宝八年
ている。『真蹟全集』所収のものは「ばせを」の名であるから、それよりは後のもので、これらには前書がない。
前書に於いて「富家」と「丈夫」、「肌肉」と「菜根」を対照している。ぬくぬくと美食に耽る金持と、貧しいなが
ら天下に雄飛する志を抱く丈夫を鮮やかに対照した後、「予乏し」と付け加えた意図は何であろう。加藤揪邨氏は直
前の丈夫の自恃を重く視て、菜根を喫する丈夫に倣おうとする「きおい」の表出と見ておられる(『色蕉全句』)。しか
し「富家」と「丈夫」は、得意失意の差はあるにせよ、世俗に深く関わる者なのに対して、色蕉の生き方は世外の人
のそれである。其処に「予乏し」と特に付加せずにいられなかった理由があるとすれば、「富家」「丈夫」両者とは別
の生き方を期していると見るのが自然であろう。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」の白詩
を前提に自身の乏しさをいい、「しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉」と詠んだのと同じ気持のあらわれを、この
句にも見たいところだ。ひとり住む身は菜根ならぬ干鮭をかじって雪の朝の寒さを凌ぐ。「嚙得 タリ」 と余計な感情
を抜きにした硬い直叙調が、世外の生き方に期する所のある作者の気持をよく示している。そうした隠者趣味がまだ
この頃は身についておらず、浅いダンディズムの段階にとどまっているけれども、延宝末年には芭蕉ばかりか心ある
俳人全体が暗中摸索の状態だったのだから、余り多くを望むのは酷というものである。「ヵラザヶヲヵミ H タリ」 と
いった乾いた音の連鎖が冬の寒さに相応しく響くあたりに工夫も見え、漢詩文調の成熟を示す句として評価出来よう。
;30石枯て水しぼめるや冬もなし(東晶 )
冬季。
i 〇 石枯て水しぼめるや 「石枯れて水凋めるや。」水辺の石が露出して乾いた肌をさらし、水量も乏しくなった状態の形容。
蘇東坡の「後赤壁賦」の一節「山高月小、水落石出、曾月日之幾何」(山高く月小に、水落ち石出づ。曾て月日の懲何ぞや)を踏
182
まえるか。「しぼめる」の「る」は完了の助動詞。 r 枯枝に烏のとまりたるや」(『東日記』。似参照)と言い方が似ている。 r 野は枯
てのばす物なし鶴の首支考」(『続猿蓑』下)「ゆふがほのしぼむは人のしらぬ也野水」(『あら野』卷三) 「 Ixi . J 「 care , uru ,
eta . J 「 Mizzu . 」 「 xibomr - u , 6 da . 」(『日葡辞書』)。 ◦冬もなし. 冬らしい風情がない、ということであろう。白楽天の「歳晚旅
望」の詩の一節「万物秋霜能壊 x 色、四時冬日最凋 x 年」(万物は秋の霜能く色を壊る、四時には冬の日最も年を凋ましむ。『和漢朗
詠集』上所収)を参考に、「果ては冬の月日も窮まり尽きてしまった」(『日本古典文学全集■松尾芭蕉集』堀信夫氏)と解するのは確説
ではない。
ehi 露出した水辺の石は乾き切って枯れ果て、流れの水量も乏しく凋んでしまったょ。これでは冬らしい風情さえ
感じられない。
BSI これも延宝八年冬以前の作。前記「後赤壁賦」あたりを踏まえた漢文調である。草木が枯れ凋むのなら尋常で
あるが、それを「石」や「水」に用い、「水かれて」を反転して「石枯て」としたところに、意表をつく談林的な奔
放さが見える。この時期の俳人達がしきりに漢詩文を採り上げたのは、このょうな裏返しのおかしみを狙うのが主で
あった。しかし、この句なども期せずして万物凋落の冬の自然のわびしさを捉え得ており、そのあたりから段々新し
いものに眼が開かれて行くのである。遊行柳を訪ねて詠んだ蕪村の句「柳散清水涸れ石処 A /」 に通う風情が感ぜられ
る。
183 延宝九年 • 天和元年
延宝九年•天和元年
t > 1 卩 1 r > 1,1 ■> 1 三冊子•蕉翁句集草稿•蕉翁句集.蕉翁全伝附
はる立や新年ふるき米五升 s #— g
我富-新年古き米五升 <真潰短冊)
年立や新年ふるし米五升 <泊船 S
此發句は芭蕉江府船町の囂に倦、深川泊船堂に入ラれしつぐる年の作なり。堂のうち茶碗十ヲ、菜刀一枚、米入る、瓢
ーッ五升の外不 x 入、名を四山と申候。
其 一
似合しや新年古き米五升
とし立や新年ふくべ米五升
春季(はる立.新年)。
(鵲尾冠)
(芭蕉句選)
稿本芭蕉句解•阿久多川
0〇 はる立や 「春立つや」。「春立つ」は、二十四気の一「立春」を迎えたことをいぅ ( i 参照)。「春立や雀の足もあた k まり
才麿」(『蝶姿』) 「 Fas , nat - ou , aqi , fuyuga tat > ou . 」(『日葡辞書』)。〇新年「シンネン」。正月一日を迎えて新しい年になること。
立春とは一応別で、年内立春といぅこともあるが、旧暦では時期が相接しているので、「春立つ」と殆んど同じ事を繰返したこと
184
になる。 「 xinllen . Ataraxij toxi . J (『日葡辞書』)。〇ふ るき米五升 「古き米五升」。「ふるき米」は今いう古米とは違い、前の年か
ら持ち越した米をいう。特に「ふるき」といったのは、上の「新年」と対照した言葉のあやで俳諧にしているのである。「升」は
尺貫法に於ける容積の単位で、一升は約一、八リットルに当る。但し、「五升」とはいっても、それは「あながち極めたる量には
あらず、程よきを」(東海吞吐『芭蕉句解』)言ったに過ぎない。なお、杜甫の「酔時歌」(『古文真宝』前集卷八所収)の - ItHI 觀こ太—倉五
升米 I 」に拠るとする説もある(仁枝忠氏『芭蕉に影響した漢詩文』)。「古き衾古き枕、ひとり袂をかたしく」 (謡曲 r 花筐 J ) 二月は a
に米かせはちた、き丈辨」(『猿蓑』卷一)「?'111'£..」「0;〇1116.」(『日葡辞書^。
8*3 立春を迎え、年も改まって新年になったが、手許には前の年から持ち越しの米が五升ある。乏しいながらも心
にはゆとりのある新春だ。
■一■この句は先ず成立時期について問題が多い。土芳の『蕉翁句集』は貞享元年の部に 出してあるが、 板 本として
は芭蕉歿後の『泊船集』 が 初出なので、貞享元年という推定が何を根拠に したもの か不明なので ある。土 芳は又一方、
『三冊子』では、
この句、師のいはく、似合し やとは じめ五文字有。口惜事 也と いへ り。 その後は、春た つやと直りて、短冊にも
残り侍る也。 ( 赤雙紙)
と推敲過程について記している。その初案というものは、越人の撰した『鵲尾冠』(享保二年刊)に伝えられるが、越人
が前書に於いてその成立年次について「芭蕉江府船町の囂に倦、深川泊船堂に入ラれしつぐる年の作」と書いてい
るのは注目に値しよう。以前はこの記事を天和の江戸大火に最初の草庵が類焼した後、門弟知友の喜捨によって再建
されるまでの経過を云ったものと見られていたが、「泊船堂」の称は類焼以前既に用いられていたものだから、之を
素直に読めば、延宝八年の冬江戸市中の居を引払って深川に移った時を指すと見た方が良い。「船町」は江戸の日本
橋に近い大舟町(現中央区日本橋室町 一丁目)で、ここは『談林十百韻』の連衆で、芭蕉の東下当初から世話をした
185 延宝九年 • 天和元年
と伝えられる小沢卜尺が町名主をしていた町であった。また尾張鳴海の下里知足筆の俳人住所録によると、深川移居
直前の延宝八年夏秋の頃の芭蕉の住所は「小田原町小沢太郎兵衛店」となっている(小沢太郎兵衛は卜尺の本名)。
大舟町と小田原町は相接しているから、卜尺はここにも貸家を持っていて、店子として芭蕉を置いていたのであろう。
これによっても越人のいう「船町」が、深川へ移る前の芭蕉の住所を指すことは明らかであり、其処から深川へ移っ
た翌年、即ち延宝九年の歳旦吟ということになる。これはこの句の成立年次に関する唯一の所伝であるし、享保二年
は色蕉歿後かなり時を経てはいるけれども、色蕉生前親交のあった越人の言とあれば第一に尊重しなければならない。
ただ、延宝九年とすると、越人の続いて述べる「米入る V 瓢」が聊か問題になる。これは類焼後の再建に際して門人
の北鲲が贈ったものと見られ(『随斎諧話』所収「芭蕉菴再建勧化薄」参照)、貞享三年に山口素堂が「四山」と命名
した著名なものであるが、最初の芭蕉庵にはなかった箸だからである。思うに、この四山瓢に句を結びつけたのは越
人の誤りとおぼしく、元禄元年の秋から冬にかけて芭蕉庵に滞在してこの瓢を知っていた彼は、句中に「米五升」と
あるところから、容量五升と伝えられる四山瓢を暗示した表現と受け取ったのであろう。天和以前の芭蕉の経歴につ
いて余りくわしくなかった越人は、この錯誤に自ら気づかなかったのである。現に句には瓢の存在を示す言葉は何も
見当らない。しかし、句の成立時期についての越人の所伝は必ずや拠る所があったと思われ、「似合しや」の形が延
宝九年に成ったということは信じてよいと思う。
更に今一つ、「我冨リ」とした真蹟短冊の句形を考えなければならない。この短冊は岡田利兵衛氏が『芭蕉の筆蹟』
に収めてはじめて紹介されたものであるが、同氏は延宝最末期の揮毫と考えておられ、特に延宝期の特色が顕著に出
ている「桃青」の落款からして、この推定は妥当と思われる。この句は当初「我冨リ J の形が成り、「似合しや」か
ら「はる立や」へと推敲されて行ったのであろう。「我冨リ」は、草庵独居の生活に自足する主観が最も強くあらわ
れており、「似合しや」でやや調子をゆるめ、「はる立や」に至ってそうした主観は影をひそめる。この過程が三つの
186
句形の間におのずから浮び上って来るのである。
e 蕉は何故「似合しや」の句形を「口惜事也」と土芳に語ったのであろうか。問うまでもない。後年の芭蕉は、乏
しさを足れりとする隠者生活を殊更似合わしいとするょうな一種の街いや擬態の露出を嫌ったのである。「はる立や」
と置けば、融々たる新春の和気が漂い、自足した気分はおのずから滲み出て、「冨=」「似合しや」などと特に言うを
要しない。「はる立や」への改案は、必ずや貞享期に入ってからのことであろう。その現存する短冊は、宛かも貞享
の頃芭蕉が伊賀で門人岡本苔蘇に書き与えたもので、中興期の俳僧蝶夢に伝蔵されて、五升庵の号の由来ともなった。
『蕉翁全伝附録』に摸写されたものの原物である。これらに比べると、『泊船集』の句形は「年立や」「新年ふるし」
と二箇所で切れる点等、何に拠った異同か疑念を感ぜざるを得ない。杜撰が多いことで有名な集であるだけに、信憑
性は低いものである。『句選』等の「新年ふくべ」は、四山瓢の米を詠んだという先入観から生じた異形であって、
抑々芭蕉らしくない表現である。四山瓢に米がなくなると門人達が入れておいたというが、瓢が贈られる前からそう
いう慣習は出来ていたであろう。喜捨にょる前年から持ち越しの「米五升」に自足の所懐を託した歳旦句なのである。
; 32 餅を夢に折むすぶ齒朵の草枕(柿衛文庫蔵真蹟短冊) 天理図書館蔵真績短冊.東日記
春季(歯朶)。
H 〇 餅を夢に 「 ff 4 J は、正月に飾る鏡餅のこと。それが実際にあるのではなくて、夢に見るばかりだというのである。「かぶ
ろいくらの春ぞかはゆき野水櫛ばこに餅すゆるねやほのかなるかけい」(『冬の日』) 「 Mochi . 」(『日葡辞書』)。〇折 むすぶ歯朶
の草枕 「折り結ぶ歯朶の草枕」。「歯朶」は、葉の裏が白い所謂「裏白」を指す。暖地の山野に大群落をなして自生する大型の羊
歯類で、葉裏の白いのを共白髪の長寿になぞらえ、対生する二葉も夫婦和合の象徴、 また 常緑の まま 葉の間から芽を伸ばして繁茂
187 延宝九年 • 天和元年
する性質も縁起がよいとされて、正月の飾り物になる。「草枕」は本来「旅寝」を意味するが、ここは「歯朶」の縁で「草枕」と
洒落たまでである。「折むすぶ」は、歯朶を折って枕に結ぶ意。天理図書館蔵の短冊には「折結」、『東日記』には「折結ふ」とあ
って、音数に合わせれば「把り結ふ」とよみたくなるが、柿衛文庫蔵の短冊の明ら■かな仮名書きは、よみ方の基準となるべきもの
で、初五と共に字余りになることがはっきりする。「秋ののの草のしげみはわけしかどかりねのまくらむすびやはせし」(『源氏物
語』夕霧)「礼者敲 x 門しだくらく花明か也幻吁 J (『虚栗』上)「よしや旅寝の草枕、今宵ばかりの仮寝せん」(謡曲「安達原」)
— vori , u , 0 tta .」「 Mcsubi , u , unda .」 「 xida.J 「 ccsamacura.J (『日葡辞書』)。
1 a 正月と いっても、我が草の戸には これと いった支度もない。わずかに羊歯の草を折り枕に結んで臥し、鏡餅を
夢に見るばかりだ。
1『東日記』初出の句であるから、成立は延宝九年止月を降らない。天理図書館蔵鯉屋伝来の短冊には「元朝心
感有」と前書があり、落款が「華桃青」となっていて、延宝天和の交の揮毫たることを証している。両短冊とも筆意
は同じで、同時に書かれたものとされる(岡田利兵衛氏『芭蕉の筆蹟』参照)が、ここでは「むすぶ」の仮名書きの
方を本文に掲げた。『東日記』には「元旦」の部に出してあり、恐らく延宝九年年頭の吟であろうが、必ずしも歳旦
吟と限らなくてもよかろう。積翠の『芭蕉句選年考』「しのぶさへかれて餅かふやどり哉」の条に、杉風後裔の所蔵
として r 思ひ立つ事の有る年」と前書した「餅を夢に」の句の真蹟があったと伝えるが、今その所在を知らない。羊
歯の草を結ぶから「草枕」と洒落たあたりに、まだ談林の余習をとどめてはいるものの、内容は簡素な隠者の生活に
自足する気持であって、自己の境涯からの発想が段々身について来た様子が窺える。「餅を夢に」には『荘子』逍遥
遊篇に見える荘周の胡蝶の夢を翻した感じもあって、そうとすればこれ亦この時期に相応しい趣向といえるのである。
188
;33餅花やかざしにさせる娌が君盖雑藻
春季(娌が君)。
1〇餅花「モチバナ」。柳•複木•竹などの枝に、餅をこまかに刻んだものをつける正月の飾り物。花の咲いたように美しく
見える。「餅花正花也、冬也。植物に二句也」(『御傘』)「餅花や柳はみどり花の春鶴永」(『桜川』春)。.〇かざしにさせる
「挿頭に差せる」。「かざし」は、髪の飾り。既出 ( S )。 それをつけることを「かざしにさす」という。〇娌が君 「« i が乱」。正月
三箇日の間、鼠をこの名で呼ぶ。一種の忌詞である。 r 娌」は「嫁」と同じく「よめ」を意味する字 。 r ffl ! M ; 正月は。世のつねにか
はる事のみぞおほき。鼠を。よめがきみとよび。なまこをたはらごとなづけ」(『山之井』)「一説に、大年の夜、大黒柱の本に火を
とぼし、是を嫁が君といふといへり。思ふに、嫁が君は鼠の事也。大黒柱の有あかしは、嫁が君にさ V げたる燈明なるべし。しか
れば大年の夜、元朝にかけて、鼠の事を嫁が君と云にや。尤本説を知ず。野坡が日、嫁が君は春季にて鼠の事也と増山/井にあ
り」(『旅寝論』)「明る夜のほのかに嬉しよめが君其角」(『続猿蓑』下)。
ia 餅花の蔭から鼠が顔を出している。嫁が君の名に相応しく、まるで花を髪に飾った花嫁のようだ。
— 出典の『琳絹』は、堺の人正村の撰、第一冊のみ伝存する零本で、刊年は明らかでないが、延宝年間の刊行と
推定されている。延宝九年正月以前の作としてここに配するが、実際の作年次はずっと古いかも知れない。餅花の傍
にいる鼠を、「娌が君」の名にかけて花嫁に見立てた作意は、優雅に長閑な感じで成功しているけれども、この見立
は全体におとなしく、談林風よりは貞門風を思わせるからである。
189 延宝九年 • 天和元年
李下、色蒸を送る
§ばせを植てまづにくむ荻の二ば哉 -i 深川} —っら
春季(荻の二ば)。
n 〇 李下 「リヵ」。江戸の蕉門俳人。姓氏出自等未詳。この芭蕉の若木を贈ったことで記憶される人で、生歿年も明らかでな
い。 ◦芭蕉 「バセウ」。バンョウ科の多年草。中国原産で、観賞用に寺院の庭などに植えられる。高さ四メートル前後、葉は長柄
を持ち、葉身は一、五メ —トル位の長楕円形。日本では余り結実しないが、六センチ程のバナナ状の実がなる。葉や根を煎じて利
尿•解熱薬に用いる。「芭蕉秌也」(『御傘』)。「葉の茎は骨か芭蕉の大扇重貞 J (『毛吹草』卷六) 「 Bax 6. J (『日葡辞書』)。〇 送る
「送る」。「送」は、「贈」を用いるべきところ。広義の宛字である。「ある人をして額を乞。いとやす'^と筆を染て、幻住菴の
三字を送らる」(「幻住庵記 t 「 zaxx 6 uo vocuru . 」(『日葡辞書』)。〇ぱ せを植て 「芭蕉植袅て」。「蕉」の字音は「セウ」であるが、
さきに挙げた用例に徴しても明らかなように、中世から近世にかけて「せを」という慣用的表記法,か広く行われていた。また、
「植う」は本来ヮ行動詞であるが、中世から近世にかけては終止形「植ゆる」が一般であり、「植 <1--,植ふ」といった仮名遣もあ
って、ハ行のような意識もあった語である。「命ぞとうへ置菊や守り星重頼」(『毛1六) , rvye , yuru , eta . J (『日葡辞書』)。
〇まづ にくむ r 先づ憎む」。芭蕉の成長の邪魔になるものを厭わしく思うのである。「日比は古めかし、かたくな ゞ りと、悪み捨
たる程の人も」(『笈の小文 t 「 zicumi , u , c > da . J (『日葡辞書』)? 〇 荻の二ば 「荻の二葉」。「荻」は既出(//)。秋の季語であるが'
その若芽や若葉は春のものである。「荻の焼原、荻の下萌、荻の若葉は春なり。しげるは夏也」(『御傘』)「ふた葉よりわがしめゆひ
しなでしこの花のさかりを人にをらすな」(『後撰集』巻四' よみ人しらず) rFutaba.J (『日葡辞書』)。
ia 芭蕉の株を庭に植えて、あたりに萌え出た荻の二葉を先ず厭わしく思うことだ。
S この句の素材となった芭蕉の樹が、深川の草庵の名となったものであることは、元禄五年の「芭蕉を移詞」に、
いづれのとしにや、栖を此境に移す時、ばせを一 もとを 植。風土色蕉の心にや叶けむ、数株の茎を備へ、其葉茂
重りて庭を狭め、萱が軒端もかくる計也。人呼て草庵の名とす。
190
と作者自ら述べているのによって明らかである。これが門人李下の贈り物であることは、この『続深川』の前書に見
えるだけであるが、後年の編著ながら、この書に載った資料は杉風系の信頼出来るものなので、前書に言う所も信じ
てよいと思われる。天和二年三月に成った『武蔵曲』(千春撰)所収の句「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」 ( g ) によれ
ば、天和元年秋までには色蕉の樹が成長繁茂していた答で、一方、その前年延宝八年の春はまだ深川に移っていない
から、結局李下が色蕉を贈ったのは天和元年(延宝九年)の春ということに落着くのである。色蕉の号の由来ともな
ったこの樹は作者にとって因縁浅からぬものであったし、それに対する愛情の深さは「色蕉を移詞」の文にも明らか
に看取し得る。
さて、荻の葉ずれの音は、秋のわびしい趣をあらわすものとして昔から和歌•連歌に取り上げられて来た。普通な
らば荻を憎む必要はないわけであるが、この句で殊更に「にくむ」といったのは、芭蕉の恙ない成長を願うからに外
ならない。色蕉を植えてその成長を楽しみにしていると、あたりに「获の二ば」が眼についた。これがはびこっては
色蕉の樹の成長が妨げられることになるかも知れない。そういう気持から「まづにくむ」という表現が生まれたので
あろう。「まづ」を余り理詰めに取る要はあるまいが、この強い表現の裏には芭蕉の成長を願う気持があると見るの
が自然で、風流な「荻」を憎むというところが、この句の俳諧なのである。堀信夫氏は、荻が芭蕉の成長を妨げるの
を憎むと解するのは作意が稚拙で品格も劣るとして、「芭蕉の葉は風に破れやすい。ところが荻は「荻の上風」など
といわれ、風にそよぐ葉ずれの音を賞美せられるもの。両者の好む条件の相いれないところに着目した趣向」(『日本古
典 文学全集.松尾 e 蕉集』 ) としておられるが、却って廻りくどい弊があろう。「にくむ」と特に言ったあたりに、常識の
逆に出ようとする気負いが感ぜられないではないが、制作動機が内面化していることは明らかである。静かな草庵生
活の中で、身辺のささやかな物に注目して、それを詩化して行く習慣が、徐々に身について来た趣がある。
191 延宝九年 • 天和元年
755 藻にすだく白魚やとらば消ぬべき (東日記 ) ii
藻にすだく白魚やとらば消ぬべし(真蹟短 S
藻に すだく 白魚も取 ば 消ぬべき (蕉翁句集) |色蕉句選拾遺
春季(白魚)。
1〇藻にすだく白魚や「藻に集く白魚や」。「すだく」は、字を宛てたように「集まる」意。「白魚」は、硬骨魚目 シラ ゥオ科
の小魚。水中では透き通ってやや青みを帯びた銀白色、水揚げすると白色になる。半鹹水に好んで 棲み、 近世に,は 江戸 湾から 隅田
川辺一帯に見ることが出来た。『毛吹草』では 「シロゥヲ」と 振仮名があるが、七部集では 「しら 魚」と書いた^,*が 多い から、 「シ
ラゥラ」でよかろう。それが水中の藻のあたりに群がっているさまである。「や」は一応切字だが、下の「消ぬ、ベ-ぎ J & 呼応して、
疑問の係助詞のような働きをする感じも無視出来ない。恐らくそうした二つの働きを、作者自身意識しているのであろう。「白魚
……此もの諸国に産多し。然共尾張名古屋より出るものを上品とす。東海にも昔はなかりしを、当将軍家に至て名古屋より魚苗を
取て、武州品川表の内海に入させ給ふて、当代は江戸の海にも白魚産するといへり」(『滑稽雑談』)「あまのかるもにすむむしの我
からとねをこそなかめ世をばうらみじ」(『伊勢物語』六十五段)「あしの葉にすだく蛍のほのぐとたどりぞわたるまの ゞ つぎはし」
(『長明集』)「しら魚の骨や式部が大江山荷兮」(『あら野』卷七) 「 Mo . 」 「 sudaqi , clFita . J (『日葡辞書』)。〇とらば消ぬべき「把
らば消えぬべき J 。 手に取れば消えてしまうだろう、消えてしまいそうだ、の意。『東日記』では「とらば」に元から濁点がある。
加藤楸邨氏は「消ぬべき」について、「白露をとらばけぬべしいざ子ども露にきほひて萩のあそびせん」(『万葉集』巻十、『古今六帖』
一)の歌を参考にして、「ヶヌべキ」と「和歌的に読むべきかとおもう」(『芭蕉全句』)といわれたが、下五が四音になるのは却って
調べを損なって良くあるまい。「水と消し雪やかへりて波の花弘永」(『毛吹草』卷五) 「 HQp - ru , 0 tta . J 「 Qiye , uru , yeta . 」(『日
葡辞書』)。
水中の藻に群がり集まる白魚よ。それを手で掬い取れば消えてしまいそうだ。
192
1 『東日記』では「白魚」の題下に、この句と才丸の「笹折て白魚のたえ<^-青し」の句が並んでいる。才丸の
は青い笹と白魚とが交互に並んだところを興じた談林風ながら、写生的な志向も見えてそれなりに面白い。桃青の作
は遊戯的な調子を脱するのに歌語を多く用い、全体の調べも抒情味に富む。何よりも、ささやかな白魚の本情を生か
し、あえかな美しさを描いているところは、既に談林風から大きく踏み出したものといえよう。古歌に「はぎのつゆ
たまにぬかむととればけぬよし見む人は枝ながらみよ」「をりて見ばおちぞしぬべき秋はぎの枝もたわ\における白
露」(二首とも『古今集』卷四、よみ人しらず) 等があって、作者の脳裡に意識されていたかと思われるが、井本農 一 博士が
指摘されたように、白露が消えるのは寧ろ尋常当り前のことである。白魚が「とらば消ぬべき」というに至っては、
透明で清らかな白魚の有様が感覚的に読む者に迫って来る。色蕉の詩人的天分の豊かさを端的に示す句なのである。
この句に通う趣の作としては、来山の「白魚やさながら動く水の色」(『続 今宮草』) が優れたものであろう。
『芭蕉全図譜』に紹介された天和期の揮毫と見られる真蹟短冊の外、下五を「消ぬべし」とした真蹟短冊があり、
後者は、色蕉が美濃の大垣を訪れた時、その地の津田前川に書き与えたものと伝えられる。岡田利兵衛氏の推定の如
く、貞享元年秋冬の交の染筆とすれば(『芭蕉の筆蹟』参照)、明らかに『東日記』の初案形以後の推敲であった。し
かし、 r べし」は余りはっきり言い切り過ぎて余韻に乏しく、 r べき」の纏綿とした情緒には及ばない。大垣で色蕉は
ちょっとした心の動きから「べし」と書いたのであろうが、これを以て推敲形とする確かな意図は持っていなかった
のではあるまいか。このような見地から、ここでは『東日記』の句形を本位句とした。同書初出の春の句は延宝九年
春以前の成立であるが、その傾向内容からして九年春の作と見て殆んど誤りはなかろう。「白魚も」という異形は、
その根拠を知らない。
193 延宝九年 • 天和元年
撕盛じや花に坐浮法師ぬめり妻(東日記}
春季(花)。
i 〇盛じや花に「盛りぢや花に」。「盛り」は、「花」との関係で「花盛り」の印象が強いが、花と限らず世上全般の繁栄、景
気の良さをいうと見たい。 r じや」は「である」に当る口語助動詞。仮名遣は r ちや」と書くべきである。小歌などの調子を摸し
たので、「花に」で一応切って読むが、「花に」は意味の上で「花の為に(そ ゞ ろになる ごと 下へ続いて行く。「花はさかりに、 月
はくまなきをのみ見るものかは」(『徒然 草』 百三十七 段 ) 「鶯の玉子じ やとおしやるほと k ぎす一意」(『貝お ^ 6 』 )rFaszacari.
一, fanano sacari. 」 「 Gia. i, Degozaru . 」 (『日葡辞書』)。〇坐気持が落着かず、そわそわするさま。「そぞろに」「そぞろなり」等、
形容動詞の形の外、「気もそぞろ」「心もそぞろ」のように単独でも用いられる。中国で.「何となく」「おのず と」 の意を「坐」で
あらわすので、日本でもこの字を用いることが多い。「浮法師」に「坐」を冠した新造語で、「坐風」「坐雨 j 「そ V ろ卿」「そ ゞ ろ
法師」等と同類とする見方もあるが、ここでは「花に」とのつながりを重視する立場をとりたい。「嬉しいやらこはいやら、ひろ
い集る心もそ ゞ ろ」(『ひらがな盛衰記』第四)「籠輿ゆるす木瓜の山あい野水骨を見て坐に泪ぐみうちかへり芭蕉」へ『冬の 日』)
「 sozor ?」 (『日葡辞書』)。〇浮 法師 「ゥキホフシ」。気が浮き浮きと浮かれている坊さん。 「 F 6 XLJ (『日葡辞書』)。〇 ぬめり妻 動
詞「ぬめる」は、ぬるぬると滑らかなさまをいうところから、.浮かれ歩く、粋な風をする、なまめかしく振舞うといった意を生じ
たもの。ここは^めかしい風俗の人妻を「ぬめり妻」といった。 「 Numeri, u, etta. 」「 T-ouma L (『日葡辞書』)。
Baa 花の盛りに世も盛りじゃ。その花のために、浮かれ法師や艷めかしい姿の人妻など、人は皆気もそぞろになっ
ている。
花盛りに浮かれる江戸の人々のさまを、七•八•五の破調で描いた。「おもは V 君よ、塩ひるまにも、かなら
ず波の、よるでなしとも」「なみだれそよの、糸す k き、いと ゞ こ\ろの、みだる k に」 (『隆達小歌集』) といった小歌
を思わせる調子で、「浮法師」「ぬめり妻」等、用語も享楽味に溢れている。法師や人妻は不断あまり人目に立たず、
194
地味にくらしているものなのに、それさえ花盛りの陽気に浮かれ出したわけだ。近松の『心中宵庚申』下、道行の一
節に「なさけざかりにちよきりこつきり小によぼの、こしもしなへてやつく るり、くるり や^^やつ くるりとぬ めら
しやんすは」 と 描かれた小女房は、そのままこの句の ぬめり 妻の姿であろう。このように『東日記』所収の句にも、
「花に酔リ羽織着てかたな指女」 (§) と同じような傾向のものが見えるのである。延宝九年春以前の作。
说山吹の露菜の花のかこち顔なるや(東日記)真蹟短冊•真蹟懐紙
春季(山吹•菜の花)。
i 〇 山吹 「ヤマブキ」。バラ科の落葉灌木。春に新葉が生じてから、黄金色の美しい花を開く。花には一重と八重があり、八
重の方が遅くて実を結ばない。日本の特産で、観賞用に庭などに植えられるが、野生も全国の山野に分布している。真蹟短冊•懷
紙共に「欵冬」の字を用いるが、これも「ャマブキ」と訓み、同じ物を指すことに変りはない。 r 欵冬 . 春也。ひき、植物なり。
……薬の名に欵-冬と云は、蔣のとうの事也。……根本、欵冬の字をやまぶきと読は、日本のあやまりなり。され共上代よりの義
なれば、今更あらためずしてをく也」(『御傘』)「山吹やはへあふ露のたまかづら正章」(『山之井』) 「 Yamatmqi .」 (『日葡辞書』)。
〇 菜の花 「菜の花」。種から油を採る菜種の花。四枚—の花弁が十文字についており、茎の先に密生する。晩春花が満開になる菜の
花畠のさまは、おなじみの田園風景である。「尼寺よ只菜の花の散径言水」(『新撰都曲』)。〇かこち顔なるや「かこち航」は、
他にことよせて恨み嘆き、或いは思い侘びる様子9「や」は、詠嘆。西行の歌「なげけとて月やは物をおもはする知こか
わが涙かな」(『千載集』卷十五)を踏まえた表現と思われる。 「 cacochi , t « ou , otta . Vagamiuo cacot - ou . 」(『日葡辞書』)。
laja 華やかな山吹の花に露の置いたさまを、菜の花が不平そうに見ているよ。
BK 『続蕉影余韻』所載の真蹟懷紙には、「かりきは木賊にしほれ、いもの葉ははすに破らる」と前書がある。 r 武
蔵野\ばせを」と署しているから後年の染筆であるが、 この 句の作意を窺う ことが 出来よう。 「%葱」 はねぎの 一_
195 延宝九年 • 天和元年
で、木賊に似ているが珍重されず、芋の葉は蓮の葉の風情に劣るとされ勝ちである。同様に山吹の花と菜の花も似て
いながら、山吹は詩歌などに取り上げられることが多くて華やかな存在であり、鄙びた菜の花の方は余り顧みられな
い。西行歌の詞を取り入れつつ植物を擬人化して「かこち顔なるや」と表現した趣向で、調子も七.五.八の破調で
ある。山吹や菜の花のたたずまいを正面から取り上げるのではなく、知巧的に両者を対比しようとする作意は、『東
日記』初出、延宝最末期という過渡期の作に相応しいが、ここでは単に両者を比較して、派手な存在と地味なものと
の対照に興じただけではあるまい。こういう形で実は「菜の花」の新味に眼を向けようとしているのであろう。
古来詠み尽された和歌の題目に対して、俳諧の題目の新しい境地、その本意を探ることが、俳人たちのつとめで
あった。既成の美意識にまみれている山吹の情趣に対して、そのような手垢のつかない菜の花の情趣を、積極的
に押し出そうとしたところに、和歌に対する俳諧の新風があったのである。当時の芭蕉が狙った新しい俳諧世界
の一端を覗かせている。(『芭蕉全発句』)
と山本健吉氏も述べておられる。『東日記』所収の芭蕉の作が、この摸索期に於ける何等かの新しい意図を秘めてい
るとすれば、こうした見方が出て来るのは極めて自然な成行であった。
观摘けんや茶を m の秋ともしらで(東日記) 真#懐紙 . S 蕉 ®. S 蒸句選拾遺
春季(茶を摘む)。
i 〇 摘けんや茶を 「摘みけんや茶を」。茶の葉を摘んだのだろうか。 r 茶を摘みけんや」を倒置した表現で、「茶を」は下の
「讯の」へもかかる気味がある。字余りであることも含めて、「盛じや花に」と同じく、この時期に好んで用いられた手法である。
「茶摘み」は春。晩春八十八夜の前後に行われる。「茶摘……私云、当世諸国の産多し。殊に梅尾宇治を第ーニとす。茶を
139
196
摘に三月節を以て候とす。宇治の手始と云は、おほくは三月一日、二日、三日也。但其節の遅速、其年の寒暖によれり。一•一月中よ
り以後は煎茶也。……所によりて五月以後ふた ゞ び摘者、二番茶とす。……本章日釆蒸•揉培の法、皆春也。此外俳諧に云嗅茶.
配り茶.茶の試など、此節の儀なれば春也。毛吹草日、聞茶*氽つむ.同手始と三月部に侍る。近来の俳書に新茶を春にのせたり。
甚非なるべし」(『滑稽雑談』)「つく と榎の花の袖にちる桐葉独り茶をつむ藪の一家芭蕉」(『熱田三歌仙 』) 「chauo 只
umu . 」(『日葡辞書』)。〇汛の秋「讽」は「コガラシ」と訓む。「木」と「風」を合わせた国字で、中国にはない字である。「こが
らし」は普通冬季とされるが、古くから秋に用いた例もあり、和歌•連歌界でこちたい議論があった。「木がらしの秋のはつ風吹
きぬるをなどか雲井に雁の声せぬ」(『古今六帖』一)「木枯は冬なり。秌の句にもあるは、秌よりも吹ゆへなり。」(『御傘』)
「 cogaraxi . p . Aqinocaje.J (『日葡辞書』)。〇しらで「知らで」。
sa 茶摘み女は、茶の葉を摘むことが、木にとっては、こがらしの吹く秋のようにひどい仕打ちとも知らないで、
茶をこんなに摘んでしまったのだろうか。
MH これも七•五•七の破調で、茶摘み女の仕業を自然の「甩」に見立てたところにおかしみを求めている。ただ、
春の茶摘みと秋冬のこがらしでは季節がちがい過ぎて、句意も晦渋に陥り、余り成功した句とは言えない。茶の葉を
摘まれて枝ばかりが露呈した有様を、見立や譬喩でなく生かすようにすれば、本格の詩的表現となった箸である。解
釈に当っては、初出の『東日記』春の部に茶摘みの句として出ていることが基準になる。また、この句の真蹟懐紙は、
尾形仂氏が大正九年五月某家の売立目録に見える写真によって紹介されたもので、同時期の他の数句も共に記してあ
り、天和期の筆蹟であるという(栗山理一博士編『芭蕉•蕪村•一茶』参照)。成立年代は初出板本からして延宝九
年春を降らない。
五月雨に鶴の足みじかくなれり(東日記)
197 延宝九年 • 天和元年
夏季(五月雨)。
i 0鶴の足みじかくなれり 「鶴の足短く成れり」。長い答の鶴の足が短くなった、 という おかしみをあらわす。「す! C めの千こ
&つるの一こ表」(『毛吹草』卷二) 「 Touru . J 「 Mijicai . 」(『日葡辞室5。 .
ia 五月雨で水嵩が増して、下り立つ鶴の足が短くなった。
これは五月雨の頃の自然の写生ではない。俳諧に於ける r 五月雨」の扱い方は、季吟の 『山 之井』に見えるよ
うに「はれまもあらずふりつ V くてい」を様々の譬喩を以て述べるのが主眼で、この句もその型を襲っているのであ
るが、趣向の中心に『荘子』を置いているのが如何にもこの時期の作らしい。即ち、その駢拇篇に、
彼正正者、不/失„其性命之情—〇…… fi ^ T 夢タキ短豸亍夢〒を。是'&罾«||を、夢 iIIJ 憂。鶴脛雖/
長、断;,之則悲。故性長非/所/断、性短非 k 所 X 続、無 k 所一去/憂也。
(彼の正にして正なる者は、其の性命の情を失はず。……長き者をも余り有りと為さず、短き者をも足らずと為
さず。是の故に鳧の胚は短しと雖も、之を続がば則ち憂へん。鶴の脛は長しと雖も、之を断たば則ち悲しまん。
故に性の長きをも断つ所に非ず、性の短きをも続ぐ所に非ず、憂へを去る所の無き也)
とある有名な鳧脛鶴脛の譬喩に基づいた趣向なのである。もって生まれた天然自然のあり方を尊ぶ『荘子』の哲学を
あらわした典型的な譬えであるが、この時期の蕉門では漢詩と共に『荘子』が興味をもって読まれていた。延宝八年
の『 II 独吟廿歌仙』にその影響は既に著しく、翌九年秋の『次韻』に至って、二百五十韻全篇の基調となる。巻頭
の桃青.其角の付合がやはりこの長胚短脛の譬喩を踏まえて、
鷺の足雉脛長く継添て 桃青
這—句以 H 荘-子 I 可\見矣 其角
とあるのによっても、この間の消息は端的に窺うことが出来よう。当面の「五月雨に」の発句は、初出板本の年氏か
198
らして延宝九年五月までには成っていたものだから、この譬喩を背景にしていることは極く自然である。鶴の足が短
く見えるが、別に断ったわけではない という おかしみなのだ。それを「みじかくなれ り」 と言い切りの表現にしたと
ころに力が感ぜられるのが取柄であろう。これまた五•五.七の破調であって、この頃定型を破ることに如何に強い
興味を持っていたかが分る。
扣愚にくらく棘をつかむ m 哉(東日記) 真填白字短冊.蕉翁句集草稿.蕉翁句集
夏季(蛍)。
H 〇愚にくらく 「愚に暗く」。「愚にして且つ暗く」を短くした表現であろう。愚かで見通しのきかない人間の1、所謂「暗
愚」をいい、「くらく」には、夜の闇のくらさを言い掛けた。「ただをのづから道にいつて、善を見てもす、ます、智を捨ても愚な
ら ず」 (謡曲「東岸居士 t . 「智浅シテ謀短ク、色二姪シテ道- 1 暗シ」(『太平記』卷四) rGV .」 「 curai .」 (『日葡辞書』)。 〇棘をつかむ
「棘を摑む」。棘のある植物などをつかんで痛い目を見る。「いばら•からたちの中を御はだしにて歩み給へば」(『くまの、本地』)
「夕月の入ぎは早き塘ぎは鼠弾たはらに鯽をつかみこむ秋一井」(『あら野』員外) rlbara . 」 「 Tgucami , u , 6 da _ 」(『日葬書』)。
〇蛍 「ホタル」。夏に水辺の闇を光を放って飛ぶ 昆虫。 成虫の発光器は尾端の 腹 面にあり、熱を伴なわない冷光である。「|{ 夜
分也、水辺にあらず。……蛍は、のこるとしても夏也」(『御傘』)「蛍……月夜にはいどころをすへ。闇にはしりをふりまはる心ば
へ。水辺に火とぼすを。樟脳かとも。川の瀬中のやいとにやともいひ。猶星とも見なしてすばるほし夜ばひ星などもきこゆ」{『山
之井 JI ) 「夜のにしきうき世は昼の蛍哉西鶴」(『蓮実』} rFotaru . J (『日葡辞書』〇
3 W 愚かにも見通しがきかずに、夜の暗さに蛍をとるつもりで、刺のある木をつかんで痛い思いをしたことょ。
RH この句は自分の体験というょり、人間の愚かさを蛍捕りにたとえたのであろう。それがこの頃の俳諧の行き方
である。この趣向には白楽天の詩句の影響があるかと思われる。『白氏文集』卷十五、「放言」五首の其一に、「但愛
199 延宝九年 • 天和元年
臧生能詐/聖、可:,知!!:子解佯;,愚。草蛍有/耀終非一火、荷露雖ぃ団豈是珠」(但だ愛す臧が能く聖を:を、知るベ
し奪子が解く愚を佯 ?>' を。草蛍耀り有れども終に火に非ず、荷露団かなりと雖も Ml 是れ珠ならんや)とあり、傍点を
付した部分に当面の発句の表現との関係が推定出来よう。その上、臧生が.聖を詐るというのは、『荘 子』 外篇、田 子
方篇に見える話で、周の文王が臧の丈人を大師と仰いで無為自然の政治について尋ねたところ、丈人は答えずにふら
りとその場を去り、終身その消息を絶ったという。延宝.天和の交に於いて色蕉とその一門が『荘子』に強い関心を
持ち、その哲学の影響を受けたことはよく知られている。この句の趣向も、恐らくは『荘子』と白詩の両者から得来
ったものなのであろう。句意は、
愚にくらく無思慮といふ心也。夜の事なれば殊にわきまへもなく、蛍取おもしろさに思はずも茨をつかむと也。
興過て害ある遊びなどおもひ出して心得べし。(東海呑吐『芭蕉句解』)
蛍をつかまうとして荊をつかんだのだ。や V 観念の入つてゐる句である。(『続芭蕉俳句研究』所収幸田露伴説)
等とあるのが要を得ている。ただ、蛍が棘をつかむように聞える句作りは余り感心しない。真蹟白字短冊は「桃青」
の落款、天理図書館の所蔵で、句の成った当初の染筆と見られる。延宝九年六月中旬に成った『東日記』初出で ある
から、夏の句の成立はその頃を降らない答である。
S 闇■夜きつね下ばふ玉眞桑(東日記)
夏季(玉真桑)。
〇闍夜左右の傍訓は底本のまま。 この 二字を 「ヤミノ 3 トスゴク」 と訓 ませようと いうので、新奇な表記法 もこの 時期の
新工夫である。漢文訓読法の一つに「文選読み」というのがあって、たとえば『詩経』国風冒頭の関雎の章の始めの「関関雎鳩」
200
を r クヮンクヮントヤハラギナヶルショキゥノミサゴハ」と訓む類をいう。つまり最初に音読した上に更に訓読を重ねて意を明ら
かにするわけで、『文選』の講読にこの方法がよく用いられたので文選読みといわれるようになったのである。但し、ここは体裁
をそれに準じただけで、音訓複読ではない。闇の夜の感じが物凄いようなのをあらわすのに「スゴク」と言い添えたまでで、字余
りもこの頃の表現の好みである。『一葉集』に「闇夜」とだけあるのは、この時期特有の表記法が分らなかった為に「スゴク」を
脱したに過ぎない。「闇の夜は吉原ばかり月夜战其角」(『武蔵曲』)「あらしはいづく帳の紙室其角女の影帰ると見えて跡すご
く桃青」(『次韻 Jl )「 Yami . J 「 sugoi . J (『日葡辞書』)。〇き つね下ば ふ「狐下這ふ」。「下延ふ」は本来、「足柄のみ坂かしこみ曇
り夜の皆が下鈀へを言出つるかも」(『万葉集』卷十 S などと用いられた古語で、言葉に出さずに心に思うこと、ドニ段動詞である。
ここはそれを「下這ふ」(ひそかに這い寄る意。四段活用)に転用し、恋の意をも残して「夜這ひ」の連想を持たせた。瓜の蔓が
地を這う意も掛けてあるかも知れない。「蘭菊は人を又つる狐かな昌意」(『毛吹草』卷六)「けふのあつさはそよりともせぬ馬莧
砂を這ふ棘の中の絡線の声沾圃」(『続猿養』上) 「 Qit ? une . 」 「 Fai , 6, 6 ta . 」(『日葡辞書』)。〇 玉真桑 「タママクハ J 。 真桑瓜の
こと。「玉」は美称の接頭語である。瓜の一種でィンドの原産。実は長さ十センチ余、黄•緑•白色 1 C 熟し、芳香と甘味がある。
岐阜県本巣郡真桑村(現真正町)のものが最上とされたところからこの名が生じた。夏の季語になる。「児の手の玉にもあまる真
桑哉嵐雪」(『或時集』) 「 Macullavri . 」(『日葡辞書』)。
1313物凄い闇の夜に、狐がそっと畠を這って真桑瓜に忍び寄る。
B 前の「夜ル窃虫は月下の栗を穿ッ」 ( g ) と似た趣向であるが、これは目に見える景色で、表記法の工夫によっ
て夜の闇の凄さを強調しようとしている。しかもこの頃の関心は自然の写生にはなくて、或る場面を想定して、それ
を人事化するのだ。真桑瓜は狐の好物ともいうが、それに忍び寄る狐を「下ばふ」などと言って夜這いの連想を持た
せているのである。従って、
デデンデンデンと太鼓が鳴ると、暗い舞台に狐の忍び姿が現れる。あたりをうかがい、玉真桑姫のもとへ這い寄
るのだ。……ここは「下這ふ」の意で、夜這いの情景を描き出す。だから、万葉語における恋の心も含まれてい
る。玉真桑姫を下恋いながら、近づいて行く貌で、……そういった芝居めいた情趣を出すために、作者は工夫を
201 延宝九年 • 天和元年
こらしているのだ。(『芭蕉全発句』)
といぅ山本健吉氏の鑑賞は良い。芝居懸りだから、深沈とした味は「夜ル窃
夏以前の作。 •
⑷郭公まねくか麥のむら尾花(ぉくれ双六}
の句ほどには感じられぬ。延宝九年
むら尾花文台.武蔵曲.真蹟懷紙.あつめ句.
真蹟短冊.菊の香•泊船集.のぼり鶴•菜集
ほと\ぎす まねく や麥のむら尾花 (初蝉) 一蕉翁句集
夏季(郭公•麦)。
〇郭公「ホト、ギス J 。 「かっこう」と「ほととぎす」は別種であるが、「ほと k ぎす」に「郭公」の字を宛てるのは古くか
らの慣わしである。「郭公 . 声をまつには。しびりをきらして立花のかげに。かしらをかたぶけみ k をすまし」(『山之井 』) rMM
や声の催促郭公秀重」(『毛吹草』巻五)。〇 まねくか 「招くか」。「尾花」の縁語になる。「か」は、疑問。「初月に外里の娵の新通
ひ知足薄はまねく荆袖引芭蕉」(『千鳥掛』) 「 Maneqi , u , eita . J (『日葡辞書』)。〇麦のむら尾花「*?の m ? MJ 。 麦は初夏に
赤らんで取入れの時を迎える。所謂「麦秋」である。「尾花」は穂に出た薄をいい、秋のものであるが、ここでは熟した麦の穂を、
秋の群生した薄の穂に見立てた。「麦の秋四月なり。麦の色づくも夏なり」^産衣』)「みそのふにむぎの秋かぜそよめきて山郭公忍
びなくなり」(俊頼『散木奇歌集』二)「穂の出たるを花す X きとも尾花ともいへり。穂の出ざるをいふべからず。師説」(『滑稽雑談』)
「村をばな夕越へゆけば人呼ふ」(『暁台句集』秋) 「 Mugui .」「 vobana . 」(『日葡辞書』)。
lag 群尾花のような熟した麦の穂は、ほととぎすを招いているのか。
■■ 初出の『おくれ双六』は出羽尾花沢の鈴木清風の撰、序が延宝九年七月に書かれているから、所収の夏の句は
同年夏までに成っていた箸である。この時期の作として、自然をそのままに写そうとしているのではない。折柄赤ら
んだ麦の穂が風になびくさまを尾花に見立てて、秋の尾花は人を招くというが、麦の穂はほととぎすを招くのかと興
143
202
じた趣向である。「麦の秋」「麦の秋風」といった言葉も、「尾花」に見立てる契機になっているかも知れない。過渡
期のこの句を貞享四年秋の真蹟「あつめ句」にも収めているのは、こうした見立の興を主とした句ながら、雅情掬す
べきものを認めたからであろう。機智を中心とした『古今集』の歌などにも、同様の優雅な気分は多く見られる所で
あった。『のぼり鶴』 (序令 撰、 宝永元年刊) には「自画讚」と題し、「古翁所持の文台にあり。承ミして朝叟家にかくす」
と注してあり、この嵐雪門朝叟所蔵の文台が今も伝存している(『続蕉影余韻』『芭蕉全図譜』等参照)。『初蝉』(風国
撰' 元禄 九年刊) の「まねくや」という異形は、翌年の『菊の香』で訂正された位だから問題にならない。土芳の『蕉
翁句集』は偶々『初蝉』に拠ったまでであろう。
夕白ハの白ク夜ルの後架に帝燭とりて S 蔵曲)真噴短冊.泊船集.蕉翁句集
夏季(夕白ハ)。
1 〇夕自の白ク「欠 m の白ク」。「白 CJ は「貌」に同じ。既出 S )。 夕顔は瓜類の一種。蔓を垣根や棚に這わせる。夏に白い五
弁の花をつけるが、夕方開いて翌朝までに凋むところからこの名を得た。実は苦みがあるため、そのままでは食用に適せず、干瓢
の材料になるのみ。「ク」の小さい送仮名は、漢文的な感じを添えたまでである。「夕がほ……花となくても夏也。実の字あれば秌
也」(『御傘』)「夕顔……五位以上の家にははひょらせぬといひ習はして。た V - くずやの軒のはなにさかへ。五でうわたりのあばら
やなどに。えみの眉ひらきか、れるやうにのみしたつ。……たそがれにさく夕がほやのぞきはな」(『山之井』) 「 Yagauo . J
「 xiroi . J (『日葡辞書』)。〇夜ル「ル」は、「 3 」でなく「 3 ル」と訓むことをはっきりさせる為の送仮名で、上の「白ク」と共に
漢文的な感じを添える。既出<;/9)。〇後架「コゥヵ」。禅寺で僧堂の後に架け渡して設けた洗面所をいい、傍に便所があるとこ
ろから、便所を指すょうになった語。中世末から近世にかけては特に「小便所」をいい、『日葡辞書』は女性語としている。「夕白ハ
の白く紙燭あやうし藁後架無塩」(『東日記』)「後架放 Z 尿処也」(『下学集』) 「 C 6 ca . Xiriyenotana . i , X 6 benjo . J (『日葡辞書』)。
203 延宝九年 • 天和元年
〇帋燭とりて「帋燭 取りて」。 「帋燭」 は、 紙や布を細く巻いて瑳った上に腿を塗って火を ともす 小形の照明具で、芯に細い松の
割木を入れる ことも あった。 ここは 後架までの暗がりを照らすために紙燭を手に持って行くのである。「帋」 は 「紙」と同じ。「が
に紙燭灯させ、雪隠の入口に付置て」(『好色一代男』卷七) rxisocu . 」(『日葡辞書』}.°
1-夕顔の花が白く咲いているのが目についた。夜の手洗いに紙燭を持って行く途中……。
B この句の内容は単独に見てもかなり面白いが、物語の背景がある。『源氏物語』夕顔の巻に、
かのしろくさけるをなん、ゆふがほと申し侍る。はなのなは、ひとめきて、かうあやしきかきねになん、さき侍
りけると申す。……しろきあふぎの、いたうこがしたるを、これにおきてまゐらせよ。えだも、なさけなげなめ
るはなをとて、とらせたれば、……これみつに、しそくめして、ありつるあふぎ御らんずれば、もてならしたる
うつりが、いとしみふかう、なつかしくて、をかしうすさびかきたり。
心あてにそれかとぞみるしら露のひかりそへたるゆふがほの花
とある、源氏と夕顔の女が花を縁に近づきになる一段を俤にしているのである。それを「夜ルの後架に帋燭とりて」
行く途中の属目として、場を俳諧に転じたのだ。垣根などに這わせてある夕顔の花が紙燭の明りで目についたのであ
る。白い「夕白ハ」には女性の顔を思わせるところがあり、人物は作者自身と限らない方が良い。山本健吉氏は「夕顔
のような臈たけた女性を想像すべきだろう。近世の情景に転じては、後架に立った御大家の女性の白ハが紙燭に仄かに
浮び上る。吉原や島原などの花魁を考えることもできる」 (『 e 蕉全発句』)と見ておられる。
〔語釈〕に引いた『東日記』の句「夕白ハの白く紙燭あやうし藁後架」は明らかに同じ時期の類作である。『東日記』
より後の『武蔵曲』(天和一一年三月刊)に収められた芭蕉の句は、本来なら等類の作として公刊は遠慮すべきであったか
も知れない。或いは『東日記』の作よりも前に出来ていたので、構わなかったものか。同一の用語表現の外、『源氏』
を背景とすることも同じながら、聊かの違いはあった。同じ巻のやや後、某の院で夕顔が物怪に襲われるところに、
204
しそくさしてまゐれ。ずゐじんも、つるうちして、たえずこわ づ くれと おほせょ。 . ゆづる、 いとつ き' し
くう ちならして、ひあやふしといふ'^-、あづかりが ざう しのかたに、いぬなり。
とあるあたりを頭に置いていると見られる。「藁後架」は藁葺きの外便所であろう。
『武蔵曲』は芭蕉号の初めて現われた集として有名である。桃青の名も混用されているが、それにも「色蕉翁」と
肩書きしたものがある。この句の作者名は「色蕉」となっており、この号の最も早い所見であった。初出本の刊行時
期からして、延宝九年夏以前の成立で、同年の作と見て殆んど誤りはあるまい。八.七.六の破調や、「白ク」「とり
て」と言い切らない表現など、凡て意識盼な工夫と思われる。
茅舍ノ感
S 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 sf )
色蕉野分たらゐに雨をきく夜哉(真蹟草稿)
秋季(色蕉•野分)。
i 〇 茅舎ノ感 「茅舎ノ感」。「茅舎」は、かや葺きの粗末な家の意で、深川の草庵を指す。其処で感じた気持を述べた句である
ことを、前書として題したもの。なお〔考:|でいうょうに、作者は杜甫の詩「茅屋為一一秋風一所/破歌」(茅屋秋風の為に破らる ゞ
歌)を意識していたので、「茅舎」の語には杜甫の詩題の「茅屋」が響いているものと見られる。 r 亂不/被三世ん机, 一 住%更二茅
舎ヲ移シテ入,一深居一」(『太平記』卷十二 ) 「行歳近江にゐ給は V 、いかでか此感ましまさん」(『去来抄』先師評) 「 Bo < xa . cayaiye . 」
{『日葡辞書』)。〇 芭蕉野分して 「芭蕉野分して」。「ばせを植て」 ( g ) の句の時に植えた芭蕉の樹が育って葉を茂らせたのへ、「野
分」(台風)の風が当るさまである。「芭蕉」は連歌以来の秋の季語で、初出の『武蔵曲』も「芭蕉」の題下に収めている。「野 分」
も秋の季語。秋に吹く暴風をいい、野の草を分けて吹く意から出た。「野分秌也。七八月に吹大風なり。蒙 lit とも書」 (『御傘』)
真蹟短冊•真蹟画賛•真蹟懐紙•枯尾花•泊船
集•色蕉盥.禹柳伊勢紀行
三冊子.蕉翁句集草稿.蕉翁句集
205 延宝九年 • 天和元年
「俊成 卿、 野分の題に草木の上をむすぶを本意とはいへり」(『篇突 t 「中秋には、あらき風を野分といふ」(『三冊子』わすれみづ)
「をのづから草のしなへを野分哉圃燕」(『続猿蓑』下) 「 Nouaqifaxitan 6 fuite , s . y 6 minafuqichimsu L ( 『日葡辞書』)。 0 盟に
雨を聞夜哉 「盥に雨を聞く夜哉」。「盥」を雨漏り受けと見る説の多い中で、露伴.は「盥は雨漏りに宛てたのでは面白味が無い。
手水の盥である。常に芭蕉に雨をきくのであるが、こ、ではそれが野分に折れてしまったので、盥にそれをきくのである」(『続々
S 蕉俳句研究』)といっている。これも一応の理ではあるが、〔考〕で述べるように、杜甫の詩の「屋漏」云々の句等を意識してい
るので、雨漏り受けであることは動かない。洗濯などに使う大盥ではなくて、洗面用の小館(手水盥)を雨受けに利用したのであ
ろう。「芭蕉野分して J r 盥に雨を聞く」という曲折に富む漢文訓読的表現が、この場合非常に効果的で、『武蔵曲』所収の句には、
他にも r 胡馬雪を鳴 J r 櫓の声波ヲうつて」「水馴竿月ヲ吹ク」といった同様の例が見られる。「兼升瀬多より参包丁桃青ぬれ
掾や北'に出れば手盥の似春」(『一葉集』) 「 Tarai.J (『日葡辞書』)。
HB 1 庭の芭蕉の樹に野分の風が当ってすさまじい音を立て、内では雨漏りを受ける盥に雨の音を聞いている。 こん
な夜は本当に淋しい。
RH この句の前書としては、「風濤杜が屋漏の句を吟ズ」(『真蹟懐紙 t 「雨中吟 j (『枯尾花』)「深川菴」(『蕉翁句集 JI ) 「老—
杜茅—舎破—風の歌あり。坡—翁ふた、び此句を侘て星-漏の句作る。其世の雨をばせを葉にき V て独寐の艸の戸」(禹柳
『伊勢紀行』)等が伝えられている。禹柳の紀行は安永三( I 七七四)年の刊行であるが、当時伊勢の斗時庵の家珍だった真
蹟を紹介したもの。この原物は今伝わらないが、この句の成った動機について考えるには不可欠の資料である。「ば
せを植て」の句に詠まれた色蕉が成長して繁茂したものを材としており、初出は天和二年三月刊の『武蔵曲』だから、
天和元年秋の作と推定される。
芭蕉の葉に雨声をきく趣は、既に中国の古詩に先蹤がある。「早蛩啼復歇、残灯滅又明、隔/牕知, I 夜雨一芭蕉先有/
声」(早®啼き復歇む。残灯滅して又明るし。聰を隔てて夜雨を知る。芭蕉先づ声有り。白 楽天「夜雨」、『詩人玉屑』)「連
雲接\塞添,一迢遞一灑\幕侵\灯送-1寂寥;一夜不 x 眠孤客耳、主人牕外有 - 一色蕉一」(連雲塞を接してを添ふ。幕を配
206
ぎ灯を侵して寂寥を送る。一夜眠らず孤客の耳。主人牕外芭蕉有り。杜牧「雨」、『聯珠詩格』)「芭蕉為,一雨移一故向,一窓
前一種、憐渠点滴声、留=得帰郷夢一夢遠莫 x 帰:.郷、覚来一翻動」(芭蕉雨に移さる。故に窓前に向って種う。憐むべ
し渠の点滴の声。帰郷の夢を留め得んや。夢は遠く郷に帰る莫く、覚め来れば一翻して動く。杜牧「色蒸」)等の作例
が挙げられており、「破れ色蕉」の趣は和歌以来日本の風流人が愛して来たものであった。「芭蕉野分して」の句は、
こうした和漢の伝統に基づき、さきに引いた真蹟類の前書に明らかなょうに、直接には杜甫や蘇東坡の詩句を意識し
て作られたのである。 r 杜が屋漏の句」(真蹟懐紙) r 老-杜茅—舎破-風の歌」(『伊勢紀行』)とは杜甫の-.茅屋為,一秋風一所 k
破歌」を指し、中に「床床屋漏無 ,一 乾処一雨脚如:,麻未, 一 断絶こ(床床屋漏れて乾ける処無し。雨脚麻の如くにして未
だ断絶せず)の句が見える。また「坡—翁……屋—漏の句」とは、蘇東坡の「張作 K 詩送 x 硯返 x 剣。乃和二其詩;卒以 x
剣帰 VN 」 の詩中の「那将-1漏-供 n 懸河一」(那んぞ屋漏を将て懸河に供せん。『蘇東坡詩集』巻二十三)を指すのである。
「色蕉野分して」はこれら海彼の詩人達の茅舎屋漏の侘びを追うて、「盥に雨を聞く」と俳諧にした趣向であった。庭
の芭蕉は野分の大風に揺られて破れ、内では雨漏り受けの盥に点滴の音が止まない。自然の苛烈な啦哮に息をひそめ、
茅舎の中に堪えている孤独な自己の姿を、芭蕉はこのょうに俳諧という詩形の中に描いたのである。 r 現実生活の苦
悩を、海彼岸の文学との交響を通した二重三重の俳諧化の中で昇華し、滑稽の詩としての俳諧の伝統の上に〃侘び"
の詩情を確立した」 ( IT 松尾芭蕉』)という尾形仂氏の見方は蓋し肯綮に中っており、芭蕉号初出の集『武蔵曲』の中でも、
外ならぬ芭蕉を材とした作として、この句は当時の俳人達にとりわけ印象が深かったであろう。
土芳は『三冊子』に於いて「ばせを野分盥に雨を聞夜かな」という形で掲出して「此野分、はじめは野分してと二
字余り也。……後なしかへられ侍るか。此類猶有べし。みな師の心の動き也。味ふべし」(赤雙紙)と述べ、『蕉翁句集
草稿』でも「此句初は、ばせを野分してと有。後改 る」 といっている。これを裏づける資料として、元禄六年染筆と
見られる柿衛文庫蔵の真蹟草稿があり(岡田利兵衛氏編『図説芭蕉』参照)、後年の芭蕉が初五の字余り「して」を
207 延宝九年 • 天和元年
削ったことは確かである。「して」を省けば、野分に吹きさらされた色蕉の樹が、中七以下の庵中の情況と説明無し
に鋭く対置される趣もあるが、その代り天和初頭の作者の胸中に鬱屈していた感慨が、表現を求めて迸り出たような
微妙な気息は失われてしまう。やはりこの句は初案の形でこの時期に置いてこそ意義があり、真に生々の息の通う作
品となるのである。本書に於いて後案を本位句としなかった所以も、その間の消息を慮ったからに外ならない。
泌武藏野の月の若ばへや松窵棟(松島—集)
秋季(月)。
〇武蔵野 「ムサシノ」。今の東京都と埼玉県にまたがる洪積台地を指す雅語。広くは関東平野全体をいう。「武蔵野でみる三
日月や一 i •り定時」(『毛吹草』卷六) 。〇月の若ばへや 「若ばへ」 は、 新たに生え出た植物の芽、若芽をいう。「若生え」の義だ
から、「へ」は「え」を用いるのが正しい。下の 「棟」 と縁語になる。「や」は疑問とも取れるが、切れを重視すれば詠嘆でよかろ
う。「ある人、萩はート年セづ ゞ にして枯、若葉より花咲を、古枝に咲ると読しはとなんず」(『伽羅先代获』第八)。 〇松崽稞 「マッ
シマ ダネ」。 松島の月の種、の 意。 松島は、宮城県 仙 台市北方の湾内の名勝。松の生えた無数の島々 が 海上に展開する景観は日本
三景の随一とされる。『おくのほそ道』のはじめに「松嶋の月先心にか、りて」とあるように、月の名所として詩歌に詠まれるこ
とが多い。「窵」は「島」の本字たる「鳧」の俗字。「棟」は「種」の異体である。「世話の詞は俳言の種にもならんやいなや」
(『毛吹草』序) 「 Taneuomaqu . 」(『日葡辞書』)。
ai 武蔵野の「月の若ばへ」とも申すべきこの新月は、松島の月を種として芽吹いたものでもあろうよ。
I 『松島眺望集』(天和二年刊)は、仙台の大淀三千風が延宝二年に思い立ち、七八年の歳月をかけて松島に関する
発句や漢詩を集めた書である。桃青のこの句はその祝儀として成ったもので、作風からして延宝もかなり早い頃かと
も思われるが、文献上の裏付けを求めれば、初出の『眺望集』に天和二年二月の序があるのを同書成稿の時期として、
208
所収の秋の句は元年秋以前としなければならない。
作者の今住む武蔵野の空にかかる新月を「若ばへ」に見立て、それは月の名所松島の「種」から生まれた とした 縁
語仕立で、松島の月を立てているところに三千風への挨拶の気持が見える。三千風も談林の俳人であったし、この句
の空想を談林的寓言と見る余地も勿論あるけれども、この空想は余り働いたものではなく、基本的には貞門の技法の
枠内にあるものといえよう。貞門と談林は技法上そんなに違ったものではないのだ。『一葉集』には下五が「松島の
種」となっているが、時代の降るものだから問題にはならない。
秘侘テすめ月侘齋がなら茶哥 S 蔵曲>
秋季(月)。
1113 〇侘テすめ「侘びて住め , - Or 侘ぶ」は本来、生活が苦しく、精神的にも窮境にあることをいう。それが中世以降内容が変り、
否定的なィメージも肯定化されて、積極的に「侘び」を楽しむ美的境地をいうようになった。ここもそういう美的境地としての意
味合いが強く、作者が自らに言いきかせている趣がある。「すめ」には、下の「月」との縁で「澄む」を掛け、更には終りの「哥」
にもかけて「声が澄む」意も響かせている。「わくらばに問人あらばすまの浦にもしほたれつ\わぶとこたへよ」(『古今集』卷十八、
在原行平) 「 vabi , uru , ita . Vabita teide gozaru . J (『日葡辞書』)。〇 月俘斎が 「月住斎」は月を使びてひとり住む隠者を呼ぶ
架空の名。勿論作者の自称である。「ゲッタクサィ」と音読する説もあるが、上の「侘テ」を繰返して強調する方が表現として面
白い。天和元年の『次韻』所収其角の付句「慈-悲—斎が閑つれぐにして」の「慈悲斎」の類である。 「が」 は、下の「なら茶哥 」
にかかる所有格。〇 なら茶哥 「奈良茶歌」。そういう歌があるのではなく、 r 奈良茶」を食べながら歌う歌という程の意。「奈良
茶」は「奈良茶飯」の略。薄く淹れた煎茶に塩を混ぜて炊いた飯に、炒大豆.炒黒豆•赤小豆•焼栗等を入れ、濃く淹れた茶をか
けて食べる。もと奈良の東大寺 •興 福寺で作ったところからこの名が出た。但し、作り方は色々あった ようで ある。江戸で i 天.«
209 延宝九年 • 天和元年
の頃浅草寺界限に、茶飯に豆腐汁や煮豆を添えて出す一膳飯屋が出来、料理茶屋の元祖となったという。支考の『俳諧十論』によ
ると、芭蕉は戯れに「なら茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味をしるべし」といったそうで、俳席によく出る簡素な食事だった
ことが分る。 r 哥」は「歌」の略体。 r 奈良茶飯者、本南都東大•洪福両寺之僧舎所/製' ……其法、先煎,一好茶 一 取 一一 初煎再煎一其初
者濃、再者淡。故用,一再煎淡者一和:塩少許;煮;,火作/飯。復合,1炒大豆•炒黒豆•赤小豆.焼栗等物|亦好。飯熟後、別浸 n 初煎濃
者一而食 x 之」(『本朝食鑑』巻一)「奈良茶、まつちやを少いりて袋に入て、あづきと茶ばかりせんじ候。扨大豆と米入候を半分づ ゞ
いり候てよく候。大豆は引わり、皮を捨てよし。又さ ゞ ぎ.くわゐ.焼栗なども入よし。山椒のこ、塩かげん有」(『料理物語』一)
「揚屋の酒、小さかづきに一盃四分づ、につもり、若衆宿のならちや、一盃八分づ ゞ にあたるといへり」(『世間胸算用』巻ニノ三)。
Baa 侘び住みを精々楽しむがよい。月侘斎の奈良茶飯を食べつつ歌う歌も、空の月諸共に澄みわたれ。
— この句の前書として『武蔵曲』に「月をわび身をわび拙きをわびて、わぶとこたへむとすれど問人もなし。な
をわび<て」とあるように書かれたものがあるが、『武蔵曲』にはなく、実は幕末期の『一葉集』に見えていて、
その根拠は明らかでない。この文を前書にして見ると、隠者としての境涯に徹底出来ない苦渋の気分が強く感ぜられ、
如何にも芭蕉の書きそうな文ではあるが、偽作の疑いもあろう。この前書無しで見れば、自らの隠遁の境涯を静かに
観照して、自足の趣が強い。ここでの「侘び」は前にも述べたように、作者の理想とする美的境地であって、やがて
は貞享元(一六八四)年の『冬の日』の冒頭句「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」の前書に見える「侘つくしたるわ
び人」の姿へと展開して行く。当面の「侘テすめ」の句にも、それと相通ずる風狂の気分が濃厚といえよう。『武蔵
曲』初出の句なので、一応延宝九年秋以前の成立であるが、こうした心境が深川移居以前には期待し難いとすれば、
この句が九年秋に成ったことは殆んど確実である。『泊船集』に「侘てすめ月侘網笠の窓を家として」と見える句形
は、『武蔵曲』のこの句の直前にある角止の発句「うかれ行月網笠の窓ヲ家として」の中七以下を混じたもので、そ
の杜撰さを示す典型的な例に過ぎない。
210
坡翁雲天の笠を傾、老杜は吳天の雪を戴く。草庵のつれ<^、手づから
雨のしぶ笠をはりて、西行法師の侘笠にならふ
_ _ 虚栗.真門氏蔵真蹟懐紙.真蹟短冊.泊船集書
"世 r ふるも更に宗祇のやどり哉 (真蹟懐紙) 入 •蕉翁 S 草稿.蕉翁句集 •思亭•雪 まる
げ.世中苗韻
世にふるは更に宗祗のやどり哉(真蹟 自 獲) | S 名残の友•雪の葉•和漢文操
世の中はさらに宗祇のやどり哉 S 日記)
手づから雨の侘笠をはりて.
世にふる もさら に宗祇 のしぐれ 哉 (泊 船き
冬季。
〇坡翁「ハヲゥ」。北宋の大詩人蘇軾を指す。号の「東坡」の一字を取った略称である。禹柳の『伊勢紀行』に引く斗時庵
蔵の「/£蕉野■分して」の句真蹟前書や、当面の句の真蹟自画賛に見える文「笠やどり」に同じ言い方が見える。〇雲 天の笠を傾
「雲天の笠を傾け」。「雲天」は雲のたなびく空。前記「笠やどり」の文や『雪まるげ』所収の「世にふるも」の句前書等にも見え
る語である。東坡が異風の笠をかぶり、驢馬に乗って雪見をするさまは、ょく画題となる。それを心に置いた表現であろう。「漂
蕩雲天潤、沈埋日月奔」(杜甫「贈 二 比部蕭郎中-」)「東坡居士の雪-見笠か。……霰にさそひ時雨にかたむけ、そ V ろにめで.,殊に,
ず」(「渋笠ノ銘并序」『和漢文操』) rcasa . 」 「 catamuqe , uru , eta . 」(『日葡辞書』)。〇老杜「ラゥト/盛唐の大詩人杜甫を指す。杜
牧を「小社」というのに対する称〇天和期の芭蕉の文には屢々見える。 「老 —杜茅—舎破—風の歌あり」 (『伊勢紀行』所収「色蕉野分し
て」の句前書)。〇呉 天の雪を戴く 「呉天の雪を戴く」。「呉天」は、呉、即ち中国の揚子江下流地域一帯を指す。呉の地方に 降る
雪を笠の上に戴くという意。『詩人玉暦』所収の詩の一節「象 M , 呉元雪、粗#,楚1花」の詞を採った。この詩は有名で、謡曲に も
用いられ、芭蕉の文にも折にふれて見える。「呉天の雪に杖を拽ん」(『雪丸げ』「世にふる も」 の句前書)「此山 一つ 隠居料に と 桃青
富士の嶽いた Y く雪をそりこぼし信章」(『桃青三百韻附両吟二百韻』) 「 Itadaqi , u , aita . 」(『日葡辞書』)。〇 草庵のつれぐ 「齡
211 延宝九年 • 天和元年
庵の徒然」。深川の草庵生活の閑暇多い時には。「深川 三 またの辺りに草庵を侘て、遠くは士峯の雪をのぞみ、ちかくは万里の船を
うかぶ」(「寒夜ノ辞」『夢 三年』) 「座頭など来て貧家のつれ^^を紛しければ」(『後の旅』) rs o < an . Ciisanoiuori . J 「 Tourssre . 1 , t
■ ourezzurena . i , Tojsna . 」(『日葡辞書』)。 〇手づから 「手づから」。自らの手で。「蓮池に驚の子遊ぶ夕ま暮杜国まどに手づ
から薄様をすき 野 水」(『冬の日』) 「 Tezzucaramonouoitasu . J (『日葡辞書』)。 〇雨のしぶ笠をはりて 「耐の fe 澄を®りて」。「し
ぶ笠」は、柿渋を塗った和紙を貼り合わせて作った笠。雨を防ぐものだから「雨のしぶ笠」といった。その笠を作ることを「笠を
張る」という。「渋—笠銘并序」(『和漢文操』)「朝に紙をもて張、夕べにほして又張る。渋と云物にて色を染、いさ かうるしをほ
どこして堅からん事を要す」(『雪まるげ』) rx o < ji , andon , to > ro , caracasanadouofaru . 」(『日葡辞書』)。 〇西行法師の俘笠になら ふ
「西行法師の侘笠に倣 ふ」。 「西行法師」は、いうまでもなく平安末期の歌僧。芭蕉の最も敬愛する所であった。西行が笠と旅包
を傍に置いて富士を眺めている後向きの像が、画や彫刻•人形等の 材 とされることが多く、「富士見西行」という。そうした連想
を背景に、その旅笠を侘びた趣のものとして r 侘笠」といい、自分の「しぶ笠」もそれに倣うといったのである。「西行法師のふ
じ見笠か、東坡居士の雪—見笠か」(「渋笠銘并序」)「かのさいぎやうのわびがさか、坡翁雲天のかさか」(色蕉真蹟「かさの記」)「水桶
のぼる蝸牛はかなき 桐 葉西行の言葉にならふ花咲て芭蕉」(『浅草』) 「 F 6 XLJ (『日葡辞書』)。 〇世にふるも 「世に g " るも」。
後述する宗祇の時雨の句との縁で、「降る」を言い掛けた。「世にふる」は、人の世に生きて生活して行くことをいう。 「も」 は、
「 . もまた」ではなく、詠嘆の意を添える間投助詞。「世にふるはくるしき物をまきのやにやすくもすぐる初時雨哉」(『新古今集』
卷六、二 条院讚岐) 「 Fe , uru •一, feru , eta . J ( 『日葡辞書』)。〇更に 「更に」。直接には宗祇の時雨の発句、延いてはその踏まえた右
の二条院讚岐の歌までを意識した語であろう。「さらにいえば」(『日本古典文学全集•松尾芭蕉集』 堀 信夫氏)「なかなかどうして、改
て」(安東次男氏『色蕉発句新注』)の外、余りくわしく触れたものがなく、今一つはっきりしない。宗祇への同感をあらわすものと
すれば「本当に、全く」の意とすべく、同じ副詞の「いっそ」に似た用法と解したい。 〇宗祇のやど リニーの® t り」〇宗祇の句
にいう「時雨の宿り」(時雨を避ける暫しの宿り)の意。宗祇は中世の代表的連歌師で、『新撰寃玖波集』の撰者。旅の詩人として
も芭蕉の先輩格に当る。『古典文学全集•松尾色蕉集』に、 r 宗祇の蚊帳」(俗流連歌師が一夜宗祇と同じ蚊帳の中に寝たと自慢す
ること)等に倣った芭蕉の造語かと見ているが、「蚊帳」が具体的な物であるのに対して、「やどり」の方はかなり観念性が強いの
で、必ずしも従い難い。「ぬす人の記念の松の吹おれて芭蕉しばし宗祇の名を付し水杜国」(『冬の 日』) 「物うりの尻声高く名
212
乗すて去来雨のやどりの無常迅速野水」(『猿蓑』巻五) 「 Yadori .」 (『日葡辞書』)。
ia 人の世に生きて行くということは、本当に宗祇の句にいう「時雨の雨の宿り」のょうに、はかない暫しの間の
ことなのだなあ。(私も手製の笠をかぶって旅をして、暫しの笠宿りに時雨の侘びを楽しもう)
111111 r 手づから雨のわび笠をはりて」(『虚栗』) r 手づから雨を侘る笠をはりて」 (『蕉 翁句集 JI ) 等の前書があり、その他
「笠やどり」(岡田氏 蔵 真填自画賛)「かさの記」(真門氏 蔵 真蹟懐紙)「笠は り」 (『雪 まるげ』 『思 亭』) 「渋笠銘并序 」 (『和漢文操』) 等、
標題を持つ文中に収められているものがある。また、『雪の葉』二吟撰、元禄 十三 年刊)には丈草の芭蕉追悼文中に引か
れている。
この句には季語がないけれども、板本の初出たる『虚栗』(其角撰.天和 三年 五月成)は冬の部の時雨の句の中に並べて
おり、時雨の句と目すべきことは明らかである。前書に「草庵のつれ或いは「草の扉に待わびて、秋風のさび
しき折^-」 (『雪まるげ』) 等とあるところから、笠を作ったのは深川移居後の或る秋のことと思われ、延宝八年は除か
れるから、結局天和元年か 二 年の冬に句が成ったことになる。しかも、「世にふるは」の形の岡田知浩氏蔵真蹟自画
賛には「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」の句も併記されていて、これが「からすのとまりけ り」 に推敲された時
期は、「華桃青」と署したその句形の短冊が存することから見て恐らく天和初年であったろう。それょり前の「とま
りたるや」の句形を記した自画賛の成立時期は、天和二年ではなく、同元年とするのが妥当である。 r 宗祇のやどり」
の句についていえば、元年冬に「世にふるは」の形が先ず成り、やがて「世にふるも」と推敲されて『虚栗』に収め
られたものと見られる。本位句として掲げた堀田英一郎氏蔵真蹟懐紙には「江散人芭蕉」と署してあり、天和二年歳
末の火難以前の揮毫と思われるので、特色ある前書と共に掲げた。「は」と「も」のちがいに就いて、山本健吉氏は
「声調が豁然として展けるので、私は「世にふるは」の方がいい。その方が宗祇の句からの転換の姿勢を、いっそう
はっきりさせる。後に改訂したものか」 (r 色蕉全発句 JI ) と見ておられる が、 資料の年次を 考定 して行く と、 そう見るこ
213 延宝九年 • 天和元年
とは無理になって来る。「は」には観念性が強調される傾きがあり、それを後に婉曲な「も」に改めたのであろう。
「世の中は」という『笈日記』の初五は明らかに撰者支考の杜撰である。これは『泊船集』が r 此句、五文字を世
の中と笈日記にはしるされける。筆のあやまりなるべし」と指摘した通りであるが、そう言う『泊船集』が今度は座
五を「しぐれ哉」と誤った。「しぐれ」を態と隠したところが句の趣向なのだから、「しぐれ」を出してしまっては興
を損なうし、古集にもそういう句形は他に所見がない。
この芭蕉の句の表現は、応仁の乱の頃信濃で詠んだという「世にふるもさらにしぐれの 宿り かな」 (『新撰菟玖波集』
『老葉』)という宗祇の発句に全面的に依拠している。宗祇の句は乱世に生きる自他の苦しみを「しぐれの 宿り」 に比
して無常の嘆を叙べたのであって、『老葉註』では作者自ら、一一条院讚岐の「世にふるはくるしき物を」の歌を踏ま
えたことを言っているのによって、その胸臆の消息を知ることが出来る。宗祇の句を更に踏まえて成った芭蕉の句は、
表面上宗祇の句に共感を表しているだけのように見えるが、実は必ずしもそれにとどまらない俳諧の独自性を発揮し
ているのだ。それは r 宗祇の やどり」 といって「しぐれ」を裏に隠しているところにも一端をのぞかせているが、こ
れに添えられた文を見ると、一層明らかになって来る。真蹟自画賛に見える「笠 やどり」 と『雪まるげ』所収の「笠
はり」の文を先ず掲げて見よう。
笠やどり
坡翁雲天の笠の下には江海の蓑を振、無為のちまたに雨やどりし玉ふめる西行の侘笠哀に遣シ、鶯のぬふてふ梅
の花笠は、老をかくして妹があたりのしのび笠、行過兼て笠やどり、ひぢ笠の雨に打そぼつ覧、みかさと申せ蓮
の葉の笠いさぎよし。此笠は是艶ならず美ならず。ひとへに山田守捨し案山子の、風に破られ雨にいためるがご
とし。笠のあるじも又風雨を待て情尽る而已。
笠はり
214
草の扉に待わびて、秋風のさびしきおり < 、妙観が刀を借、竹取の巧を得て、竹をさき竹を抂て、自笠作の翁
と名乗る。巧拙ければ日を尽して不成、心安からざれば日をふるに懶し。朝に帋をもて張、夕にほしてまたはる。
渋と云物にて色を染、いさ X かうるしをほどこして、堅からん事をようす。廿日過る程にこそや X いできにけれ。
笠の端の斜に裏に巻入、外に吹返して、ひとへに荷葉の半開るに似たり。規矩の正しきより中<おかしき姿也。
彼西行の侘笠か、坡翁雲天の笠か。いでや宮城野$露見にゆかん、呉天の雪に杖を拽ん。霰に急ぎ時雨を待て、
そ V ろにめで V 殊に興ず。興中俄に感る叟あり。ふた、び宗祇の時雨にぬれて、自筆をとりて笠のうちに書付侍
りけらし。
天和初頭の初稿「笠やどり」は、笠尽しといった体で文を行っており、笠を手作りしたことは必ずしもはっきりしな
いが、前掲の堀田氏蔵真蹟懐紙の前書に「草庵のつれぐ、手づから雨のしぶ笠をはりて」とあり、『虚栗』の前書
も同旨であるから、笠を手作りしたことが機縁となって文が出来、句が成ったことは確かであろう。「笠は り」 の方
は恐らく後年の筆と思われるが、別に「かさの記」と題した真蹟も伝わっており、手作りの経過を一層具体的に知る
ことが出来る。つまり素人細工で二十日余りもか、って不格好な笠が漸く仕上ったのだが、「規矩の正しきより中
<おかしき姿」に興じているのは、紛れもない風狂の情であり、その気持は「笠やどり」の方にも笠尽しといった
形で現われている。この句では「宗祇のやどり」といって宗祇の句における「しぐれの宿り」をほのめかすと共に、
「やどり」を「笠やどり」にも利かせて、無常観の外' n ノ^!の侘びに興ずる風狂の情も籠めているのである。宗祇
の句は乱世無常の詠嘆が中心で、それを承けた芭蕉の句も表面はそれに共感の意を表しているのではあるが、芭蕉は
更に複雑な仕掛けによって、俳諧の新味を発揮していると見るべきであろう。この句で大切な事は、既に天和の大火
以前、第一次芭蕉庵の時代に、蘇東坡や杜甫、西行•宗祇らを引合に出して、その生き方に共感し、旅に向って誘わ
れる気持と共に、このような句文にまとめたことである。蕉風の本格化は発句に於いてはこの句あたりを以て画期と
215 延宝九年 • 天和元年
するといってよい。
芭蕉の歿後間もなく、江戸の杉風は深川の森下町なる長慶寺にこの発句を書いた芭蕉真蹟短冊を納めた発句塚を建
立した。それに関する文章を左に引いておく。
十二日は阿叟の忌日つとむるとて、桃隣をいざなひて深川の長溪寺にまうで侍る。是は阿叟の生前にたのみ申
されし寺也。堂の南の方に、新に一簣の塚をきづきて、此塚を発句塚といへる t は、
世の中はさらに宗祇のやどり哉 翁
此短冊を此塚に埋めけるゆへなり。此ほつ句は、ばせを庵の一生の無為なるべしと、杉風のぬし語り申されし。
(『笈日記』雲水部、武江)
……むさし野のふるき庵ちかき長渓寺の禅師は、亡師としごろむつびかたらはれければ、例の杉風かの寺にひと
つの塚をつきて、さらに宗祇のやどりかなと書をかれける一帋を壺中に納め、此塚のあるじとなせり。たれ
<もかれに志をあはせて、情をはこび句をになふ。猶師の恩をしたふにたえず、1 相落葉かきのけて、かたのご
とくなる石牌をたて、霜がれの芭蕉を うへ し発句塚と杉子がなげきそめしより、愁腸なをあらたまりて、
日の影のかなしく寒し発句塚 史邦(『色蕉庵小文庫』史邦序)
『笈日記』に見える「此ほつ句は、ばせを庵の一生の無為なるべし」という杉風の言葉は意味深長である。「世にふる
も」の句は、無為自然の生き方を志した芭蕉の生涯を象徴するものだというのであろう。
深川冬夜ノ感
泌櫓の聲波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ(武蔵曲)泊船集•夢三年
216
窓含西嶺千秋雪
門泊東海萬里船
我其句を職て其心ヲ見ず、その侘をはかりて其樂をしらず。唯老杜にま
される物は獨多病のみ。閑素茅舎の芭蕉にかくれて、自乞食の翁とよぶ
櫓聲波を打てはらわた氷る夜や淚(小林氏蔵真績懐紙> 出光—館蔵真績短冊.—仿—績懐
111聲波をうつて腸氷る夜は淚 S 代滑稽伝)
櫓の聲や腸氷る夜はなみだ (泊船集書入)
冬夜の感
櫓の聲にはらはた氷るよやなみだ(続深川)
冬季(氷ル)。
〇冬 夜ノ感 「冬夜ノ感」。冬の夜の作者の気持を述べた句であることを示す。「茅舎ノ感」 ( g ) 参照。 rTo > va . Fuyunoyo . 」
(『日葡辞書』)。〇 櫓の 声波ヲうつて「櫓の声波ヲ打つて」。川波の音に混って舟の艚のきしる音が聞えるのを、宛かも艚の音が波を
打つかのように表現したもの。「胡馬雪を鳴」(『武蔵曲』)「さくらを舞」(『虚栗』)「笠に詩ヲ着ル」(同上)「香ヲ折ル」(同上)等、当
時愛用された漢文訓読調の措辞である。「櫓」は、船尾にそなえて舟を推進する道具で、中世末期までは一本造りの棹艙が用いら
れたが、近世に入ってからは、艙腕と艚羽をつないで造る継艚が発達したという。「櫓」の字は「やぐら」をいうが、仮借して舟
の具にも用いられる。「浅草川に近年かの里へかよひぶねをこしらへ、大かた® 6 を二 gl たてける也」(『新吉原常 > 草』上)「方 oco
VOSU.J (『日葡辞書』)。〇腸氷ル 夜 やなみだ「腸氷 ル 夜や涙」。冬の夜の寒さが体の中にしみ通って氷るほどであり、万感 胸に迫っ
て涙がこぼれるというのである。「氷 ル」 が冬の季語で、「や」は詠嘆の切字。「腸をさぐりて見れば納豆 汁許六」(『続猿蓑』下)
「一里の炭売はいつ冬籠り一井かけひの先の 瓶 氷る 朝 鼠 弾」 (『あら 野』 員外) rFarauata . 」 「 Te , axigacouoru . J (『日葡辞書』)。
13^3水上の舟の艢の音が波にまじって聞え、寒さが身にしみて腸も氷るばかりの冬の 夜、さまざまの 思、,に、 何が
217 延宝九年 • 天和元年
なし涙がこぼれることだ。
■■尾形仂氏の紹介された真蹟懐紙には「深川ロロ」と前書があり、美濃派の俳人森々庵松後の追善集『夢三年』
(松雨 撰、寛 政士一年刊) には「寒夜辞」 と 題した 左の 如き文中にあって、杜詩を引いた真蹟懐紙の 文と 共に、作者の心境
を 窺うことが 出来る。 .
深川三またの辺りに草庵を侘て、遠くは士峯の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ。 あさ ぼらけ漕行船の あ
とのしら浪に、芦の枯葉の夢とふく風もや、暮過るほど、月に坐しては空き樽をかこち、枕に よりて は薄きふす
まを愁ふ。
艚の声波を打て腸氷る夜や涙
深川の草庵に於ける吟である こと や、板本の初出が天和二年春の『武蔵曲』である こと 等から、成立は延宝八年か
天和元年の冬と考えられる。『色蕉全句集』(乾.桜 井•永 野三氏編)では、『芭蕉翁真蹟拾遺』に「冬月江上に居を移して
寒を侘る茅舎の三句」として「草の戸に」 (§) 「けし炭に」(752)の次に「其三」として挙げているのによって、延宝
八年冬の吟と推定しているが、小林氏蔵真蹟懐紙には最後に天和元年の歳暮吟 r 暮ミて」 </5 i ) が書かれており、「櫓
声」の句の前書には「茅舎の色蕉にかくれて」ともあって、草庵の色蕉の樹が既に成長した ことを 思わせる。この懐
紙は明らかに天和元年冬の揮毫なのである。これらの事情を考え合わせると、前年冬の可能性を全く否定は出来ない
にしても、天和元年冬の作と見る方が有力であろう。
真蹟懐紙等の「櫓声」という表記は、このままで 「ロ ノコ H 」 と訓むか、或いは「ロ セィ」 と音読するか、二様に
考えられる。ここでは一応別に掲げ、明白に「櫓の声」と ある 『武蔵 曲』 を本位句とした。『続深 川』 の句形は、石
河積翠の『芭蕉句選年考』にいう、杉風後裔の家に伝わった真蹟に拠る ものと おぼしく、「色蕉野分して」の句の場
合と同様に、晚年の色蕉は極端な字余りの句形を正して、このように改案した可能性が大きい。作者の 最終案がその
218
句の定形であるとする立場も勿論成り立つけれども、この句の場合、後に改めるに至った外ならぬその点が、作風展
開史の上では寧ろ重要なので、『武蔵曲』の句形に拠って鑑賞したいのである。許六の『歴代滑稽伝』や『泊船集書
入』の句形は、その拠る所が明らかでない。
芭蕉庵に近い小名木川には、江戸から下総の行徳へ通う行徳船が往来していたし、大川にはもっと大型の船も盛ん
に出入りしていた。「櫓の声」はそうした多くの船から発するものである。この句は市中を去って深川に隠れた草庵
生活の艱苦と、それを超克して自足せんとする気持を叙べたものだ。遠くに富士を望み、門の近くに舟の往来する深
川の地を、杜甫の成都の草堂に擬して、その「絶句四首」の一節を冒頭に引いた真蹟懐紙の文に、その心境は特によ
く表われている。一見、生活苦や孤独の悲愁に堪えかねているようではあるが、「閑素茅舎薦 fc ' かくれて、自乞
食の翁とよぶ」というあたりには、世外の隠士としての境涯に生きようとする強烈な自恃の IT か^,み取れよう。この
句あたりになると、十•七•五という極端な破調の異体はそれとして、談林風の戯笑性はもはや全く影をひそめ、生
活苦に面と向って自らの生き方に徹しようとする芸術家魂が躍如としている。その精神の息吹が破調にそのまま反映
しているわけで、だからこそこの句に於いて破調は必須なのである。「破調を要求した内在の律動は、この大げさな
表現を通して、はっきり伝わってくるのである。切実であり、沈痛であり、檐声も波音もたんなる外在物でなく、作
者の心象の風景として昇華されている」(『芭蕉その鑑賞と批評』)という山本健吉氏の評は、蓋し至言であった。
邛 貧— 山の 签 I 相に啼聲寒し (虚栗) 小林氏蔵真蹟懐紙.泊船集.蕉翁句集
冬季(霜.寒し)。
1 〇 貧—山 r ヒンザン」。貧乏な寺をいう。寺には山号があり、必ずしも山寺と限る要はない。字間右側の線は音読のしるし。
219 延宝九年 • 天和元年
〇釜「ヵマ」。茶釜とも飯を炊く釜とも二様に考えられるが、私は飯釜と見たい。〔考〕参照。「亦家内には米や衣類を埋るもんだ。
そとに埋る時は、鍋や釜におつこんで、上に土をかけべいぞ」(『雑兵物語』下) 「 cama.J (『日葡辞書』)。〇霜に啼声寒し「 I 相に f
く 声寒し」。霜の気に感じて啼く声が寒々と聞える、の意。「鳴る」ではなく、 r 啼 く」 といって擬人化した。「鱗る音を' ill と云べき
を、啼と云出たる、是俳諧にして、其閑し味を添たる所也」(『笈の S )。
ia 貧乏寺の釜が夜の霜に感じて啼く声は、如何にも寒々と聞える。
■ E ■中国の故事#山の鐘が霜に鳴ることがこの句の趣向の根本である。既に夙く『山海経』に r 豊山之鐘霜1¢,テ而
鳴」とあり、詩人の手引書『円機活法』にも同様に見える外、『韓昌黎集』にも「豊山上鐘焉、人所互。霜
既降則鏗然鳴。蓋気之感 非-一自鳴一也」と見える。これらを頭に置いて、ここでは r 豊山」を r 貧山」に変
え、「鐘」が霜の気に感じて鳴るのを、「釜」が霜に啼くと俳諧にしたおかしみである。「釜」は茶釜と見ることも出
来るが、
「釜」と言ったので、貧乏寺の世帯じみた味わいが出て来て、その釜が鏗然として鳴る鐘の声とは打って代って、
啼くような声の煮える音を立てて いると 言った。茶釜の音なら松風と聞く手もあるが、これは飯釜の煮える音で、
それでもいっぱしの霜の気に感じたかのような音を立てるところが、おかしみの中のあわれである。(『芭蕉全発
句』)
という山本健吉氏の説は、間然するところがない。従うべきであろう。おかしみの間にわびしさやあわれさの感じも
仄見えて、同じ豊山の鐘を扱っても、 r つかぬ鐘ひ V *く程ふるしもく哉」(長頭丸)(『崑山 集』 卷士一)「つかねども此鐘ひ
ゞ く霜夜哉」(重安)(『遠近集』卷四)といった句よりは数等気が利いている。
板本としては天和三年の『虚栗』初出ながら、小林氏蔵真蹟懐紙には、前の「櫓 声」 の句の次に書かれており、こ
の真蹟は天和元年冬の揮毫と見られるものなので、この句も延宝八年か天和元年の成立と見られ、就中後者の可能性
220
が高い。但し、真蹟には、
貧山の釜霜に鳴声寒シ
と書かれており、「鳴」を「鳴る」とよめば、『虚栗』に先立つ初案形ということになる。しかし「鳴く」ともよめる
字であるから、初案かどうか軽々には断 c 難い。「啼」の字を用いれば、この点の紛らわしさはなくなるのである。
茅舍買 x 水
/50氷苦く偃鼠が咽をうるほせり(虚栗)
冬季(氷)。
Kn o 茅舎 かや葺きの粗末な家の意で、芭蕉庵を指す。既出(§)。〇買 x 水 低湿の地の深川は水質が悪\江戸市中の飲用
に供された神田上水の恩恵に浴することもなかった。舟で売りに来る水を買って飲用水にしていたのである。〇氷 苦く r7k f i 記ぐ」。
「氷」は、右の買置きの飲料水が冬の寒さで氷ったものをいう。「氷ル」 (§) 参照。「苦く」は氷の味であるが、多分に心境的なも
のを含む。この表現については、白楽天の詩句を踏まえると見る安東次男氏の左の如き新説がある。
氷蘖ということばがある。貧苦に耐え、苦節を守る こと だが、白楽天の詩句から出たものらしい。穆宗の長慶二年、糾奏し
て容れられなかった楽天は、自ら外任を乞い、杭州の刺史(知事)たること三年、そのときの回想の詩に「氷ヲ飲ミ M 蘖ヲ食
フ、唯天山二向ッテ両片ノ石ヲ取得セシノミ」(「三年刺史卜為ル」)。蘖はキハダ、鮮黄色の内皮は胃腸薬にするがたいへん苦
' 〇
「氷苦く」は氷蘖の俳言工夫だろう。……
深川は水質悪く、水売舟が通ってきたようだが、だからといって、悪い水が氷る と 味まで 苦くなる というばかげた ことは な
い。水甕に張った氷を、割ったついでに口に入れてみたら苦かったまでだ。一種、予期せぬ体験の面白さである。それが「氷
蘖」に結びつくきっかけになったのだろうが、じつはもともと胃腸が弱く、口中が苦かったのだ。(『色蕉発句新注』)
小林氏蔵真蹟懐紙.真蹟草稿切■橋守•泊船集
書入.絵大名•蕉翁句集
221 延宝九年 • 天和元年
白楽天の名は『虚栗』の跋文に於いても芭蕉自身触れており、関心の深かったことは認められるけれども、この句の表現が白詩に
拠ったかどうかは、なお断定し難い。「苦く」は実際の体験でもあろうが、ょり多くは生活の味の「苦さ」であろう。「水棚の菜の
葉に見たる氷かな勝吉」(『あら野』卷五)「われも子どもにも、もろともにくはせんとて、おほらかに煮て く ふに、にがき事物に
もにず」(『宇治拾遺物語』卷三ノ十六 ) 「couoriga faru . 」 「 Nigai . 」(『日葡辞書』)。〇偃鼠「エン y 」。もぐらのこと。但し、『荘子』
の林希逸注『荘子慮斎口義』には「偃鼠、潜伏之鼠也」とあり、江戸期この句と略々同時代の『浮世物語』卷四ノ三には「11?鶬ぱ
巣をくふに一のえだをひろしとし、鼹鼠の川をのむ、腹ふくるれば足ぬ」とあって、当時は鼠の一種と考えられていたらしい。
「偃」の字音は「エン」で、『虚栗』の振仮名 「 H ン J は誤り。『荘子』逍遥遊篇に見える許由の語「鹪鶬巣,一於深林一不;,過,二枝--〇
偃鼠飲 x 河、不 〆 過0満腹こ(鶴鶬深林に巣くふも一枝に過ぎず。偃鼠河に飲むも満腹に過ぎず)を踏まえ、芭蕉自身を偃鼠に比し
た。「南花真人の謂所一巣一枝の楽み、偃鼠が腹を扣て無何有の郷に遊び」(『夏炉一路』所収、芭蕉「世に匂ひ」の句前書)。〇咽をう
るほせり 「咽を潤ほせり」。渴きをいやした、の意。「咽」は「喉」に同じ。「人鉢のくびののど如何。のどは喉とつくれり。飲戸
の義歟、くはしくは、のむ戸といふべき歟 J (『名語記』五)「くさぐの草木のたねと思ひしをうるほす雨はひとつなりけ り」 (『風
雅集』巻十八、行成) 「 Nodo . J 「 vruuoxi , sFoita . 」(『日葡辞書』)。
3M- 買置きの水の氷ったのを口に含むと苦い味がするが、これでも偃鼠のょうな自分の喉をうるおして、渴きを医
したことだ。
「櫓声波を打て」「貧山の」の句等と共にこの句を記した小林氏蔵真蹟懐紙には「買水」と前書があり、延宝八
年か天和元年、特に後者が成立時期として有力である。梅人が杉風筆色蕉像を摸写した上に貼付された真蹟草稿切の
前書にも「買水」とある。『蕉翁句集』の前書は『虚栗』に同じ。『泊船集』の中七が「偃鼠に咽を」となっているの
は杜撰に過ぎない。「が」は所有格として「咽」にかかるのであって、「偃鼠に」では意を成さないのである。
深川の地に水道の便がなく、船で運んで来た水を買って飲用に宛てていたことは、荘内藩(酒井氏)の記録『藩邸
記』に、深川高橋なる下屋敷について「用水の水道なし。船水を買求む」と書かれているのを見ても明らかである
(暉峻康隆博士「色蕉と江戸」 ㈠ 、『俳句研究』平成三年一月号参照)。「茅舍買/水」という前書は、そうした深川の
222
庵住生活を述べたものだった。作者自らを「偃鼠」にたとえて、わずかな水に渴きを凌ぐ生活のわびしさを表わして
おり、その気分は「苦く」といったところに特に顕著である。この「苦さ」は、味の苦さよりは寧ろ生活感の苦さで
あって、さきに「心境的」といったのもその意味である。『荘子』の語を採ったところ、典型的な天和調であるが、
もとの話は、尭が許由に天下を譲ろうとした時、許由が之を辞退して述べた言葉の中に見え、自らは天下に望みがな
く、今の生活に満足していることを、ささやかな動物に託して言ったのであった。知足安分を説いた原話に影響され
て、この芭蕉の句も分に安んずる心境を述べたもののように解する説もあるが、この句にあらわれたものは、もう少
し複雑であって、井本農一博士が、左のように説かれた通りだと思う。
……芭蕉はこの語句中にいう偃鼠のように分に安んじ、足るを知って満足している人間として自分を詠んでいる
のではない。……ここの偃鼠はもう荘子のいう偃鼠からは離れている。人眼を忍んでかくれ伏しているねずみに
自分をたとえ、ねずみが、 ちょろちょろと 川端に来て水を飲むように、自分は深川あたりの辺鄙な土地の草庵に
世を避けてかくれ住み、飲み水のかわりに氷のかけらを苦く口にふくんで咽をうるおすことだ、とわびしい生活
を省みているのである。決して満足している心境を述べているのではなく、むしろ自嘲の口吻さえあるというも
のである。この句を知足安分の句と取る解は、荘子.の3£§句に引きずられ過ぎている解で、私はとらない。(『鑑賞日
本古典文学.芭蕉』)
わびしい生活を省みて自嘲する趣は、『野ざらし紀行』の「狂句こがらし」の句にも見られるところで、天和から貞
享にかけての頃の芭蕉の心境の主調をなしている。これが真に安定するのは、最晚年を待たなければならなかった。
223 延宝九年 • 天和元年
歲 暮
暮//てもちを木玉の住寐哉(小林氏蔵真瞋懐 S
天和一一歳歳旦発句牒.真填草稿切.真蹟画賛.
稿本露沾集•蕉翁句集
冬季(もち)。 .
i 〇歳暮「セィボ」。年の暮。「歳暮は除夜となくば、前の日をも読也。九月尽はかならず晦日也」(『正徹物語 Jl )「 xeibo.
Toxino cure. 」(『日葡辞書』)。〇暮 -vr 「暮れ暮れて」。「暮 る」 を繰返して年の押しつまったことを強調し、且つ一日が暮れ果て
たことも兼ねて言った。「くれて行年のまうけや伊勢くまの去来」(『猿蓑』卷一) 「 Faru, natgu, aqi, fi, toxiga cururu. 」(『日葡
辞書』)。〇もちを木玉の「餅を木玉の」。年末の餅搗きの杵の音を訝に聞いての、と下の「侘寐」にかけた表現。技巧的で興じた
趣がある。「木玉」は物音の反響をいう。ここは、山谷に反響してこだまを返す所謂「やまびこ」ではない。語は「木の精霊」の
意から出たので、このような字を宛てるのである。古くは「■コタマ」と清音であり、この時代にもあまり濁音の例は見当らない。
「石ガ日ク花の目出度咲にけり才丸木玉にかなで風を舞柳揚水」(『次韻』) 「 cotama. i, Yamabico. 」(『日葡辞書』)「樹神」「木
魅」(『増補下学集』)。〇侘寐「ヮビネ J 。 わびしい思いを抱いて寝ること。
ana 年も押しつまって、家々 では餅を搗い ているが、独り住みの 私は 正月の支度をすることもなく、 餅搗 きの音を
こだまに聞いて、日が暮れるとわびしい独り 寝を することだ。
Oi 『天和 二 歳歳旦発句牒』には最初に「元日/次第不同」と題して、この桃青の発句を一番に掲げている。この
題は発句牒全体にかかるもので、当面の句の内容はやはり歳暮吟と見るべきであろう。『俳聖余光』所収の真蹟画賛
にも「歳暮」と前書があり、天和元年歳暮の作と推定される。
世間一般の年の暮と貧しい隠者としての自分の境涯とを対比して、心中にかみしめている趣である。前の「餅を夢
に折むすぶ歯朶の草枕」ふ)を承け、遥か晚年の r ありあけも三十日にちかし餅の音」へとつながる一連の発想が浮
■び上って来る。『芭蕉句選拾遺』に下五が「侘音哉」とあるのは、「木魂」に引かれた誤りとおぼしい。
224
;52けし炭に薪わる音かをの ゞ おく S 深川) 真蹟集®•五.兀集脱漏.色蕉翁真蹟拾遺
冬季(けし炭)。
1〇けし炭「消し炭」。薪や炭などの燠を消して作る炭。軽くて軟かく、火がおきやすい。ここは茶の湯用の白炭か。(狀)参
照。「白き物こそ黒く成けれ……光の滝やきそこなひてけし炭に慶友」(『犬子集』卷十七)。〇薪 わる音か 「薪觊る1 日 か」。「薪」
は、消し炭の材料としてのものである。「か」は、疑問。「江戸の方言に、薪のことをまきといふ」(『筱舎漫筆』五)「菊刈や冬たく
薪の置所杉風」(『続猿蓑』下) 「 vari , F atta . 」(『日葡辞**』)。〇 をの、おく 「小野の*?」。「小野」は京の北郊、小野炭の産地。
(727)参照。「をの」に「斧」を言い掛けた。「手ならひ……小野の奥」 ( i 船#』一」一『日葡帛«』一。
何処かで斧の音がする。あれは消し炭に作る薪を割る音だろうか。さすれば此処も、さしずめ炭の産地の「小
野の奥」といった感じだ。
11一一 r 自分の住む近所を小野の奥に見立てた談林風」(今 氏『色蒸句集 J 1) の趣向であろうが、 余り 上出来の句とは言い
難く、却って句意が晦渋になっている。『真蹟集覧』と由誓の『五元集脱漏』には「色蕉翁が茅舎の吟に」 として 出
し、大虫の『芭蕉翁真蹟拾遺』には、「冬月江上に居を うつして 寒を侘る茅舎の三句」 として r 其一」に「草の戸に
茶を木葉かく」(§)、「其二」に当面の句、「其三」に「櫓声波を打て」( I )の句が書かれたものを伝えている。「冬
月」云々の前書によれば延宝八年冬深川移居の際の作のようにも考えられるが、さきにも述べたように r 檐声」の句
は天和元年冬の作たる可能性が大きく、三句を録した真蹟の原物が出現するまでは、「けし炭に」の句も、移居後天
和元年冬に至る間の作として、年次の確定はさし控えたい。
225 大和 •/+:
大和二年
/53 梅柳さぞ若衆哉女かな (武蔵曲) | = 一月廿日付木因宛 書簡.泊船 集.蕉翁句*
梅柳看よ若衆哉 をんなかな <真績短冊)
春季(梅•柳)。
1 M 〇 さぞ そ」。これは、定めし . だろうと推量する意ではなく、「そのように」の意。梅は若衆の如く、柳は女の如くな
のである。 「 sazo .」 (『日葡辞書』)。〇 若衆 「ヮヵシユ」。前髪立の少年。男色の対象としての若い男を考えていると見てよい。「な
りさうもなふて成物/一 ぬしあるわかしゆ」(『犬枕 』) 「sono fitono vacaxu . 」(『日葡辞書』)。〇女「ヲンナ」。「若衆」との対照
からして、ここは山本健吉氏のように、女郎•遊女の類を指すと見てよかろう。「たが手にもおるや流のをんなへし弘永」(『毛
吹草』巻六) rvonna . 」(『日葡辞書』)。
1春と花咲く梅や青々と芽吹く柳。人ならば恰度、前髪立の美少年や艷っぽい遊女といったところよ。
1 天和 二 年 三月 廿日付木因宛色蕉書簡に「当春之句共」 として 挙げてある自他の作七句中の最初に見え、同年春
の作たる ことは 確実で、『泊船集』にも「天和の比の吟な り」 と左注がある。最近『芭蕉真蹟』『芭蕉全図譜』に紹介
された 中七を「看よ若衆哉」 とした 真蹟短冊は、典型的な天和期の書風を示す新資料である。初出板本『武蔵曲』の
226
句形が定案と見られるから、「看よ」という形は、それに先立つ初案と考えられる。
潁原博士の『新講』に、
句としてはむしろ単純な見立にすぎず、随つて貞門談林時代の
さす枝の梢は若衆花の兄 定次(堺絹)
髪 さげし 青女房か柳腰 資仲(続山井)
等の如き着想から多くを出てないやうであるが、しかもここにはやはり根本的な相違がある。 即ち貞門 •談 林の
句では、あくまでも花の兄とか柳腰とかいふ言葉の縁に維つた作意であるのに対して、芭蕉の句はすでに梅•柳
そのものの感じを直接に捉へようとして居る。勿論その捉へ方はなほ深いとは言へない。特に「さぞ若衆かな女
かな」と竝叙した表現には、興味本位な傾向さへ見られるのであるが、それが天和の吟であることを思へば、多
きを望むことがむしろ無理であらう。
とある見方は、確かなところであろう。「かな」を繰返して弾むような調子を出し、 享楽 味が濃厚に 感ぜられる。天
和調は所詮なお過渡期の所産であつて、作者の態度にも、真の詩味を生かそうとする真面目なものには乏しかつた。
上 巳
况袖よごすらん田螺の蟹の隙をなみ (三月廿日付木因宛書簡) 蒸翁句集
春季(田螺)。
P13 〇 上巳 三月三日の節供をいう。既出(72)。〇袖 よごすらん 「»!所すらん」。袖をよごしているだろう、の意。「よごす」
は日常語である。 r とてもぬれたる袖」(『毛吹草』卷二) r 縫物や着もせでよごす五月雨羽紅」(『猿蓑』卷二) rsode . 」 「 Yogoxi ,
227 天和二年
su , oita . 」(『日葡辞書』)。〇 田螺の蟹 「田螺」は、淡水産の巻貝。茹でて浅葱などと共に酢味增和えにして雛に供えるので、弥生
の節供に縁がある。水辺の田圃などで採れるが貝には違いないので、それをとる農夫を rst 」 (漁夫)といった。蟹は女性とは限
らず、田螺とりの作業は男の方が相応しいであろう。 r 陶氏本草日、田贏、生, 一 水田中及湖潰岸側一形円、ち'如, 一 梨橘一小者如, 一 桃
李一人煑食 x 之。〇韓保昇本草云、状類,一蝸牛一而尖長、青黄色、春夏采 VN 。 △和産又説のごとし」(『滑稽雑談』)「花の比談義参も
うらやまし越人田にしをくふて腥きくち芭蕉」(『あら野』員外)「みせばやなを1:まのあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はか
はらず」(『千載集』卷十四、殷富門院大輔) rTanixi. 」 「cszuqino ama . 」(『日葡辞書』)。 〇隙をなみ 「隙を無み」。「 . を . み」
は普通、理由をあらわす語法と解されることが多いが、ここはただ、いそがしく働いている状態をあらわすだけである。「ひま」
は日常語。「久しぶりにて訪妹が許蟬吟奉公の隙も余所目の隙とみつ宗房」(「貞徳翁十三回忌追善俳諧^「赶« 4 の!6*;<は矿刈り
塩焼き 0SV 無み髪梳の小櫛取りも見なくに」(『万葉集』卷三、石川少郎) rFimagaaqu . 」(『日葡辞書』)。
laia 上巳の節のこの日、海浜の潮干狩とはちがって、田圃では「田螺の蟹」ともいうべきお百姓が、いそがしげに
田螺をとつていることだろう。
■231 前の句と同じく三月廿日付木因宛書簡に「当春之句共」の中に挙げてあり、天和一一年三月の作と認められる。
上巳の節供に付物の潮干狩を転じて田圃の田螺とりを材とし、その農夫を「田螺の蟹」と洒落て俳諧にしたところが
味噌である。〔語釈〕に引いた『万葉集』や『千載集』の歌を踏まえて、「袖よごすらん」「鹽 J 「……をなみ」等、和
歌風の優雅な言いまわしをしながら、「よごす」「田螺」「隙」といった日常語や俳諧的素材を詠み込んでいる。和歌
風の表現によりつつも、扱うところは田圃の田螺とりという庶民の生活風景で、七•七•五の破調も延宝天和の交の
過渡期のものであった。但し、そういう生活に対する同情の如きものは余り感ぜられない。ここでは飽くまで「田螺
の蜜」という見立の興が中心になっているようである。
228
255 雙なるやつこ花見るやたが哥のさま(真蹟短冊)囊句集
雙奴今やう花にらうさいス(ーニ月廿日付木因宛雲)
春季(花見)。
i 〇 艶なるやつこ「艷 なる奴」。あでやかに装った中間(身分ある武士に使われる下僕。侍と小者との中間の階級であるとこ
ろからこの名が出たという)。『嬉遊笑覧』に、
延宝•天和の頃に、俳優坊主小兵衛が糸鬢あたまにて異名を取しも、其のころ師宣が浮世絵に、いとびんのあたまの奴多く見
えたり。その風に傚ひたるなれど、是は俳優ゆ袅名を得たり。又それを真似て同じ異名を取りしも有り。……誰袖海に、さる
御屋敷に有付き、只今は与五平と申御門役云え、昔の俤今のひげ奴と成て、うす鬢の一筋に心なき身とおもへども云 >、……
宗因千句、奢られにけり若やがれけり鬂ひげをりんと作りて錦きて蜀の江よりや来る船頭
赤坂奴と云は、徒若党.中間等なり。紫の一もと、市谷八幡の条に、さのみ祭は結構にはあらねど、祭に出る男はみな旗本衆
に奉公致し、山の手の奴と人のまねる男どもなり云//。当世はやり詞と云も、みな山の手筋ょり出る也。それを堺町や木挽町
にてまねて諸人に見せて、遠国迄もしるなり。〔割註〕劇場にて坊主小兵衛と云しは、専ら奴の狂言をなし、頭も其如く剃た
れば、坊主と呼しは、前から見ればさも見ゆる故なり。又昔し狂言に、セリフ又ッラネと云て物を言述る事あり。今も、しば
らくと云ふ狂言などの如し。彼奴に扮するも必ずこれあり。六方の奴言ばなり。それ行はれて、種 AZ の売色にもそのまねをし
て売たり。(巻一下、容儀)
等とある記事が参考になろぅ。右に引かれた『宗因千句』(寛文十三年刊)の付合にょれば、作り髭をして着飾った奴が、大身の武
土の船遊び等に供をしていたさまが窺われる。奴の風俗が世上の流行の元になったのである。「艶以呂布加志、又、美也」(『新撰字鏡』)
「むさし春歩さすがにと読てやみけり桃青艷なる茶のみ所求めて其角」(『次韻』)「はいとかけたる一声に、両口はなすやつこ
229 天和二年
が!§も、共にはねたるじゆんそくや」(『鏟の権三重帷子』上)。〇 花見るや 「や」 は、詠嘆の切字。 ◦たが哥のさま 「誰が歌の様」。
誰の歌に詠まれた様なのか、の意。この「哥」は、表面は「和歌」を指すように作ってあるが、実は「誰の歌でもない。今の世の
小歌に歌われているさまだ」という意であろう。別案に「今やう花にらうさいス」とあるのを思うべきである。「はつ花に誰が傘
ぞいまいまし長虹」(『あら野』巻 一) 「配所にて干魚の加減覚えつ、釣雪哥うたふたる声のほそぐ舟泉」(『あら野』員外)
「有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて」(『笈の小文』) 「 Taga . 1, tarega. 」「 Vtauo vto <. vta § yomu , 一,
yeizuru . J 「 sama . 」(『日葡辞書』)。
easi あでやかに装った中間が花を見ているよ。それは誰の歌に詠まれたさまだったかな。(誰の歌でもない。今の
世の小歌に歌われているさまだ)
1この句、別案と思われる句が、前掲の如く三月廿日付の木因宛書簡に「当春之句共」として挙げた中に見える
ので、「今やう花にらうさいス」の句が天和 二 年春の作であることは確かである。「今やう」は、当世風のいでたち、
または「当世風に」の意。「らうさい」は、戦国末にはやった隆達節の後を承けて近世初期に流行した弄斎節のこと
で、それを歌うことを「弄斎す」といったのは、句の途中に「今やう」の語を挿入したのと共に、新奇な言い方であ
った。ただ、新奇なだけに「今やう花に」のあたりの言葉続きが聊か不束かの感を免れない。「花見るやたが哥のさ
ま」は、恐らくその点を考慮した改案であろう。調子はこの方がずっとおだやかであるが、「艶なるやつこ」の初五
が共通し、花見の風俗を扱っていることも同じである。この句形、以前は『蕉翁句集』『芭蕉句撰拾遺』に載るだけ
で、芭蕉生前の古い資料がなく、その根拠に一抹の不安があったが、昭和五十六年の芭蕉展に出陳された真蹟短冊
(『漂泊の詩人芭蕉展』図録に写真所収)によって、その不安は解消した。短冊は天和期の筆蹟で、木因宛書簡との先
後は卒かに断じ難いが、私は前述のような観点から、この方を定案と見ておく。「花に酔 U 羽織着てかたな指女」(加)
「盛じや花に坐浮法師ぬめり妻」 /?6 )「梅柳さぞ若衆哉女かな」( ;53 )等の句と同様に、当世風俗を題材とした作である。
156
230
晝顔剛勇
S の中は晝顔かれぬ日影哉(真瞋懐 S
* の內の晝白ハかれぬ日影かな#のかっら)
夏季(昼顔)。
-_ i 〇昼顔 剛勇「昼顔」 は、 ヒルガオ科の蔓性多年草。我が国各地の原野に自生する。宿根から長い蔓性の茎を出し、初夏に朝
顔に似た小さい淡紅色の花を開く。真夏の日中、強い日ざしを受けて咲き、夕方には凋むのでこの名がある。繁殖力のある強靭な
植物で、その強さを強調して「剛勇」と題した。「ひるがほを舞にみる長ね哉弘永」(『毛吹草』卷五)「敵11?不»?の国せんや、力^
に 叶 ふまじと」(『国性爺後日合戦』第五)。 〇雪の 中は「中」は「ゥチ」。『雪のかつら』(里丸 撰、 文政四年成)所載の句が「内」の字
を用いているのも参考になる。 〇かれぬ 「枯れぬ」。「ぬ」は否定の助動詞で、「日影」にかかる。「ふるき歌のことばがきに、か
れたるあふひにさしてつかはしけるとも侍り」(『徒然草』百三十八段)。 〇日影 r ヒヵゲ J 。 ここは、日の光の意。「日影ももらぬ松
の林に入て、爰を木の下と云とぞ」(『おくのほそ道』) 「3 cague .」 (『日葡辞書』)。
ia 雪の中にあって枯れもせずに、日の光のもとに咲いている昼顔の、さても剛勇さょ。
MH この句を書いた真蹟懐紙は「泊船堂芭蕉翁」と落款した天和期のもので、昭和三十五年の「おくのほそ道•芭
蕉展」ではじめて公開され、岡田利兵衛氏の『芭蕉の筆蹟』に精しい考察がある。岡田氏はその筆蹟の特色から天和
二年頃の揮毫と推定しておられるが'「泊船堂」の号も最初の色蕉庵居住中に用いられており、「色蕉」号の使用から
すれば延宝九年(天和元年)の染筆ではなく、天和二年歳暮の大火に類焼する前の揮毫と考えてょい。句の成立も天
和二年であろぅ。
この句の季節には問題がある。昼顔が夏の季語であるのに句中に「雪」が詠み込まれ、しかも雪の頃に昼顔の花が
231 天和二年
咲くなど実際にはあり得ないからで、内容の解釈もこの事情から極めて困難になっている。真蹟の出現が比較的近年
の事であったし、それまでは後代の俳書に見えるだけで、真作として疑念が払拭し切れなかった為に、注釈も少い。
近年の注では『禅林句集』の詩句「雪裏色蕉摩詰画、炎天梅蕊簡斎詩」の心を踏まえて、実際にはない雪中の昼顔を
虚構したと見られている(今氏『芭蕉句集』)。加藤揪邨氏の『芭蕉全句』が指摘するように、『おくのほそ道』の月山鍛
冶小屋の条に、「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に
埋て春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の «' 花爰にかほるがごとし」とある外、この『禅林句集』の詩句は、
謡曲の「芭蕉」や三千風の『日本行脚文集』等にも引かれて当代の俳人達には周知のものであった。その上、色蕉参
禅の師鹿島根本寺の仏頂和尚が関わった鹿島神宮との所領争いに決着がついたのが恰かも天和二年の六月であって、
幕府への訴訟の為に江戸へ出て来た仏頂に江戸での用事がなくなれば、参禅の機会も自然なくなるわけで、この句の
成った頃は、芭蕉が仏頂の指導を受けた最終段階だった答である。このような句を作る機縁として、芭蕉の参禅経験
も考慮されなければなるまい。この句が雪裏の昼顔を虚構したもので、大意は前掲の如くであるとすれば、「昼顔は
雪にもかれぬ日影哉」とでもした方が分りやすいのに、敢えてこのような句作りにしたのは、佶屈な晦渋性を偏愛し
た天和期一般の傾向によるのでもあろうか。句の季節は「雪」で冬季とすることも出来るが、虚構の風景であること
も考慮して、昼顔本来の夏季と見ておく。『雪のかつら』は、「芭蕉植て」「いづく時雨」の天和期の二句と共に掲げ
て、句案の反故による旨注記がある。従ってこうした別案が存在した可能性はあるけれども、ここでは現存する真蹟
の句形を本位句としたい。『句解参考』に初五を「雪の日に」としたのは誤伝であろう。
i 57 晝顔に米つき凉むあはれ也 si
泊船集•暁山集.類柑子.蕉翁句集草稿.蕉翁
句集
232
夕顔卑賤
ゆふがほに 米搗休む哀哉(真蹟懐紙) 一真績短冊.真績自画賛
ゆふがほに米やすむ哀なり(ぁっめ句) | i
夏季(昼顔•凉む)。
〇米つき 「米搗き」。 昔、 米はあらづきしてあるだけで、精白はそれぞれの家で行った。杵を足で踏む踏み臼などでこの作
業をしたのである。この時代、江戸では越後あたりからの出稼ぎ労働者が米搗きをすることが多かったが、この句の「米つ き」 も、
そうした出稼ぎ人と見られる。「帰厂米つきも古里やおもふ農夫」(其角「田舎の句合」第四 香) rcomeuot > ouqu . 」(『日葡辞書』〇
〇凉む「凉 む」。休息して涼を納れるさま。「涼み」には秋の納涼もあるが、ここは上に「昼顔」があるから夏の場合である。
「凉」 も「涼」と 同じく 「す ゞ しい」 意。「凉 めとて切ぬきにけり北のまど野水」(『あら野』 卷六) 「 suzumi , u , unda .」 (『日葡辞書』)。
〇あはれ也 「あはれ」を広義の感動と解する説もあるが、真蹟類に「哀」の字を宛てているのを考えれば、やはり気の毒な感じ
の方の「あはれ」であろう。「かわいそう」とも少しちがうが、同情を催す気持なのである。「三か月の陰にてす V む哀かな素
堂」(『炭俵』上) 「 Auareuomoyouosu.J (『日葡辞書』)。
RMS 昼顔の花の咲いているあたりで米搗きが涼んでいるさまは、何がなし同情を誘われる趣だ。
『類 W 子』(沾洲等撰、宝永四年刊)には「祖師の自画賛」と前書がある。夏の日盛りに、昼顔がからんだ垣根の傍な
どで、米搗きが作業を中断して涼んでいるさまをそのままに描き、それを「あはれ也」と把握したもので、属目の景
を飾らない言葉であらわしたところ、「細み」ともいうべき作者の心の動きも感ぜられて、なつかしい味わいがある0
年代的に最も早い資料は、前の「雪の中は」の句他一句と共に書いた真蹟懐紙で、前述したょうに天和二年の染筆
と推定される。この最初の段階では花が夕顔で、しかも「卑賤」.という前書がついているところを見ると、夕顔の花
と「米搗」(「搗」は「搗」の異体字)との間に「卑賤」という点で通い合うものを見ているらしい。夕顔の花は『源
氏物語』でも「かう、あやしきかきねになん、さき侍りける。 . いとこいへがちに、むつかしげなるわたりの、こ
233 天和二年
のもかのも、あやしくうちよろぼひて、むね<しからぬのきのつまごとに、はひまつはれたる」(「夕顔」)と書かれ
ているように、庶民階級の住居のあたりに相応しい花で、それと「米搗」とを取合わせたところに、一種の知巧的な
傾向が看取される。天和期にあっては、題材の配合に余情.句いの通い合いを主とするところまでは行っていないの
である。それに、夕顔の花は日中では なく 夕刻に開くのだから、この句形では夕暮時の情景になって、趣がかなり違
って来る。同句形の真蹟短冊は甲州の門人高山麋塒旧蔵と伝えられる四点のヶちの一で、『続蕉影余韻』『芭蕉図録』
に収められ、天和期の筆蹟と認められるもの。真蹟自画賛は尾形仂氏著『松尾芭蕉』の口絵に写真が見えるが、筆蹟
は短冊に類似する同時期のもので、画の方は江戸中期の甲州の俳人上矢敲氷の遺稿『祖餞』に「屑屋に夕がほ這懸た
る庭に立臼のかたあり」と構図について述べているのにぴったり符合する。人物が居ないところが面白いが、敲氷が
見たものが現存の自画賛と同じものだったことは確かであろう。兎に角天和期の染筆と思われる真蹟三点は、何れも
「夕顔に米搗休む哀れかな」の形である。
数年を経て、貞享四(一六八七)年丁卯の秋に書かれた真蹟長卷「あつめ句」(『菜集』はその摸刻)になると、「ゆふ
がほに米やすむ哀なり」という形に変る。「米やすむ」は「米〔搗〕やすむ」の脱字であろうが、「哀哉」が「哀な
り」に変ったのは、蕉風本格化の時期に入って、徒らな詠嘆過剰より素直な直叙を良しとする作者の心の動きが窺え
るよう である。
更に貞享五年三月に成った『続の原』(不卜撰)に至って、句形と内容に大きな飛躍があった。夕顔が昼顔に変り、
「休む」が「凉む」となったのである。夕刻に開く夕顔の花に代えて昼顔が登場するに及んで内容は日中の情景とな
り、しがない米搗きが昼飯時とて作業をやめて、汗を拭き拭き垣根の片蔭に涼を納れるさまが「凉む」によって強く
印象づけられる。「「朝顔」ならば楽な人になり、「夕顔」ならば農民のおもかげである。「ひる顔」はいかにも米つき
の風情である」(『続色蕉俳句研究』幸田露伴)という鑑賞は確かな所であろう。山本健吉氏は、
234
「昼顔」は時刻を限定しているだけでなく、かくべつ賞美するに足らぬその平凡さと、小さな薄色の破れやす
い花のはかなさとが、米搗の取合せとして、如何にも利いている。「休む」でなく「凉む」であるのも、凉むに
足らぬ日中の日向であるだけに、哀れは深いと言うべきであろう。
だが、「昼顔」と「米搗」との取合せだけだったら、取合せが利いていると言っても、それだけのことである。
この句の生命は「あはれなり」という結句にある。「哀かな」では駄目なのである。それは言葉の意味の問題よ
り も、 リズムの問題である。「昼顔」と「米搗」との配合に点睛を与え、そのはかなさの感じを完成するのが、
「あはれなり」という結びだ。「かな」では断定が強すぎ、表現が露骨でありすぎる。これは不思議な効果である。
同じ配合の句であっても、芭蕉の句はこまかな工夫がこらされている。「細み」の句というべきか。……それは
ヵメラ•アィによって捕えられた、単なる風景の断片ではないのだ。彼が米搗の姿を哀れと見るとき、彼は米搗
の哀れさの実態を深く把握しているのである。(『色#;その鑑賞と批評 fe
と精しく見ておられる。 r 哀哉」は基本的に断定よりは詠嘆であるが、響きが強過ぎるし、 r 哀」と連なる場合、不束
かな語感も免れない。いわば「哉」は、天和の好みであって、貞享蕉風では捨てられるべきものだったのである。
「あはれ也」となって、山本氏の用語に従えば、この句は初めて「細み」を得た。それは米搗きの生きざまに向って
深く同感する作者の心を感じさせる。こうした時、芭蕉は決して小手先で巧みな表現をしようとしない。「あはれ」
は見掛けは大雑把な用語に見えるが、実は対象を深く把握した結果の表現であり、彼の才能の柄の大きさを示すもの
なのである。この米搗きのあわれは、俳諧が見出した新しい「あはれ」といえようが、これは貞享も末になって推敲
の挙句に完成したのであった。従って貞享期に於いてこの句を扱うのも一つの態度であるが、本書では初案の年次を
基準に、天和期に配することにした。この句の推敲過程を通じて、天和から貞享への作風の変遷展開を看取して頂き
たい。
235 天和二年
『類柑子』に「祖師の自画賛」と前書があるのは、禅宗の六祖慧能を描いた芭蕉の画にこの句を賛したものがあっ
たことを言うのである。慧能は五祖大満の会下に参じて修行するうち、唐臼を踏んで米を搗くこと八月余にして悟り
を開いたと伝えられ、禅の悟道を示す恰好の話として有名だった。『類柑子』の所伝が其角によくある杜撰な記憶ち
がいでなければ、こうした画賛があったことは認めてもよかろう。従来の諸注は、これを画賛句としたことについて、
それは後年の流用であって、もともとこの句は六祖と無関係とするのが大勢である。しかし、天和二年の真蹟懐紙に
は、この「ゆふがほに」の句と共に「雪の中は」 (§) の句も書かれていたことを想起したい。前述したように、この
句は『禅林句集』の「雪裏芭!4摩詰画」を踏まえた趣向であった。更にこの懐紙の初めには「朝顔寐言」と題して
「わらふべし泣べし我朝顔の凋時」 (§) の句も見える。凋む朝顔を泣くべしとするのは無常の観相ではなかろうか。
この句にも禅語めいた気分が感ぜられるわけで、他の二句何れも禅的な気趣が酌み取れるとすれば、「ゆふがほ」の
句も禅に因んだ趣向とする見方を無視することは出来まい。この「米搗」は六祖を寓したものとすべきだと思う。そ
うした趣向は天和という時代の風調にも相応しいのである。井本農一博士の『芭蕉集』(『鑑賞日本の古典』14)には、六
祖の故事に「夕顔卑賤」と題するのはふさわしくないとあるが、「卑賤」を額面通りに受け取る必要はなく、このよ
うな言い方で逆に敬意や高い評価をあらわすこともあるのだ。こうした最初の寓意や趣向を去って、貞享期に入って
から、市井の庶民の生態を生かし、それに同感する「細み」の句として再生させたのが、「あつめ句」以降の句案で
はあるまいか。
脱雪の触 左勝 水—無月の鰹 (虚栗) 囊句集•続深川
夏季(水無月)。
236
〇雪の M 「鮏」は「フク」。「触」の字は「豚」に通じ、「河»」は即ち「河豚」、和語の「ふぐ」を指す。当時は「フク」と
清音。「あら何ともなや」 (§§) の句参照。雪の頃賞味する河豚汁をいう。「馥喰て其後雪の降にけり(鬼貫ご(『大悟物狂』)。〇左勝
rt : ダリヵチ」。左右に分けたうちの左方を勝ちとする意。歌合や句合に於ける勝負判定の書き方を摸した。「左勝/にほひある
声や伽羅ぷしうたひ初三木」(『貝ぉほひ』一番)「1^^ 2. .」「0肖 5:1113£1 6.」(『日葡辞書』)。〇水—無月の鯉「水無月」即ち陰暦六
月の暑中に賞味する鯉。この「鯉」は洗いであろう。薄く切った鯉の身を冷水で洗った夏向きの料理である。「水-無」の字間中央
の線は、「水」「無」共に訓よみだから、正しくは左側につけるべきである。「水無月や鯛はあれども塩くじら(芭蕉ご(『葛の松
原』)「鯉のあつもの食たる日は鬢そ、けずとなん。膠にもつくるものなれば、ねばりたるものにこそ。鯉ばかりこそ御前にてもき
らる乂ものなれば、やん事なき魚なり」(『徒然草』百十八段) rMinazzuqi . P . i , Rocuguachi . J 「 coi . 」(『日葡辞書』)。
1雪の頃食べる河豚汁と、六月暑中の鯉の洗いと、何れも美味ながら、左右に分けて勝負を判定するとすれば、
左の夏場の鯉が勝ちだ。
I 『続深川』に「杉風が採荼庵に涼て」と前書がある。この書は杉風の後裔に伝わった資料を公けにしたものな
ので、この前書も拠る所あるものであろう。句は天和三年五月に成った『虚栗』(其角撰)初出で、その夏の部に収め
られており、天和二年六月以前の成立と推定される。深川六間堀にあった杉風の別墅採荼庵を訪れた時、馳走に出た
鯉の洗いを賞めた挨拶の句であろう。杉風の屋号「鯉屋」を利かせたのかも知れない。天和の頃は、題材の新奇もさ
ることながら、奇警な表現の趣向に俳人達は腐心していた。この句も冬の河豚と夏の鯉を比べて後者を勝れりとする
意を、歌合や句合の体裁に擬してまとめたところが味噌で、「左勝」を右に寄せて小さく表記しているのも、新奇さ
を強調した工夫である。夏の部にあることからしても、鯉を膀ちとする趣旨であることはいうまでもなく、右が河豚
で左が鯉なのである。句合の作法として左を最初に書くという説もあるが、だからといって河豚を勝ちとしたのでは、
句意を取りちがえたものと言わざるを得ない。句は五•五•七の破調であって、趣向の奇と珍しい表記法で人の意表
をつくこのような句は、上っ面の新しさを追うだけで、存外つまらないものである。
237 天和二年
您月十四日今霄三十九の童部{真蹟短冊) 美津和久美
秋季(月十四日)。
〇月 十四日 「ッキジフョッヵ」。陰暦八月十四日の夜の月、所謂「待宵の月」をいう。「こもち月とは十四日をいへり。子を
もてるにもいひかけ。家童子にもよせぬ」(『山之井』)「和俗十四夜の月を称して小望月といへり。望の一分を*るをもつて小と称
す」(『滑稽雑談』)。〇三 十九の童部 「童部」は、子供の意。「部」は慣用の宛字である。「三十九」は作者の年齢と思われ、これに
よつて作年次が推定出来る。「童部をばわらべ、下部をばしもべなどよめり」(『名語記』二)「草刈て董選出す童かな鷗歩」 (『あら
野』卷二) 「 varabe . 1, varambe.J (『日葡辞書』)。
31十四日の月の今宵、月が十五夜に一つ足らぬなら、見る自分も不惑といわれる四十には一つ足らぬ、いわば子
供のようなものだ。
1 H 一風撰の『美津和久美』(天保四年刊)に撰者所蔵の真蹟短冊を掲げ、「高山麋塒興行にて草庵の月見ける。洛の
信徳、山素堂、各ミ佳作有り。素堂月見の記ヲ書」と前書を付している。前書は必ず拠る所あるものであろうから、
句の成つた当夜の事情を述べたものとして信頼出来よう。高山麋塒は甲州谷村秋元藩の家老で、本名を伝右衛門繁文
といつた人である。俳諧を嗜んで芭蕉の指導を受け、天和二年末の大火で家を失つた芭蕉は暫く甲州に引移り、この
人の世話になつていたことがある。芭蕉三十九歳の天和二年八月、麋塒の発企で信徳や素堂を会して芭蕉庵で待宵の
月を賞した折の作である。山口素堂(初号信章)は年来の親友、京の伊藤信徳も延宝中期以来色蕉と親交があり、こ
の時も京から出て来ていたのであろう。
句意は名月に一夜足りない待宵の月と、四十に' つ足りない自らの年齢を比べて興じた趣向と思われる。「四十而
238
不 x 惑」(『論語』為政)という孔子の語があるように、自分の生き方に信念を持ち、かれこれ迷わなくなる四十歳にはま
だ一つ足りない年齢を、卑下の意を籠めて「童部」と興じたものか。月の興に現つを抜かすのを戯れた気味もあろう。
今氏の『句集』が指摘する如く、「お月さま幾つ、十三七つ、まだ年ア若い」というわらべ歌を発想の基底に置いて
いる箸で、
唯花は見えたとをりの捨坊主
三十七の春もわらんベ (『珍*:集』(延宝五年)所収、独吟百韻)
という西鶴の付句も参考になる。但し、こうした趣向は謎めいた楽屋落ちに類し、成功作とはいえない。初五が七音
と字余りなのも、談林の余風を感じさせ,^': , 1°-
真蹟短冊は『色蕉図録』に山本安三郎均蘇として見えるもの。「色蕉」の落款があり、岡田利兵衛氏は『色蕉の筆
蹟』で、詠作当初よりはやや後れる天和後期の染筆と見ておられる。
朝顔寐^一=口
脱わらふべし泣べし我朝顔の凋時 i 蹟懐紙)
秋季(朝顔)。
〇 朝顔寐言「アサガホネゴト」。朝顔に関する作者の寝言のような句という意味であろう。朝顔はヒルガオ科の一年生蔓草。
朝に開花して昼はしぼむ花を賞して、さまざまの交配種が作られている。花の時期は寧ろ夏であるが、古来秋の季語とされる。
「あさがほは顔にたよりて。露のたまれるを。えくぼといひなし。しぼめるをひたいのしわとも見なせり。……又日影をまたぬさ
かりに。露の玉のをのか k れるほどをはかなみ。ほどなき此世のたとへにもす。……しほる》や日も朝白ハのつる^^て正式」
239 天和二年
C 『山之井』)「なを見たし花に明行神の顔/これはかつらぎの山ぶしの寝ごとをつたへたるなるべし」(真蹟自画賛) 「 Asagauo .」
「NegotouoypJ (『日葡辞書』)。 〇わ らふべし泣べし 「笑ふべし泣くべし」。後にいうべきことを前に出した倒置法。「べし」は当
然の意。九音にも及ぶ字余りの初五である。「笑にも泣にもにざる木槿かな嵐蘭」(『猿蓑』卷 三) 「 varai , r 6, 6 ta . 」 「 Maqi , u ,
aita .」 (『日葡辞書』) 。◦我朝顔 「我が朝顔」。作者自身の朝の顔の意を掛ける。 〇 凋時 「凋む 時」。 「凋」は花がしおれる意と、
自分の顔が新鮮さを失う意を兼ねる。「塩引て藻の花しぽむ暑さかな児 竹」 (『あら 野』 卷 三) 「 xibomi , u ,6 da .」 (『日葡辞書』)。
BBl 我が庭の朝顔は日が闌けて凋み、我が朝の顔も輝きを失う。当り前の笑うべきことに過ぎないが、束の間のは
かなさを思えば、泣くべきでもあろう。
USB 天和二年の染筆と思われる真蹟懐紙に、 r 雪の中は」 i?6 ) 「ゆふがほに」( 757 )の句と共に見えるが、当時の集に
は載っていない。本句が最初で、「朝顔」「昼顔」「夕顔」の順に書かれ、何れも禅的観念を基調とした作意があるょ
うである。即ち、本句は朝顔に託した無常の観相、次は「雪裏の色蕉」の昼顔への転換、夕顔の句は「米搗」に六祖
慧能を思わせた句であった。この朝顔の句にしても、そういう観念的な動機に基づくだけに、詩としての滋味には遠
く、ただ鬼面人を驚かす異風な破調だけが目立っている。天和二年秋の作。
和こ角蓼營句 I
吐授雜.真蹟色紙•続蕉影余韻所収真填短册 .
J 6/ あさが^に我は食く^おとこ哉 S 栗) 島原角屋蔵真蹟短冊•真蹟自■賛.泊船集•去
来抄•蕉翁句集.百曲
秋季(あさがほ)。
1 〇 和.■角蓼蛍句 I 「角蓼里句」とは、『虚栗』夏の部所収の其角の発句「草の戸に我は蓼くふほたる哉」の句を指す。「蓼食ふ
虫も好き好き」の諺を踏まえ、「私は草庵に住み、物好きに蓼などを食べて夜飛び廻る蛍のょうな生活をしている」といったもの。
「角」は略称、「ガ J は所有格をあらわす。「和ス」は、もと漢詩でいう「和韻」で、他人の詩にこたえて同じ韻を用いて句を作る
240
ことをいうが、様式のちがう俳諧では r こたえる」位の意に用いられることが多い。この芭蕉の発句の場合、其角の言い方をまね
て、句作りを摸している点、注意を要する。「和ス」の意味を精しく取っているのである。「和ヮス声相応也」(『色葉字類抄』)
fTade . J 「 FotaruL (『日葡辞書』)。〇 あさがほに 「に」は、……に対して、……を前にして、の意。「蓬萊に聞ばや伊勢の初便
芭蕉」(『炭俵』上)。〇 食く ふ「食唤ふ」。「食」は俗語。「おさな子やひとり食くふ秋の暮尚白 1 _(『あら野』卷七) 「 Mexi . 」 「 cui ,
p clta . 」(『日葡辞書』)。〇お とこ 「男」。「お」は「を」の仮名ちがいである。「おとこは気でしたもの」(『毛吹草』卷二 ) 「votocp
一, vonoco . 」(『日葡辞書 b 。
la 君は自分を「蓼くう蛍」にたとえたが、私はただ朝顔の花に向って飯を食べる平凡な男に過ぎないょ。
mai 角屋蔵の真蹟短冊には「独坐」と前書があり、「破色蕉」の落款が珍しい。其角の短冊と共に淡々の極めがあ
る。『芭蕉図録』等所収の小色紙は、鯉屋伝来で素堂箱書の品、朝湖(英一蝶)の朝顔の絵の幅に貼られている。『蕉
翁句集』の前書は『虚栗』と同じ。『泊船集』は「此句前がき、みなしぐり集に見えたり」と注し、『百曲』(市山撰'
享保二年刊) では、野坡の序文中に引用する。板本としては天和三年仲夏に成った『虚栗』初出なので、秋季で あると
ころから 天和 二 年秋以前の作と考えられる。
『去来抄』同門評に、「舞にほうき打敷おとこ哉」 という 風毛の句を挙げ、それと芭蕉のこの句と「いか成処に秀拙
侍るや」 という 牡年の質問に対して、去来は、左のょうに答えている。
先師の句は、和角蓼 蛍 句といへるにて、飽まで巧たる句の答へ也。句上に事な し。 こたゆる処に趣 あり。 風毛が
句は、前後表裏一の見るべき物な し。 如此句は口を開けば出る物也。
「句上に事なし。こたゆる処に趣あり」とは、いみじくも言ったものである。この句だけ見れば、平生の喫飯喫茶の
生活をただ淡々と叙しただけで、何の奇なる所もなく、一見風毛の句と同断であるが、其角の句と対置すると、その
面目が鮮やかに浮び上って来る。其角が物好きを以て自任し、夜の享楽生活を好む芸術家肌をひけらかしたのに対し
241 天和二年
て、自分はそんな真似は出来ないし、しもしない。朝は早く起きて庭の朝顔を眺めながら飯を食う平凡な生活だとい
つたのである。言わず語らずに痛烈な皮肉が感ぜられ、こういう出方をされては粋人其角も形無しであろう。『芭蕉
消息集』等に収める其角宛の書簡に、尊朝親王の「飲酒一枚起請」を写した後、「貴丈常く大酒をせられ候故、此御
文句を写して大酒は御無用に存候。仍一句」としてこの発句を記したものがあり、これによって弟子の酒を戒めた句
のように思われているが、この手紙は真簡とする積極的根拠に乏しく、内容に信を措き難いものである。この句はい
わば其角の「花」に対して「実」を以て答えた対照の妙を中心に鑑賞すべきもので、そういう趣に俳諧を見ているの
である。大酒に対して「食くふ」と現金に対応したものではあるまい。
脱三 ヶ月 や朝白ハの夕べつぼむらん
(虚栗)
続蕉影余韻所収真蹟短冊.みの虫所収真蹟短
冊.泊船集•蕉翁句集
秋季(三ヶ月)。
i 〇三ケ 月 rf 一一0^沿」。月齢三日の月の総称であるが、季語の約束としては秋季なので、早く暮れる秋の夕空に眉のょうにほ
っそりと現われて、やがて沈んで行くさまを賞でて用いられる。秋分頃の三日月は殆んど直立していて、水平な形の春分頃とは異
なる。「三日月の出る、非 二 夜分—〇丸云、しからば入は夜分たるべし。三日月と斗は夜分なり。三日月の出るを晚と思へる人あり。
非也。夜明て出るなり。しかれども朝時分の沙汰なし。出るとあり共可\非二夜分1」 ( 『御傘』)「月の劎俳三日月などのつるぎのかた
ちなるをいへり」(『増山井』) 「 Micazzuqi .」 (『日葡辞書』)。〇朝自「アサガホ」。〇つぼむ「窄む」ではなく、「荅む」の意と思わ
れる。「つぼみ」はこの動詞の名詞法に当る。朝顔の花が朝咲く為に夕方から荅みとなるというのである。「石釣てつぼみたる梅折
しけり玄察」(『あら野』卷二) 「 Tgubomi , u ,6 da . Fanaga T « oubomu . 」(『日葡辞書』)。
Ha 夕空に三日月がかかっている。これは地上の朝顔が前日の夕方から蕾になって朝咲き出るょうに、三日月の蕾
がやがて満月となる のだろう。
242
■ H この句を、空には三日月がかかり、地上では朝顔が花の蕾を持っていると解すれば、三日月と花の蕾との間に
「匂い」の通い合うものを感じて、秋の夕べの自然の微妙な気分を言い取った句として評価出来るけれども、『虚栗』
初出の句で天和二年秋以前の成立であることを考えれば、其処までの水準には達していなかったと見るべきであろう。
朝顔の蕾が空の三日月になったかと言い立てた寓言表現という説もあるが、これはまた両者の結び付きが突飛過ぎる
ょうだ。恐らくこの趣向は「三日月はかつらの花のつぼみ哉」 (重方)(『毛 吹 草』卷六) 、を聊か展開したもので、三日月
を朝顔の蕾に比擬した程度のものではあるまいか。一見難解の句で、上五と以下との結び付きが妙に理窟っぽく、余
り成功作とは言えない。
憶二老 — tt.l
脱髭風ヲ吹て暮—秋歎ズルハ誰 ガ子ゾ(虚栗) 泊船集•蕉翁句*
秋季(募—秋)。
〇憶老—杜:「老杜ヲ憶フ J 。 「老杜」は、「小社」と呼ばれる晚唐の詩人杜牧に対して、盛唐の大詩人杜甫を指す呼び名。字
間中央の線は音読のしるしである。杜甫を思い傯ぶ意。「むかし^^しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐袍別に春あり」(蕪村「春
風馬堤曲」)「唯老杜にまされる物は独多病のみ」(芭蕉「櫓声波を打て」の句真蹟懐紙前書) 「 vomoi , 6,6 ta .」 (『日葡辞書』)。〇鬆風ヲ
吹て「髭風ヲ吹いて」。普通には「風髭を吹いて」というべきところを、漢詩の倒装法に倣って言葉を逆置した修辞である。倒装
法とは、たとえば杜甫の「秋興八首」其八の「香稲啄余鸚鵡粒、碧梧棲老鳳凰枝」に於いて、「香稲」と「鸚鵡/「碧梧」と「鳳
凰」がそれぞれ逆置されたょうな場合をいう。この発句は全体に杜甫を強く意識しているから、有名な「秋興」の詩句は特に作者
の頭にあったであろう。この句の場合こう表現すると r 髭」の印象が強くなる。ただ興味本位に語を錯綜させているわけではない
のである。「髭宗祇池に蓮ある心かな素堂」(『炭俵』上) 「 Figue . 」(『日葡辞書』)。〇暮—秋歎ズルハ 「9 rs ^ スルハ」。次の末の自
243 天和二年
然の物哀れな気分を歎いて いる 者は、の 意。 字間右側の線は音読の しるし。 r ズル ハ」 の 小さい 片仮名書きは上の 「ヲ」 と共に、
漢文訓読め かした 天和期の趣向で ある。 「暮秋廿八日4三十二日めに武江深川に至り候」(霜月十三日付曲水宛芭蕉書簡)「其後、六が
句を見て不才を嘆ず」(『去来抄』同門評 ) 「Boxp Aqino cure , i , cuguachi.J (『日葡辞書』)。〇誰ガ 子 '/「誰ガ子'/」。「誰ぞ」とい
うに 同じ。「誰」は「誰」ともよめ るが、そうよ むと間延びす るようである。 「ガ J 「ゾ」の 小さい 片仮名書きは、例の漢文訓読め
かした 趣向で、濁点は底本の まま。 「誰母ぞ花に珠数くる遅ざくら祐甫」(『炭俵』上) 「 Manigotozo ?」 (『日葡辞書 fe 。
la 髭を風に吹かせて暮秋の哀れを歎いているのは一体誰なのか。
I 吐甫の詩「白帝城最高楼」の詩句「杖:,藜嘆:,世者誰子」(藜を杖ついて世を嘆ずる者は! s が子ぞ)を踏まえ、
疎髯を風に吹かせて蕭索たる暮秋の曠野に立ち歎く杜甫の俤を描いた、典型的な天和調の句である。芭蕉の杜甫への
関心は深川移居以来著しく、「色蕉野分して」 (2) 「櫓声波を打て」^)等の句の前書にその名が見えるし、草庵を
「泊船堂」と号したのも杜詩に拠る名であって、この句の載った『虚栗』の跋には、自ら「李杜が心-酒を嘗て、寒山
が法—粥を啜る。これに仍而其句見るに遥にして聞に遠之」とまで書くに至る。この跋には李白•寒山•白楽天等の名
も見えるけれども、漢土の詩人の中で芭蕉の最も傾倒したのは杜甫であった。この句は全体として「白帝城最高楼」
の詩句を摸し、倒装法まで用いて漢詩的な気分を盛り上げようと努めているが、それは単なる技巧的な興味にとどま
ら ず、作者自身の内的衝迫の強さのあらわれとして表現面に滲み出たものである。「誰 ガ子ゾ 」は、 r 外ならぬ杜甫だ」
と言っていると同時に、その杜甫の姿に託して芭蕉の悲傷の情を寓しているのだ。それが突兀とした倒装法や八.
八.四という破調となって現われているわけで、そう感じさせるだけの力をこの句は持っている。まだ渾然と熟成し
た表現ではないが、「芭蕉野分」や「櫓声」の句と共に天和期の代表作の一つといってよかろう。『虚栗』初出ゆえ、
天和二年晚秋までには成っていたと見られる。
244
脱夜着は重し吳天に雪を見るあらん(虚栗) 真蹟短冊.泊船集.蕉翁句集
冬季(雪•夜着)。
1〇夜着は重し「夜着」は、夜寝る時に用いる夜具の一種で、大型の着物のように仕立て、襟や袖も付いている。古い書に季
語としては見えないが、芭蕉自身「夜着ひとつ祈出して旅寝かな」など冬季として用いている明らかな例があるからここも「夜
着」を冬季と認めてよかろう。「重し」は、厚く綿を入れてあるからで、冬の寒さをあらわす。「しつとりと雪もつもるやもめん夜
着菊阿」(『正風彦根鉢』)「露草やをもきが上の小夜時雨康甘」(『毛吹草』巻六) 「 Yogui . 」 「 vomoi . 」(『日葡辞書』)。〇呉天に雪
を見るあらん「呉天」は、呉の地方(中国の揚子江下流域、今の江蘇省のあたり)の空の意。ここは後述するように漢詩の一節
を取り、遠い異郷の空という程の意に用いているので、呉という特定の地域に余りこだわる要はない。「雪を見るあらん」は、「見
ることあらん」の略で、「雪でも降っているだろう」の意。「胡馬雪ヲ鳴」(『武蔵曲』)「笠に詩ヲ着ル」(『虚栗』等と同じ天和調常
套の漢文訓読的表現である。「見る者あらん」と解する説は採らない。「呉天の雪につえをやひかん、みやぎの ゞ 露にやぬれむ」
(芭蕉「かさの記」)。
naa 夜掛けて寝る夜着が重いことだ。 こんな 寒い晚は、呉の ような 遠い異郷では、雪でも降っているだろう。
8 『詩人玉層』等に宋の天聖年間閩僧可土の僧を送る詩の一節に「笠重呉天雪、鞋香楚地花」(笠は重し呉天の雪、
鞋は香し楚地の花)とあり、これが謡曲「葛城」に「笠はおもし呉山の雪、靴は香ばし楚地の花」と用いられて、風
騒の詞客には広く知られていた。芭蕉も折々その作にこの詩を引いているが、この句も早い頃の一例である。「笠は
重し」を「夜着は重し」と言い替えて俳諧にしているが、「夜着」には一種の生活感があって、作者自身の貧寒な実
生活が渗み出ている。この時期の好みで「吳天に雪を見るあらん」と漢文調でやっているが、こんな所からやがて生
活実感を生かす表現に目ざめて行くのである。『虚栗』初出の句で天和二年冬以前の作であるが、真蹟短冊は天和初
245 天和二年
年の揮毫と見られている。『蕉翁句集』に「夜着は重く呉天に雪を見えあらん」とあるのは誤写に過ぎな
246
天和三年
ぅぐひすを魂にねむるか嬌柳(虚栗)
泊船集
(葦庵旧蔵真蹟短冊)
(東京国立博物館蔵真蹟短冊)
蕉翁句集草稿.蕉翁勺集
鶯を魂にねぶるかたはやなぎ
鶯を魂にねぶるか嬌柳
春季(うぐひす•柳)。
I 〇 うぐひす 「鶯1—+。春の季題として代表的な小鳥。「花になくうぐひす、みづにすむかはづのこ&をきけば、いきとしいける
もの、いづれかうたをよまざりける」(『古今集』仮名序)「鶯の哥をひるねの夢想哉安知」(『毛吹草』巻五 ) 「vgu isu . J (『日葡辞
書』)。〇 魂にねむるか 魂として眠っているのか、の意。鶯を柳の魂と見立てたのである。「空蟬のからは木ごとに と!,, むれどた
まのゆくへを 見ぬ ぞかなしき」(『古今集』卷十、よみ人しらず)「朝がほは 鶴 眠る間のさかりかな伊賀 風 麦」(『猿蓑』卷 三 ) 「 Nemuri.u,
utta.J (『日葡辞書』)。 〇嬌柳 「タヲャナギ J 。 嫋やかにしだれた柳。芭蕉の造語であろう。真噴短冊の「たはやなぎ」も意は同じ。
「玉にもぬける春の柳の 暇 申さんと木綿附の鳥も 鳴き、 別れの曲には柳条を わがぬ。 手折るは青柳の姿もたをやかに」という謡曲
「遊行柳」の一節が作者の頭にはあったかも知れない。『虚栗』の原本に「嬌 J と振仮名があるという説は非。
1 a 嫋やかにしだれた柳の枝に鶯が鳴いている。あの柳は鶯を己が魂として眠っ.ているのだろうか。
1 暖かな春の真昼、風も止んでしだれ柳の枝はそよとも動かぬ。ふとその柳陰に鶯の声を聞きつけたのが発想の
247 天和三年
契機であろうが、そのおだやかな春景色をそのままに描こうとはしていない。夙く蓼太の『芭蕉句解』に、
荘子斉物論日、昔者荘周夢為一 一 胡蝶一栩//然胡蝶也。此こ k ろに通へる歟。垣穂の柳の眠れるごとく糸たれたる白
日に、作者皆胡蝶の夢とは思ひ寄べきを、鶯と転じたるは、彼故事にして故事につかはれずといへる、はいかい
の荘子なるべし。
と指摘されたように、荘周夢蝶の寓言を利用し、胡蝶を鶯に変えて俳諧にした趣向であった。『虚栗』に先立つ延宝
八年の『桃青門弟独吟廿歌仙』や、翌九年秋の『次韻』の頃から、桃青一門の『荘子』への関心は顕著であったから、
この時期の作の趣向としては最も相応しいものといえよう。勿論作り物の世界ではあるが、それなりに春昼無風の自
然のたたずまいは生かされており、春闌わな頃の懶い気分が横溢している。『虚栗』初出であるから天和三年春以前
の作と見られ、真蹟類の異形もあるが、『虚栗』の句形を本位句と定めてよい。当時は「ふ」と「む」は通用したと
もいわれ、「ねむる」「ねぶる」は然程大きな異同ではない。葦庵旧蔵の真蹟短冊は甲州の門人麋塒旧蔵のもので落款
は「桃青」、天和期の筆蹟である。東京国立博物館所蔵短冊の落款は「芭蕉」。なお幕末期の『一葉集』に「在原寺」
と前書があるのは、『虚栗』所収の芭蕉のこの発句の前に、
在原寺にて
美男村の柳はむかしを泣せけり 鼓角
とあるのを誤ったもので、問題にはならない。
248
憂方知 = 酒聖1
シテハテル/ヲ
貧^|1|__一 柿衛文庫蔵真蹟短冊•昭和二十八年色蕉展出陳
妬 - M -- 七こうき世我酉白く食黑し(虚栗) 真蹟短冊•泊船集.蕉翁句集草稿•蕉翁句集.
蕉翁全伝附録
春季(花)。
1〇1 *: ……\*,^;……「慰へテハ方一一酎ノ輕ヲ知リ、飲シテハ始メテ紀ノ神ヲ覚ル , -〇『白氏文集』卷十七、「江南謫居」
十韻の詩の一節を引いて前書としたもの。沈んだ気持になってはじめて酒の素晴らしさが分り、貧しくなってはじめて金銭の偉大
な力を悟った、という意で、白楽天自身が流謫された時の心境を述べている。「酒聖」は、『三国志』卷二十七、徐邈伝に「平日酔
客、謂二酒清者一為-一聖人一濁者為二賢人一」(平日酔客、酒の清みたる者を謂ひて聖人と為し、濁れる者を賢人と為す)とあるのに基
づくから、この「酒」は精しくは「清酒」を指すことになる。「銭神」は金銭の力を神に譬えたもので、晋の隠者魯褒に「銭神論」
の著がある。「月に坐しては空き樽をかこち、枕によりては薄きふすまを愁ふ」(芭蕉「寒夜辞」)「閑亭開-一酒甕一始覚こ聖賢心1」(閑
かなる亭に酒の M を開く。始めて覚ゆ聖賢の心。『菅家文草』巻五、酒)「過去未来の因果をさとらせ給ひなば、つや^"御歎あるべ
からず」(『平家物語』灌頂巻)「代まいりた V やす^^と請おひて荷兮銭一貫に鰹一節野水」(『あら野』員外)「其風皮膚に通り、
其 1 下心骨に染て、終に幽を探り神に入」(『忘 梅』 序) 「 vrei , vreo > ru , vreeta .」「 saqe . J 「 xei .」「 Fin . 」 「 Fajimete ;「 satori , ru ,
otta . 」 「 leni .」 (『日葡辞書』)。〇花にうき世「うき世」の語は、中世までは「憂き世」の意が主であったが、近世に入ると漸く享
楽的な含みが濃くなり「浮き世」の意に転じて行く。ここは「花にうき世」という表現からして、明らかに花に浮かれる「浮き
世」の意に用いられた例と見られよう。下の自己の境涯に響かせれば、「憂き世」の意もおのずから生じて来るが、私は余り「憂
き世」に重点を置きたくない。この句は上五と中七以下とが対照された表現になっているのである。「月雪花紅葉にうちむかひ、
歌をうたひ酒のみ、浮にういてなぐさみ、手まへのすり切も苦にならず、しづみいらぬこ k ろだての、水に流る k 瓢簞のごとくな
る、これを浮世と名づくるな り」 (『浮世物語』卷ーノー) 「 vqiyo . 」 (『日葡辞書』)。〇我酒白く「我が酒 d く」。酒の白いのは即ち
「濁醪」、どぶろくのことをいう。〇食黒し「食黒し」。黒い飯はよく精げない舂きの悪い飯をいう。「黒米飯」といえば、脱穀し
249 天和三年
たままの、精白しない玄米飯のことである。麦飯という説は採らない。「神事の膳分は、つまみ大こんの汁、黒米,、1なます、
あま酒 r はいより外に香の物もくはせず」(『軽口露がはなし』卷四ノ I )「 curoi .」 (『日葡辞書』)。
EBI 世間は花に浮かれているが、自分はそれを余所に見て、飲む酒は白いどぶろく、食べる飯は黒い玄米飯だ。
■ E ■花に浮かれる俗世のさまと、粗酒粗飯の我が生活を対置した趣向で、前の「あさがほに我は食くふ おとこ 哉」
(§) と通ずるものがある。前の句で対置された其角の享楽生活は前書に扱われていたのに対して、この句では上五と
屮七以下との対照になっている違いがあるだけだ。貧しい我が生活を侘び、華やかな世間の生活を羨んだり白眼視し
たりする気持ではなく、世外の自己を諦視し、享楽的な俗世間をしずかに眺めている趣である。白詩を前書にしたの
はこの時期の趣味であるが、謫居の窮乏生活を歎くその内容と、句中の芭蕉の心境とには、かなりの距離が感ぜられ、
深川移居当時にやはり白詩を引いて「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく
覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや」 (§ 前書) といったのに比して、著しく心境に進展があったといえ よう。 また、
この発句の中に、「濁醪誰造 x 汝、一酌散 こ 千憂 一」 S 日」) 「樽酒家貧只旧醅」(「客 至」) 「百年粗糲腐儒餐 j (同上) 等の
杜甫の詩の影響を見て、
……杜甫の濁酒愛飲、古玄米飯を食しながらも、「眼-辺無 m 俗-物一」「独-酌成/詩」と詠ずる詩を繰返し読んでい
れば、酒食を通じての杜甫のィメージと境涯が、おのずと心中に浮上して来るであろう。日夜、杜詩の耽読、探
究に余念なかった芭蕉が、
花にうき世我酒白く食黒し
と 詠んだ時、その発想の中心において、右に見られるような杜甫の酒食のィメ —ジと 境涯に自らのそれを重ね合
せようと 志向していた ことは 疑問の余地がない と 思われる。
この句に、白詩……を題詞として付けたのは、この白詩句が発句にうたう杜詩的な内容とうつりあい、匂いあ
250
うものであるからと解される。こうして、「花にうき世 . 」は、単に詩句、詩意を取るということよりさらに
深い、全面的な杜甫とその詩の影響の下に成った句なのであった。(『色蕉と杜甫影響の展開と体系』)
と述べられた広田二郎博士の優れた鑑賞も、心に留めておきたい。
この句は天和三年五月に成った『虚栗』に一晶.嵐雪•其角•嵐蘭らと一座した歌仙の発句として見え、天和三年
春以前の作と考えられる。天和二年作と見る説が多いのは、二年歳暮の大火に焼け出されて甲州谷村の麋塒の許に寄
寓していた箸の芭蕉が、これらの連衆と一堂に会する機会はあり得ないとする故であろう。ただ卷中に天和二年八月
の朝鮮使節来朝を背景にして生まれたらしい付句があり、天和三年に成った可能性も大いにあるのである。流寓中と
雖も、江戸からさして遠くもない甲州であれば、その間を往復することもあったであろう。この句をここに配した所
以は、そうした考えに基づく。「芭蕉子」と落款のある柿衛文庫蔵の真蹟短冊は、天和期後半の典型的な書風であつ
た(今一つの短冊も落款は「色蕉子」)。『泊船集』と『蕉翁句集』には『虚栗』と略々同じ前書が見える。
脱馬ぼく
我を繪に見る夏野哉(三冊子〕
蕉翁句集草稿.蕉翁句集•泊船集書入•水の
友•続年矢集
馬ぼく <我を繪にみん夏野哉
馬ぼく<我を繪にみる枯野かな
夏馬ぼく <我を繪に見る心哉
夏馬ぼく-^我を繪に見る茂り哉
夏馬の遲行我を繪に見る心かな
夏季(夏野)。
(真蹟短冊)
(泊船集)
(三冊子)
(蕉翁句集草稿)
(一葉集連句の部)
251 天和三年
1 〇 馬ぼくく r ぼくく」は、急がずにのんびりと行くさま。芭蕉の頭には、季吟の句二僕とぽ《ありく花見かな」
(『綾錦』中)の句があったであろう。〇 我を絵に見る 「我を絵に見る」。馬上の我が姿を絵として見る' の意。自分の姿を画中の
もののように観じて興じているのである。「絵にかけばもどらぬ臈に声も哉徳元」(『毛吹草』卷五) rYe .」 (『日葡辞書』)。〇 夏野
「ナッノ」。緑の夏草が茂った、草いきれの激しい原野の趣をいう季語。「枯色は麦ばかり見る夏の哉生林」(『あら野』卷三〇
ia 馬は夏野を急ぎもせずにのんびりと歩いて行く。馬上の我が姿を絵の中のもののように見る思いがすることだ。
i 『水の友 J (松琵撰、享保九年刊)に「画讚/かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て何をむさぼりありく
にや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ三界流浪のも、尻、おちてあやまちする
ことなかれ」、『続年矢集』(精酔撰、享保十三年成)に「鳴海にて」、『一棄集』発句の部に「甲斐の郡内といふ処に到る途
中の苦吟」と、それぞれ前書がある。
さまざまな句形が伝えられて、その推敲過程や資料の信憑性には問題が多い。『一葉集』連句の部所収の歌仙は芭
蕉.麋塒.一晶の顔触れである。一晶が芭蕉と共に甲州郡内の谷村なる麋塒の屋敷を訪れたことがあることは、麋塒
の子息が所蔵の芭蕉真蹟軸箱の裏に記した文中にも見え、天和二年第一次 e 蕉庵焼亡の後、麋塒を頼って谷村に移っ
た折の作と思われる。「夏馬の遅行」という生硬な表現は、「馬ぼ《」という表現を得た後には現われるべくもな
いし、天和末頃の時期にも相応しい。なお、『一葉集』発句の部の「甲斐の郡内」云々の前書を信じ得るものとすれ
ば どう 解すべきであろうか。芭蕉が甲州に移ったのは火難直後のことと思われるのに、これをそのままに取ると、四
月以降ということになってしまうが、これはそう真正直に解する要はあるまい。新春早々に甲州に行った後も、江戸
との間を往復することは屢々あったろうし、夏になってから江戸から甲州に赴いた時の吟たることを示す前書と見れ
ばよいのである。
次の段階の案として確かなのは、葦庵旧蔵の麋塒所蔵真蹟短冊の「馬ぼ《我を絵にみん夏野哉」である。これ
252
は天 和期の 染筆と推定され、ここで r ぼく^-^」が入って「夏馬」という妙な言葉が消え、「夏」は下の「夏野」に
生かされることになった。定案とは一歩の距離に過ぎない。「みん」は初案の「心」の代りに置かれた表現であって、
尾形仂氏のように、『笈の小文』の旅の頃の主情的な句と併せ考えて、
「夏馬の遅行」から「馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな」の真蹟懐紙に至る推敲は、比較的短い期間に行われ
たらしいが、「絵に見ん夏野かな」から「絵に見る夏野かな」への最後の推敲が完成したのは、少なくとも「馬
上に氷る影法師」(阿部注、貞享四年十一月' 三河の天津縄手での吟の定案)に達する以前ではなさそうに思われる。(『松尾色
蕉』)
とする 見方もある。杉風筆の色蕉騎馬図賛も「馬ぼ《我を絵に見む夏野かな芭蕉翁之吟 J と 記されている。
土芳は『三冊子』と『蕉翁句集草稿』に於いて、「馬ぼく^-^我を絵に見る夏野哉」の句形を先ず掲げた後、推敲
について左のように述べている。
此句はじめは、夏馬ぼく'^我を絵に見る心哉と有。後直る也。(『三冊子』)
此、文通に聞ゆる句也。白船には、枯野哉と有。はじめは、夏馬ぽく''^我を絵に見る茂り哉と有。心哉とも。
(『蕉翁句集草稿』)
右にいう「夏馬ぼく'^-」は信頼出来る真蹟類等の裏付けがなく、「茂り哉」も孤立した所伝なので、何処まで信じ
てよいか分らぬが、歌仙の発句から真蹟短冊の句形に展開する中間案として「夏馬ぽく^-^」という冠を案じた可能
性はかなりあるであろう。なお、土芳が「文通に聞ゆる」といった文通の時期は、彼と色蕉との縁が復活した貞亨二
年春以後の事でなければならない。
「馬ぼく---^我を絵に見る夏野哉」は多くの信頼し得る書に採られた定案形である。甲州の山野を迪る色蕉の旅の
実青は、容赦なく照りつける夏の陽光のもと、田舎馬のたどたどしく歩む背に身を託して、苦しくつらいものであっ
253 天和三年
たろうが、そういう際にも苦境を突き離し、微苦笑を以て眺め得るのが俳諧の効用であった。夏野を行く馬上の我が
姿を画中のものと観ずるところにこの句の俳意の眼目があり、それはこの定案が最もよく表現し得ているといえる。
『水の友』に紹介された画賛は後年のものと思われ、原物は今伝わらない。「このぬしのいへる」と、一応他人の自画
像に賛したように書かれてはいるが、それは謂わば面白く読ませようとする趣向であって、実は芭蕉の自画賛ではな
かったか。「坊主」「何をむさぼりありくにや」「三界流浪のも、尻」等、遠慮のない表現は、芭蕉自身のこととして
始めて納得が行くのである。これに関連して、
……この句の発想の背景には、中世の禅林で愛好された杜甫騎驢図、杜收騎驢図、&東驶騎驢図など、中国文人
の騎驢図の ィメ ージがある……「夏馬の遅行」という佶屈な表現は、実はこの発想のルー ッを 暗示する役割を果
していたのである。……杉風筆画賛をみるかぎり、明らかに、中国文人たちの騎驢図を粉本としている。……と
まれ、深川の泊船堂の生活ぶりが、杜甫や王維や蘇東坡らの草堂生活にあやかるものであったように、彼の旅に
関する ィメ —ジが中国の詩人•文人の旅姿をなぞる ような 仕方で次第に形成されていったということは 十分注目
されていいことであろう。(『鑑賞口本の古典•芭蕉集 fc
と 堀信夫氏の指摘されたような視点も、一顧に値しよう。また、「見る」 と 「見ん」の差異については、
……「見る心」とか「見ん」とか言うのは、現実には絵は存在しないのであって、道中の自己の姿を、「絵のご
としと 感じ」 「絵ともなるであろうと観じ」ての即吟であるが、……「絵に見る」と断言している方は、現実に
自己の旅姿を描いた絵を眼前にしての吟である。……体験の即吟と画讚の吟詠とは主題を異にするのであるから、
決して、未定稿と決定稿との関係ではない。両者は共に完成した決定稿である。 (富山奏博士『俳句に見る芭蕉の藝境』)
という精しい説もある。本位句を一句に限ろうとすれば「見る」の句形を採らざるを得ないのではあるが、こういう
点は鑑賞の上でも留意すべきことであろう。最後になったが、『泊船集』には r 枯野かな」として、「この句、夏野か
254
なと も、ある人 申されし」と 注してあり、「枯野」は勿論誤伝である。『続年矢集』の「鳴海に て」という 前書も誤り
に過ぎない。
脱ほと、ぎす正—月は梅の花咲り(虚栗)
{泊船集}
あつめ句•三冊子.蕉翁句集草稿.柴のほまれ .
楽集•芭蕉翁真跡集
蕉翁句集
郭公正月は梅の花ざかり
夏季(ほと k ぎす)。
i 〇 fM — 月「把月」。陰暦正月の異称で、普通「睦月」の字を宛てる。字間左側の線は訓読のしるし。「正月は親疎ゆきむつぶ
故に、むつみ月ともいへり。それを畧してむつきとはいへり」(『増山井』)「十五日立や睦月の古手売大坂之道」(『炭俵』上 ) 「Muto
cqi . i , X 6 guachi .」 (『日葡辞書』)。〇咲リ「咲けり」。貞享四年秋の真蹟「あつめ句」には、「さけり」と仮名書している。
_夏になったが、ほととぎすの声をまだ聞かない。ほととぎすよ、正月には梅の花がちゃんと咲いたのにどうし
たのだ。
i 夏の「ほと\ぎす」と春の「正—月」「梅」とが一句の中に混在して、句意を分りにくくしている。「花咲り」
の所に「花ざかり」等の誤伝を生じたのも、そういう晦渋さの故であろう。しかし、『三冊子』に、
此句は、ほと ゞ ぎすのはつ音に、正月に梅咲る事をい k はなして、卯月なるがほと\ぎすの声はと、願ふこ ゞ ろ
を余したる一体也。(赤雙紙)
とある解説で、句意はよく分る。初春に梅の咲いたことを時鳥と対照させて、早くその初音を聞きたいと願う気持を
余情としたのだというのである。因みに、『三冊子』の諸本のうち、石馬本は下五が「華盛」となっているが、他本
は「花咲けり」となっており、『蕉翁句集草稿』も「花咲り」として、「白船に、花ざかりと有。違也」とあるから、
255 天和三年
土芳は正しい句形を心得ていた答で、「華盛」は後の誤伝と見られる。「ほと->ぎす」は陰暦四月の季題であり、「正
月」 との対照からしても初夏であるべき場合だから、『虚栗』の成った年、天和三年四月以前の作である。同書は夏
の部の最初に この 句を出している。人の目を くらますこうした 表現の趣向も、奇を追うに急だった天和期の傾向の一
面であった。
「卯花のさけるかきねの月きよみいねずきけとやなくほと\ぎす」(『後撰集』卷四、よみ人しらず)「鳴声をえやは忍ばぬ
郭公初卯花のかげにかくれて」(『新古今集』巻三、人麻呂)等、時鳥と卯の花は初夏の季物の典型的な取合わせであり、梅
には勿論鶯である。この句で「ほと-'ぎす」と言いながら下に鳥を対照させずに「梅」を出したのは、「梅」の背後
に「鶯」を思わせているのだろうし、「ほと、ぎす」の背後にある花は「卯の花」であろう。『句解大成』にいう「影
略互顕の句法」という事も、改めて見直す要がありそうである。
棚 淸く聞ン耳に香燒て 郭公 (虚栗) 泊船集-蕉翁句*
夏季(郭公)。
H 〇 清く聞 >「清く聞かン」。清らかに心気を澄まして声を聞こう、という意。「聞く」は「聞香 j の語があるように、「香」
の縁語でもある。「井のす * に浅く清し杜若半残」(『猿蓑』巻二)「郭公き ゞ にとてしもこもらねどはつせのやまはたよりあり
けり」(『山家集』上) 「 Qiyoi .」「 Qiqi , u , ijta . J (『日葡辞書』)。〇 香焼て 「香焼いて」。薫物を焚き染めて。但し、香は耳に焚き染
めたりするものではなく、この点が俳諧になっている。「香」のにおいをかぐことを「香を聞く」というところから'「聞く」と縁
語になることは前述の通り。「宗祇髭ュ香焼、牡丹牛角-1箔置鉢の風流也」(『冬の日』越人注) rc 6 uotaqu .」 (『日葡辞書』)。〇郭公
r 名香合1うなどにおける香の名に r 郭公」が選ばれることは多い(十種香暗部山)。したがってこの「郭公」は、香の名も兼
ねていると考えられる」(『日本古典文学全集.松尾芭蕉集』堀信夫氏)。
256
1ほととぎすの声を、耳に香を焚き染めて、清らかに心気を澄まして聞こう。
1 今栄蔵氏の『芭蕉句集』は『聯珠詩格』卷六に「杜甫心清聞 一一 妙香 一」 とあるのを指摘し、この句はそのもじり
で、「時鳥の声を賞美する心を大げさに言い立てた談林調。「耳に香焼く」は実際にはない寓言」としたのは正解であ
ろう。『虚栗』の時代にはまだ奇を追う傾向が改まつておらず、談林の余風から抜け切れない一例といえる。「声を聞
く」と「香を聞く」の両意に掛け、「聞く」の縁で「耳」を持ち出したに過ぎない。足利義政が鴨川に千鳥を聞きに
出た時、供の千本道具と、蘭奢待の香を焚いた袖香炉を取交したという千鳥の香炉にまつわる有名な話も、動機の一
になつていそうである。天和三年五月以前の作。
770靑ざしや草餅の穗に出つらん <虚栗) 真績短冊■.真蹟草稿切.泊船集
夏季(青ざし)。
HIM 〇青 ざし rise 」。 青麦を炒り、臼で is いた食物。紙捻のょうな形をしている。元来は麦の青穂を祝食する初穂祭の食物だ
つたものと思われ、『枕草子』二百三十九段にも見えるから、もうその頃宮廷にまで入つていたのである。『俳諧初学抄』以来、初
夏四月の季語とされる。「麦は普通は河つて、乾して、打つて粒にして、それから殼皮を去るのですが、青ざしは麦の青いのを河
ると直に炒くのです。そして炒いて皮がとれると、それを直に臼でひくとまだ水分が有り粘が有るから粉にはならないで、紙捻の
やうに、糸のやうに、煉れて出てくる。それを青ざしと云つて、食べる。多分古代の人の菓子として食べた青ざしもそれで有らう
と思はれる。芭蕉の頃、まだ古い風が田舎などには残つて居て、さういふものを都では食べずとも地方では食べたのでせう」(『続
々芭蕉俳句研究』 幸 田露伴)「色ごしに青ざし匂ふやどり哉」 (『白 雄句集』) 「 Auozaxi . J (『日葡辞書』)。〇草餅 「クサ モ チ」。 蓬を入れ
て搗いた餅。三月三日の雛祭に食べる。古代には母子草を用いた。「明れば三月三日童子草餅くばるなど鶏あはせさま'^の遊興
ありしに」(『好色五人女』卷五ノ五) 「 cusamochi . 1 . Cusano mochi . 」(『日葡辞書』)。 〇穂に出つらん 「穂に出でつらん」。「穂
257 天和三年
に出づ」は、植物が穂を出すことをいう古典的語法。「穂として出る」のである。「つ」は、強め。「あつし'^と 門'^ の声 e
蕉 - 一番草取りも果さず穂に出て去来」(『猿蓑』卷五 ) 「Foni izzzuru , 一, Arauaruru . 」(『日葡辞書』)。
1この青ざしは、きっと草餅が穂になって出たものだろう。
I 青ざしの槎れた形状から、これは草餅が穂に出たものと興じた一種の見立である。その間おのずから春の雛祭
から夏への季節の移行が思われ、無邪気な比擬が嫌味を感じさせない。真蹟短冊は天和期の筆蹟で、「芭蕉之」と落
款がある。天和三年五月以前の作。
クハノミ
£ ® や i 七な,^ _ の^!-^ て酒(虚栗) 真 m 草稿切•真蹟短冊.泊船集.蕉翁句集
夏季(椹)。
11〇椹 「氣の SK 」。 晩春に開花した桑の_花はやがて実を結び、最初緑色の実が熟するに従って赤くなって、更には 紫 黒色
に変る。多汁で甘く、これを焼酎に和して酒を造る。桑の樹皮と根を煎じて造る薬酒もあるが、右の桑の実の酒とは別物である。
「椹」は音「シン」または「ジン」、桑の実を意味し、明暦 二 年の『世話尽』に「椹」と付訓した例がある。桑の実は『誹諧初学
抄』以来、陰暦五月の季語とされている。「桑«2'生乾ともに助ぃ饑。……按に、桑は覆盆子に似たり。時又同熟す。俗に桑いちご
と称する 者歟 j (『滑稽雑談 J 1) 「口説かれて桑の実程に色を替へ」 (『柳 多留』百六十一編 ) 「cuuano mi . 」(『日葡辞書』)。 〇花なき蝶
「花無き«1」。季節が移って花の頃が過ぎ、露を吸うべき花がなくなった蝶、の意。「蝶」は春の季語とされる。「てふ<は。菜の
葉にとまり。花に宿りて。余念なげ成ひるねのけしき。羽衣のたもとをひるがへし。雪をめぐらしつ V 舞たはる\有さま。猶荘周
が1%をょせて。こてふの夢の百年めなどもいへり……つれゆくはふたりしづか、てふの舞」(『山之井』)「総て蝶は春に限らず、夏
秋に至り、冬は陳蝶などとて尤四季皆あり。然ども其生ずる始'又花香を愛する時、みな春也。古人皆又春に諷詠多し」(『滑稽雑
談』) 「 016 .」 (『且匍辞書』)。 〇世 すて酒 「世捨て 酒」。 世を捨てて呑む酒、世捨人の吞む酒の意の造語。真蹟草稿切に「桑酒」と
表記してあり、「桑」の縁語として案ぜられたことが分る。延宝末期の『七百五十韵』に「桑門雪踏売しがいつしかも」という付
258
句もあり、このように「桑門」(仏教の僧侶)を r 世捨人」と訓んだ例も当時はあって、そういう連想も働いたのであろう。
Ml 桑の実が熟している。それに蝶がとまって吸う汁は、春が過ぎ露を吸うべき花がなくなり、世捨人になって吞
む酒のようなものだ。
熟した桑の実に蝶がとまっているのを擬人化して、あれは蝶が世を捨てて桑の実酒を吞んでいるのだと言い做
した句である。その限りでは、談林風の見立に過ぎないが、何処となく沈んだ調子が、内容を戯笑的な趣向のみに終
らせていない。草庵に独り住み侘びて、心遣りに酒を酌む作者自身の境涯の投影が感ぜられるからであろう。この間
の消息について、井本農一博士が精しく鑑賞しておられるので、左に引用しておく。
……なお談林臭を残しており、さして佳句というのではないが、また一面捨てがたい趣がある。それは、この句
が桑の実の句だからである。桑の実をよく見、その特性をよく捉えているところにこの句の俳諧がある。「世す
て酒」に焦点を合わせてしまうと、この句は理屈の句で、談林的な見立ての句以外の何物でもなくなってしまう
が、「椹や」と初句に打ち出し、切れ字で切っているのだから、この句は「桑の実」の句である。梅雨が上がっ
て明るい日がかあ—っとさすころ、桑畑の一隅に黒ずんだ紫色の小さい実がたくさんなって、熟れ切って豊醇な
香りを放っているのを知っている人は、この句のよさがわかるであろう。そこには香りにひかれて蝶や蛾や蜂が
群がっている。田園の夏日風景である。今までの詩歌では「桑の実」は素材にならなかった。俳諧ではじめて桑
の実が素材として取り上げられたのだが、「桑の実や」と頭からこれを打ち出したのは、俳諧でもきわめてまれ
である。芭蕉は体験として桑の実にとまって汁を吸う蝶を見たことがあるに相違ない。そうして平生花に遊ぶ蝶
が、熟れ切った桑の実—桑酒に酔ったようにじっととまっているのを見て、世捨て酒だと直観したのだ。そこ
にはもちろん自分へのはね返りがある。華やかな世間に背き、さびしく世の片隅に酒を飲んで、わが身をかこっ
ている自分への対比がある。蝶すなわち自分というような直喩ではないが、暗々裡に自己を省みる心があること
259 天和三年
は否定できない。蝶すなわち自分とする直喩なら、露骨な観念である。それでは浅い句である。この句のいいと
ころは、桑の実にとまってじっと動かない蝶を見て、それを蝶の世捨て酒だなあと、実感したところにある。そ
うして、そう実感したのは、自分が世捨て酒を飲む身の上だからで、このころの色蕉の諸作に共通する隠者とし
ての心情の表白がある。ただしまた、後年のような象徴の域に達せず、直喩的な一面があることも否定できない。
(『鑑賞 日本古典文学.芭蕉』) •
この句の力は、中七まで桑の実にとまった蝶を描いている点で、そこに体験の裏付けが感ぜられるわけである。
『虚栗』初出な ので、 成立は天和三年五月以前と推定され る。 若し、右にいった色蕉の体験が甲 州の 地を背景にし
たものとすれば、天和三年に確定するが、一句の季節は『虚栗』の跋文が成った五月と重なるので断定は出来ない。
真蹟草稿切は、「華にやどり」 ( S ) 「青ざしや」 (§) の句と共に書かれ、梅人筆芭蕉像の上に貼付されたもの。落款は
ないが、天和期の筆蹟と推定される。これに見えるように「桑酒」と表記した方が、「桑」や r 桑門」と縁のある表
現であることが分りやすい。
瓜時鳥鰹を染にけりけらし t 真蹟短冊〕
夏季(時鳥 •鯉)。
_〇時鳥「ホト、ギス」。〇鰹「ヵッヲ」。サバ科の海魚。初夏の美味として「初鰹」がもてはやされる。肉は血のように紅
い。「鯉迄はめじかもあるを郭公而已」(『武蔵曲』) 「 cat5uuo . J (『日葡辞書』)。〇染 にけリけらし 「贫めにけりけらし」。「けら
.し」は「けるらし」の約音で、婉曲語法として用いられるが、「けり」を重ねたここのような語法は、普通あり得ない。染めたこ
とを強調した遊戯的表現であろう。「神明の加護、かならず恙なかるべしと云捨て出つ V 、哀さしばらくやまざりけらし」(『おくの
260
ほそ道』)。
ai 時鳥の血の涙が鰹を染めてしまったのだろう、あのように肉が紅いのは。
__「時鳥」と「鰹」という 初夏の季物を結び付けるのに、時鳥の血の涙を以てした例の趣向であるが、肉の紅さ
など幾ら強調しても一向つまらない。
芭蕉翁記念館蔵の真蹟短冊は其角の句「名盛や作恋五良華定め」の短冊と共に一幅に仕立てられており、落款は
「桃青」である(『蕉翁遺芳』所収)。筆蹟は延宝末から天和にかけてのものと思われ、一応天和期以前として此処に配す
るが、「けりけ らし」 にふざけた調子があって、談林調全盛の延宝中の作と見られる。
仍白菊よ^^恥長髪よ^^ (真蹟短冊)
秋季(白菊)。
〇 白菊 「シラギク」 。ここは花弁の長く垂れる種類を指す。「黄菊白菊其外の名はなくも哉嵐雪」(『其袋』) 「 xiraguicu .」
{『日葡辞書』)。〇恥 長髪 「ハ•チナガガミ」。白菊の長い花弁を「髪」にたとえ、諺「命長ければ恥多し」を踏まえて「恥長髪」と
言い掛けた修辞である。この諺は『荘子』天地篇の「寿則多レ辱」(寿ければ則ち辱多し)に基づく。「一家の恥はいかならん」
(謡曲「錦戸」) 「 Fagiuocaqu .」 (『日葡辞書』)。
W 8 a 白菊よ白菊よ、余り長く咲いていると、「命長ければ恥多し」だ。恥長き白髪といわれてしまうぞ。
1 長い見事な花弁を垂れた大輪の白菊を、諺を引いて白髪に見立て、茶化した趣向である。菊の別称「翁草」の
連想 も働いて いよう。 当時の俳書に見えない句であるが、筆蹟は延宝期の特色が著しく、岡田利兵衛氏の『芭蕉の筆
蹟』では、延宝中期の「色付や」( I )の発句短冊に次ぐものとされている。筆蹟を天和初期とする見方もあるので、
261 天和三年
姑く天和末期以前として、ここに配することにした。
ふた k び色萑(庵を造りいとなみて
识あられきくやこの身はもとのふる柏(続深川) .
冬季(あられ)。
i 〇ふ たゝび ……造りいとなみて「再び芭蕉庵を造り营みて」。最初の芭蕉庵は天和二年十二月二十八日の江戸大火に類焼の
厄に遭い、芭蕉は甲州に移って、さまざまの苦労を嘗めた。其角の「芭蕉翁終焉記」(『枯尾花』所収)によれば、芭蕉が江戸に戻っ
たのは翌三年五月であったらしい。くわしくは分らぬが、『虚栗』の跋文を書いた頃は江戸に帰来して、新風開拓に向けて自らの
意気を鼓舞していたようである。その秋には門人知友の間に草庵再建の議が起り、九月には素堂が「芭蕉庵再建勧化薄」の序を草
し、いろいろ喜捨の金品が集まった。新たな草庵が成った時期は、この発句の季と前書によって、同年冬だったことが知られるの
である。「造りいとなむ」は、建物などを建設すること。「一とせみちのく行脚おもひ立て、芭蕉庵既破れむとすれば、……終に五
とせの春秋を過して、ふた ゞ び芭蕉になみだをそ、 ぐ」 (「芭蕉を移詞 J ) 「いかめしき御だうどもたてて、おほくの人なむ、つくり
いとなみはベるめる」(『源氏物語』松風) 「 Futatabi . 」 「lyeuo toucuru. 」 「lyeuo itonamu . 」 (『日葡辞書』)。〇あ られきくや 「 霰聞
くや」。「あられ」は、地上の気温が零度前後と低い時に降る氷の粒。ここは柏の葉に当る霰の音をきくのである。 「や」 は、詠嘆
の切字。「あられは板びさし根篠のうへなどに音してふれる心ばへ。かきみだれてふりしけるま\に。庭のつちべも玉しくと見え。
わらやのやねも玉殿となれるけしき」(『山之井』)「柴の戸をほどく間にやむ霰哉杏雨」(『あら野』卷五) rAraregafuru .」 (『日葡辞
書』)。〇 この身 「此の身」。芭蕉自身をいう。「いと y すねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて」(『笈の小文』)。〇もと
のふる 柏 「元の古柏」。「柏」は、ブナ科の落葉喬木。ここは実質的にはその葉を指しているので、この樹が葉が枯れても枝につ
いたままなのを、 もと 通りの古柏だと、我が身に比して言ったのである。「柏の木は枯葉を枝につけたまま越冬し、春に新葉が出
始めてから枯葉を落すという、特異な性質がある」(山本健吉氏『色蕉全発句』)「月やあらぬ春や昔のはるならぬわが身ひとつはもと
262
の身にして」(『伊勢物語』四段)「かざり木にならで年ふる 柏 哉一晶」(『あら野』卷二) 「 Moto . 」 「 caxiua . 」(『日葡辞書』〇
3 i 再び草庵を得て、柏の古葉に当る霰の音を聞いている。草庵は新しくなっても、この身は古柏同然、もと通り
何の変り栄えもしないことだ。
1 天和三年の冬、第二次芭蕉庵に入った頃の心境を託した句である。当時の俳書には見えないが、杉風旧蔵の資
料に拠った『続深川』に載っているので、信憑性に問題はない。
大きくて厚い柏の古葉を打つ霰の音は大きい。その音を聞きながら、芭蕉は自らの境涯のわびしさを思ったに違い
ない。「わが身ひとつはもとの身にして」という業平の歌が遥かに響いていて、それを「もとのふる柏」と翻したと
ころ.が俳諧である。一見単純な譬喩の趣向のょうに見えながら、この「ふる柏」は完全に芭蕉と一枚になっている。
静かな観照としみじみとした自省の深さを感じさせるところが、この句の価値である。新しい境地になかなか進み得
ない芸術的苦悩を託した表現とする解釈もあるが、そういう局限された問題ではあるまい。この「ふる柏」には芭蕉
の人間全体が懸っている。こういう静謐な自照から、やがて蕉風が生まれて来るのであって、天和期のとじめとして
まことに相応しい句である。
263 天和四年 • 貞享元年
天和四年•貞享元年
歳旦
仍元日やおもへばさびし秋の暮(真蹟短冊) 名の兎.続深川
春季(元日)。
〇 歳旦 「サィタン」。「歳の旦」で、元日をいう。歳旦吟は俳諧師が殊に改まった気分で作るものである。「歳旦をしたり白ハ
なる俳諧師蕪村」(『夜半楽』)。〇 元日 「グヮンジッ」。年の始めの正月一日。「元日や神代のことも思る k 守武」(神宮文庫蔵守
武真蹟) rGuanjit . i , X 6 guachino touitachi . J (『日葡辞書』)。〇お もへばさびし 「思へば寂し」。「軒ながく月こそさはれ五十間
野水寂しき秋を女夫居りけり落梧」(『あら野』員外) rsabixij.J (『日葡辞書』)。〇 秋の暮 ここは「秋の夕暮」の意か。 (§)
(似)参照。
caa 元日は忙しい大晦日とはうって変って閑静だ。考えて見ると、この寂しさはまるで秋の夕暮のようだ。
as * 杉風旧蔵の資料によった『続深川』には「試筆」と前書がある。作者生前の集に見えないので、年代を確定す
ることは難しいが、貞享二年以後の歳旦吟はそれぞれはっきり分っているとこ^'からすれば、この句は天和四年以前
の作と考えてよかろう。真蹟短冊は鯉屋伝来の歳旦吟五点を貼り込んだ中にあり、筆蹟は延宝末から天和期にかけて
264
の ものと目され る。梅人の『桃青伝』が天和三年の歳旦吟としているの も 参考になろう。後年の『俳諧一串抄』(亦夢
著、 天 保 元年成)は、初五を「元朝や」と誤っている。
句は「元日」と「秋の暮」を対照させた句作りで、万物の競い立つ初春の気分を強調する為に、対照的な凋落の秋
を呼び出したのだとか、元日の一面の寂しさを秋の暮に譬えたのだとか、元日の静かで長閑な気分を寂しいばかりの
秋の暮と対照したのだとか、一陽来復の芽出たい中に暮秋の寂しさを観じたのだとか、いろいろな解がある。「歳旦」
と題し、「元日 や」 と打ち出したのだから、正月の気分を中心に置いたことは勿論として、それに「秋の暮」を対照
させるのはかなり突飛な趣向であって、そこに「奇抜を好む談林調の余勢」(今氏『色蕉句集』)を見るのは正しいであろ
う。大晦日とはうって変った元日の閑静さを「秋の暮」に譬えたものと見ておく。「秋の暮」は夕暮の意に取ったが、
暮秋としても通じよう。
猫 山
抓山は猫ねぶりていくや雪のひま SS 郡)
春季(雪のひま)。
1 M 〇猫山 「ネコャマ」。会津磐梯山(現福島県)の西峰猫間嶽のことかという。 〇ねぶリていくや 「舐りて行くや」か。猫は
身体を舐る習性がある。それと冬の季語「山眠る」(冬の山の木々も枯れて静かなたたずまいをいう)を掛けているであろう。「な
めるとは関東にて云。畿内にてねぶると云におなじ」(『物類称呼』巻二)「はづかしといやがる馬にかきのせて落梧か-'る府中
を飴ね ぶり 行野水」 r 烹た玉子な まの たまごも一文に野水下戸は皆いく月のおぼろげ落梧」へ『ぁら野』員外)「之0>!3112.,11,
utta.」「Admaye iqu , 一, yuqu.J (『日葡辞書』)。〇 雪のひま 「雪の隙」。冬に積った雪が、春になって処々斑消えして地肌をあら
265 天和四年 • 貞享元年
わしたさまをいう春の季語。「雪間.雪のひま.雪の絶る•残る雪、皆春也。……1下も汁も皆春也。その故は、雪のひまも雪の消
事も冬にあれ共、皆春に定たる上は、うたがふべからず」(『御傘』) —!' 冬の役つとめて春や雪の隙正利」(『毛吹草』卷五) 「 Fima . 」
(『日葡辞書』)。
Bail この山は猫というだけあって、雪を舐め舐めして行ったお蔭で、あんなに雪が処まだらに消えている。
この 句以 F 「黒森を」/?3)の句までは、『五十四郡』(沾竹撰'宝永元年頃刊)所収の「陸奧名所句合天和年中」と
題した二十四番の発句合の中に見える。何れも貞門風の名辞的発想なのは、句合全体の傾向に調子を合わせたものと
おぼしく、天和期の傾向とは全く異なるものである。今は出典の所伝を信じて、 ここに 配しておく。旨原の『百歌
仙』(宝暦•明和年間)に r 山は猶ねむればゆくや雪のひま」、『一葉集』に「山は猫眠りはいてや雪のひま」とあるのは
誤伝であろう。
戶の口
777 戶の口に宿札なのれほと ゞ ぎす 郡)
夏季(ほと k ぎす)。
1〇 戸の口 「戸の口」。「外口」とも書く。現福島県耶麻郡猪苗代町。猪苗代湖から流れ出る日橋川の河口に位置し、江戸廻米
を運ぶ舟運の要津 。二本 松裏街道が 通り、 若松城下防衛の関門と なっていた。 句頭の「戸の口」は、その地名に家の戸口の意を掛
ける。 〇宿札なのれ 「宿札名乗れ」。「宿札」 は、 家の戸口に氏名を記して掲げる標札。「なのれ」は名をはっきり書いて掲げるこ
とを、鳥が鳴く意味の「なのる」に掛けて表現した修辞で ある。 「宿札」は、大名や貴人の宿泊を標示する「……様御泊」の札を
指すことも あるが、 ここはそれでは あるまい。 「鶯の宿札か梅に 小 短尺貞盛」(『埋草』卷二「名乗なばそこを引なよ時鳥光有」
(『毛吹草』卷五) rYadofuda . J 「 zanori , u , 0 tta . 」(『日葡辞書』)。
266
1 B ほととぎすよ、この戸の口の地がお前の家ならば、宿札にちゃんと名を書いて戸口に出しておけ。
1地名から「戸口」を連想して「宿札」を案じ、鳥の鳴く「名乗る」に掛けて「宿札なのれ」と、ほととぎすに
呼び掛けた趣向である。「我が家の前を通るなら声をかけて行け」「この戸の口で鳴く場合は、宿札に氏名を記すよう
に高らかに鳴いてくれ」等、従来諸説があり、「時鳥よ。ここ戸の口に宿札を掲げて、声高らかに己と名を名乗り出
よ」(今氏『色蕉句集』)というのは比較的良いけれども、これも「……様御泊」の宿札と見ている。私は標札の宿札とし
て〔大意〕のように解した。「戸の口の地がお前の家ならば」を前提とするのが一番落着くように思う が、 どうであ
ろうか。天和四年は二月二十一日に貞享と改元されたので、夏季の句は前期『五十四郡』の題記を厳密に解すれば、
下限はもう一年溯ることになるが、その地へ行っての作ではないし、貞門風の内容からしても、ここにまとめて配し
ておく。
男鹿嶋
仰ひれふりてめじかもよるや男鹿嶋 S + 西郡)
夏季(めじか)。
1 〇 男鹿嶋 「ヲガノシマ」。八郎潟のある秋田県の男鹿半島。領主佐竹家が放った三頭が繁殖して、鹿が多くいたという。〇
ひれふりて 「鰭振りて」。魚が水中で動かす鰭に、ここでは上代の女性が首から肩にかけて長く垂らしていた装身用の白布「領
巾」を言い掛けた。これを振って人を招き、また別れを惜しんだのである。「みづから水桶を水底に沈むれば、魚は悦び鰭ふるや」
(謡曲「放生川」)「海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫」(『万葉集』卷五) 「 Fire .」「 Furi , u , utta .」 (『日葡辞書 J 0
〇め じかもよるや 「めじか」は宗太鰹の異名。鮪の若いものを指すという説もある。ここでは「此鹿」を言い掛けて、下の「男
267 天和四年 • 貞享元年
鹿」 の 縁語と した。「よるや」は 「寄る や」 で、魚が海浜に寄って来る ことをいう。「妻 鯉の卵の中のめぢか哉其角」(『虚栗』夏)
「金—仏の細き御足をさする らん 嵐 g 此か いわいの 小鳥皆よる利牛 j (『炭俵』上) 「 Yori , u , 0 tta.J (『日葡辞書』)。
ia さすがに「男鹿の島」だけあって、鰭を振って魚の「めじか」までも、浜へ寄って来ることだ。
RH この 句、牝鹿が牡鹿に慕い寄る ことを 中心に解する説が多い。男 鹿 半島に鹿の多い ことは 事実であろうが、鹿
に「ひれ」はない の だから、やはり魚を中心に解した方が良い。魚の 名の「めじ か」に r 牝鹿」を掛けて、「男 SI ' ■嶋」
との 縁に興じているだけで、「鹿」は言葉の綾に過ぎない と 思う。一方、「ひれふり て」 には、上代の女性の領巾を振
る さまの 連想が著しく、魚を擬人化した俳諧の興が感ぜられる。 季語 も 「鹿」 で 秋季とされて来たが、魚の「めじ
か」で夏と すべきか。
黑 森
i 79 黑森 をなにといふともけさの 雪學匹郡) 百歌仙
冬季(雪)。
Egj 〇黒森「クロモリ」。この地名は陸奥•出羽にわたって数箇所あるが、加藤揪邨氏が『芭蕉講座』(三省堂版)で羽前西田川
郡の赤川に縁った黒森という丘(現酒田市内)をそれに擬され、以後の諸注これに従っている。丘上の樹木の色が黒いので、この
名があるという。〇 なにといふとも 「何と言ふと も」。 黒森という名を何といって主張しようと も、 の 意。 〇 けさの雪 「デ朝の
雪」0
黒森という名を何といって主張しようとも、今朝のこの雪では白森だ。
■ ai 「黒森」の地名と「雪の白」の対照に興じた句に過ぎない。貞門風の中でも幼稚な、名辞にすがった発想であ
おきよ
わが友にせむぬるこてふ(ぁっめ句)
真蹟懷紙.己が光•泊船集•蝶姿•蕉翁句
集•荣集
我友にせむ醉胡 蝶:真蹟短 S
獨 酌
起よ,
春季(こてふ)。
〇おきよ'-^ rJa fc きよ起きよ」。蝶に対する呼び掛け。「櫛ばこに餅すゆるねやほのかなるかけいうぐひす起よ岳燭とぼ
して 色蕉 J (『冬の日』) 「 voqi , clus , ita . 」(『日葡辞書』)。 〇わが 友 「我が友」。「尾張十蔵、越人と号す。 . 性酒をこのみ、酔
和する 寺は 平家をうたふ。これ我友な り」 (『庭竈集』芭蕉 「二人 見し」 の 句前書) 「 vaga .」「 Tom ?」 (『日葡辞書』)。〇 ぬるこて ふ
「«°る斯齡」。花にとまって動かない蝶を、寝ているように見做したのである。「胡蝶」は「蝶」に同じ。その髭が美しいところか
ら 、中国西域の異民族の称「胡」を冠したという。「つぼむ花は く k り枕かぬるこてふ延勝」(『毛吹 草』 卷五) 「 Ne , nus , eta . 」
「 cocho >.」 (『日葡辞書』)。
■ a 起きよ起きよ。我が閑居の友にしよう。寝ている蝶よ。
B 草庵に独り住む身の、友を求める気持から、花にとまっている蝶に、眠るものを起すように呼び掛けた趣向で
ある。
昔者荘周夢為 n 胡蝶— 〇栩々然胡蝶也。……俄然覚則蘧々然周也。不 X 知周之夢為 n 胡蝶-与、胡蝶之夢為 X 周与。周
与 n 胡蝶一則必有 X 分矣。此之謂二物化—0(『荘子』斉物論)
(勤日,者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
さ きよきよぜん
.俄然として覚むれば則ち蘧々然として周なり。知らず、
269 天和四年.貞享元年
周が夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶と則ち必ず分有り。吧れ^!を物化と諝ふ)
右の有名な寓言を踏まえていることはいうまでもない。延宝.天和の交の変風期に『荘子』の影響は大きく、『次韻』
や『 II 独吟廿歌仙』等にその跡は歴々と指摘することが出来るが、発句に於いても、この句などその影響のはっき
りしているものの一である。貞享四年秋の真蹟「あつめ句」にあるところからは、同年春以前の成立と見られるけれ
ども、柿衛文庫蔵の「蕉桃青」と落款した真蹟短冊は、筆蹟に天和期の特色が著しく、下五を「酔胡蝶」とした初案
が、天和末期既に成っていたことは確言出来る(岡田利兵衛氏『図説色蕉』参照)。「酔」は前書の「独酌」と対応し、
この時期らしい興じた調子にも相応しい。「酔」は r スヰ」と音読することも出来ようが、後に「ぬる」と改められ
たことを思えば、「酔ふ」または「酔ふ」と訓むべきであろう。また、『芭蕉真蹟』『芭蕉全図譜』に紹介された真蹟
懐紙は、「あつめ句」と同じく下五を「ぬるこてふ」としており、この句の外に貞享期の九句が記されている。筆蹟
は貞享後期の特色を有し、『笈の小文』の旅の途次、貞享五年春に伊賀の郷里で揮毫したものと推定される。同四年
秋の「あつめ句」よりは後の成立であるが、これらの資料によって、はじめの余り興じ過ぎた調子を、貞享後期に至
って改案したことが知られよう。何れの句形にせよ、寓言を踏まえた興が中心であって、対象の微に穿ち入る深さは
なぃ。
則蝶よ^^唐土のはいかい問む t 真睛115 俳權遣墨.真 S 集覧
唐土の俳諧とはんとぶ小蝶 <蕉翁句集)
春季(蝶)。
»| 〇唐土「モロコシ」。日本から中国を指していう。本来は西紀前、中国の春秋戦国時代に今の浙江省辺を 中、しこ. した 戏一との
270
交流が盛んで、その地方を「諸越」と呼んだのが、次第に範囲を拡大して中国全土の呼称になったものである。「これは唐土楚国
の傍、小水と申す所に山居する僧にて候」(謡曲 「e 蕉」) 「 Morocosi. i, Taitp' J (『日葡辞書』)。〇 はいかい 「俳諧」。元来は日本の
詩形式の一の称であるが、ここは「唐土の俳諧」だから意味が広くなり、漢語の原義に帰っているようなところがある。中世に本
式の連歌に付随して行われていた俳諧の連歌が、戦国末期に独立の勢を示し、近世に入って漸く独自の庶民文学「俳諧」が成立す
るのであるが、漢語としての俳諧は「滑稽諧謔」の意であって、本式の連歌とは対照的に戯れおどけを旨とする連歌をそう呼んだ
のである。「俳諧歌」等も同じ用法。「誹諧」とも書く。「我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて誹諧の神を
入たまひければ」(其角「猿蓑序」) 「 Faicai .」 (『日葡辞書』)。〇 問む 「問はむ」。尋ねて見よう、の意。「ものくの心根とはん月見
哉露沾」(『続猿蓑 J 下) 「 Toi, 6,6 ta. J (『日葡辞書.一)。
1ひらひら飛ぶ蝶よ、お前が荘周の化身なら、唐土の俳諧は如何なるものか、ひとつ尋ねて見よう。
1真蹟画賛は『続蕉影余韻』所収。横臥した荘子の画像に句を賛したもので、「芭蕉之」と落款があり、天和期
の筆蹟と思われる。「蝶よ <」の形が恐らくは初案で、六.五•七という破調もこの時期として相応しい。『俳懼遺
墨』と『真蹟集覧』には「拝荘周尊像」と前書があり、『蕉翁句集』も「此句は荘子の絵讚と聞ゆ」と注している。
『句集』の形が破調を正した後案であろうが、貞享元年の部に出した根拠は明らかでない。ここでは画賛の筆蹟の特
色からして天和期の末に置く。もとより破調の方がこの時期の特色が顕著であって、初案ながら姑くこれを本位句と
したい。
荘周が夢に胡蝶となった寓言( I 参照)は有名で、寝ているその画像からこの話を連想して趣向を構えたのである。
蝶から荘子を思うのは貞門以来の常套であったが、談林派では特に荘子を引合に出して、彼等の所謂俳諧寓言説を主
張した。天和時代、蕉門初期の荘子好きも従来見て来た通りである。ひらひらと舞う蝶に呼び掛けるのは、即ち荘子
に呼び掛けることであった。奇抜な譬喩によって超現実の放曠な世界を繰拡げる荘子の言説の特色に、俳諧と共通の
ものを見て、「唐土のはいかい問む」といっているところが面白い。破調の句形の方が興じた調子が強く出ている。
271 天和四年 • 貞享元年
脱忘れずば佐夜の中山にて涼め r 內寅紀5 泊船集•蒸翁句集
夏季(涼め)。
H 〇 忘れずば 「我を忘れずば」の意であろう。勿論「年たけて」の有名な西行歌を心に置いているが、いきなり r 忘れずば」
と言っただけでそれを示そうとしたと見るのは無理である。〔考〕の条参照。「忘るなよ虹に蟬鳴山の雪会覚」(曾良「俳諧書留」)
「 vasure , US , eta . J (『日葡辞書』)。〇佐 夜の中山 東海道の日坂と菊川の間にある坂路。既出( 62 )。〇 涼め 「涼み」は夏の乎語。
既出#。
ai 私の ことを お忘れでなかった ら 、歌枕の佐夜の中山で一休みし、西行の昔を偲んで涼みなさい。
■2 ■『泊船集』『蕉翁句集』には「風瀑を餞別ス」と前書がある。風瀑は伊勢山田の御師で、江戸の出店の伊勢屋を
預っていた人。貞享三年の春、この人が伊勢に帰った旅の記が『丙寅紀行』(貞享三年六月刊)であるが、それに「佐夜
の山淋し。色蕉翁をと-^し予に餞して」としてこの句を出し、なお続けて「それは水無月の中のころ、今日は若葉の
弥生、柳のみどり青し」と記している。貞享三年から振返って「をと X し」 といえば貞享元年であり、この発句が同
年六月中旬に成ったことは疑いを容れない。風瀑は貞享三年に江戸を引揚げ、以後は山田の御師松葉屋七郎太夫とし
て伊勢に定住するのであるが、その二年前にも山田に帰ったことがあって、間もなく野ざらしの旅に出た芭蕉をその
地で迎えることになる。『蕉翁句集』が貞享三年の部に掲げたのは、三年丙寅の年の紀行に出ることから混同したの
であろう。
佐夜の中山での歌としては、西行の「年たけて又こゆべ しと 思ひきやいのちなりけりさ夜の中 山」(『新古今集』卷 十)
が余りにも著名で、この発句の解釈に関しても引合に出される ことが 多い。
272
西上人の名残を忘れずば也。下心は此度の契に我を忘れず命あらば、又越て来よとなり。(亦夢著『俳諧一串抄』)
とある説など、それなりに筋が通っているが、さきにも述べたように、最初から「忘れずば」と打ち出して、それだ
けで「西上人の名残を忘れずば」とまでの意を籠めたと見るのは無理である。旅立つ人に対しての「忘れずば」は、
先ず何よりも「我を忘れずば」でなければなるまい。送る方の色蕉には、嘗て西行歌を踏まえた「命なりわづかの笠
の下涼み」(62)の吟があった。恐らく風瀑の帰郷を送るに当って、二人の間では「命なり」の句のことが話題に上っ
たのであろう。それを前提として即興的に「忘れずば」の句が詠まれたのではないか。私と同じように佐夜の中山で
涼みなさいと奨めることは、西行の昔を®ベということにもなるから、西行歌の連想は飽くまで底意にあるわけであ
る。やや楽屋落ちめいた発想も、挨拶の即興吟には有り勝ちのことであった。ただそれが『一串抄』のいうように
r 又越て来よ」と旅立つ人に呼び掛けるとまで言えるかどうか、私には確信が持てない。
餞別吟としては、かなり面白い出来である。即興的な俳味に富み、風雅の伝統への思いも感ぜられるし、暑熱の旅
の辛労をいたわる思い遣りが快い。貞享期に入ると、こんな境地を見出すところまで、芭蕉の心境は進展しているの
である。
旅 立
撕野晒を心に風のしむ身哉(真瞋草稿一
秋季(身にしむ)。
1〇旅立 「旅立ち」。貞享元年八月、江戸から上方へ上る旅に出発する際の吟であることを示す。「春の朝赤貝はきてありく児
舟泉顔見にもどる花の旅だち松芳」(『あら野』員外) 「 Tabidachi , tgu , atta . J (『日葡辞書』)。 〇野晒 「ノザラシ」。野外に行
野ざらし紀行.芭蕉翁真跡集•後の旅•猫筑波
273 天和四年.貞享元年
き倒れたまま風雨に晒された白骨。特に頭骨、所謂「髑髏」をいうことが多い。「鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり亨子去年の軍
の骨は白暴皴蟾 J (『一葉集』)。〇心に「野晒を心に」「心に風のしむ」と、上下両方にかかる。「心にもか ゞ らぬ市のきぬたかな
晓鼯」(『あら野』卷四) 「cocoroni caquru . J (『日葡辞書』)。〇 風のしむ身 秋風の身にしむ感じから、古来「身にしむ」は秋の季
語とされている。「元来「身にしむ」は、俊成の「夕されば野べの秋風身にしみて鷄鳴くなり深草の里」(『千載集』秋上)などの和
歌が先蹤となって定着した季語で、単に秋風が身にしみるというだけではなく、秋風に触発されて、季節のあわれと人の世のもろ.
もろのあわれ、自然と人生の寂寥感がしみじみと身にしみて感ぜられるといった情感を本意とし、そこにはさらに、『年浪草』に
も「欧陽修が秋声賦に、其気慄洌■砭 一一 人肌骨 一」 と注するように、骨身に針をさすような慄然たる感じも加わっている」(尾形仂
氏『松尾芭蕉 b 「身にしむ秋也。……身の字人倫になる也」(『御傘 fe 「袂をぬらす霄の月蝕沾圃御しとねの上さへ風は身に入
ミて史邦」(『翁»,1|)「€^.6扣3巨3.5^£攻.」(『日葡辞書^。
al 旅の途中で行き倒れて白骨となるさまを心に思いながら首途をすると、吹く風が一層心にしみる我が身だわい。
■3 ■『野ざらし紀行』の冒頭に、
千里に旅立て路粮をつ k まず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月江上の
破屋をいづる程、風の声そ V ろ寒げ也。(濁子絵巻本による。以下『野ざらし紀行』からの引用は凡て同じ)
としてこの句が見える。次の年の四月迄上方各地をめぐる旅の初めに詠まれた句で、以後の旅程から見て、出発は八
月半ば頃であったろう。真蹟草稿は岐阜県大垣市の矢橋家蔵、旅中伊勢までの五句が書き留めてある。恐らくこの年
九月末から十月にかけて大垣の谷木因亭に滞在した間の染筆と思われ、さすれば『野ざらし紀行』に先立つ真蹟資料
となる。
自らの野晒しの骸を心に描いて旅立とうとするのは如何にも悲壮な覚悟に見える。談林から天和調へ様々の試行錯
誤を重ねながら新しい俳諧を求めて来た芭蕉は、そのどれにも満足出来ず、今初老を一つ越した齢になって、ただ旅
の体験の中にのみ活路を見出そうとしているのだから、彼の気持ではまことに然もあろうと思われる一方、まだ然程
274
の高齢でもない上に、案内知らぬ未開の地を目指すわけでもない旅にしては、何とも大袈裟という感じも拭い難い。
やはりこれは俳諧なのである。尾形仂氏は、右に引いた『紀行』の冒頭文の典拠とした偃渓広聞の偈 r 路不:粮笑
復歌、三更月下 Ais 何一太平誰整閑戈甲、王庫初無=如^疋刀一」(路粮を賫まず笑ひて復歌ふ。三更月下無何に入る。
太平誰か整へん閑戈甲。王庫初より是の如きの刀無し)の意を禅的な悟得の境地、また『荘子』にいう無為自然の道
に入るを得た広聞の悟達の境位を示すものと見た上で、
その広聞が悟達の境位の譬喩として詠じた太平の頌を、文字どおりの行路安泰の意へと屈折させながら、それを
大上段にふりかざし、「昔の人の杖にすがりて」と、いっさいをあなたまかせにゆだねるポーズを取ったのは、
ろくな路銀の用意もなく「千里に旅立」たんとしている自己を顧みての、照れ隠しの〃俳諧,でなければなるま
い。いかめしい禅林の偈頌を引き合いに出したその前文の諧謔は、そのまま「野ざらしを」の誇張的身ぶりの
〃俳諧"につながっている。……野にさらされた遺骸に接することは、〔当時にあっては〕けっしてめずらしい体
験ではなかったが、『荘子』や禅籍を下敷きにした前文のぺダンティックな雰囲気からすれば、「野ざらし」のイ
メージの中には、そうした現実的体験の上に、たとえば『荘子』至楽の「荘子、楚一|”キテ、空シキ髑髏斷紀卜
シテ(白骨のさま)形アルヲ見」云々といった場面や、あるいは『一休骸骨』などのおもかげも重なっていたろ
う。 (『松尾芭蕉』)
と述べておられるのは確説といってよい。
更に、行き倒れになった我が骸を心に描いて、観念の世界ではそれを笑い飛ばす ことが 出来ても、「風のしむ身」
はどうする こと も出来ない現実の我が姿である。,心に」を上下にかけた レトリックが この間の橋渡しになっている
形で、読者も「野晒を心に」「心に風のしむ身」と、これを何回も反芻して味わううちに、読みが深まって来よう。
それは要するに、「前途のあてもなく素寒貧の旅に出ようとしている自分の身を照れ隠しのおおぎょうな身ぶりにく
275 天和四年 • 貞享元年
るみながら、にもかかわらず、 どうしても 蔽いきれない理性と感性の破統を、 もう 一人の自分の眼でじっと見 つめて
いる、そのホロ苦い笑い」(尾 形 氏『松尾 芭蕉』) を感得することである。 こうして 死に至るまで十年余、漂泊の旅を 栖と
する色蕉の生活が始まった。
秋と ゝせ却而江戶を指故鄕—草稿)
野ざらし紀行
秋季。
〇 秋と、せ 「秋十年」。芭蕉が故郷伊賀の上野を出て江戸に来てから足掛十*一年を経たことを概数で「と せ」といった。
延宝四年夏の帰郷から九年を経たことを取立てて言う向きもあるが、それ以前既,に江 F J を本拠にしているのだから、この句の場合
途中の帰郷を云々するのは余り意味がない。 r 秋」は「春秋」 r 星霜」などというめと同じ。秋季の句とする為に冠したのである。
「去来去移竹移りぬいく秋ぞ」(『蕪村句集』)「爱に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか江戸に来りて予を尋。遥十とせ余り也」
(『おくのほそ道』)。〇却而「力へッテ」。「故郷でないものを逆に」の意。〔考〕の条でいう賈島の詩の「郤指并州」を踏まえている。
「所作の罪業まことにふかしといへども、聖教に値遇せし逆縁くちずして、かへて得道の因ともなる」(『平家物語』卷十一) 「 q £; so
cayette necouo camu . 」(『日葡辞書』)。〇 江戸を指故郷 「江戸を指す故郷」。江戸は色蕉の故郷でないにも拘らず、故郷として江
戸を指すのである。「指」は前に引いた賈島の詩の語を用いた。「江戸」は今の東京の地を中世に領していた江戸氏の名に基づいて
呼ぶ旧称。近世に於けるその範囲は今ょり遥かに狭く、大体戦前の東京市内旧十五区と思えばょい。因みに、延宝八年冬以降芭蕉
の住んだ深川の地は、隅田川を隔ててはいても、所謂「御府内」ではあった。「馬場の喧嘩の跡にすむ月嵐雪弟はとう^^江
戸で人になる利牛」(『炭俵』上)「日をさ-'ぬ事なれば、西山の事は、かへりてまたこそ思ひた、め」(『徒然草』百八十八段)「二度
こきやうに帰て、さひしを相みん事も有がたし」(『平家物語』巻二) 「 saxi , su . aita .」「 coqi 6 . F-ussato . coqo ; bo < jigataxi . 」
(『日葡辞書 b 。
Bans 江戸に住んで、もう十年の歳月を経た。故郷へ旅立つ今も、他郷の江戸が却って故郷と思われる程だ。
276
1 『野ざらし紀行』では前の「野ざらしを」の句の次に並べて掲げてあり、矢橋家蔵の真蹟草稿にも並記されて
いて、その「旅立」という前書はこの句にもかかるものである。この句の趣向は専ら『聯珠詩格』所収の賈島の詩
「渡こ桑乾 L に基づいている。即ち「客 n 舎并州一己十霜、帰心日夜憶,一咸陽一如今又渡桑乾水、郤指=并州一是故郷」
(并州に客舎して B ? に十霜。帰心日夜咸陽を憶ふ。如今又渡る桑乾の水。郤つて并州を指して是れ故郷と)に拠った
もので、「十霜」と「秋と X せ」、「郤つて并州を指して是れ故郷と」と発句の中七以下の表現が密接に関連すること
は一見して明らかであろう。日夜咸陽を憶って帰心を募らせていた賈島の境涯に、色蕉は久しぶりに故郷伊賀へ帰ろ
うとしている自身の境涯を重ね合わせている。「「却て」という語に、非定住を決意した作者の未練が、かすかに影を
落としている」 (『日本古典文学全集•松尾芭蕉 集』堀 信夫氏) という見方も一面の理ではあるが、この句自体の趣向は、やは
り何よりも賈島の詩との関連において把握されるべきで、非定住云々を余り強調すると、却って詩との親縁性が無視
されてしまう嫌いがある。これより数年後、『笈の小文』の旅に出る芭蕉を送った友人素堂が、『句 a 別』所収の詩の
序で「芭蕉老人有ぃ故赴,.郷国?老人常謂他郷即吾郷」といっている文も思い合わされよう。「却而江戸を指」という
あたりの生硬な調子には、漢詩を踏まえたことによる天和調の余響が感ぜられるが、典拠の為の典拠というのではな
く、古人の詩との同感の上に自らの情を盛っている。大袈裟な身ぶりのみが目立つ天和期の作と、やはり同日の談で
はない。
M 5 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き t 野 ざら し 紀行) 初嬋
秋季(霧)。
1 〇霧しぐれ 「霧時!!」。山中の霧が濃くて、宛かも細雨に濡れたように湿潤の気を感ずることがある。そのような気象状態
277 天和四年 • 貞享元年
をいつたかとも思われるが、後述す るよう に、『紀行』によれば箱根を越えた日は実際に雨天だつた ようで ある。従つて この 語は、
霧の深い、雨が降つたり止んだりする天候を指したものと思われる。 この 句以前の用例を聞かぬ語である。「霧しぐれおもはぬ蓑
のかけどころ j (『白 雄贈答』)。〇富士をみぬ日「富士を纪ぬ日」。霧が立ち籠めて富士山の姿が見えない日。〇面白き rst ' & k き , -〇
趣がある、興が深い、 の 意。「さし柳た i なるもおもしろし一笑」(『あら野』卷二) 「 vomoxiroi . J (『日«辞書』)。
■ asa 山中に霧が立ち籠めて、雨が降つたり止んだりの空模様だ。霧に隠れて富士が見えないこんな日が、却つて面.
白ぃ。
■ B ■『野ざらし紀行』には、
関こゆる日は雨降て、山皆雲にかくれたり。
としてこの句を掲げている。「関」は箱根の関所で、旅の二日目が小田原泊りとすれば、三日目に箱根の関を越した
のであろう。 見えない山の姿に却つて興を催したこの句の趣は、嘗て潁原退蔵博士が、
これは勿論負けをしみ や、 所謂茶人の変屈趣味ではない。兼好法師が「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものか
は J と言つたのと同じやうな心の好みである。霧に隔てられた山の姿を心に描きながら思ふのは、目に見る現実
の富士よりももつと美しいにちがひない。同行した千里の句に、「深川や芭蕉を富士にあづけ行く」とあるので
も分るとほり、いつも深川からは遥かにこの山を仰いで居たのであらう。それがすぐ麓を通る とい ふのに却つて
見られない。さうした所にも興が催されたのである。(『色蕉俳句新講』 )
と説かれた通りである。色蕉の脳裡には、蘇東坡の西湖の眺望を詠んだ詩の一節「山色空濛雨亦奇」(山色空濛とし
て雨も亦奇なり。「飲-1湖上 I 初晴後雨」)があつたかも知れない。
278
撕猿を聞人捨子に秋の風いかに(野ざらし紀行) 本朝—
途中捨子を憐
猿を泣旅人捨子に秋の風いかに S 潰草稿)
山 行
猿をきく世すて子に秋の風いかに i 林一字幽蘭集>
秋季(秋の風)。
I 〇猿を聞人 r 猿を聞く人」。猿の悲しげな啼き声を聞いて愁情を催す古来の詩人達を指す。それに対しての呼び掛けである。
猿の声に涙する趣は漢詩に多く見えるところであるが、就中ここでは、杜甫の「秋 興 八首」其二の一節「聴\猿実下三声涙」(猿を
聴いて実に下る三声の涙)が強く意識されているであろう。旅中の執筆と思われる矢橋家蔵の真蹟草稿に「猿を泣旅人」とある初
案も「実下三声涙」を思わせる。なお、真蹟は「泣」の処が最初「啼」とあったのを見せ消ちして「泣」に改めているのであるが、
「啼」は人の泣く場合に用いないではないものの、「啼鳥」など動物について用いることが多く、唐の高適の詩に「巫峡啼猿数行
涙」とした例が見える。芭蕉は始め「猿」にひかれて「啼」の字を使ったが、人が泣く句意であるのに鑑みて「泣」に改めたもの
と思われるのである。また初案の「旅人」も、旅中に発想された古詩の趣を踏まえたことをはっきり示すものであった。ただ字余
りの異体が余りに目立つので「人」と改めたのであろうが、改案にしても二音の字余りである。「猿を聞て実に下る三声のなみだ
といへるも、実の字、老杜のこ、ろなるをや」 (『あら 野』員外、素堂発句「麦をわすれ J 前書) 「 saru .」 (『日葡辞書』)。 〇 捨子に秋の風
いかに 「いかに」は、「どうなのか」「どう感ずるか」と、「猿を聞人」に問い掛けた言葉。捨子に秋の風が吹くという悲しい情景
に対して、どう感ずるかと問い掛けたのである。加藤揪邨氏は「禅問答的な呼びかけ」(『芭蕉全句』)と見ておられる。「暮いかに
月の気もなし海の果荷兮」 (『あら 野』卷一) 「 Icani.J (『口葡辞書』)。
ia 猿の啼き声を聞いてあわれを催した詩人達よ、捨子に秋の風が吹くこの悲しい情景に対しては、どう感ずるか。
279 天和四年 • 貞享元年
— 有名な『野ざらし紀行』の富士川の条に見える句である。『紀行』では、
富士〔川〕のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえ
ず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より嗆物なげ
てとをるに、
としてこの 発句を掲げ、更に、
いかにぞや汝、ち k に悪まれたるか、母にうとまれたるか。ち、は汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。
唯これ天にして、汝が性のつたなき 〔を〕なけ。
と書いている。桑原武夫氏はその評論「色蕉」の中で虚構説を主張しておられるが、旅中の真蹟草稿に「途中捨子を
憐」と あると ころからも、 そうした 見方は成り立つまい。但し、草稿では佐夜中山での吟「馬上落ン として」 ( I )よ
りも後に書かれていて、富士川での作とすれば順序が逆になっている点、聊か不審である。思い出すまま順不同に記
したと も見られる一方、「富士川のほとりを行に」は作者一流の虚構で、実際は佐夜中山より西へ行ってからの作 だ
った 可能性もあろう。しかしそれも推測の域を出ないことなので、ここでは一応『紀行』の記述通りに富士川のほと
りでの作と見ておく。
連年の飢饉など当時の険悪な社会情勢から、堕胎•間引き.捨子といった悲しい所行は、到る処の農村で見られた
という。親に捨てられた幼児の泣く姿にそぞろ惻隠の情を催すのは人情の自然であって、それを『源氏物語』の表現
を踏まえつつ叙したのが『紀行』 の 前段である。しかし、発句にも現われている激越な調子は、 この 時の芭蕉の受け
た精神的衝撃の並々ならぬものだったことを物語る。深川に草庵を構えて以来、生活手段を放棄して俳諧隠者として
生き、世間には無用の俳諧を生き甲斐として来た色蕉は、今回の旅もその無用の俳諧の新生を期して踏み出して来た
のだった。世外の俳隠を標榜した人間にとって、 この 捨子の姿は現実の世相の酷し さをまざまざと 見せつけたわけで、
280
その衝撃の深さは句の錯落とした破調にも現われている。社会的に無力な芭蕉には、哀れな捨子を前にしても「袂よ
り喰物なげてとをる」ことしか出来なかったが、彼は更に内面の激動を鎮静する為に、思弁を重ねた。それが「いか
にぞや汝」以下の後段であるが、ここには『荘子』の強い影響が指摘されている。即ち大宗師篇の、子輿が子桑を訪
うた一条に、
至=子桑之門一則若/歌若 k 哭。鼓 X 琴日、父邪、母邪、天乎、人乎。有 T 不/任 n 其声 I 而趨挙+其詩±焉。子輿入日、
子之歌何故若/是。日、吾思 T 夫使,=我至_|此極 I 者±而弗/得也。父母豈欲 n 吾貧 I 哉。天無--私覆一地無=私載— 〇
天地豈私貧/我哉。求,,其為/之者 I 而不ヅ得也。然而至=此極 I 者、命也夫。
(子桑が門に至れば、則ち歌ふが若く哭くが若し。琴を鼓きて日く、父か母か、天か人か。其の声に任へずして
趨やかに其の詩を挙ふこと有り。子輿入りて日く、子が詩を歌ふこと、何が故ぞ是くの若くなる。日く、吾夫の
我をして此の極に至らしめし者を思ふに、而も得ざるなり。父母は豈吾が貧を欲せんや。天は私に覆ふこと無く、
地は私に載すること無し。天地は豈私に我を貧しくせんや。其の之を為る者を求むるも、而も得ざるなり。然し
て此の極に至る者は命なるかと)
とあるところである。広田二郎博士が『色蕉の yi 術』で『紀行』のこの条が『荘子』の右の文に拠ることを指摘され
たのは正しいであろう。人間の幸不幸を天命とすることで芭蕉は一応納得したけれども、貧しい境涯とはいえ、芭蕉
には俳諧を楽しむ余裕があり、「霧しぐれ」の句のように結構旅を楽しんでもいた。然るに捨子は、保護して呉れる
者もなく、餓死の危険にさらされている。この極限状況を目にして、芭蕉は苦い自省を嚙みしめたに違いない。
だから「猿を聞く人よ」と呼びかけてはいるが、その呼びかけは自分自身に戻って来る呼びかけである。「猿を
聞く人」が風騒の人、……自分 も その流れを汲む文人の一人なのだが、そういういわば「虚」の悲しみ もさる こ
とながら、 この 眼前の捨て子の泣き声の現実に対しては、むなしい気がしはしないか。 この 現実 こそもっと 酷し
281 天和四年.貞享元年
い悲しさではないか。それが、この句の発想の契機であるに相違ない。……この句は円熟させようがない発想な
のであって、そこがまたこの句の魅力なのだともいえよう。 こういう 句境を経過することが、後年の完成に とっ
て不可欠だったのである。(『鑑賞日本古典文学 •芭蕉』)
と井本農一博士が説かれた通りである。
「猿をきく世」(『一字幽蘭集』)という句形は誤伝であろう。「猿をきて人」(『泊船集』)「猿を聞捨子を秋の風いかに」(明.
和板『野晒紀行』)も杜撰に過ぎない。
崑崙は遠く聞、蓬萊•方丈は仙の地也。まのあたり士峯地を抜て^ 15 天をさ\え、
日月の爲に雲門をひらくかと。むかふところ皆表にして、美景千變ス。詩人も
句をつくさず、才士文人も言をたち、畫エも筆捨てわしる。若藐姑射の山の神
人有て、其詩を能せんや、其繪をよくせん歟
撕雲霧の 暫時百景を つくしけり(色蕉句選拾遺)
秋季(霧)。
〇崑崙は遠く聞「崑崙は遠く聞き」。「崑崙」は、実在の物としては、中国西部、チベット高原とタ リム 盆地の間を東西に走
る全長二千四百キロの崑崙山脈を指す。また、中国の西方、黄河の源として玉を産し、仙女西王母の棲む伝説的楽土の名でも あっ
た。 ここは 次の「蓬萊」「方丈」を導き出す文脈からして後者と見られよう。「遠く聞」は「遠しと聞く」と同義。 楽土崑崙は 西方
遥か彼方にあると聞いており、の意である。「それ江の島は崑崙の奇を移し、五丈の垣重な ほ けれども」 (謡曲 「江 島」)「まは す小
猿ぞ露いとまなき片帆でも月には遠くはしり舟」(『毛吹草』卷七) rTouoi .」 (『日葡辞書』)。〇蓬萊「ホゥラィ」。中国東方の海上
282
にありと伝えられる神山。「富士の山とは申すなり。是蓬萊の仙境たり」(謡曲「富士山」)。〇 方丈 「ハゥヂヤゥ」。右の蓬萊と同じ
く、中国東方海上にあるとされた神山。「うみには万ごうかめあそぶ、ほうらいはう丈えいしう、このみつのやまをぞいた V ける」
(『梁塵秘抄』卷二)。〇 仙の地 「仙の地」。仙人の住む土地、仙境。「浦島ノ子ガ釣タル亀、女卜成テ仙-一登リ J (『愚管抄』卷一、雄略
天皇条)「亡父の墓東武谷中に有しに、三歳にて別れ、廿年の後かの地にくだりぬ」(『猿蓑』巻四、園風発句「まがはしや」前書)
「 xennin . 」 「 chi . Tguchi . J (『日葡辞書』)。〇 まのあたり 「目のあたり J 。 物が眼前にあるさまをいう副詞。「実盛が菊から草のか
ぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながら、まのあたり憐におぼえて」(『猿蓑』卷三、芭蕉発句「むざんやな」前書) rMsoatari .」 (『日
葡辞書』)。 〇士峯 「シホゥ」。富士山の漢風呼称。「三上山は士峯の俤にかよひて、武蔵野、古き栖もおもひいでられ」(「幻住庵
記」)。〇 地を抜て倉天をさ、え 「地を抜きて蒼天を支へ」。「地を抜て」 は、 地上に高く聳えているさま。「倉天をさ^,え」は高い
山が柱のように天を支えているというのである。共エ氏が祝融と戦ったとき、天柱が折れ地維が欠けたが、女媧氏が五色の石を錬
って天を補い、鼇の足を断って四極を立てたという中国の古伝説を頭に置いているのであろう。「倉天」は「蒼天」の誤り。『詩
経』の句「彼蒼者天」に基づく。(59)参照。「さ k え」は歴史的仮名遣では「さ k へ」とあるべきところである。「さうてんに月
日の光なく、あんやにともし火かげくらき」(『せみ丸』第三)「南に鳥海天をさ k え、其陰うつりて江にあり」(『おくのほそ道』)
「 Nuqi , qu , uita . J 「 S 6 ts . Auoqi sora . 」 「 ssaye , uru , eta , 」(『日葡辞書』)。〇 日月の為に雲門をひらくかと 「日月の為に雲 門
を開くかと」。太陽や月の為に、その通り道にある雲の門を開くかと思われる、の意。「雲門」は、雲で出来た門。中国の古典では
雲の出る門の意として用いた例があるが、芭蕉の用法は聊かそれと異なるようである。「ひらくかと」の下に「見ゆ」「覚ゆ」等を
補って解する。「更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ」(『おくのほそ道』)「息をきらし汗をひたして漸雲門に入こそ」(『笈の小
文』)「ひさかたの天の戸ひらき高千穂の嶽に天降りし」(『万葉集』卷二十、大伴家持 ) 「litguet 3, t - ouqr *」「 Monuofiraqu . 」
(『日葡辞書』)。 〇むかふところ皆表にして 「対ふ所皆表にして」。人が山に対って何処から眺めても、皆正面の形に見えるという
のである。円錐形をして、四方のどの山よりも高い富士山の形の特色を述べたもの。「よしの k 花に三日と V まりて、曙黄昏のけ
しきにむかひ」(『笈の小文』)「みなしろたえのにはのをも、あとふみつくる人もな し」 (『曾我物語』卷一)「両方百騎づ k 陣の面にす
k んだり」(『平家物語』卷七) 「 Mucai , 6,6 ta . 」 「 Mina . 」 「 vomote .」 (『日葡辞書』)。〇 美景千変ス 「美景千変ス J 。 美しい景色が
時によってさまざまに変る、の意。富嶽三十六景•富嶽百景等、富土の眺めは種々の画題になる。「美景物としてたらずと云事な
283 天和四年 • 貞享元年
し」 (「幻 住庵 記」) 「千変万化する物は自然の理也」 (『三 冊子』赤雙紙) 「 Biqei . Yoiqei . J 「 xenpen . J (『日葡辞書』)。 〇 詩人も句をつ
くさず 「詩人も句を尽さず」。漢詩人もその美景を表現する詩句を用い尽すことがなく。つまり、どんな詩句を用いても、富土の
美景を表現し兼ねるというのである。「詩人」は近代以前では普通漢詩作者を指す。「一‘松嶋にゆきて、……見せばや st @? A £ t # L A ^
にと思ひしに」(『好色一代女』卷一一')「ふみなどつくりかはして、……みこもいとあはれなる句をつくり給へるを」(『源氏物語』桐壺)
「造化の 天工 いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」(『ぉくのほそ道』) rxijin . J 「 cu . 」 「 Fixxinitgucuxigataxi.J (『日葡辞書』)。 〇才
士文人も言をたち 「才士文人も言を絶ち」。才士文人も表現すべき言葉がなくて黙り込み、の意。所謂言語に絶した美景なのであ
る。「才土」はこの場合、文才ある人を指すわけだから、「文人」と殆んど同じことになる。「是才士文人の風雅をくはふるなるや」
(『笈日記』 所収芭蕉 発句 「木曾の 瘦も」後書) 「 Tachi , t - ou , atta . 」 (『日葡辞書』)。 〇 画工も筆捨てわしる 「&_エも數ぎてて4!る」。絵
かきも筆を捨てて逃げ出す。美景を絵にあらわし得ないというのである。「筆を捨つ」は、描くのをやめること。「わしる」は「起
る」と同じで、ここは「逃げ出す」意である。 r 漢ノ李夫人ヲ写シ画エモ、是ヲ画ヵバ遂二筆ノ不及事ヲ怪 ミ」 (『太平 記』 卷三十七)
「雪をながめ、又は盃をとりて、筆をそめ筆をすつ」(芭蕉「閑居 ノ箴」丨 『本朝 文 鑑』)「蟻のごとくにあつまりて、東西にいそぎ南北
にわしる」 (『徒然草』 七十四段) rGuaco ). YecaqitacumF」「FudeuosaxiuoqF J 「 sute , t o uru , eta .」「 vaxiri , ru , itta . i ,
Faxiru.J (『日葡辞書』)。 〇若 「若し」。仮定の言い方の最初に来る副詞。「若是扶桑に 伯夷 あらば、必口をす x がん」(『野ざらし紀
行』) 「 Moxi .」 (『日葡辞書』)。 〇藐 姑射の山の神人有て 「藐姑射の山の神人有りて」。「藐姑射の山」は中国で不老不死の神仙が住
むといわれる想像上の山。「藐」は元来「邈」と同意の字で、遥かに遠いことをいう。「姑射山」が山の名である。「有て」は「有
らば」といっても同じで、上の「若」と照応する漢文 的 表現。「有 x 朋自二 遠方一来」 (朋 有り遠方より来る。『論語』学而)と似た 表
現である。ここは『荘子』逍遥遊の一節「藐姑射之山、有二神人一居焉」(藐姑射の! II に神人有りて居れり)を踏まえた。「心をし無
何有の郷に置きてあらば藐姑射の山を見まくちかけむ」(『万葉集』卷十六)「神人とは ttx 沿の齡射に粒ず赶尸をまうすなり」(『椿説弓
張月』四十四回)。 〇其 詩を能せんや 「其の詩を能くせんや」。富士山の有様を遺憾なく表現した漢詩を作ることが出来るであろう
か、 の意。同じ「よくす」でも、「能」を用いた場合は単なる可能の意であり、「善」を用いた場合は上手に為し得る意をあらわす
こと、漢文の例である。「我友素翁はなはだ哀がりて、詩を題し文をつらぬ」(色蕉 真蹟「蓑虫ノ説」跋) 「能をつかんとする人、よく
せざらんほどは、なまじいに人にしられじ」 (『徒然 草』百五十 段 ) rxiuot -o ucuru , 一, yomu . J (『日葡辞書』)。 〇其 絵を よく せん敷
284
「其絵を よくせ ん歟」。富士山の有様を遺憾な く 表現した絵を描くことが出来るであろうか、の意。 「よく」 は上の 「能」 に 照らし
て、同じく可能の意と思われる。 r 歟」は音 r ョ」 。漢文の文末に用いられる疑問詞。日本語の「か」に当る。「師が画は 精神徹に
入、筆端妙をふるふ」(色蕉 「許六 離別 詞」) 「花の 雲 鐘は上野か浅草歟色蕉」(『続虚栗』) 〇雲霧 r クモキリ」。雲と霧と〇 r 霧」は
秋の季語になる。「松なれや」 (§) の句参照。「ちう k のたびの 雲き りに見うしなふこと有共、 犬 死と思ふて下さるな」(『今宮の心
中』下)。 〇 暫時 「シバシ」 とも訓めるが、句全体の固い調子からして 「ザ ンジ」と音読したい。暫くの間に、の意。「@!斯の阳
に大造な物になつた」(『浮世風呂』前編 h ) 「 zanji . Xibaracuno toqi ; (『日葡辞書』)。 〇百景をつくしけリ しけり」 0
「百景」は、種々の変化に富んだ景色をいう。富士山を中心にした景色が、さまざまの変化を尽く 示す というのである。の船
の久しきためし、……爰の百景詠めにあまりて」(『男色大鑑』卷四ノ三)「江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を 責」 (『おくの
ほそ道』) 「 Fiacqei . Fiacuno qei . J「T oucuxi , u , ita . Fixxeiuo tgucusu . 」(『日葡辞書』)。
ESE 3 雲や霧の動きにつれて、僅かの間に富士はさまざまな景趣^ JR ? ぐ見せてくれることだ。
■■ この句は宝暦六(一七五六)年に寛治の編した『色蕉句選拾遺』初出であって、「甲州よし田ノ山家に所持ノ人あ
りしを、今東武下谷匍志秘蔵なるよし、行脚祇法より伝写して出ス」と頭注がある。芭蕉歿後時を隔ててはいるが、
前文も紛れもない芭蕉の文気を感じさせるものだから、真作と認めてよかろう。制作年次について、天和三年甲州流
寓中の作とする説には聊か難点がある。句は「霧」で秋季なのに、甲州に三年秋まで滞留した確証がないからである。
貞享五年の『更科紀行』の時は、ここの前文にあるように「まのあたり」富士を眺められる処を通ったかどうか疑わ
しし一霄能性の高しのは貞享元年八月西上した際である。 r 霧時響士を見ぬ日ぞ面白き」(沿)と似た趣もあり、
この句と同じ頃か、或いは駿河路に入ってからの吟であったろう。少くともこの時までには成っていたと推定さ e 、
『荘子』等を引合に出した漢文調の前書も、天和から幾許も隔たらないこの時期に相応しい。
前書に於いて富士山の趣は殆んど尽されていて、句の方はその残滓を繰返したに過ぎないという 見方が 多い が、 そ
れは聊か酷である。句としての自立性が乏しいように見えるのは、前書を前提にしている為でも あり、文と 句は相决
285 天和四年 • 貞享元年
発しているといえよう。雲霧の動きにつれて千変万化する豪宕な富士の山容を、「暫時」「百景」といった響きの強い
漢語を用いて表現した意図は、寧ろ成功していると思う。
馬上吟
/ ssii のべの木槿は_にくはれけり(野ざらし紀5 真睛自画賛•真蹟短冊•真績懐紙
道の邊の槿は馬の喰ひけり(伊—
道端の靑麥馬にくはれけり fs
道なかのむくげは馬にくはれけり S 来抄>
道野邊の木槿は馬に喰れたり <歴代滑稽き
道ばたのむくげは馬にくはれけり(或問珍)
秋季(木槿)。
1 a 〇馬上吟「パシヤゥギン」。旅中馬に乗っていての句作であることをいう。「吟」は「詠」に同じ。漢詩の題に做ったもの。
『紀行』の真蹟巻子本等初稿本系には「眼前」と題してあり、それを定稿の段階で「馬上吟」と改めたのである。「紀行の本文の上
で、この句に続いてあげる「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」の句文との照応を考慮するとともに、あわせて「吟」の字に旅情の悲し
みを託そうとしたものだろう」(尾形仂氏『松尾芭蕉』)という見方が良い。「馬上」の「上」は、当時は清音と推定される。「馬上に
鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」(『野ざらし紀行』)「春野吟\足跡に桜を曲る菴二つ杜国」(『はるの日』) 「 Bax 6. Vmano
vye . BaxsnofitoL (『日葡辞書』)。〇道のべの 木槿 「道の辺の木槿」。ここは人家の生垣などに植えられた木槿の、花をつけ
たものをいう。「花むくげ」 ( g ) 参照。「道の辺に清水ながる、柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」(『新古今集』巻三、西行)「手
を懸ておらで過行木槿哉杉風」(『猿蓑』卷三) 「 Michinobe.J (『日葡辞書』)。〇馬にく はれけ り「馬に食はれけり」。「馬」は街道
286
筋で旅人を乗せる駄賃馬で ある。 初めに掲げたように「喰れたり」とする異伝が あるが、 芭蕉自身書いたものは凡て r けり」で異
同がなく、「たり」は後年の誤伝で ある。 r けり」が今まで気づかなかった事象にはじめて気づいた感動をあらわすのに対して、
「たり j は動作作用が完了し、その事実を確認提示するに過ぎない。「から尻の馬にみてゆく千鳥哉傘下」(『ぁら野』巻七)
「vmani noru , 一, Mesu.J (『日葡辞書』)。
Ml 眼の前の木槿の花は、乗っている馬に食べられてしまったなあ。
■ E ■下郷家蔵真蹟懐紙には「眼前」と前書がある。この句は『紀行』の本文では大井川を越して佐夜の中山にかか
る間に入っている。芭蕉は恐らく金谷に一泊した箸で、佐夜の 中 山は早暁に通過したところを見る と、 大井川から金
谷までの間の属目を句にした ものと見られよう。 佐夜の中山では 「廿日 余の 月」(『紀行』) が見えたのだから、 八月も
下旬に入っての作だったのである。真蹟自画賛は出光美術館現蔵、旅行当時からは数年を経た貞享末期の 揮毫と 推定
される。真蹟短冊は、『俳人の書画美術•芭蕉』所収の ものの 外、昭和二十八年の芭蕉展に出陳され たもの が 知られ
ている。句形は『紀行』や真蹟類が信頼するに足り、他は凡て後年の誤伝に過ぎない。 .
この句を解するに当って、槿花一日の栄のはかなさや、「出る杭は打たれる」といった諷諌の寓意があるように見
る説が多かったのには、それなりの理由がある。一つは題材としての「木槿」が兎角無常の観相を誘う伝統があった
こと、今一つは「木槿は馬にくはれけり」と木槿を特に取立てて際立たせた上で、受動態と「けり」で結んだ句作り
が、写生的表現とは受け取りにくい点であろう。正岡子規がこれを「何か文学外の意味ある者」と見て、普通なら
「道のへに馬の喰ひ折る木槿かな j r 道のへや木槿喰ひ折る小荷駄馬」のような句法を用いなければならないのに、
「さはなくて故らに「木槿は」といひ「喰はれ」と受動詞を用ゐたる処は重きを木槿に置きて多少の理屈を示したる
者と見るべし . 人を諷誡せりとの意或は当らんか。而して此意を現はすに路傍の木槿を以てする者は拙の又拙なる
者なり」(「芭蕉雑談」)と極言したのも故無しとしないのである。
287 天和四年 • 貞享元年
しかし、寓意説は所詮正鵠を得た解釈ではなかつた。何よりも芭蕉自身が『紀行』に於いて「眼前」「馬上吟 J と
いう前書を付しているからである。この句の成つた時点で寓意風の見方を生ずる恐れが予見されたからこそ、色蕉は
「眼前」と題してそれが眼前の事象を句にしたものであることを明示したに違いない。「馬上吟」と更に改めたのは、
「眼前」の事であることを前提にして、作者の位置を確認した意味と思われる。しかもなお、子規のいうが如き句法
にしなかつたのは何故か。この点について、加藤楸邨氏が、
食はれる前は、木樓が咲いてゐるなと、意識の縁暈に近いところで見てゐた木槿の白い花であるが、ひよいと食
はれてしまつて、始めて木槿の花が、はつきり、意識にのぼつて来る、さういふ心の動きが、道の辺の木槿は、
となつたものであらう。(『色蕉講座』発句篇3 )
と言われたのは良い。この説は「は」の働きと共に「けり」の包蔵する作用を的確に述べ得ている。そういう眼前体
の面白さ —— 事象と共にそれによつて喚起された作者の心の動きを表現するには、やはりこの句法しかなかつた。許
六は『歴代滑稽伝』(正徳五年刊)の中で、
終に談林を見破り、はじめて正風体を見届、躬恒•貫之の本情を探て始て
道野辺の木槿は馬に喰れたりと申されたり。天下挙て俳諧中興の開祖、正風の翁と称し侍る。
と、この句を引合に出しているが、平明な内容表現のうちに旅愁を籠めたこのような句こそ、蕉風の不易の一面とい
うべく、その傾向の早い時期のあらわれとして、やはり注目に値すると思う。また、馬が木槿の花を食つてしまつた
という事象そのものはユーモラスでもあつて、その辺の「俳意」も確かに把まれているのである。更には其処に禅機
の如きものを認.めることも出来よう。
288
蕉影余韻所収真蹟懐紙•山寺芭蕉記念館蔵真蹟
§ 馬に寐て殘夢月遠し茶のけぶり(野ざらし紀行)懐紙•下郷家蔵真潰懐紙•真潰自画賛•签日
記•蕉翁句集草稿.三冊子
夜深に宿を出て明んとせし程に、杜牧が馬鞍の吟をおもふ
馬上落ンとして殘夢殘月茶の烟 S 蹟草稿) 一蕉翁句集草稿
月とをし殘夢殘月茶の烟爱翁句集草稿}
秋季(月)。
i 〇残夢「ザンム」。夢の名残。目がさめた後になお続く夢心地をいう。後述する杜牧の「早行」の詩にこの語が見えるのに
基づく。「残夢は大事の題也。残の字が作り得がたい也」(『中華若木詩抄』上)。〇月 遠し 「月 11 し」。月が遥か彼方の空に見えるさ
ま。これも「早行」の「月暁遠山横」(月暁にして遠山横はる)の影響である。「行月のうはの空にて消さうに越人砧も 遠く 鞍
にいねぶり芭蕉」(『ぁら野』員外 ) 「Touoi . TOU 6 miru . 」(『日葡辞書』)。〇茶 のけぶり 「茶の煙」。朝食〇支度に茶を煮る煙。
当時は「ふ」と書いて「む」と読む習わしがあったといわれ、「けぶり」と「けむり」は結局同じなのであるが、なお「ぶ」と発
音することがなかったかどうかには一抹の疑問が残る。「みなと入帆のみゆるやね越シ嵐雪世の中を画にのがれたる茶の膨
濁子」(『句餞別』) 「 OKA . 」(『日葡辞書』)。
lag 馬上で居眠りして目がさめたが、夢見心地の まだ 続く中、遥かに有明月が見え、村里では茶を煮る煙があがっ
ている。
■■「はつか余の月かすかにみえて、やまの根ぎはいとくらく、馬上にむちをたれて数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧
が早行の残夢、さよの中山にいたりてたちまち驚く」(『蕉影余韻』所収真蹟懐紙)「はつかあまりの月かすかにみえてやま
の根ぎはいと暗、こまの蹄もたど^^しければ、おちぬべき事あまた\びなりけるに、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧
が早行の残夢、さよの中山にてたちまち驚く」(山寺色蕉記念館蔵真蹟懐紙)「はつか余の月かすかに、やまの根ぎはいとく
289 大和四年.貞享无年
らく、馬上にむちをたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、さよの中山にいたりてたちまち驚く」(下郷
家蔵真蹟懐紙)「はつかあまりの月かすかにみえて、やまの根ぎはいとくらく、こまの蹄もたどくしければ、おちぬ
べき事あまた、びなりけるに、彼数里いまだ鶏鳴ならずと云けむ杜牧が早行の残夢、さよの中山にてたちまち驚て」
(真蹟自画賛)等真蹟類の前書の外、5日記』尾張部には巴丈亭の画賛四幅の一として掲げ、「はつかあまりの月かす
かに、山の根ぎはいと闇、こまの蹄もたど<しくて、落ぬべき事あまた k びなりけるに、数里いまだ鶏鳴ならず。
杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至ておどろく」という前書もある。また、山寺色蕉記念館蔵の真蹟懐紙は句頭が欠
けて「に寐て」とあるだけであるが、これは表装の際に失われたもので、もとは「馬」か「むま」の字があったと推
定される。『野ざらし紀行』では大井川を越した後、前の「道のベの」の句の次に、右に類似した文章を記して句を
出しており、『蕉翁句集草稿』『三冊子』等の前書も、これらと大同小異である。八月も下旬に入って金谷に泊った翌
▼ 暁、佐夜の中山にさしかかるあたりでの吟であった。
最初に挙げた通り、さまざまの句形が伝えられているが、推敲については土芳の説く所が精しい。即ち、
是笈日記の趣也。紀行に出る句也。いさ\か前書違有。句、はじめは馬上落ん として 残夢残月茶の烟と云り。後、
馬に寐てと初五直りて、猶後、残夢月遠しと直りたる句也。残夢残月は句に拍子過たりと也。(『蕉翁句集 草稿』)
此句、古人の詞を前書になして風情をてらす也。初は、馬上眠からんとして残夢残月茶の烟と有を、一たび、馬
に寝てと初五文字をなしかへ、後又、句に拍子有りて宜しからずとて、月遠し茶の烟と直されし也。 (『三冊子』赤
雙紙)
等と述べているのがそれである。右のうち、「馬上落んとして残夢残月」という句形は、旅行当時翌九月末頃に書か
れた真蹟草稿によって裏付けられるが、「馬上眠からんとして」の句形は『三 flft 子』のみに伝えられる所で、しかも
伝本によって「馬上眠らんとして」(色蕉翁記念館本)「馬上に眠らんとして」 一 梅 主 本)等の異同が見られ、必ずしも Bu
290
難い。土芳直筆の『句集草稿』の方が、推敲過程については信頼出来よう。はじめ「馬上落ンとして残夢残月」であ
ったものを、先ず「馬に寐て」と初五を改め、次いで「残夢残月」と口拍子に乗った軽さを抑えて、「残夢月遠し」
として治定したのである。なお、「月とをし残夢残月」の句形は、『句集草稿』に首書の形で見えるもの。「桐水所持
の自筆八句に」とあるから伊賀に伝わったものを土芳が見た ことは 確かであるが、自身「書違か写の違か。可改」 と
いうように疑わしく、推敲の大筋には関わりのないもののようである。
この句の発想には晚唐の詩人杜牧の詩「早行」が密接に関係している。この詩は『古文真宝』には見えず、芭蕉が
何でこれを知ったか明らかではないが、石川丈山編の『詩仙堂図像詩』 (延宝九年刊) あたりではないかと思われる。即
ちそれ に、 「垂^鞭信/馬1£、数里未,|鶏鳴一林下帯-,残夢一葉飛0#,1驚、霜凝孤鶴,'*月1¥遠山^..^僮僕1^^ヲ
険、何時世路平」とあり、種々の前書から句にわたって詩の表現を踏まえた跡は歴然たるもので、「古人の詞を前書
になして風情をてらす」 (『三 冊子』)形になっている。これは旅中初案の段階から既にそうであって、真蹟草稿に 「杜
牧が馬鞍の吟」とあるのが「早行」の詩を指すことは、かれこれ説明するまでもない。それならこの句は天和調の時
代の引続きとして、漢詩的風韻を俳諧の中に再現するだけに終っているかというと、決してそうではなかった。俳諧
的新味を句中で端的に示しているのは、座五の r 茶のけぶり」の語である。「残夢残月」の口拍子を厭うて「残夢月
遠し」としたのも優れた感覚といえるが、それはなお古詩の風韻を生かしたにとどまる。俳諧の新しみは、どうして
も「茶のけぶり」という表現の新しみにあった。この表現に思い到った動機について、堀信夫氏は「炊煙を茶の煙と
したのは「寝覚 f さ一茶」の縁によるあしらい。「寝覚—茶 」 の連想は宋代の漢詩に多く、俳諧でも『毛吹 草 ^ き』 で
付合とされている」 (『日本古典文学全集•松尾芭蕉 集』)と見ておられる。そうした連想 過程が 芭蕉の 頭の 中になかったと i
言い切れないが、それでは宛かも「茶のけぶり」が全く架空に作り構えられたように聞えはしまいか。数次にわたる
改案の過程でも、この座五は全く動いていない。未明の家々から立ちのぼる煙は、実際には飯を炊く煙だったのかも
291 天和四年 • 貞享元年
知れないが、芭蕉はそれを「茶のけぶり」と観じたのであって、そういう事と何かを架空に作り構える こととは 違う0
句中の「茶のけぶり」は、色蕉の内面に於いて、この時真に存在したものであろう。井本農一博士が座五の表現効果
について、
読者はこの「茶の烟」の末句によって、ほのぼのとした茶の香りをすら感ずるであろう。……もちろん、家々か
ら上る煙が現実に茶の香りのするはずはないが、読者にそんな幻想をすら抱かせるのが、この句の不思議な魅力.
というものではあるまいか。 . この句の末句を、ただ家々で朝飲む茶を煮る煙だと解しては、飯を炊く煙とし
てはなぜ悪いのか、そのほうが自然ではない•か、 という 疑問が当然湧いて くるというものである。この 「茶の
烟」には、茶畑が連なり製茶の行われて いるこの 地方の特殊性が、具象的、体験的、直覚的に 詠みこまれている
のであり、そこにも俳諧を見るべきである。(『檻賞日本古典文学•芭蕉』)
と述べられたのは優れた鑑賞であった。山本健吉氏の全体にわたる左の如き観察も傾聴に値する。
『赤冊子』に伝える三段の推敲は、漢詩的なものの払拭の過程である。だが発想において、ほとんど全面的に
杜牧の詩に依拠しており、実景によるよりも、その詩句の記憶のうちに、より多く詩の動機を持っている。ある
いはまた、たとえ実景に触れたとしても、杜牧の詩の記憶なくしては、この句は生まれなかったと言ってもよい。
……その漢詩的外形が、内面化され、濾化されて、一つの俳句的結晶を得るまでの過程が、三段の詩句の変化の
うちにうかがわれるのである。だから、最後に到っても、発想の中核をなす漢詩的なものは、モチー フ として内
在しているのである。このような発想は、個性による独創を重んずる近代のわれわれには、はなはだ飽き足りな
く思われる。だがそれは、われわれには失われた歴史的意識を、芭蕉が持っていたからではあるまいか。過去の
詩人に対する関係が、個我意識の強いわれわれよりは、はるかに密接なのである。芭蕉の詩的.言語的体験は、
そのような詩心の時間的交通の上に築かれているのだ。
292
杜牧の詩にここで色蕉が加えたものは、素材的には「茶の煙」だけである。「茶の煙」だけが、馬上で覚めて
確かに認めたィメーヂなのであって、あとは古人の詩による虚の世界から導き出されたものである。その虚と実
との交錯が、彼が最初から執着した……夢ぅつつの意識状態に、 よく 照応した表現をもたらしている。「馬に寝
て」「残夢」「月遠し」「茶の煙」の、四段に途切れた句の畳み重ねは、次第に眠りから覚めて行く意識の推移で
もある。「月遠し」は、「残夢」よりも覚醒における ィメーヂ であるが、それでもまだ次第に遠ざかり、消え去っ
て行く虚の世界の残照がただよっている。彼の朦朧たる意識のなかで、月が遠いのである。「茶の煙」に到って、
はじめて実の世界に、芭蕉ははっきりと 目を 開くのである。彼は驚き、我にかえるのだ。それは「世路平か」な
現実の庶民生活の、なつかしい匂いだからである。……
漢詩的な佶屈をまだ十分脱していないとしても、この句には不思議な感銘がある。これは意識の深層において
成立した ものとは 言えないが、 ともかく 意識の重層状態に、表現の動機を持っている。杜牧の詩と実景とが、夢
と現実とが重なり合った世界である。(『芭蕉その鑑賞と批評 fc
まことに的確で鋭い批評を含む見方といえよぅ。「茶のけぶり」の俳味も勿論だが、夢と現実の接点に位置する「月
遠し」の味わいが何ともいえない。漢詩を踏まえながら佶屈に陥らず、この字余りには寧ろ舒びやかな余情が感ぜら
れる。
西行の泪の跡を尋て、ーノ華表より岩戶詣る比、日暮て道くらし
棚三十日月なし千年の杉を抱嵐 <真 瞋懐紙 写} 野ざらし紀行
秋季(月)。
293 天和四年 • 貞享元年
Egj 〇西行の泪の跡を尋て 「西行の泪の跡を尋ねて」。古代末期の歌僧西行(ニー八〜二九 Q ) は伊勢神宮に詣でて「何事のおはし
ますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼると詠じたという。この歌は古い西行の集に見えず、延宝二年板『西行法師家集』
に載るもので、その詠という確証はないが、伊勢での彼の作と伝えられて有名であった。ここでもその歌を頭に置いて、西行が涙
をこぼした遺跡として神宮の境内を「泪の跡」といったのである。「西行のなみだ、増賀の名利、みなこれまことのいたる処なり
けらし」(芭蕉発句「なにの木の」真蹟懐紙前書)「ひさにへてわが後のよをとへよまつ跡しのぶべき人もなきみぞ」(『山家集』下)「よ
しの 山 こぞのしほりのみちかへてまだみぬかたのはなをたづねん」 (『聞 書集 』) 「Atouo tasunuru . 」(『日葡辞書』)。 〇ーノ華表
「ーノ華表」。外宮の一の鳥居。富山奏博士の『芭蕉と伊勢』七〇頁所掲の「山田市中古絵図」によると、鳥居の北方にニノ鳥居
道」と書かれている。「華表」は中国では墓前の飾り柱をいうが、ここでは神社の鳥居に宛てた。訓みも「トリヰ」である。「我が
ものに手馴る鋤の心能正則石の華表の書付をよむ楚江」(『既望』) rlchi . J 「 Torij .」 (『日葡辞書』)。〇 岩戸詣る比 「器 fsfi る
比」。岩戸に参詣する頃、の意。「岩戸」の下に「に」を脱したか。「岩戸」は、富山博士の『芭蕉と伊勢』によれば、外宮の南方
の高倉山(岩戸山ともいう)にあり、大石を畳み上げた地形を天の岩戸の神話に擬した俗説による名所で、外宮に参詣した者は大
抵其処にも廻ったのであった。去来•千子•李由•許六ら蒸門の人々も参宮の折に行っている。「比」は「頃」と同じ意に用いる
字。「十四日外宮へ詣。此日猶神宝ヲ移ス。岩戸•月夜見ノ森へ詣テ帰ル」(曽良元禄二年九月日記)「外宮に詣ける時」(『真蹟集覧』
所収芭蕉発句「なにの木の」前書)「明るわか葉の比、文鱗に申つかはしける」(『あら野』卷三、荷兮発句「髭に焼」前書) 「 Mo < de , zzuru ,
eta . J 「 s§nuru coro . J (『日葡辞書』)。 〇日暮て道くらし 「日暮れて道暗し」。「よしの X 山に日くれて、梅のにほひしきりなりけ
れば」(『猿蓑』卷四、嵐 蘭 発句「夢さつて」前書)「道細く追はれぬ沢の蛍かな青江」(『あら野』卷三)「くはらくとくさびぬけたる
米車落梧挑灯過て跡闇きくれ野水」(『あら野』員外) 「 Figacururu . 」 「 Michi . 」 「 curai .」 (『日葡辞書』)。〇 三十日月なし
「三十日月無し」。「三十日」は月の末日の意。『日葡辞書』でも rMisoca . J を「月の最後の日」の意としている。この句の成った
貞享元年八月は小の月で三十日はなく、二十九日で終った。その二十九日に芭蕉は参宮したものと思われる。所謂「無月」は中秋
の名月が姿を見せない場合をいうのが普通であるが、ここは月末で月影が空にないのである。それでも月の 句と して秋季である こ
とに変りはない。「小晦日」 (7) 参照。 r げに曇なき長月や、月の晦日にとりわきて、住吉一処は影向なる」 (謡曲「大社」)「朔 日を
M もつ 鍛冶のいかめしく荷兮月なき空の門はやくあけ執筆」(『はるの日』) r zai L ( 『日葡辞書』)。〇 千年の杉を抱嵐 rp ¥i
294
の杉を抱く嵐」。「千年の杉」は多くの歳月を経た神宮境内の杉の大樹をいう。外宮の三の鳥居の外に五百枝の杉という老杉が あっ
た。「抱」を芭蕉が抱くとする説と嵐が抱くとする説とがあるが、芭蕉が抱くと見るのは、文脈上から も 内容ょり しても 所詮無理
であろう。この点は後述する。なお「抱く」と殊更字余りに訓む要はあるまい。「嵐」は、荒い風。ニー上山当麻寺に詣で ゞ 庭上の
松をみるに、凡千とせもへたるならむ、大ィサ牛をかくす共云べけむ」(『野 ざら し紀行』)「此度の薬はき、 し 秋の露野坡杉の木
末に月かたぐ也利牛」(『炭俵』下) 「 chitoxe .」 「 sugui . 」 「 Daqi . u . aita . J (『日葡辞書』)。
ia 月の末とて空には月もない。千年を経た老杉を抱いて嵐は吹きすさぶ。
■ E ■東海道をたどって伊勢に入った芭蕉は、江戸での旧知風瀑亭に滞在した。この人は神宮の御師の一家、年寄師
職松葉七郎大夫の息で、伊勢山田の大世古町に家があったという(富山博士『芭蕉と伊勢』)。江戸の出店伊勢屋を預って
おり、俳諧を嗜んだところから色蕉と相識になったが、 この 夏以来山田に帰っていたのである(「忘れず ば」 (§) の
句の条参照)。伊勢参宮はこの風瀑亭滞在中の事で、「三十日月なし」と句にあるから、八月の末日、二十九日と推定
される。『紀行』には、
松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をと V む。腰間に寸铖をおびず、襟に一囊をかけて、手に十八
の珠を携ふ。僧に似て塵有、俗に-!て髪なし。我僧にあらずといへども、髪なきものは浮屠の属にたぐへて神前
に入事をゆるさず。暮て外宮に詣侍りけるに、一の華表の陰ほのぐらく、御燈処 AZ に見えて、また上もなき峯の
松風身にしむ計、ふかき心を起して
という文章の後に「みそか月なし」の句が掲げられている。右の『紀行』成稿本系の文に対して、初稿本系では「腰
間に寸鉄」云々から「神前に入事をゆるさず」までを発句の後に廻し、 r 十日ばかり足を休るほどに、くれて外宮に
詣侍りける」(真瞋巻子本)という風に参宮の記事が始まる形である。「腰間に寸鉄をおびず」から参宮の記事が始まる
のは甚だ唐突であり、且つまた「神前に入事をゆるさず」までが外宮以外の場所で起った事のょうにも見えるので、
295 天和四年.貞享元年
巻子本の形の方が遥かに自然な行文である。芭蕉が後にどうして初掲の形に改めたのか聊か不可解ではあるが、二つ
の文案を照合すれば、これが外宮参拝の情況を述べたものであることに論はあるまい。神宮では古来法体をした仏徒
は神前に参ずることを許さず、別に設けられた僧尼拝所で遥拝する習わしで、富山博士の『芭蕉と伊勢』に掲げる
『伊勢参宮名所図会』(寛政九年五月刊)の絵によると、外宮では三の鳥居からやや離れた川岸に拝所がある。芭蕉もここ
で遥拝したのであろう。当時、法衣を脱ぎ付髪をすれば神前まで進むことが出来、山田の町には付髪を売る店もあっ.
たようであるが、色蕉は敢えてそうした便法を採らなかったのである。なお、内宮参拝の事は『紀行』に見えないが、
勿論其処にも参拝したことと思われる(内宮の僧尼拝所は五十鈴川を隔てた川岸にあった)。参拝の順路としては外
宮を先にするのが一般だったというし、外宮参拝が夜に入ってからなので日を改めての事ではあったろうが、外宮だ
けに参って内宮を拝まぬとは考えられない。
本文として掲げた真蹟懐紙の写しは、『蕉翁遺芳』に滋賀県の田中美稲氏蔵として写真が見えるもので、「甲子中
秋」と揮毫の年代が明記されている。『色蕉全図譜』の今栄蔵氏の総説には、これを天和期の書風と見て、「天和調で
揮毫したモトがあって、それを拙なく臨写したもの」とされているが、内容は信じ得るものである。その原拠となっ
た資料は『紀行』以前の染筆として珍しい上に、前書の内容が、参拝の折の情況や作句の動機について触れているの
で、参考になる点が多い。先ず、『紀行』に「一の華表の陰ほのぐらく、御燈処 AZ に見えて」云々の箇所は、発句発
想の周辺情況を示すものであるが、これに真蹟写しの前書「ーノ華表より岩戸詣る比、日暮て道くらし」の文を参照
すると、僧尼拝所で拝礼を終った後、岩戸山の方へ赴こうとした際に、一の鳥居のあたりでこの句を案じたと見られ
る。従って三の鳥居の外の五百枝の杉も「千年の杉」という表現の動因をなしてはいようが、必ずしもそれのみには
限らず、境内の老杉一般の印象も重視しなければならないであろう。更には、「西行の泪の跡を尋 て」と あるのに よ
って、芭蕉には「何事のおはしますをば」の歌からする西行への思いが当初からあって、それが「ふかく入て 神路の
296
おくを尋れば 又う へもなき峯のまつかぜ」(『西 行上人集』) の歌を踏まえた『紀行』の文章へと展開して行ったことも明
らかになる。この真蹟写しが重要な意義を持つ所以である。
この句の「抱」の主語が「嵐」なのか、或いは芭蕉自身なのかについて、古来説が分れている。色蕉が抱くとする
説は、『紀行』の素堂序に「ゆき<て山田が原の神杉を i だき、また上もなきおもひをのべ、何事のおはしますと
はしらぬ身すらもなみだ下りぬ」とあるのも影響していようが、杜哉の『色蕉翁発句集蒙引』を始め、『続色蕉俳句
研究』の幸田露伴もこの立場をとり、近くは加藤揪邨氏が「大杉を両手に抱えるようにして梢を仰ぐと」と解して、
「紀行の文からつづけてこの句を誦してみると、杉と一つにならずにはおられぬ深い感動が自ら「抱く」という表現
になったものと思われる。これを嵐が抱くととると、横から眺めている感じで句の勢いが乏しくなる」(『芭蕉全句』)と
見ておられる。しかし、「抱嵐」と続く表現を、そのように取れば「千年の杉を抱。嵐」と「抱」で一旦切らねばな
らず、甚だ不束かな措辞とならざるを得ない。それに「抱」といっても実際に樹幹を抱くわけではなく、木蔭に立ち
寄って「嵐の烈しきに杉をたのめる風情」(『蒙引 b とすれば、余り大袈裟に過ぎよう。私はやはり嵐が杉を抱くと解
し、月無き闇夜に咆哮する嵐のすさまじさを描くことによって、神域の幽邃森厳な雰囲気をあらわそうとしたものと
見たい。この句は初五を「三十日月なし」と字余りにして強く言い切ったところに力があり、天和期のわざとらしい
破調とは選を異にする。初案乃至異伝の句形がないのも、一気のひらめきで成ったことを示しているようだ。「神ぢ
山月さやかなるちかひありてあめの下をばてらすなりけり」「さやかなるわしの高ねの雲井よりかげやはらぐる月よ
みのもり」(『新古今集』巻十九' 西行)等、大神宮について月を詠むのが和歌的常套であるとすれば、無月を詠んだところ
に確かな俳意を見ることが出来る。近時は、『荘子』斉物論篇の一節、
汝知 vN 乎。汝聞人籟 I 而未/聞=地籟一汝聞=地籟.而未/聞 n 天籟 I 夫。……夫大塊噫気、其名為/風。……山林之
畏隹、大木百囲之窠穴、似:,鼻、似/口、似:,耳、……
297 天和四年 • 貞享元年
(汝之を知るか。汝人籟を聞きて未だ地籟を聞かず、汝地籟を聞きて未だ天籟を聞かざるかな。……夫れ大塊の
噫気、其の名を風と為す。……山林の畏隹するや、大木の百囲の竅 {/VO は、鼻に似、 口に 似、耳に似、…… )
とあるあたりを 踏まえ、「杉を 吹きめぐる 風の音を 地籍•天籟と聞き染めようとしている」(『完訳日本の古典.芭蕉句集』
堀信夫氏)と見る新説も出ている。
伊勢山田西行谷ュあそぶ途中の卽事
§宇洗フ女西行ならば哥よまん S 蹟草稿) 野ざらし紀行•初 S . 皮籠摺
秋季(芋)。
〇 伊勢山田西行谷 「ィセヤマダサィギヤゥダ-一」。今の三重県伊勢市宇治館町、岩井田山の西簏、宇治橋から東北方約五百
メートルの所。西行隠栖の地と伝えられ、 神 照寺という寺坊になっていた。〇 あそぶ途中の即事 芭蕉は滞在していた風瀑亭(山
田の大世古町)から西行谷へ出掛けたのであろう。その途中、五十鈴川の川岸で「芋洗フ女」の光景を目撃したのである。 「 g* u J
は、眼前その場の事を詠んだ詩歌の類をいう。「東數山にあそぶ」(『猿蓑』卷四、其角発句「小坊主や」前書)「去来京より来ル。途中
の吟とて語る」(『幢峨日記』)「庭興即事」(色蕉発句「作りなす」真蹟懐紙) 「> gQ crr-F s p . 」 「H 8 hc <. 1, tochc < ni . Michinonaca . 」
(『日葡辞書』)。〇 芋洗フ女 「芋洗フ女」。この時代は薩摩芋も馬鈴薯も普及しておらず、「芋」といえば里芋のことである。その収
穫の時期や、中秋の名月に供えるところから秋季とされる。それを洗うには、「芋を入れた大桶に水を張り、桶の縁に乗って、棒
を二本桶の中に差しこみ、両手で回転させながら、皮と毛とをそぎ落す」(『芭蕉全発句』)のだそうである。「芋洗ふ女に月は落にけ
り 言水」(『東日記』) 「 Im ? 」 「 Arai , 6,6 ta . 」(『日葡辞書』)。〇哥 よまん 「歌詠まん」〇「哥」は「歌」の略体。和歌を詠むことだ
ろう。 「 vtauoyomu , 一, yeizuru.J (『日葡辞書』)。
1*33 川岸で女たちが芋を洗っている。 もしこのさまを 西行が見たら、和歌を詠みかける ことだろう。 私は発句 だ0
298
I 『野ざらし紀行』には、「西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに」として出ている。敬愛する西
行の隠栖の地と伝えられる処を尋ねて、たまたま庶民の女たちの日常のさまを目撃し、西行が江口の遊女と歌を贈答
した故事を踏まえて興じた趣向である。西行が江口の里で時雨にあって暫しの宿りを乞うたのに、主の遊女が許さな
かったので、「世中をいとふまでこそかたからめ仮のやどりを惜む君かな」と詠んだところ、遊女が「家をいづる人
とし見れば仮のやどに心とむなと思ふばかりぞ」と返歌を詠んだという(『撰集抄』卷九)。この贈答歌は『新古今集』
卷十に夙く見え、返歌は「よをいとふ人としきけばかりの屋に心とむなと思ふばかりぞ」の形になっているが、謡曲
「江 口」 にも脚色されて有名な話であった。思いがけず「芋洗フ女」のさまを見た色蕉は、西行なら ば、 遊女に歌を
詠みかけたように、この女たちにも歌を詠みかけることだろうと興じたのである。その裏には、「俳人としての私は
発句を詠む」という気持があろう。「私が西行だった ら」 と取るのは、面白味に乏しくて良くあるまい。他には、山
本健吉氏の左の如き説がある。
……私は芋洗う女が江口の君のように歌を詠むだろう、という意に解する。西行と江口との挿話は、江口の君が
歌を詠んだことが興趣の中心であって、西行なら当り前である。だからここでも、雅やかな江口の君ならぬ野趣
のある芋洗う女が歌を詠んだら、いっそう面白いことだろうと、言ったのである。(『色 蕉全発句 t
確かに西行と江口の遊女との話では、遊女の歌が興趣の中心になっている。しかしそれは西行の歌に対する返歌とし
てなのであるから、先ず西行の方からの歌があるべきことは当然であろう。この句の興は何よりも「芋洗フ女」の野
性味を見出した点にある。それを冒頭に打ち出したわけで、初五の八音に及ぶ字余りは、句全体の主語とか呼び掛け
であるよりも、寧ろ句の中心を最初に提示したものと見た方が相応しい。その対象に対して、西行ならば歌を詠むだ
ろう。私は俳人だから発句を詠む、としたところに興じた俳意を見せているのだと思う。『紀行』の素堂序に「西行
谷のほとりにていも洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば答にもあらぬぞ口をしき」とあるように、西行の場
299 天和四年 • 貞享元年
合とちがって、遊女ならぬ「芋洗フ女」は返しもしないというのも、今一つの興であろう。『紀行』初稿巻子本巻末
に付載する旅中酬和の句の中に、
い勢やまだにて、いも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎやうならば秋暮 雷枝
ばせをとこたふ風の破がさ 蕉
とある付合は、謂わば「芋洗フ女」に代って雷枝が答句を詠み、西行と遊女との場面を再演しているのだ。「さいぎ
やうならば」と芭蕉の発句の詞を奪って遊女とは逆に「宿まいらせむ」といい、それに対して「(西行ならぬ)ばせ
をとこたふ」と E 蕉が付けているのも面白い。この外、『はるの日』 (貞享 三 年刊) の巻頭、春めくやの歌仙にも、
朝熊おる k 出家ぼく-^ 雨桐
ほと\ぎす西行ならば哥ょまん 荷兮
という芭蕉の発句の表現を摸した付句が見える。「聞ずともこ、をせにせん郭公山田の原の杉の村立」(『新古今集』卷三)
の西行歌を踏まえて、前句の出家が西行だったら、折柄のほととぎすの声に歌を詠むだろうと付けたのである。即興
吟ながら、「芋洗フ女」の句が門人達の興味を惹いた模様が窺われる。
過し比難波律の翁此處に立寄て、眞葛の一葉に老の恨を殘す筆の、露とふり雪
と消て、又生替る秋草花にねぶれる蝶の俤夢に會つて
蘭の香や蝶の翅にたき物す(真蹟句切)
野ざらし紀行•笈日記•三冊子.蕉翁句集草
稿.色蕉翁真跡集
秋季(蘭)。
300
I 〇 過し比 「 I ぎし比」。過去に属する或る時。「比」の字には、時期を示す意がある。以下に見える西山宗因の伊勢山田訪問
は、「霜」を季語とするその発句からして冬のことかと思われるが、冬に宗因が伊勢を訪れたことは今のところ知られていない。
富山奏博士は延宝七年八月か同元年九月をこれに擬しておられ(『俳句に見る芭蕉の藝境』)、万治四(一六六一)年一月、子息宗春と共に
大神宮に詣でて、法楽の連歌両吟百韻を興行した時かとも考えられる(潁原博士『俳諧史の研究』所収「西山宗因年譜」参照)。
延宝七年には内宮長官氏富興行の宗因作の連歌『延宝千句』があるようであるが、この時では貞享初年に近過ぎて、この発句を贈
った蝶女の先代の時の話というのと合わないのではあるまいか。「はじめて過ぬるかたのあやまれる事はしらるなれ」(『徒然草』四
十九段) 「さいつ 比 田野へ居をうつして」(『あら野』員外、 素堂 発句 「麦を わすれ」前書) 「 sugui , uru , ita .」 (『日葡辞書』)。〇難波津の
翁 「難波律の翁」。談林風俳諧の棟梁西山宗因(一六0五'六八一一)を指す。宗因は大坂天満宮連歌所の宗匠を長く勤めた。「難波津」は
即ち大坂を指す。「なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこの花」(『古今集』仮名序)「あるは宮守の翁' 里の
おのこ共入来りて」(「幻住庵記匕「<0{5 5- ?」(『日葡辞書』)。0此処に立寄て 「此処に立ち寄りて」。「此処」 は、 貞享元年秋当時芭
蕉の立寄った山田の茶店を指す。其処に嘗て宗因も訪れたことがあるというのである。「此境はひわ.たるほど、いへるも、こ k の
事にや」 (『猿 蓑』卷二、 e 蕉発句「かたつぶ り」 前書)「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」(『おくの ほそ 道』) 「 coco . J 「 Tachiyori ,
ru , otta . 」(『日 葡辞 S )。 〇真葛の I 葉に老の恨を残す筆の 「真葛の一葉に老いの恨みを残す筆の」。「真葛の一葉に老の恨を残
す」というのは、この茶店で宗因が詠んだ発句「葛の葉のおつるのうらみ夜の霜」を指す。この句は、夜の霜に葛の葉が落ちる恨
みを表に立てた趣向であるが、「落つる」に句を請うた茶屋の女「お鶴」の名を掛け、子を思う親の情をいう諺「焼野の雉子夜の
鶴」を響かせている。また、葛の葉が風に翻って裏を見せる趣から「恨み J f 裏見)に言い掛けることは昔から行われ、「恋しくば
たづね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という狐の化した信太妻の伝説を思わせるところもある。そうした言葉の綾を
詮にした句である。「残す」は、「恨を残す」「残す筆」と上下両方にかかる。「筆」は、その句を書いた宗因の筆蹟をいう。「筆の」
といって下に続く文脈が聊かはっきりしないが、一応「の」は主格として、「ふり」「消て」「生替る」へかかって行くものと見て
おく。「あふも心のさはぐ恋風蟬吟恨あれば真葛がはらり露泪一笑」(「貞徳翁十二回忌追善俳諧 t 「うぐひすや竹の子藪に老を
鳴芭蕉」(『炭«』上)「山人の花の木蔭に休むけしきを残し置きたる筆の跡」(謡曲「飛雲」) 「 Macuzu . 」 「 VOL 」 「 V 3 mi . 」
「 Nocoxi , su , Oita . J (『日葡辞書』)。 〇 露とふリ雪と消て 「露と降り雪と消えて」。「露と」「雪と」の 「と」 は譬喩をあらわす言い
301 天和四年.貞享元年
方。「露の如く降り、雪の如く消える」のである。これは星霜を経るうちに宗因の筆蹟が失われたことをいうようにも見えるが、
恐らくそうではなく、茶屋の先代の妻「お鶴」がなくなったことを意味しているようである。その方が次の「又生替る秋草花にね
ぶれる蝶」という表現にしっくり続いて行く。「何を見るにも露ばかり也野水花とちる身は西念が衣着て芭蕉」(『猿蓑』卷
五)「た ゞ 世の常の雪氷は、一夜の間にも年越ゆれば、春立つ風には消ゆるものを」(謡曲「氷室」) 「 Qiye , uru , eta . 」(『日葡辞書』〇
〇又 生替る秋草花にねぶれる蝶の俤 「又生ひ替る秋草花に眠れる蝶の俤」。「生替る」は、一旦枯れた草木の類が新たに生えて来
る意。「秋草花」は、菊花を意味することがあり、また「アキノ クサ バナ」とも訓める。ここは菊と限らず、秋になって咲く草の
花の意であろう。この蝶は春から秋まで生き残ったものである。 r 俤」は、現実の存在でなく、夢のように、あるかの如く思い描
かれるものをいう。「ひさしくもおもほえねども住 41 口の松やふた\びおひかはるらん」(『拾遺集』卷十二、忠房女)「雲の林の夕日影、
うつろふ方は秋草の花紫の野を分けて」(謡曲「夕顔」)「雨のやどりの無常迅速野水昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ芭蕉」
(『猿蓑』卷五)「三上山は士峰の俤にかよひて、武蔵野 ゞ 古き洒もお屯ひ.1'.^られ」(「幻住庵記」)「<0111€^§116.」(『日葡辞書』)。〇
夢に会つて 「夢に会つて」。蝶の姿を夢に見たことをいう。「つ」は底本「律」の草体の仮名を用いている。促音便の表記にこ
のような書き方をするのは珍しい。「我は冥途に帰りなば、いつ又夢に^;あふべき」(謡曲「水無瀬」) 「 Ai , 6,6 ta .」 (『日葡辞書』)。
〇 蘭の香 「蘭の香」。「蘭」は、蘭科の植物の総称。種類が非常に多く、世界中で約二万種、日本では約二百種が知られている。
一般に球茎から細い葉を出し、花は三枚の花弁のうち両側は同型で、中央のものが唇弁となっている。美しい花を観賞し、優雅で
高い香りを愛でる。「らに蘭の事也。らんといふよみを、かんなにはかくのごとく書也。!!をぼにと書、! f 牛子をけにごしと書
類なり」(『御傘』)「蘭らにふぢばかましらんはくらんかほる.…:芝蘭を。ひのはかまかとうたがひ。……かほりをめづるには。をばな
が袖香炉。かちやう草のかけかうなどもいひ。蘭奢待をもそへていひ侍る」(『山之井』)「蘭の香は宮女のむすび河葱哉才麿」(『題
林一句』) 「 Ranguicu . Araraguiqicu . 」 「 ca . C 6 baxij ;( 『日葡辞書』)。〇 蝶の翅 「蝶の翅 JO 「蝶の羽」というに同じ。「とまりて
も翅は動く胡蝶かな柳梅」 (『続 猿蓑』下) 「 Tgubasa .」 (『日葡辞書』)。〇 たき物す 「,你す」。沈•白檀•丁字等の香を練り合わ
せた香を衣裳に薫き染めること。「にほひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳に薰物すとしりながら、えならぬにほひには、
必こ ゞ ろどきめきする物也」(『徒然草』八段) 「 YX 6 nitaqimonouotomuru . J (『日葡辞書』)。
1303蘭の花が馥郁と薫っている。それにとまっている蝶のつばさに、香を薰き染めているかの よう だ。
302
BB 『色蕉翁真跡集』(桃鏡編、明和元年寥太序)所収の懐紙には「てふと云ける女、あが名に発句せよと云て白ききぬ出
しけるに書付はベる」と前書があり、『笈日記』は「美人図」と題している。『野ざらし紀行』には、前の西行谷の句
の次に、「其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな、あが名に発句せよと云て、白ききぬ出しけ
るに書付侍る」としてこの句があり、富山博士によれば、これは外宮参拝とは別の日、内宮参拝の折に西行谷を尋ね、
其処から宿所たる大世古立町の風瀑亭へ帰る途次、古市街道に軒を並べた参宮客相手の色茶屋に立寄ったのであろう
という(『俳句に見る芭蕉の藝境』)。土芳の『三冊子』にはこの時の情況が更にくわしく次のように描かれている。
此句は或茶店の片はらに、道やすらひしてた、ずみ有しを、老翁を見しり侍るにや、内に請じて、家女料紙もち
出て句を願ふ。その女のいはく、我は此家の遊女なりしを、今は主の妻となし侍る也。先の主もつるといふ遊女
を妻とし、その頃難波の宗因此処にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例おかしき事までいひ出て、
頻りにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句に、葛の葉のおつるのうらみ夜の霜とかいふ句を前
書にして、此句遣し侍るとの物語也。その名を蝶といへば、かく云ひ侍ると也。老人の例に任せて書捨たり。さ
の事も侍らざればなしがたき事也といへり。(赤雙紙)
深川に移って俳諧隠者になった後の芭蕉が色茶屋に立寄るのは珍しいことである。右の記事では偶然その茶屋に呼び
入れられたように書かれているが、前記の富山博士の著によると、事情は聊かちがっていたのではないかという。芭
蕉は山田に来て、茶屋の先代の妻女つると宗因との話を聞き、宗因の書きのこした物を見せて貰うつもりでその家を
訪れて、 自ら も句を作る仕儀になったのではないかと推測しておられるのである。そうした事情でもなければ、芭蕉
が色茶屋の近くを徘徊する答もないし、茶屋の妻女が芭蕉をそれと見分けられるわけもない。恐らくそのようなこと
でこの句を作る縁が蝶女との間に生じたのであろう。ともあれ、この時色蕉が書き与えたとおぼしい真蹟が、今富山
博士の許に蔵せられる(『色蕉と伊勢』口絵写真参照)。梔子色の藤纈染の絹布縦二十六、三センチ、横十七、七セン
303 天和四年 • 貞享元年
チのものに書かれており、「白ききぬ」や「料紙」とはちがうが、確かに宗因の句の事に触れた前書と共に「蘭の香
や」の句を書いているのであった。
「老人の例に任せて書捨たり」(『三冊子』)と芭蕉は土芳に語ったというが、宗因の例に倣ったのは茶店の妻女の名を
句中に詠み込むことだけではない。宗因の句は〔語釈〕の条に記したようにかなり技巧的な作であるが、山本健吉氏
が指摘された如く、何を言おうと意図したのか聊か分りにくい。同氏は「おつるのうらみ」というのを、遊女の境涯
を強いられたつる女の自分の宿命への恨みと見た上で、左のように述べておられる。
……宗因の句には、おつるの過去を思わせる一抹の艶麗さがただよう。色蕉もその行き方に做って、この句を作
った。だが、相手の過去をそのような翳りとして描かず、もっぱら艶と品とを主として描いた。これは表面は、
蘭に秋の蝶がとまっている景色である。それを、蘭の芳香を蝶が翅に炷きしめているように言い取った。これま
では、花から花へ飛びまわった蝶であるが、今はふくよかな蘭の香の中に、じっと翅をたたんで休んでいる。そ
の蝶の姿が、言わば現在の女主人の象徴だというのだ。蘭は竹.梅•菊とともに、その気品を賞せられて、四君
子という。蘭の香を翅に炷物するとは、まことに艷麗なィメージではあるが、同時に気品のただようのを見落し
てはならない。宗因の句の「恨み」には、相手の過去をやや軽んじた態度が見えるが、色蕉の句の気品には、相
手の境涯へのいたわりが見える。(『芭蕉全発句』>
この句の趣向内容をよく徹視した所説といえよう。露伴が「六朝風の詩の趣き」(『続々芭蕉俳句研究』)といったのも、
その艷麗娥細な境地を見据えたからに外ならない。確かに芭蕉には珍しい傾向の作ではあるが、もとよりこうした一
面も彼にはあって、蕪村も及ばぬような手腕を発揮することがあるのだ。なお「たき物す」の表現は、白楽天「太行
路」の一節「為 X 君薫 n 衣裳 I 」 ( 君が為に衣裳に薫す)が頭にあったかも知れない。
序でに言う。芭蕉が土芳にこの発句にまつわる出来事を語ったのは、この直ぐ後の帰郷の際の事ではない。後述す
304
るように、土芳は芭蕉の在伊賀時代からの馴染みであったが、二十年も引別れていて、改めて面晤して師弟の縁を結
んだのは、貞享二年春近江の水口に於いてであった。この入門の際の話題に蝶女の事が出たのか、或いはそれ以後芭
蕉の帰郷時の談話であったかについて、徴すべき資料はない。
脱蔦植て竹四五本のあらし哉(野 ざらし紀行) 晉記•ちから竹
秋季(蔦)。
tael 〇蔦植て 「蔦植袅て」。「蔦」は木や壁に絡んで這い伸びる植物であるが、「値て」といっても、植える動作ではなく、植え
てある状態をこのように表現したものと見られる。「蔦」が秋季とされるのは、紅葉を賞する錦蔦があるのに依る。 「 B ^ g ら秋也。
……つたは常に 有 物なれども秌になるは、紅葉の見事なる故也」(『御傘』)「どことなく地にはふ蔦の哀也越 水」 (『あら 野』卷四)
「 Touta . 」(『日葡辞書』)。
S 1 蔦が程よく物に這いかかり、四五本のわずかな竹群に蕭々と風が吹き当っている。侘びた、趣の ある お住居で
すな。
『野ざらし紀行』伊勢の条の終りに「閑人の茅舎をとひて」として見え、 『 S 日記』伊勢部には「庐牧亭」と前
書している。また、『ちから竹』(乙児撰、 宝 暦 土一 年刊)には画賛の摸刻を所収。『紀行』の「閑人」は即ち盧牧 という 俳
人と思われるが、この人は其角の『枯尾花』上巻に芭蕉の四七日忌に当って「せめてその笠みて行んあられ 笠」とい
う追悼句が見える。姓氏経歴等は明らかでなく、恐らくは清閑の隠者だったのであろう。
この句はその人を訪ねた時の挨拶句であって、庭のたたずまいを唯平淡に叙したに過ぎない。句面にある 蔦と竹は、
それぞれ別にある ものと 見るのが普通の解釈のようであるが、
305 天和四年 • 貞享元年
蔦を植袅て竹へ纏はしつけてある、其の竹四五本で、それに嵐がさや^^と渡つて動かしてゐるといふ景色であ
る。竹四五本は矢張り根のある藪竹で、それに蔦が纏つてゐるのであらぅ。(内藤鳴雪 『 e 蕉俳句評釈』)
此の竹は植わつてゐる竹では無い。庭へ植袅たばかりの蔦の添へ手として挿した細竹である。それが四五本嵐に
吹かれてゐるところだ。……蔦の力無いところへ、竹も弱弱としてゐる、そこへ風が吹いてゐる。おもしろい景
色の句である。この竹には葉は無いのだ。(幸田露伴『芭蕉俳句研究 fc
右の如く、蔦を竹に絡めてあると見る説もある。これは何れにも取れて、卒かにどちらと決めるわけにも行かないが、
ただ確かなことは、あらしは竹だけに吹いているのではなく、蔦をも動かしていることであろぅ。「竹四五本のあら
し」を強調する見方もあるが、それは冒頭の「蔦」を撥無するものであつてはなるまい。何れにせよ、閑庭を飾るも
のとして蔦と竹を取り上げ、それによつて簡素なたたずまいを描いて、其処に住む主の侘びを愛する生活ぶりを思わ
せている。余計な物は一切省いて、句中にあるのは二つだけ、それを「あらし」で集約したところ、短詩型表現の典
型であり、写生風な味わいもある。後の『笈の小文』に見える「いも植て門は葎のわか葉哉」を思わせる句作りで、
これまた伊勢での作であるのも面白い。
守榮院
脱門に入ればそてつに蘭のにほひ哉—記) Is —.—
秋季(蘭)。
1〇守栄院「シユ H ィヰン J 。 『芭蕉句選年考』の頭注に、「伊勢山田棒の小路と云ふ所に有り。寺は浄土宗にて、名高き蘇鉄
あり。此所のならはせにて小路と云をセコとよむなり」と見える。現在の伊勢市浦口町山名にあつた浄土宗の尼寺で、明治十三年
306
に廃されたという。『笈日記』伊勢部にあるところからしても、『一葉集』に「敦賀守栄院」と前書するのは誤りと見る外ない。〇
門に入れば 「門に A 1 れば」。「門」は寺の山門を指すので、「ヵド」と訓むよりは「モン」と音読した方が相応しい。「町衆のつら
りと酔て花の 陰野坡 門で押る、壬生の念仏色蕉」(『炭俵』上) 「 Mon . Cado.J (『日葡辞書』)。〇 そてつ 「―紙」。蘇鉄科の常
緑灌木。九州南部、沖縄から中国南部にかけて自生し、観賞用に栽培されることも多い。高さ約三メ —トル、里福色の太い円柱状
の幹に、葉の落ちた跡が密に存する。葉はニメ —トルにも達する大形の羽状複葉で、茎頂に群がつて生える。樹勢が弱つた時、鉄
分を竽える と 蘇えるところから出た名といわれ、異国風な感じの強い樹である。仏寺には相応しく、さきに引いた 『句 選 年考 』 m
注に見えるように、守栄院には有名な蘇鉄があつた。「梭櫚竹^ I 壹町ほどあり、妙国寺のより見事なる, g 三本と、五十三になら
る k おふくろ一人あり」(『好色万金丹』巻ーノー) 「 sotet .」 (『日葡辞書』)。〇 蘭のにほひ 「蘭の!?ひ」。蘭も異国風の趣のものであ
る。「日本では舂蘭を主とし、秋蘭はシナ蘭である0……もちろんこの蘭は……香りの高いシナ蘭とすべきである」(山本 健吉氏『芭
蕉全発句』)。なお (§) 参照。「よしの >,山に日くれて、梅のにほひしきりなりければ」(『猿蓑』卷四、嵐蘭発句「夢さつて」前書)
「 Miuoi .」 (『日葡辞書』)。
山門に入ると蘇鉄が眼に入り蘭の句いも駿郁と漂う。まるで蘇鉄に蘭の句いがあるようだなあ。まことにゆ
かしい御寺である。
■ I 『蕉翁句集』に「或寺にて」と前書がある。『笈日記』伊勢部に「貞享の間なるべし。此国に抖擻ありし時」と
して紹介する十余句の中にあり、前後には貞享五年春に滞在した折の作が多い。『蕉翁句集』が元禄二年としている
ところから、それに従う向きが多いが、それでは「貞享の間」ではなくなつてしまう。『发日記』の所伝はやはり尊
重すべきであつて、ここに収められた句の中には「蔦植て」( I )の句もあるのだから、当面の句も貞享元年秋の訪問
の時の作と見て何等差障りはない。
門内に入ると有名な蘇鉄の樹が先ず眼にとまる。蘭は恐らくその近くにあつて馥郁と匂つていたのであろう。それ
を宛かも蘇鉄が蘭の芳香を放つかのように言い做したのが表現の興で、異国風な植物を採り上げて寺浣の S を賞した
307 天和四年 • 貞享元年
挨拶 句と 思われる。『泊船集』に中七を「蘭に蘇鉄の」 と 両者を逆にしたのは、例の杜撰である。
i 95 手に とら ば消んなみだぞあつき秋の霜 <野ざら し紀行)
秋季(秋の霜)。
I 〇 手にとらば消ん 「#"に取らば消えん」。〇 なみだぞあつき 「涙ぞ熱き」。悲しみの情を強調して「あつき」といった。「親
の追善に/寒き闩も辦き M が袂かな昌意」(『毛吹草』巻六) 「 Atu .」 (『日葡辞書』)。〇 秋の霜 母の遺髪を譬えた。 〔考〕 参照。
「秋の」は単に季節を定める働きばかりではなく、消えやすい霜のはかなさを更に強調している。また「秋の霜」としたのに は、
「白髪三千丈」で名高い李白の「秋浦歌」其十五の結句「不/知明鏡裏、何処得-一秋霜こ(知らず明鏡の裏、何れの処よりか秋霜を
得たる)の影響があろう。いうまでもなく李白の「秋霜」も白髪の譬喩である。「白菊や素顔で見むを秋の霜(野水ご(『あら野』
卷六)❶
1 a 秋の霜のような母の遺髪を手に取ったら消えてしまうだろう。たぎり落ちる我が悲しみの涙は、それ程にも熱
' 〇
3 この 句、『紀行』には、伊勢の記事に続けて、
長月の初古郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く眉雛寄
て、唯、命有てとのみ云て言葉はなきに、 この かみの守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、
汝が まゆ もや\老たりと、しばらくなきて
という 文の次に収められている。土芳の『蕉翁全伝』貞享元年の条には「九月八日ノ夜尾張ノ駅ョリ此所 - I 移、四五
日ノ 間」 とあって、「尾張ノ駅 ョリ」 が聊か不審であるが、八日と いう 日付には何か根拠があったのであろう。この
308
伊賀入りは延宝四年夏の帰郷以来九年ぶりのことで、芭蕉の母は前の年天和三年の六月二十日に歿していた(伊賀上
野愛染院過去帳参照)。芭蕉は折柄焼け出されの身で、草庵も再建されていない苦境にあったから、勿論死目には会
えなかった。野ざらしの旅の目的の一つには、久しぶりに故郷を訪ねて、亡母の霊前に回向したい希望があったもの
と思われる。『全伝』を信ずれば、九月八日の夜家兄松尾半左衛門の家に着いて早速霊前に額ずいた際に、兄から母
の遺髪を見せられたのであろう。二十九の春故郷を離れてからは一回帰郷しただけで、終に死水も取れなかった母へ
の思いが、奔流のように迸ったのがこの句である。
句作りはかなり特殊であって、先ず「手にとらば消ん」と八音もの字余りにしたのは、激情の迸りをそのままぶつ
けたような趣がある。「手にとらば」の目的語は下五の「秋の霜」で、〔語釈〕に記した如く白い遺髪の譬喩になって
おり、その間に「なみだぞあつき」という挿入句が置かれている。一見「あつき」が「秋の霜」の形容のようにも見
えるけれど、霜が熱いわけはないから、ここは当然「ぞ」の結びと見るべく、間に挿入された独立句なのである。こ
ういう句作り自体、この時の芭蕉のどうにも整理しようのない複雑な心理状態をあらわしているといえよう。天和期
の作「藻にすだく白魚やとらば消ぬべき」 ( g ) は、小やかで清らかな生き物のあえかな美しさをよくあらわし得てい
たが、白髪の譬喩である「秋の霜」を「手にとらば消ん」というのは、はかなさの表現であり、また、はかなさ故の
悲しみの表現でもある。激情に流されて表現不足が目立ち、読む者の胸に沁み通る感銘に乏しいという評もあるが、
こう見て来ると錯落とした文脈の間にも、表現すべきものはかなり的確にあらわされていて、そう上すべりな身ぶり
ばかりとは言えないと思う。
309 天和四年 • 貞享元年
大和の國竹內と云處に日比と V まり侍るに、其里の長也ける人、朝夕問來て旅
の愁を慰けらし。誠その人は尋常にあらず。心は高きに遊んで、身は! g 堯雉兎
の交をなし、自鋤を荷て淵明が園に分入、牛を引ては箕山の隱士を伴ふ。且其
職を勤て職に倦ず、家は貧しきを悅てまどしきに似たり。唯是市中に閑を偸て
閑を得たらん人は此長ならん
挪綿弓や琵琶に慰む竹のおく (真瞋懐 S 野ざらし紀行.初 梅. 夏炉■路.句仁名尽集
秋季(綿弓)。
11 〇大和の国竹内と云処「大和の国竹内と云ふ処 J 。 今の奈良県北葛城郡当麻町大字1内。’竹内峠の東方、竹内街道に沿う。
野ざらしの旅に江戸から同行した苗村千里の故郷である。〇日比と' ゞ まリ侍るに「日比留まり侍るに」。竹内村に数日滞在したこ
とをいう。『野ざらし紀行』にも伊賀の上野での「手にとらば消ん」の句の次に、「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は
彼ちりが旧里なれば、日ごろと V まりて足を休む」と同様の表現が見える。上野滞在が九月八日以降四五日間とすれば、竹内村に
居たのは九月中旬の数日だった害である。 「 Figoro . 」 「 Todomari , u . atta . J (『日葡辞書』)。〇其里の長也ける人「其の里の長也
ける人」。竹内村の長(庄屋)だった人。この句文を紹介した『句仁名尽集』(青良撰、文政二年刊)には、「大和国当麻寺ょり六丁
先、竹の内といふ宿長の末葉、今油屋喜衛門所持蕉翁真跡の一軸、予その家に至り、書写を爱にあらはす」として紹介しており、
これに先立つ鳥酔の『夏炉一路』(宝暦七年刊)にも、竹内村に芭蕉の真蹟が遺っていた由が見える。この村の庄屋は代々油屋宜 E 右
衛門と称していたらしく、その家にこの真蹟懐紙が伝蔵されていたのである。「この里の長の母の、八十まで生て今は重き病にて
死んずるに」(『春雨物語』二世の縁) 「 Sato . J 「 vosa . i , votona . J (『日葡辞書』)。〇朝夕問来て「朝夕問ひ来て」。朝に夕に芭蕉を
訪ねて来て。「問ふ」は訪問の意である。「あさゆふ御かほをうつさせ給ひし御かがみを見るにも」(『小伏見物語』下)「草庵の留主
をとひて」(『猿蓑』卷一、其角発句「衰老は」前書) 「 AsayQ . J 「 Toi , 6, 6 ta . 」(『日葡辞書』)。〇旅の愁を慰けらし「旅の愁ひを慰め
310
けらし」。「旅の愁」は、旅先でのわびしい思いをいう。「慾」は「ゥレへ」と訓んでもょい。漢語「旅愁」を訓読した語であろう。
「けらし」は既出 (/Z2 )。 「けり」と殆んど同じであるが、推量の助動詞を添えて婉曲に表現したもの。「伊駒気づかふ綿とりの雨
沾圃うき旅は鵑とつれ立渡り鳥里圃」(『続猿蓑』上)「比目の枕の上には波を隔つる愁あり」(謡曲 r 砧 t 「旅懐の心うくて物お
もひするにやと推量し、我をなぐさめんとす」(『更科紀行』) 「 Tabinovomoiuonagusamuru . 」 「 vreiuomoyouosu .」 (『日葡辞書』)。
◦誠その人は尋常にあらず 「誠」は副詞。「実」の宛字で、「まことに」といっても同じ。「尋常にあらず」は、並み一通りの人で
はない、の意。「その人」は、いうまでもなく「里の長」を指す。「誠隠閑潷の中まで世のありさまのがれがたく」(三月十二日付岸
本八郎兵衛宛芭蕉書簡) 「 Macotoni .」「 Iino ; ni .」 (『日葡辞書, I )。〇 身は海 W 雉兎の交をなし 「身は!8堯雉兎の交はりを為し」。「身」
は前の「心」に対していう。「形ある存在」の意。「芻堯」は、草刈りと木こり。「雉兎」は、雉子や兎をとらえる狩人。何れも
『孟子』に見える古語である。その「交」とは、草刈り、木こり、狩人等の庶民と交流があることをいう。「人跡稀に雉兎费堯の往
かふ道そこともわかず」(『おくのほそ道』)「貧交/まじはりは紙子の切を_りけり丈卿」(『猿蓑』卷一)「2:£;.£-32.110£'8<5113.」
(『日葡辞書 t 。 〇自鋤を荷て淵明が園に分入 「自ら鋤を荷ひて淵明が園に;! A 1 り」。「鋤」は、地を掘る為の農具。広い鉄の刃に真
直ぐな柄が付いている。「自」といったところには、鋤をかついで農作業などしなくてもょい身分なのに自らそれに従事するとい
う気分が感ぜられる。「淵明」は、中国晋代の隠逸詩人陶淵明のこと。ここは隠者の代表として、里長の農地を「淵明が園」に見
立てた。淵明には「帰, 一 園田居一」(園田の居に帰る)と題した詩があり、有名な r 帰去来辞」も「帰去来兮、田園将ド廉胡不/帰」
(帰りなんいざ。田園将に蕪せんとす。胡んぞ帰らざる)と始まる。ここの表現は、「帰園田居」其三の一節「晨興 P 一荒穢*^月
荷 X 鋤帰」(晨に興きて荒穢を埋め、月を帯び锄を荷ひて帰る)を踏まえた。「たま'^心まめなる時は、谷の清水を汲て自ら炊ぐ」
(「幻住庵記 J ) 「おもしろき萩す ゞ きなどをう * て見る程に、ながびつもたる者、すきなどひきさげて、ただほりにほりていぬるこ
そ、わびしうねたけれ」(『枕草子』九十五段) r 花は淵香は大海ぞ菌の菊宗房」(『毛吹草』卷六) r 梅が香や分入里は牛の角加賀句空」
(『猿蓑』卷四) rMizzucara . J「suqide foru , l , foricayesu . 」 「 Mnai , 6,6 ta . J 「 sono . 」 「 vaqeiri , ru , itta ^
を引ては箕山の隠士を伴 ふ「牛を引いては箕山の隠士を伴なふ」。「箕山」は、中国河南省登封県の東南にある山。許由 • mtl .{二
人の隠士が棲んだ処と伝えられる。許由は尭から天下を譲ろうといわれ、耳が汚れたとして潁川で耳を洗ったが、そこへ牛を引い
て来た巣父が、水が汚れたと言って牛に飲ませずに引き返したという故事に基づく。「伴ふ」は、文字通り伴侶とする意に用いた。
311 天和四年 • 貞享元年
箕山の隠士巣父のような心掛けで牛を引いて暮しているというのである。「牛」は農作業に使役するもの。「馬はぬれ牛は夕日の村
しぐれ杜国」(『はるの 日』) 「爰に等栽と云古き隠士有」(『おくのほそ道』)「日既に山の端にか X れば、夜座静に月を待ては影を伴
ひ」(「幻住庵記 」) 「vxif iqi . 」 「 Tomonai , 6 o<ta . Fitoua tada vareni fitoxij fitouo tomonauo « cotogia . 」(『日葡辞書』)。〇且
其職を勤て職に倦ず 「且つ k の職を » めて職に倦まず」。「且」は、一方では、その上に。農作業等の外に、の意。「其職」は、竹
内村の庄屋としての職務をいう。庄屋の職を倦むことなく勤めるのである。なお、「職」の字が真蹟では「織」と読める字体にな ■
っている。「深からねばすごからず。かつ味なうして人にあかる》なし」(支考「今宵賦」—『続猿蓑』上)「大なる職をも辞し、利を
もすつるは、た ゞ 学問の力也」(『徒然草』百三十段)「或人、任大臣の節会の内弁をつとめられけるに」(『徒然草』百一段)「ある時は
倦て放擺せん事をおもひ」(『笈の小文』) 「 catcu . 1, cat - oclua .」「 xocu . 」 「 Yacuuot - Outomuru .」「 Gacumonnivmucotonacare .」
(『日葡辞書』)。〇 家は貧しきを悦てまどしきに似たり 「家は貧しきを悦びて貧しきに似たり」。その家庭は質素を悦んで、貧しく
見えるような様子である、の意であろう。「まどし き」 の仮名書きに準じて、上の「貧しき」も「貧しき」と訓みたい。言おうと
する趣旨は分るが、聊か独り合点な文章である。「家にあり、人にまじはるとも、後世をねがはんにかたかるべきかは」(『徒然草』
五十八段)「漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行」(『おくのほそ道』)「みやこのちかづくを、よろこびつ X
のぼる」(『土 佐 日記』) 「 lye . 」 「 Madoxij . 」 「 Yorocobi , bu , C6da. 」 (『日葡辞書』)。〇唯是「夕 .、、コレ」。 この人が唯一それである
と以下の事を強調する言い方。漢文訓読調である。「唯これ天にして、汝が性のつたなき〔を〕なけ」(『野ざらし紀行』)。〇 市中に
閑を偸て閑を得たらん人 「市^?に獻を^みて閑を得たらん人」。所謂「大隠は朝市に隠る」で、真に偉い隠者は山林などに隠遁せ
ず、市中で民衆と共に生活し、しかもその間にちゃんと閑かな境涯を偸み来ってそれを獲得する。そのような人、という意。「得
たらん人」は「得たる人」と同じで、推量の助動詞を用いて婉曲化する語法である。「長嘯隠士の日、客ハ半日の閑を得れバ、あ
るじハ半日の閑をうしなふと」(『嵯峨日記』)「焼物に組合たる富田紛桃隣隙を盗んで今日もねてくる利牛」(『炭俵』下)
「 Nusumi , u , ada . J 「 Ye , yuru , yeta . 」(『日葡辞書』)。〇此 長ならん 「此の長ならん」。この里長であろう。〇 綿弓 「ヮタユミ」。
成熟した綿の実は裂けて毛状繊維を吹き出すが、その実を摘んで綿繰車にかけて綿と種とを分け、その繰り綿を更に綿弓で打って
不純物を去り、柔らかな綿を得るのである。その弓は牛または鯨の筋を弦に張った小形の竹弓。綿取りに関わるものとして秋季に
なる。綿毛をからんではね上げるのにピンピンと音がするのだそうである。〇 琵琶に慰む 「琵琶に慰む」。琵琶の音として慰む、
312
の意。綿弓の音を琵琶の音に聞きなすというのである。「慰む」は四段活用。誰が r 慰む」のかといえば、前書に書かれた 竹内村
の里長である。『野ざら し 紀行』の扱い方が異なることについては〔考〕の条で述べる。「琵琶」は、西域から 中国を経て日本に渡
来した四絃または五絃の絃楽器。隠者の愛する楽器の一である。「ヵタ ハラーー 琴•琵琶 ヲノ^^ 一 張ヲタッ」(『方丈記』)「人に ほい
なくおもはせて、わが心をなぐさまん事、徳にそむけり」(『徒然草』百三十段) rBiuauotanzuru - 一, fiqu . 」 「 zagusami , u , 6 da . 」
{『日葡辞書 J 1)。 〇竹のおく「竹の奥」。竹藪の奥。里長の閑居をいう。恐らく「他|*1?1_*3の地名を利かせているのであろう。「庭興/
梅が香や砂利しき流す谷の奥土芳」(『猿蓑』卷四)。
Baja 竹藪の奥の閑居で、この里長は綿弓の音を琵琶と聞きなして慰んでいる。
■ E ■この句は『野ざらし紀行』に収められていることによって、貞享元年九月大和の竹内村で成ったことは疑いな
い。但し『紀行』では「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼ちりが旧里なれば、日ごろと V まりて足を
休む」という文の後にこの句を出してあり、その初稿たる真蹟巻子本.『泊船集』本•孤屋本等には「足を休む」の
次に「やぶよりおくに家有」という前書まで付けている。『紀行』では千里の家に対する挨拶句と見える扱いになっ
ているので、句意は「綿弓の鳴る音を琵琶と聞きなして竹藪の奥に閑居する千里の生活は羨しい」と取るか、「竹藪
の奥の閑静な住居で、私は綿弓の音を琵琶と聞きなして旅の疲れを休めている」と取るかであろう(私は後者の解が
良いと思う)。それにしても「やぶよりおくに家有」は何を意味するか。閑居その物を指すか、それとは別にもう一
つ家があるというのか紛らわしいので、『紀行』定稿諸本では削除してしまったものと思われる。
『紀行』執筆以前、竹内村滞在中に書かれた真蹟懐紙は、『紀行』とは別に、この句の原初の成立 事情を語るものと
言えよう。これは里長油屋直 i 右衛門の r 市中に閑を偸て閑を得たらん」高雅な心操を持した生活ぶりを 賛えたもの な
のだから、「慰む」人は里長でなければならない。「綿弓」は謂わば「其職を勤て職に倦ず」 という 生活 人としての 里
長の一面を端的に示すもので、それをしも r 琵琶に慰む」 ところに r 高き に 遊ぶ」心の持ち方が示さ i ている の だ。
更に「竹のおく」に里長が住んでいるのか、「竹のおく」から綿弓の音が聞えて来るのか も、はっきりさせておくる
313 天和四年 • 貞享元年
要がある。昔から「綿を打は其響に綿飛散す。依て風の隙囲ひ、垂込て是を打つ。然ば市中は二階、村里は右の如き
別家等に、如 Z 此き事迄も聊本情を不 X 違」(信天翁信胤『笈の底』)というような、竹の奥の別屋から綿弓の音が響いて来
ると取る説があって、これが一応尤もに聞えるからである。しかし、私は左に引く山本健吉氏の説を確説と考える。
即ち、
「竹の奥」は隠士閑居の空間を示せばこそ生きてくるので、それに伴って竹林の七賢の故事や、王維の「竹里館」
の五 言 絶句な どが 連想され、「竹の奥」 のィメ L シを 豊かにするのである。「竹里館」は「独坐ス幽篁ノ裏、弾琴
復夕長嘯、深林人知ラズ、明月来ッテ相照ラ.ス」で、『芭蕉句解』(東海呑吐著、明和六年稿)がすでに指摘して
いる。その「竹の奥」の人知らぬ「幽篁裏」に、「弾琴」ならぬ綿弓の音を、琵琶の音となぐさんでいる隠士の
閑居があると、挨拶しているのだ。「市中」にあって、別乾坤を作っているのが「竹の奥」である。綿弓は……
打てばビンビンと琵琶に似た音がする。(『色蕉全発 S )
とあり、「竹の奥」が隠士の閑居であってこそ生きて来るというのはその通りで、王維の詩が意識されていることも
論を俟つまい。天和期以来顕著な隠逸志向がここにも強くあらわれており、そういう面への理解が乏しいと、批判的
に見られがちな作である。表現としては「琵琶に慰む」が未熟な感じを否定し難い。しかし、素堂は『紀行』の序で
「大和廻りすとて、わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける、此両句をとりわけ世人もては
やしけるとなり」と述べており、好評を以て迎える向きも多かったことが知られる。
脱僧朝顔幾死かへる法の松(野ざらし紀行) 夏炉:路
秋季(朝顔)。
314
PH o 僧朝顔 「僧」と「朝顔」が、と次の「幾死かへる」の主語として二つの物を並べ挙げたもの。並列ではなく、朝顔を僧の
譬喩としたと見る説もあるが採らない。人間はもとより百年の齢を保ち難い無常な存在であり、朝顔も、「ソノアルジトスミヵト
無常ヲアラ y フサマ、ィハ'■、アサガホ/露- 1 n トナラズ。或ハ露ヲチテ花/ n レリ、ノコルトィへドモアサ日-一ヵレヌ。或ハ花シ
ボミテ露ナヲキ H ズ、キエズトィへドモタヲマッ事ナシ」と『方丈記』にあるように、無常の物の代表としてよく引かれるもので
ある。〇 幾死かへる 「幾死に返る」。幾度死んでは又生を重ねたことか。仏教の輪廻転生の観念を背景にした表現である。疑問の
助詞は省かれているが、「幾」によって疑問の意は明らかになる。ここで句切れ。「さゆる夜のかずかくしぎは我なれやいくあさし
もをおきてみつらん」(『和泉式部日記 fc 「おもひにし死にするものにあらませば千たびぞ吾は死にかへらまし」(『万葉集』卷四、笠女
郎) 「ICU.J (『日葡辞書』)。〇 法の松 当麻寺境内の松を指す。 r 法」と冠したのは仏寺の境内にあるからで、兼ねては仏法の永遠性
を象徴する表現ともなっている。この松は中将姫伝説に関わる「来迎の松」で、『芭蕉句選年考』には「本堂の下に大きなる松あ
り。根南北に長して東になし。怪松なり」と見える。「高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして法の燈消る時なく」(『枇杷園随
筆』所収芭蕉発句「父母の」前書) 「Norc-ofiromuru.J (『日葡辞書』)。
i この寺の僧も庭先の朝顔も、今まで幾たび生死を繰返したことだろう。その間この境内の松は、変らぬ翠の色
を保って来たのだ。
■■ 『野ざらし紀行』には前の「綿弓や」の句の次に、「二上山当麻寺に詣で、、庭上の松をみるに、凡千とせもへ
たるならむ、大ィサ牛をかくす共云べけむ。かれ非常といへども、仏縁にひかれて斧斤の罪をまぬかれたるぞ幸にし
てたつとし」と述べて、この句を掲げている。綿弓の句の条で触れた如く、当麻寺は竹内村に近かったから、千里の
郷里の家に滞在中に訪れたのであった。正式の寺号を二上山万法蔵院禅林寺といい、今の奈良県北葛城郡当麻町大字
当麻、二上山の東南麓に在って、背後に標高二百十四メートルの Ai 子山が聳える。中将姫が蓮糸で織ったという当麻
曼荼羅を所蔵する寺として名高く、浄土信仰の霊場として尊崇されていたのである。
句は千年を経た老松と、無常の輪廻を繰返す僧や朝顔を対照的に扱い、仏法の恵みによって長寿を保つ松の姿を讚
315 天和四年 • 貞享元年
歎している。それが延いては霊場や仏法の永遠性の讚歎につながるのである。従って東海呑吐の『芭蕉句解』に「此
松も終には千歳を経て朽んとの心也」として『和漢朗詠集』所収の詩「松樹千年終是朽、槿花一日自為 〆 栄」を引く
ような、松の無常を強調する見方は良くない。句の出来は、霊場を讚歎しようとする挨拶の趣向が先に立って、句材
その物を生かす所まで行っておらず、感心し難い。「僧朝顔」と属目の物を並べたのも、唐突で未熟であって、天和
以来の奇矯な表現の癖が脱け切れない感じである。なお、『紀行』の前文に『荘子』の影響が強いことは留意を要す
る。華雀の『色蕉句選』に中七を「幾死かへり」とするのは杜撰であろう。
大和國長尾の里と云處は、さすがに都遠きにあらず、山里ながら山里に似ず。
あるじ心有さまにて、老たる母のおはしけるを、其家のかたへにしつらひ、庭
前に木草のおかし氣なるを植置て、岩尾めづらかにす袅なし、手づから枝をた
はめ石を撫ては、此山蓬萊の嶋ともなりね、生藥とりてんよと、老母につかへ
慰めなんどせし實有けり。家貧して孝をあらはすとこそ聞なれ、貧しからずし
て孝を盡す、古人も難事になんい、ける
棚冬しらぬ宿やもみする音あられ(夏炉一路)
秋季(もみする)。
1〇 大和国長尾の里と云処 「大和国長尾の里と云ふ処 J。 今の奈良県北葛城郡当麻町大字長尾の地。近世には長尾村と称した。
竹内村東方の扇状地にあり、竹内街道と葛城山簏を走る長尾街道の交差地に発達した村里である。〇 さすがに都遠きにあらず 謡
曲「鸚鵡小町」の「実に実に関寺はさすがに都遠からで、閑居には面白き処なり」という一節を踏まえるか。京の都から遠くない
316
土地だけに。次の「山里ながら山里に似ず」の前提として、その立地条件を述べたのである。「さすがに春の名残も遠からず、
ゞ じ咲残り、山藤松に懸て」(「幻住庵記」) 「 sasugani.J (『日葡辞書』)。〇 山里ながら山里に似ず 確かに山里ではありながら、普
通の山里のようではない。「山ざとは冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬとおもへば」(『古今集』巻六、源宗于)
「 Yamazato . J (『日葡辞書』)。〇 あるじ心有さまにて 「主心有る様にて」。「あるじ」は、この山里のさる家の主人。この句文の中
心となる人を指す。「心有さま」は、物の道理•情趣をよく理解している様子。この文章全体の内容からすると、単に風流を解す
るばかりでなく、孝心も深い円満な人格をいうものと見られる。「爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て知る人にな
る」(『おくのほそ道』)。〇老 たる母のおはしけるを 「老いたる母の坐しけるを」。「母の」の「の」は同格を示す。年老いた母のい
らっしゃったのを、の意。「を」は次の「しつらひ」にかかる。「は k なん宮なりける。……老ぬればさらぬわかれのありといへば
いよ^^見まくほしききみかな」(『伊勢物語』八十四段)「昔おほきおほいまうちぎみときこゆる、おはしけり」(同上九十八段)
「 voi , voita . 」 「 Fafa . 1, faua . 」 「 vouaxi , su . i . vouaximasu . 」(『日葡辞書』)。〇其 家のかたへにしつらひ 「k の M の傲へ hm
ひ」。「しつらひ」は、設備する意。あるじの家(母屋)の傍に隠居所を建てて老母を住ませるのである。「かたへに人の影もな し」
(謡曲「梅」)「かりそめなれど、きよげにしつらひたり」(『源氏物語』夕顔) rcataye .」「 xitourai , 6, 6 ta . 1 yeuo xit > ouro<te
iru .」 (『日葡辞書』)。〇 庭前に木草のおかし気なるを植置て 「庭1に木草のをかし気なるを植袅 B " きて」。「おかし気なる」は、趣
のある意。「お」は「を」の仮名ちがい。庭先に趣のある草木の類を植え置くというのである。「春の風は空に満ちて庭前の木を切
るとも」(謡曲「嵐山」)「かねてより山道つくられて、木草きりはらいなどせられつれど、露けさぞわけんかたなき」(『増鏡』 さしぐ
し)「おかしげにほめて詠る月夜哉一髪」(『あら野』巻')「42:3.2§§11137€.42:§§^3;(『日葡辞書』)。〇岩尾めづ
らかにす系なし 「岩珍らかに据袅做し」。「岩尾」は1いはほ」の宛字。ここは大きな庭石をいう。それを変った目新しい風に据
えて。「す袅なし」は、人手を加えて何かする場合の言い方で、現代語には移しにくい。「かげろふや巌に腰の掛ぢから配 力」
(『続猿蓑』下)「都にも似ぬ住居はおのづから、げにめづらかに面白や」(謡曲「鷺」 ) 「此御社の獅子のたてられやう、……さがなき
わらはベどもの仕りける、奇怪に候ことなりとて、さしよりてす袅なほしていにければ」(『徒然草』二百三十六段) 「 CPC ?」
「Mszuracam . i , MSZU 3 XP J 「 suye , yuru , eta . 」(『日葡辞書』)。 〇手づから枝をたはめ石を撫ては 「手づから茫を齡め
石を撫でては」。その主が自ら手を下して木草の枝を整え、庭石を撫でて大事にしては、の意。「枝の半に鳥をつく。……藤のさき
つ
317 天和四年 • 貞享元年
は、ひうち羽の長にくらべてきりて、牛の角のやうにたはむべし」(『徒然草』六十六段)「ぬしうたれては香を残す松素英はる
k 日は石の井なでる天をとめ清風」 (『繫 橋』) 「Yedauo tauamuru . 」 「 Ixi . 」 「 Nade , suru , eta . 」(『日葡辞書』)。 〇此山蓬萊の嶋
ともなりね 「1の§|1;氣の嶋とも成りね」0「蓬萊の嶋」は、中国の東方海上にあるとされる伝説的神山。既出(/57前書)0「なり
ね」の「ね」は、完了の助動詞「ぬ」の命令形で、強意的用法。この山、即ち「あるじ」の庭が蓬萊の島のような仙境になれかし、.
というのである。「龍頭鵾首ノ舟二載セテ、蓬萊ノ嶋ヲゾ求メケル」(『太平記』巻二十六)「みかうしまゐりね」(『源氏物語』若紫)。
〇生薬とリてんよ 「生,採りてんよ」。「生薬」は、不老不死の仙薬。「ィキダスリ」とも訓め、謡曲「養老」に「実にや尋ねても
蓬が島の遠き世に、今のためしも生き薬」とある一節を踏まえたかとも思われる。この庭が仙境になったら、母の為に不老不死の
薬を採りたい、の意。「てん」は、完了の助動詞「つ」の未然形に、意志の助動詞「む」の接続したもので、強い願望をあらわす。
「よ」は、詠嘆。「いくくすり不老不死の薬なり」(『匠材集』 一) 「君がため蓬が島もよりぬらしいく薬とる住吉のうら」(『壬 二 集』)
「こ k まで、きつきぬれば、此ことをば先いひてん」(『徒然草』百八十八段)。 〇老母につかへ慰めなんどせし 「老母に仕へ慰めな
んど^し」。老いた母に子として奉仕し、慰めなどした有様が、の意。「なんど」は、「など」と同じ。「せし」の下に「さま」等の
語が省かれ、次の「実有けり」にかかる。 「せ ばきところに老母をやしなひて」(『続猿蓑』下、馬竟発句「魚あぶる」前書)「日ひと ひ、
いりゐてなぐさめきこえ給へど」(『源氏物語』葵)「しのぶまのわざとて雛を作り居る野水命婦の君より米なんどこす重五」
(『冬の 日』) r ?= d 6 b ? Voita faua . J 「 Toucaye , uru , eta. 」 「csorouo nagusamuru . 」 「 zand ? 」(『日葡辞書』)。 〇実有けり 「実有
りけり」。誠実な様子であった。「何事にもまことありて、人をわかずうや^^しく、言葉すくなからんにはしかじ」(『徒然草』二
百三十三段) 「 Macoto .」 (『日葡辞書』)。 〇家貧して孝をあらはすとこそ聞なれ 「家貧にして孝を顕すとこそ聞くなれ」。その家が貧
乏であってはじめて目立った親孝行があるとは、よく聞くところだが、の意。『宝鑑』に「家貧顕二孝子一世乱識こ忠臣1」とあ
るような言い慣わしを踏まえた表現である。「影法のあかつきさむく火を焼て芭蕉あるじはひんにたえし虚家杜国」(『冬の
日』) 「孝は百行のもと ゞ こそきくに」(『鶉衣』鴉 ノ箴) 「Finni qiuamas . J「Qimini chRucacu , bumoni C 6 as fit ? 」 「 A 311 axi ,
su , ita .」 (『日葡辞書』)。 〇貧しからずして孝を尽す 下に「ことは」といった言葉が略されている。「まづしくてはいけるかひな
し。とめるのみを人とす」(『徒然草』二百十七段)「このほど時致が尽す心に引き替へて、いまはいつしか思子の母の情有難や」(謡
曲「小袖曾我」) rMszuxij . 」 「 C 6 C 6 UO itasu , 一, t > oucusu . J (『日葡辞書』)。 〇古入も難事になんい、ける 「古人も難き事になん言
318
ひける」。(貧しい境遇でなくて親に孝行を尽すのは)昔の人もむずかしい事と言っていた、の意。「いは「い t >-」 の仮名ちが
いである。「古人も多く旅に死せるあり」(『おくのほそ道 t 「なんぞた V 今の一念にをいて、た V ちにする事の甚かたき」(『徒然草』
九十二段) 「 cojin . Inixiyso fito . J「catai . Xigatai coto . 」(『日葡辞書』)。〇冬 しらぬ宿 「贫知らぬ 7 |?」。「宿」は前書に記さ
れた孝心深い人の家を指し、それを「冬しらぬ J 暖い家と褒めたのである。「あ-!たつたひとりたつたる冬の宿荷兮」(『あら野』
卷 i 「 Fuyu . 」 「 Yado . J (『日葡辞書』)。〇もみ する音あられ 「狐摺る韵 fPI 。 農家で稲の取入れの後稲扱きが済むと、籾を筵にひ
ろげて干し、籾蔵に貯えて冬が近づくと籾摺り(脱穀)が始まる。機械化する以前は凡て人力により、土臼を用いて摺ったもので
ある。臼挽きの梓に取り付く者三人、梓の頭を持って廻しながら臼に籾を入れる者一人、籾運び一人、摺った籾殼と玄米の混った
ものを唐箕にかけて選り分ける者一人、摺り切れていない籾と玄米を千石通しにかけて分ける者一人と、最低でも七人を必要とす
る大仕事で、互助組織の「結い」で行われることが多かったという。他の季節にも行われたが、年貢米や地主に納める分は急ぐ必
要があったのである。ここのような地主の家では、小農を雇って大掛りに摺っていたのであろう。その音を霰にたとえたのである。
「籾磨の歌を忘て寝夜かな」(『麦林集』巻三)「椤櫚の葉の霰に狂ふあらし哉野童」(『猿蓑』卷二 「 Momi .」「 suri , u , ctta .」 (『日
葡辞書』)。
WBM まことに冬を知らぬ暖みあるお宅であることよ。籾を摺る音が霰のように響いて。
■一一■鳥酔の『夏炉一路』(宝暦七年刊)に「長尾村吉川氏東籬所持。東籬は日損庵が孫也」としてこの句文を紹介
し、なお後に「右一軸は此春江都之白水子へ譲ぬ」と注している。即ち宝暦当時大和の長尾村に住んでいた千里の孫
の許に伝蔵された芭蕉真蹟を鳥酔が写して載せたのであった。恐らく芭蕉が竹内村滞在中に、隣村長尾の富裕な地主
某に与えた句文であろう。発句中の「冬」や「あられ」の語によって冬季と見る説があるが、これらは譬喩表現であ
って、中心は「もみす る」 (秋季)である。実際にも芭蕉が冬に竹内•長尾あたりに滞在したことはなく、その動静
に照らして貞享元年の九月中旬千里の故郷の家に滞在していた間の作であることは動かない。
前書の文で孝心の厚い風流な主の平生を描いて賛え、句では暖みのある家風を褒めて、籾摺りの音の賑やか さに よ
ってその富裕を具象した。挨拶の意が強く出ており、それはよいとしても、「冬しらぬ」といいながら籾習りの音を
319 天和四年 • 貞享元年
「あられ」に譬えたのは、趣向の瑕瑾たるを免れまい。「音あられ」といっただけで「音あられの如し」の意をあらわ
すのも、談林風の奇矯な表現の名残を思わせる。尤も同様の表現は、十月初め大垣での句「琵琶行の」( I )でも用い
ており、この頃の表現嗜好の一面が窺えるのである。
暮秋櫻の紅葉見んとて吉野 k 奥に分入侍るに、藁蹈に足痛く、杖を立て
やすらふ程に
棚木の葉散 ® は輕し槍木 笠 < 真瞋懐紙 > 真蹟短冊•発句題苑集.蘆の 一*
秋季(木の葉散)。
11〇 暮秋 「ボシゥ」。秋の末、陰暦九月をいう。既出(§)。〇 桜の紅葉見んとて 「桜の紅葉」と特にいったのは、吉野が花
の名所として桜の木が多いからである。それを見ようとして。桜は楓のように美しい紅葉ではないが、他の木より紅葉の時期が早
く、従って散るのも早い。「桜の紅葉は又花をやるなどいへる心ばへをすべし」(『山之井』)「早咲の得手を桜の紅葉哉」(『丈草発句
集 Jl ) 「 sacura . J (『日葡辞書』)。〇吉 野、奥に分入侍るに 「吉野の奥に分け入り侍るに」。吉野山の奥に分け入りましたが、の意。
—吉野 X 」は、「野」を繰返す形で助詞の「の」の宛字としたもの。「野、宮」といった書き方と同じである。「大峰やよしの ゞ 奥の
花の果曽良」(『猿蓑』巻四)。〇 藁蹈に足痛く 「藁蹈 J は「藁沓」の誤り。普通の「わらぢ」を「わらぐつ」ということもある
が、ここは山歩きの為に、雪国で用いるようなやや深い藁製の沓をはいていたものと思われる。「ものがたりをも聞さして、みの
うちき、わらぐつさしはきて、いそぎ出けるを」(『無名抄』)「梅軒何がしの足の重きも道連の愁たるべき」(卯月廿五日付惣七宛芭蕉
書簡)「いたいうへのはり」(『毛吹草』巻二) 「 varagutou . 」 「 Axi . J 「 Itai .」 (『日葡辞書』)。〇 杖を立てやすら ふ 程に 「杖を立てて
休らふ程に」。杖を立ててそれにもたれて一休みしているうちに、の意。「おもひ立木曾や四月のさくら狩ばせを京の杖つく姐
の夏麦東藤」(『幽蘭集』)「杉ノ木陰-一駒ヲ駐テ暫ヤスラハセ給フ処-一 J (『太平記』巻九) 「 Touye . J 「 Tate , touru . eta . 」
「 Yasurai , r 6,6 ta . 」(『日葡辞#』)。〇 木の葉散桜 「木の葉散る桜」。桜の紅葉が散るさま。『御傘』に「木の葉ちる•おち葉は冬
320
也。乍去色の字をそゆれば秌也」「落葉 . 木の葉ちるも同事也。……色と云字入れば秌也」等とあって、「木の葉散る」は本来冬
の季語であるが、ここでは前書に「暮秋」と明記されており、散り方の早い桜の紅葉を扱った句でもある。『無言抄』に「もみぢ
かつちる•木のはかつちる、ともに秋なり」、『御傘』にも「紅葉かつちるは秋也。ちりそむるは冬也」といった考え方が一方にあ
るので、ここは「木の葉散る」を「木の葉かつ散る」と同様に、秋季に準用したものと見るべきであろう。「おもひなし木の葉ち
る夜や星の数沾徳 J { 『続猿蓑』下) 「 conofa . 」 rchirr ' u , itta . J (『日葡辞書』)。〇軽し「組し」「歡し」両様によめる。散る木の
葉の軽いのと、笠が軽いのと、上下両方に掛けて用いた。「とくくの雫を侘て、一炉の備へいとかろし」(「幻住庵記」) 「 oarui .」
「 oaroi.J (『日葡辞書』〇〇榷木笠「ヒノキガサ」。檜木の薄板を網代に編んで作った晴雨兼用の笠。芭蕉が旅に常用したものであ
る。「木曾の檜笠、越の营蓑計、枕の上の柱に懸たり」(「幻住庵記 t 「 Finoqigasa . J (『日葡辞書』)。
8*3 檜木笠も軽々と山路を行くと、桜の紅葉は軽やかに笠に散りかかる。
RH 私の所蔵する真蹟短冊には「吉野の奥に入て」と前書がある。暮秋九月の頃吉野へ入ったのは、『野ざら し紀
行』に見える通り貞享元年の事であった。底本とした真蹟懐紙は辻村政男氏の蔵で、旅中大和竹内 ft の千里の家に書
き残したものと伝えられる。吉野を出てから再び竹内村に立寄ったので もあろう か。短冊 も その筆蹟からして 同じ時
の揮毫と思われる。外に平成三年三月の『思文閣古今名家筆蹟短冊目録』創刊号に写真が見える 短冊は、 字配りが 聊
か異なるものの、前書も含めて家蔵のものと殆んど同じである。家蔵の短冊には「翁檜笠発句短冊合手拝鬼貫」と
いう 珍しい紙中極があるが、『思文閣目録』所収のものは、岡田柿衛氏の箱書、小林了可の極札が 添うているという。
吉野は花の名所である。それを春の桜ではなく、桜の紅葉を賞し ようと 暮秋に其処を訪ねた ところ、 既に風狂の情
が著しい。表現としては、「軽し」を上下に働かせて興じた調子を出している。「か a > 呉天雪、鞋香楚地花」(笠は重
し呉天の雪、桂は香ばし楚地の花。『詩人玉暦』)の詩句を転じて俳諧にしたので ある。加藤揪邨氏の鑑賞を引いておこ
50
一見なんの奇もないような句だが、いろいろの葉の中から、桜の落葉の音のかろが ろとした感じを徳きとって い
321 天和四年 • 貞享元年
るところに、見すごしがたいするどさを感ずる。殊に檜木笠を通じてそれを感じとつているところに惹かれるわ
けである。(『芭蕉全句 b
よしの k 奥に一夜あかして
砧ぅちてわれに聞せょや坊が妻(続虚栗)
野ざらし紀行•:•冊子.かしまだち•蕉翁句集
草稿•七芳蕉翁全伝
よしのにて
きぬたうちて我にきかせよ坊がつま(ぁら野)
秋季(站)。
_〇 よしのゝ奥 「吉野の奥」。〇 I 夜あかして 「一夜明かして」。〔考〕の条に掲げるように、『蕉翁全伝』の前書には「ひと
よあかしぬ」と仮名書きになっている。「一夜」は「ィチヤ」と音読してもよい。「一夜の草の枕も打解て休み玉へと云」(『おくの
ほそ道』)「身を知る袖の涙かと、明かしかねたる夜もすがら」(謡曲「富士太鼓」) 「 Youoacasu .」 (『日葡辞書』)。〇砧 うちてわれに聞
せよや 「砧 fT ? ちて我に聞かせよや」。「砧 j は打って布をやわらかくする道具。光沢を出す為に打つこともある。昔の布はごわご
わした物が多かったから、織り上げても直ぐには着られない。これを砧盤または打ち盤という板の上にのせて小槌で打ちやわらげ
るので、専ら女性の手業であった。李白の「子夜呉歌」に「長安一片月、万戸檮 x 衣声、秋風吹不一尽、総是玉関情」(長安一片の
月、万戸衣を禱つ声、秋風吹き尽さず、総て是玉関の情)と歌われて以来、秋の月の下で夫と離れた妻の閨怨の情が、砧(檮衣)
の余情として定着しており、秋の季語とされる。「聞せよや」は語調をやわらげ、親しみを籠めた修辞。「風のさそひてきぬたの音
に。遠里の夜さむをも思ひやり。妻まつ閨にうち驚きて。むすびし夢のつちみじかなるをおしみ。……猶うつといふによりて。初
腸の渡り拍子。磺の入びやうしなどいひて。山彦のこたへをもいひなし侍る」(『山之井』)「行燈はりてかへる浪人嵐雪着物を
碣にうてと一つ脱雪」 (『あら 野』員外)「小川へころび入て、たすけよや、ねこまた、よや^^とさけべば」(『徒然草』八十九段)
「 Qinuta _」「 vchi , vtou , vtta.J (『日葡辞書』)。〇坊が 妻 「坊が妻」。「坊」は僧坊をいうが、そういう山中の坊では旅人を泊めも
322
したのである。『芭蕉句選年考』に「芳野には喜蔵院•南陽院などいへる妻帯の寺あり」とあり、幸田露伴も r 坊の僧は普通の僧
と異つて火宅僧と云はれてゐる位であるから、多く女房があつたのである。坊と云ふ以上は、此の句は吉野の坊ある処の趣である0
麓の六田あたりでは無い」(『芭蕉俳句研究』)といっている。奥の細道の旅中酒田での歌仙温海山の巻、 r 此世のす袅をみよしのに
入」といふ不玉の前句に、曽良が「あさ勤妻帯寺のかねの声」と付けているのも、こうした事を背景にしているのである。「御と
もの人は、かのばう に、 などいふ」(『枕草子』百二十段) 「 B 6•」(『日葡辞書』)。
吉野の奥の秋の夜の寂しさは、まことに身にしみる。僧坊の妻よ、所がら砧を打って私に聞かせて下さいな。
ie ■『野ざらし紀行』には、竹内村滞在と当麻寺参詣の事を叙した後、「独よし野//おくにたどりけるに」として、
千里と別れてひとり吉野に赴いたことを述べ、山中の趣を描いてから、「ある坊に一夜をかりて」としてこの句を出
している。土芳の『蕉翁全伝』日人写本に「独吉野 ゞ ヲクーータドリテ、誠二山深ク白雲峯二重リ、烟雨谷ヲ埋テ、西
に木ヲ伐音、東に低キ院々ノ鐘ノ声ハ心ノ底二こたへテ、或坊二ひとよあかしぬ」と、『紀行』類似の文を句の前に
掲げるのは、そうした形の真蹟があったのかも知れない。初五の書き方は、『紀行』濁子絵巻本は「磺かか」である
が、初稿の芭蕉真蹟長卷には rffi うちて」となっており、ここでは明らかな仮名書きの板本初出として『続虚栗』
(其角撰、貞享四年刊)を本位句の底本とした。「打て」と表記されたものも「打ちて」とよむべきものとして一括したわ
けである。また、元禄二年の『あら野』(荷兮撰)では、中七が「我にきかせよ」とのみで最後の「や」がない。しか
し、土芳の『三冊子』には、字余りの句の例として挙げて、
字余りの句作の味ひは、その境にいたらざれば言いがたしと也。彼、人は初瀬の山 S よと有文字余りの事杯いひ
出て、なくて成りがたき所を工夫して味ふべしと也。(赤雙紙)
という芭蕉の語が伝えられている。作者自身が「聞せよや」の「や」を「なくて成りがたき 所」 と考えていた ことが
明らかである以上、ただ年代が後というだけで「我にきかせよ」の句形を軽々に後案と定める ことは 出来ない。 「や」
323 天和四年 • 貞享元年
は単なる命令にとどまらず、語調を婉曲に且つ親しみを籠めたものにする働きがある。『あら野』の句形は恐らく杜
撰であって、芭蕉が後に「きかせよ」の形に改めたわけではあるまいと思う。なお、後年の『芭蕉句選』に初五を
「砧うつて」とした形が見えるが、この音便形は古い資料に裏付けがなく、「うちて」に比べては問題にならない。
芭蕉は吉野の秋色を尋ねて山中の坊に宿った。その旅情や秋の夜の侘しさを、「み吉野の山の秋風さ夜ふけて古郷
さむく衣うつなり」 (『新古今集』卷五 、雅経)の名歌を背景にあらわそうとしたのである。「坊が妻」への呼び掛けと趣向.
したのがこの句の俳諧で、もてなしへの謝意をこめた挨拶が動機となっている。しかも砧のような古風な道具が、そ
の坊に必ずあったとは限らず、この砧は飽くまで願望であって、実際に存在しなくても構わない。ただこう表現する
ことによって、名所の秋の夜、月下檮衣の趣は 奕々 と現われて、砧声を現つに聴く思いがする。 六.八 •五の破調が、
ここでは寧ろ悠揚とした調べをなしている点も注目すべく、古典味を背景に俳意も十分な、初期蕉風の秀逸である。
素堂も「ふもとの坊にやどりて、坊が妻に砧をこのみけん。むかし潯陽の江のほとりにて楽天をなかしむるは、 あき
人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打て翁をなぐさめしぞや。ともにきかまほしけれ。それは江のほと
り、これはふもとの坊、地をかふるとも又しからん」(『紀行』序)と、白氏の「琵琶行」に比して感想を述べている。
观露とく^^、しみに浮世すゞがばや S ざらし紀行) 枯尾花.宇陀法師•練鏡
秋季(露)。
i 〇 露とくく 「とく'^ -J は、水がしたたり落ちるさまを形容する副詞。ここではそれに「疾く疾く」(「早速に」の意)が
言い掛けられていよう。「露」は、清水 • I 下などを指すが、秋季の句とする為にこの語が用いられた。〇心 みに 「試みに」。ため
しに、の意。「こころみ」の語源は「心見」であろうから、「心」の字を用いるのは宛字とは異なる。「心みに是にてき ゞ たうはあ
324
れど、わづか二粒の薬なればおしう侍るぞかし」(『福富物語』)。〇浮世すゝがばや「す\ぐ」は、洗い流す意。「ばや」は、自己
の願望。俗世の汚れを洗い流したいというのである。「春の旅節供なるらん袴着て荷兮 口す k ぐべき清水ながる-' 越人」
(『はるの日』) 「 susugui , u , suida . Mimiuo susuida . 」(『日葡辞書』)。
EE 1 西行ゆかりの清水が岩間からぽたぽた滴っている。早速試しに浮世の汚れをこれで洗い流したいものだ。
■31 『野ざらし紀行』には前の砧の句の次に、「西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人
のかよふ道のみわづか〔に〕有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくくの清水は、むかしにかはら
ずとみえて、今もとく^^と雫落ける」としてこの発句を書き、更に「若是扶桑に伯夷あらば、必口をす X がん。も
し是許由に告ば、耳をあらはむ」と記している。西行を敬慕すること深かった芭蕉は、伊勢の西行谷に続いて吉野で
も、この人の隠栖の跡を訪ねたのであった。「奥の院」は金峯神社より更に奥、宝塔ヶ峯中腹にあった宝塔院(今は
廃絶)のことで、今も色蕉の書いているあたりに苔清水があり、後年のものながら『西国三十三所名所図会』(晓鐘成
著、嘉永六年刊)には、
今尚其あとに庵をしつら ひ、いさ、 か古跡のしるしと す。凡 一間半に奥行一間ばかりの草屋な り。 西行上人の像
を置けり。長二尺 一寸 許の木像 也。
とあるから、幕末には木像を安置した草庵があったのである。苔清水^|西行歌「と《と落つる岩間の苔清水汲
みほすほどもなき住居かな」によって、とくとくの清水とも呼ばれる。ぐ:の歌は『山家集』等西行関係の資料に見当
らないが、芭蕉も西行作として覚えていたことは『紀行』の書きぶりによっても明らかであろう。西行は花を慕う風
雅の歌僧だったばかりではない。「よしの山やがていでじとおもふ身をはなちりなばと人やまつらん」(『山家集』中。『新
古今集』巻十七にも所収)と詠むきびしい求道者でもあった。また殷の衬王を討とうとした周の武王を諫めて容れられな
かった伯夷は、終生周の粟を唤むことなく、首陽山に隠れて餓死した人であるし、克から天下を譲ろうといわれた許
325 天和四年 • 貞享元年
由は、その話を耳の汚れとして潁川の流れで耳を洗ったという。西行隠栖の跡に立った色蕉の脳裡に浮んだのは、こ
れら俗縁を放下した清高の隠者達の俤であった。自らも深川に移ってからは、俳諧隠者として生きょうと心掛ける身
とあって、西行を慕う気持は殊更強かったに違いない。「浮世す、がばや」は、即ち「浮世の汚れをす、がばや」で、
高潔な隠者の境地を慕う心である。「露と《」と伝西行歌を思わせながら、その気持を抒べたのがこの句であっ
て、前の句と同じく六.八.五の破調が、ここでは軽やかにはずんだ調子を構成している。深みには乏しい代り、俳.
味は豊かで、しかも浮薄な感じがしないところが佳い。『句選年考』に或る人の覚え書を引いて、初案は「試にうき
世す、がん苔清水」であったと伝えるが、信頼すべき裏付けはないょうである。
202御廟年經て忍は何をしのぶ草—らし紀行)
於吉野天皇の廟にまうで、
御廟千とせしのぶは何を忍草 I ) |泊船集書人
御廟年を經てしのぶは何をしのぶ草 <泊船集) |蝶夢 e 蕉—集
秋季(しのぶ草)。
H 〇御廟年経て「御廟年経て」。「御廟」は、霊を奉安した御堂、お霊屋。ここは吉野如意輪寺本堂の後方、塔尾山の山腹にあ
る後醍醐天皇の御陵塔尾陵を指す。厳密には「陵」と「廟」は別であるが、陵には拝所が付属しているから、拝所を「御廟」と称
したのであろう。「一般的な御陵を用いないで御廟と呼んだのは、「禹廟「項羽廟」など陵寝類や祠廟類を題材とした漢詩の作
り方に学んだからであろう」(『日本古典文学全集•松尾芭蕉集』堀信夫氏)といった見方もあるが、題目と句中の語とは同一視し難い
と思う。延元四(一 g 九)年の天皇崩御から芭蕉の訪れたこの時まで、略々三百五十年を経ていた。「かざり木にならで年ふる柏哉
326
一晶」(『あら野』卷二) 「 Gobep - J 「 Fe , uru , 一, fes , eta . Toxi , tguqi , fi , jidaiuofuru L (『日葡辞書』) o 忍は 「忍ぶは」
この r しのぶ」は忍耐する意ではなく、昔を®ぶことである。 r 惣別しのぶと云詞に品^-かはれり。一は何心なき名所の信夫、
一は物を4 くしし G ぶ心、一は物に堪忍する心、是仏法の忍辱の衣を—などと議也。又一は昔古をしとふをしのぶとも云な
り」 (『御傘』)「昔をしのぶつまとなれとてや、もとのあるじのうつしうへたりけむはな橘の、*ちかく風なつかしうかほりけるに j
{ 『平家物語』灌頂巻) 「 Mucaxiuoxinobu .」 (『日葡辞書』)。〇 しのぶ草 「忍草」。山中の樹皮や岩に生えている常緑の羊歯類。ここ
では「何をしのぶ」と掛詞になっている。「忍ぶは細長にて、星のやうなるもの ゞ 有なり。忍ぶ草穂に出づ。古歌に云、恋しきを
いはでふるやのしのぶ草しげさまされば今ぞほにいづる、これな り」 (『八雲御抄』)「忍ぶ草を忘草といふ説も有。さるによりて忘
草と忍草とは一草二名と心得たる古人もあり。又別 a / といふ説もあり。伊勢物語のこは忍ぶ也とよめる哥の時、真実の差別は口伝
する也」(『御傘』)「涙は袖に降りくれて、忍草も乱る、、忘れ草も乱る、」(謡曲「草子洗小町 t 「 xinobu . 1, xinobugusa . 」(『日葡
辞書 b 。
ia 後醍醐帝の御廟は年月を経て、あたりには忍草がはびこっている。この草が傯んでいるのは H であろう。きっ
と吉野朝の悲史を偲んでいるに違いない。
■ ai 『紀行』では「露と《」の句の条の次に、「山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所^^み残
して、先後醍醐帝の御廟を拝む」としてこの句を出している。数百年の星霜を経て、塔尾陵が荒蕪の趣を呈していた
ことは、これより約百年後の安永元(一七七一一)年に訪れた本居宣長の『菅笠日記』三月十日の記事にも、
又塔尾の御陵と申シて。此堂のうしろの山へすこしのぼりて。木深き陰に。かの帝のみさ V 'きのあるに。まうで
て見奉れば。こだかくつきたるをかの。木どもおひしげり。つくりめぐらしたる石の御垣も。かたへはうちゆが
み。かけそこなはれなンど。さびしく物あはれなる所也。
とあって、色蕉の見たのと余り変らぬ状態だったことが分る。後に蕉門の支考は「歌書よりも軍書に悲し吉野山」の
句をなして人口に膾炙したけれども、芭蕉にとっても吉野は古来の花の名所や西行ゆかりの土地であるばかりではな
327 天和四年 • 貞享元年
かった。「名ある所くみ残して先」(『紀行』)と述べているのによっても、南朝の悲史に寄せる色蕉の思いの深さが知
られよう。その思いを抒べるのに「しのぶ草」を出したのは、勿論実況でもあり、昔を偲ぶ縁もあったろうが、百人
一首にも収められて有名な順徳院の御製「も\しきやふるきのきばのしのぶにも猶あまりある昔なりけり」(『続後撰
集』巻十八)の影塑一を無視し得ず、これまた承久の変に際して佐渡に流された悲運の天子の詠であった。この発句の初
五の七音の字余り、「しのぶ」を繰返した句作りなど、南北朝動乱の中心人物たる悲運の帝を®ぶ色蕉の思いに相応
しく、切迫した調べを形成している。この後数句にわたる歴史的懐古の最初の句として、記憶すべき作であろう。
尚 白 撰の『孤松』 (貞享 四 年刊) の「御廟千とせ」という異形は、板本の年代からすれば後案と見られる。 しかし「千
とせ」を未来にもわたって永く存在する意味に取るにせよ、表現としては誇大稚拙の感を免れない。誤伝杜撰の可能
性が強いが、大津の尚白の撰著である点を考えると、これが初案だったかとも思われて来る。翌貞享二年の春大津を
訪れた際に色蕉の披露した句形が そのまま 伝わったのかも知れない。大津での句の初案 r 唐崎の松は花より朧かな」
が、やはり『孤松』に収められていることも思い合わされるのである。
『野ざらし紀行』諸本間に於ける句形の異同を見ると、初稿の真蹟巻子本では「御廟年へて」であったものが、『泊
船集』所収の「色蕉翁道之記」(『紀行』の第二次稿)では「御廟年を経て」と「を」が加わっている。これが第二次
段階の色蕉の草稿に忠実なものとすれば、芭蕉はこの時に「を」を加えたことになる。字余りは「年へ て」 の形より
更に多くなるが、この句形は寧ろ調べの安定感を増すようでもある。しかし、それ以降の『紀行』諸本では再びもと
に戻しており、結局この句の初五は「御廟年経て」の形で治定したものと見られるのである。なお、後年の『猿蓑』
巻五に収められた歌仙灰汁桶の巻に、
何おもひ草狼のなく (野)水
夕月夜岡の萱ねの御廟守る (§ 蕉
328
という付合が見えるが、「夕月夜」の付句の時、芭蕉の脳裡には吉野の塔尾陵のたたずまいが浮んでいたのではある
まいか
203義朝の心に似たり秋の風—らし紀行)
秋季(秋の風)。
H 0義朝の 心「義朝」は、平安末期の清和源氏嫡流の当主。頼朝の父に当る。平治の乱に事破れ、東国を さして 落ちる途中、
平治一一年一月四日尾張の内海で家人長田忠致の手にかかって殺された。享年四十八。その「心」とは、後に述べるように生涯に多
くの親族を殺し、自らも非業の死を遂げた義朝の、殺伐悲酸な心事を指す。「猿を聞て実に下る三声のなみだといへるも、実の字
老杜のこ、ろなるをや」(『あら野』員外、素堂発句「麦をわすれ J 前書 ) 「C 80 ro . J (『日葡辞書』)。
ia 蕭殺とわびしい秋の風は、事志と違って血族の多くを手に掛け、自らも非業に死んだ義朝の荒んだ気持に似て
いる。
■ E ■芭蕉は吉野を出て、美濃の大垣を目指して北上した。『紀行』では「御廟年経て」の句の後に、「やまとより山
城を経て、近江路に入て美濃に至る。います.山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける、よし朝殿に
似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又」としてこの句を出している。 r います」は中山道六十七宿の一
今須宿で、今の岐阜県不破郡関ヶ原町今須の地。山中はそれより東、同町内山中を指す。其処に義朝の寵妾で義経ら
の母常盤御前の墓と称するものがあった。この女性の最期についてはよく分らないが、この墓には彼女が京を去って
東国へ赴く途中、此処で土賊に殺され、近くの青墓の長者が墓を建てて菩提を弔ったという伝説が絡んでおり、今も
時代不詳の宝篋印塔三基が存する。色蕉もこの墓を見て、彼女を寵愛した義朝に思いを馳せたのである。義朝は保元
329 天和四年.貞享元年
の乱に父為義と敵味方に分れて戦い、乱後には父や幼い弟達を殺す羽目になったし、平治の乱には平清盛と戦って敗
れ、東国へ落ちる途中青墓で、深傷を負って動けなくなった次男朝長を手に掛け、更には前述のように累代の家人に
裏切られて悲惨な最期を遂げた人だった。周囲の事情止むなくそうした運命に追い込まれただけに、その心事に想到
すれば、 まことに 酸鼻蕭殺の感を禁じ得ない。それを この 句では、折柄冬も近い頃の、わびしく寒々 とした 「秋の
風」に匂い合わせて「義朝の心に似たり」と表現したのである。引合に出された俳諧の鼻祖荒木田守武の句は、有名
な『独吟千句』第三に、
月みてやときはの里へか、るらん
よしとも殿に似たる秋風
やみ''-^とうたれにけるをきぬたにて
とある一節であって、「月」に「秋風」、 r ときは」に「よしとも」を付けた典型的な物付である。一連の意は、「月を
見つつ常盤の里へかかるのは、義朝殿に似た秋風であろう」と秋風を擬人化した滑稽の趣向であった。芭蕉はこれに
興を発して、「我も又 」 と同じ素材によりながら、守武から百五十年後の俳諧の新風を示したのである。『紀行』の
「いづれの所か似たりけん」は、よくいわれるような守武の古風な手法に対する批判の表白ではあるまい。富山奏博
士がいわれるように、時代の隔りや俳諧の開祖に対する当然の敬意からしても、ここは守武に随順し、古人の句に感
興を発しての作であることをいったものとすべきであろう(『俳句に見る色蕉の藝境』参照)。しかも、同じ俳諧でも百五十
年後の色蕉の作は、守武とはおのずから選を異にする。守武のは詞による付けで、自然を擬人化した滑稽の趣向であ
ったが、色蕉のは秋風の蕭索たる気分を「義朝の心」に擬したのであって、両者に通い合う気分の感合を中心にして
いる。「似たり」としたあたり、まだ高次の象徴的表現にまでは達していないけれども、自然を背景にした懐古の句
として、詩的に相当高い水準にあることは認めなければならない。「只心の一字にて芭蕉の句となりたる所を見る ベ
330
き」(『芭蕉句選年考』) なので ある。
柳秋 a や藪も白由も不破の SS (野ざらし紀行) 色 蕉庵小文庫•今日の昔 •1 想
秋季(秋風)。
1^〇藪も畠も「藪も畠も」。「藪」「畠」は、関跡一帯に見渡せるものとして採り上げられており、俳諧的素材といってよい。
安東次男氏は「竹も伐られて藪もまばらに透き、……畠は豆引も終って荒起しされていたはずである」(『芭蕉発句新注』)とする。
「春風に普請のつもりいたす也惟然藪から村へぬけるうら道支考」(『続猿蓑』上)「渋糟やからすも喰はず荒畠正秀」(『猿
蓑』卷三) 「 Yabu . J 「 Fataqe .」 (『日葡辞書』)。〇不破の関「不破の関」。律令制下に東山道に置かれた関所で、今の岐阜県不破郡
関ヶ原町松尾にあった。天武天皇が六百七十二年の壬申の乱に際し不破道を固めて、近江方より優位に立って以来、戦略上の要地
とされ、大宝令以後、東海道の鈴鹿や北陸道の愛発と娘んで三関と称された。桓武天皇の延暦八年に停廃の令が出、それより漸次
荒廃する。歌枕としての不破の関は、荒廃の趣を詠まれるのが常である。近世期の古注には、風が物を吹き飛ばすさまをいう「ふ
わふわ」を「不破」に言い掛けたとする見方があるが、ここでは採らない。「篠ふかく梢は柿の蒂さびし野水三線からん不破
のせき人重五」(『冬の日』) 「 xeqiL (『日葡辞書』)。
Rga 今、あたり一帯には秋風が吹き渡っている。見渡せる藪も畠もすベて、昔の不破の関の跡なのだ。
1 『紀行』には前の義朝の句の次に「不破」と題してこの句を出し、『芭«!小文庫』にも「不破にて」と前書が
ある。荒れ果てた関址に立って懐古の感慨を抒べた句で、この関を詠んだ代表的名歌「人すまぬふはの関屋のいたび
さしあれにし後はた ゞ 秋の風」(『新古今集』卷十七、良経)を踏まえている。この歌は「関路ノ秋風」という題詠であるが、
芭蕉はそれを背景としつつも、実際にその地に立って「藪も畠も」と俳諧の眼に映じたものを取り込み、懐古の詩情
を新たに生かしたのであった。良経の歌には、まだ「関屋のいたびさし」があったが、今はそれさえもなく、ただあ
331 天和四年 • 貞享元年
たりの藪や畠に秋風が吹き渡るのみなのである。吉野での作以来、西行.後醍醐天皇.義朝と古人にまつわる思いを
抒ベる ことが 多かったが、 この 著名な歌枕では中心となる人物はないながら、作品としては最高の収穫を得たといえ
る0
志田義秀博士は『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』で、この句は中七の末で切れ、「藪も畠も秋風や」と返る意味のものと
されたけれども、私は賛成し難く、志田説を批判する山本健吉氏の考え方に全面的に同感する。山本氏日く、
「秋風や」は取合せとして置かれたのでなく、初五に「や」と置いて、大づかみに力強い断定として、主題の在
り場所を示し、つづく七五は、その主題の反覆として、感動を具象化し、それに実在感を与える。……「秋風
や」の断定が全体に滲透し、「藪も畠も」と畳みかけて、ここで休止を許さず、直ちに「不破の関」を呼び起こ
す。中七まで来て反転するには、あまりに高調し急迫した詩のリズムがある。そこには思想や感情などの意識面
からはるか深く滲透し、すべての単語を生気づける「聴覚的想像力」 ( H リオット)とも言ぅべきものが作
用している。歌枕の詩歌は、風景と懐古との重層化された詩的感動であって、高音部に低音部がともない、意識
の深層から古人への鎮魂の歌を響かせる。そして、この句に到って芭蕉ははじめて高度の音楽性を獲得したと言
ぅべきで、この句はおそらく紀行中の最高の収穫なのである。(『芭蕉その鑑賞と批評』}
この 句では寂しいとか、荒れ果てているとかいったことは一切言わず、ただ「秋風」「藪」「畠」といった「物」のか
もし出す雰囲気(余情)にすべてを託している。物を提示する俳諧的表現の典型的なものである。
205 しにもせぬ旅寢の果ょ秋の暮 ( 野ざらし紀行) 色蕉庵小文*
死ょしなぬ浮身の果は種の暮 se 旅)
332
秋季(秋の暮)。
i 〇 しにもせぬ 「死にもせぬ」。野ざらしの旅のはじめに於ける死の覚悟に照応する言葉である。 r 野晒を」 ( g ) の句の条、後
述 〔考〕 参照。「これは、うかつに見逃せぬ恐ろしい言葉である。なんとなれば、「死にもせぬ」と言うときには、その前提として、
「当然、死すべきものを」といった意識が存在することを、示しているからである。「当然、死すべきものを」思いのほかに命なが
ら えて「死にもせぬ」、というのである」 (富 山奏博士『俳句に 見る芭蕉の 藝境』)。「花に うづ もれて夢より直に死んかな越人」 (『はる
の 日』) 「 xini , I xinda . 」 ( W 葡辞書』)。〇 旅寝の果よ 「果」は、この句をなした大垣の木因亭を旅の終着点、一区切りと意識
した表現。古注に「此果と云詠、暮秋に対して字眼也。旅寝の果、秋の果、身の果、不/死の果也」(『笈 の底』) とあるのは良い。
「さま t に品かはりたる恋をして凡兆浮世の果は皆小町なり色蕉 j (『猿蓑』卷五) 「 Fate . 」(『日葡辞書』)。〇 秋の暮 前述し
たように、この語は「秋の夕暮 j と「秋の末」の両意に用いられ、ここは上の「果」の語とも関連して後者の意に解されるが、秋
の夕べの静かな哀感を併せて鑑賞しても差支えない。
wia 死を覚悟して出て来た旅も、どうやら死にもせずに旅寝を重ねて、折しも秋の終りに此処までたどりついたよ。
■ J ■『野ざらし紀行』には不破の関址での句の次に、「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る
時、野ざらしを心におもひて旅立ければ」としてこの句が見える。九月の末、秋の終りに大垣の木因亭にたどりつい
て、江戸を出る時の野ざらしの発句を想い起した感懐であって、亭主への挨接というより、もっと内面的な孤心の眩
きといった趣が濃い。木因は谷九太夫といった大垣の船問屋で、城下の杭瀬川のほとりに居を構えていた。俳諧を北
村季吟に学び、芭蕉とは同門のよしみがあったが、既に天和の初め江戸に下った時芭蕉.素堂と親交を深めており、
この野ざらしの旅でも木因亭訪問が大きな目的の' つだったと思われる。其処に木因の家を「旅寝の果」と意識する
根拠があったのであろう。木因はこれから先名古屋まで芭蕉と旅を共にし、尾張の俳人達と芭蕉との橋渡しに重要な
役割を演ずる。
旅立ちから此処に到るまで、色蕉は「野ざらし」 —— 死を常に念頭に置いて旅寝の日々を重ね、句作にも緊張切迫
333 天和四年 • 貞享元年
した気分を感じさせるものが多かった。木因亭に草鞋を脱いで張り詰めた気持もゆるみ、ほっと一息入れた吐息と共
に漏らした眩きのような趣がこの句にはある。『後の旅』(如行撰、元禄八年刊)には、「死よしなぬ」の句形を掲げた後
に、
といひしは、杭瀬の川のながれに足をす ゞ ぎて、浮雲流水を身にかけこ、ろにかけて、頭陀やすめ笠やすめられ
し因なり。げにや茶の羽織檜の木笠も、此こ、ろざしよりあふぎそめられけり。
と記している。「死よ」は「死よ」「死よ」等さまざまなよみ方が考えられ、句形自体も孤立した所伝であるが、後々
まで色蕉と親交があった外ならぬ大垣の如行の撰著であるから、この形が初案だったのであろう。
……初案としてみるとその発想はなかなか興味を誘う。この旅を貫く「死」についての意想が「死よ死なぬ」の
曲折した表現によく出ているからである。そのきおいたった心が声調を昂らせている点を内に抑えこんで「死に
もせぬ」という形が生れたのであろう。(加藤揪邨氏『芭蕉全句 b
「死よしなぬ」とは熟さない表現だが、この句のモチーフが最初から「死」の一事だったことを、これは物語っ
ている。「死よ」と死を擬人化し、死神に呼びかける形で、死ななかった浮身(憂き身)の果は、 こうして とに
もかくにも暮秋の宿りを取っている、というほどの意。奇矯な表現ながら、「死にもせぬ」の一句に籠めた芭蕉
の偶感を、これは推測する手がかりになる。 (山本健吉氏『芭蕉全発句』)
右の如き先学の初案に対する考察は、傾聴すべきものを持っている。これまで緊迫凄愴の気の濃かった作品が、これ
以後風狂味を強め、色蕉自身の態度も旅を楽しむ風に変って来るのも、大垣入りが旅の一つの区切りだったことを示
すものであろう。「命な りけり」 の思いが、このような句を生んだともいえる。
334
206 琵琶行の夜や三味線の音霰 gi
冬季(霞)。
i 〇 琵琶行の夜や 「琵琶行の夜や J 。 「琵琶行」は、白楽天の有名な長詩の題。楽天が左遷されて江南に謫居中、元和十一(八一
六)年秋友人を潯陽江に送った夜、舟中に琵琶を弾く女性に逢って、その演奏を聴き身上話に感を発して作った詩である。「行」は、
長篇の詩体の一種をいう。この句を作った時の情況が、さながら楽天の「琵琶行」を作った夜のようだ、と詠嘆したのである。〇
三味線の音霰 「三味線の音霰」。急調の三味線の音が霰のようだ、の意。「三味線」は、戦国末期永禄年間に琉球の蛇皮線が堺に
輸入され、琵琶法師の手で改造されて普及したものという。三絃の代表的和楽器である。発音については、『日葡辞書』に
「 xamixen . J はあるが 「 samixem . 」はなく、一方、「さみせん」と振仮名のあるものも、『破邪顕正返答之評判』(著者未詳、延宝
八年刊)『西鶴織留』『松の葉』序等例が多い。元禄期に至るまで二つの発音が並び行われていたことは明らかで、ここでは姑く
「サミセン」とよんでぉく。「かっ人王百七代正親町院の御宇、於齡の监、琉獻より啦|5二紀の|^歡り、^氣の8 ( 1??にすめる11:巴
法師中小路が手につたへ、*'谷の観音の灵夢によりて一絃のまし三絃とせしを、^1に三»"齡と呢て、しらぶる齡にあらゆる卽齡そ
なはらずといふ事なし」(『松の葉』序)「干鈍き夷に関をゆるすらん芭蕉三線。人の鬼を ■&: しむ其角」 ¢3 栗』〇
8 *1 あの「琵琶行」にうたわれた夜のようだなあ。三味線の音が霰を思わせて鳴り響く。
■■『後の旅』には、大垣に入った芭蕉を貞享元年の十月に如行が初めて自宅に泊めた時の付合、
霜寒き旅寐に蚊屋をきせ申 •> (如行)
古人かやうのよるの木がらし (色蕉)
を録した次に、「その、ち座頭など来て貧家のつれを紛しければ、おかしが りて」として この発句を掲げて いる。
成立事情はこれで明らかであって、二つの発句が「霜」「霰」等冬季で あると ころから、既に十月に入っての 事と昆
335 天和四年 • 貞享元年
られよう。如行が旅の慰みに座頭を招いてくれた心づくしを謝した挨拶の意を SI めているのである。「琵琶行」の詩
に「*'絃嘈嘈如 n 急雨一小絃切切如, I 私語一嘈嘈切切錯雑弾、大珠小珠落 n 玉盤一」(大絃は嘈嘈として急雨の如く、小
絃は切切として私語の如し。嘈嘈切切錯雑して弾ずれば、大珠小珠玉盤に落つ)とあるあたりを踏まえ、白詩の「琵
琶」を「三味線」に、「急雨」を「霰」に変えて、俳諧の興とした。「自らを流謫中の白楽天に擬することができた一
夜の興を褒美して、亭主への挨拶とした」(『古典文学全集.松尾色蕉集』堀信夫氏)ことは確かであろう。この句は「霰」が
季語で、その夜の実況でもあったとする見方もあるが、私は山本健吉氏のように、実際に霰が降っていたわけではな
く、音の形容のみと見たい。旅寝の侘びを基底に置き、風狂味を発揮した作で、さきの「冬しらぬ宿やもみする音あ
られ」( I )と句作りや表現が似ている点も注意を要する。
抓宮守よわが名をちらせ木葉川(桜下文集)
又いかなる時にか侍りけむ、たどの權現を過るとて
i 呂 A よ我名を ちらせ落葉 川 S 日記) | 泊 船 集.蕉翁句集
冬季(木葉)。
n 〇 宮守よ 「|£守」は、神社の神主。掃除などする下級の神職も含めて考えてよい。多度権現の神官に呼び掛けたのである。
「社頭を見れば燈もなく、す2しめの声も聞えず。神は宜禰が習はしとこそ申すに、宮守一人もなき事よ」(謡曲「蟻通匕。〇わが
名をちらせ 「1^ が名を散らせ」。ここに書かれた私の名を掃き散らして欲しい、の意。「散らせ」は、下の「木葉」と縁語になる。
r 中^^に土間に居れば蚤もなし曲水我名は里のなぶりもの也翁」(『ひさご』)「花ちらす風のやどりはたれかしる我にをしへ
よ行てうらみむ J (『古今集』卷二、素性) 「 zauoxirusu . 」 「 ohiraxi , su , aita . 」(『日葡辞書,1)。〇木葉川「コノハガハ」。今の三重
336
県桑名郡多度町、多度山の南麓多度谷に鎮座する多度神社の境内を流れる小流れの名。白華の『茂配! jj; 紫 だ』(安永三年) に「多度
の御手洗の末、一の鳥居前の川」 と 見え、 〔考〕 の条に引く木因の句によれば「落葉川」 ともいったら しい。 ここは 冬の 季語と し
ての「木葉」を兼ねる。「木の葉ちる•おち葉は冬也。乍去、色の字をそゆれば秌也」「落葉……木の葉ちるも同事也」「木の葉の
雨植物なり、冬なり」(『御傘』)「鳶の羽も刷ぬはつしぐれ去来一ふき風の木の葉しづまる芭蕉」(『猿蓑』卷五)
「conofa.J (『日葡辞書』)。
Baa 神主さんよ、ここに書かれた私の名を、木の葉と共に木葉川へ掃き散らして欲しい。
■ e ■「た V *の権現にて」(『泊船集』)「たどの権現を過ルとて」(『蕉翁句集』)等の前書がある。「た VJ は杜撰による誤り
であろう。貞享元年十月、芭蕉は木因と共に大垣を立って名古屋へ向う。その間の事は木因の『桜下文集』に収める
紀行「句商人」によって明らかであるが、この句に関しては、それに左のように書かれている。
伊勢の国多渡山権現のいます清き拝殿の落書
武州深川の隠、泊船堂主色蕉翁、濃州大垣勧水軒のあるじ谷木因、勢尾廻
国の句商人、四季折^-の句召れ候へ
伊勢人の発句すくはん落葉川 木因
右の落書をいとふのこ-'ろ
宮守よわが名をちらせ木葉川 桃青
木因の「伊勢人の」の句は「救ふ」に「掬ふ」を言い掛けて、伊勢人の古くさい俳諧を自分達の手で一新してやろ
うという意をあらわしたもので、随分勢った戯れである。それを芭蕉は厭うて この 句を成したのであるが、その気持
は加藤揪邨氏もいわれるように、「対抗的につよく言ったものではなく、即興的に軽くいなしたといった体のもので
あろう。木因のはずんだその気持ちにそのままは乗りかねて、ややはにかんだ気持ちが この 句になったもので、即興
337 天和四年 • 貞享元年
性を味わうべきなのである」(『芭蕉全句』)。木因の大言に聊か気がさして、川の名の「木葉」にかけて戯れ返したまで
の句に過ぎない。なお、この落書は約百年後の井上士朗の時代まで残っており、彼は寛政四(一七九一一)年二月の『落葉
日記』にその全文を録しているという。
『笈日記』等の伝える異形については、これを定案とし、『桜下文集』の句形を初案と見る説もある。しかし、この
ような即興句を後で推敲することがあったかどうかは問題であろう。それに現存の『桜下文集』が後人の書写に係る
にせよ、「貞享 甲子孟 冬」とある文末の年記によれば旅行当時の記録であって、その記載は第一に尊重されなければな
らない。『笈日記』は色蕉死後間もなくの資料集成として貴重ではあるが、誤りがないわけではなく、現に今栄蔵氏
は、その句形が同じ時の木因の発句「伊勢人の発句すくはん落葉川」との混淆から生じた疑いが濃いと見ておられる
(「蕉句句形誤伝考抄」丨『中央大学文学部紀要』第五十一号)。 つまり 『 s 日記』によって『文集』を疑うのでなく、『文集』によ
って 『笈日記』を疑うのが正当な態度なのである。こうした見地から、ここでは『文集』の句形を本位句として、
『笈日記』以下の句形は参考として挙げるにとどめた。
20 S 冬!1±«千鳥よ雪のほと\ぎす S ざらし紀行) 桜下*集.孤松.蕉翁句集*稿
古益亭
冬ぼたんちどりか雪のほと\ぎす S 日記)
冬季(冬牡丹•千鳥)。
i 〇冬 牡丹 「フユボタン」。牡丹は夏の花であるが、二季咲きの習性を持つ。ただ春夏の交に開花すると秋冬には花をつけに
くいので、暖季に蕾を摘み取って寒冷の時に花を咲かせるようにするのである。ここで句切れ。「花上集、九淵冬日牡丹詩云、魏
338
紫冬開亦化工、衆人愛敢与 X 春同、三郎若不:,厭,一寒素一定"有,,|返魂尋,一此叢-〇覆醬1、雪中見, It 丹1-氣云、臘^花葉も、
芳顔妖態使二人驚(一枝濃艷啣二霜雪一想見精神似,子卿,〇大和本草云、今又冬牡丹あり。八月より葉出で、十月より花咲、臘寒
の時も花有。凡如 X 此なるは人功を以て天地造化の力を盗んで成 VN 。 良に可 X 怪者也」(『滑稽雑談』)「冬牡丹1 T に蔵の釾かな言
水」(『続都曲』) 「 Botan . 」(『日葡辞書』)。〇千鳥よ雪のほと、ぎす「千鳥」は、水辺を飛ぶチドリ科の鳥の総称。種類は日本で見
られるもの十三にのぼるといわれ、俳諧では冬季とされる。ここは「千鳥よ」と先ず呼び掛けて、その声は恰度雪中で聞く時鳥の
趣だ、といったのである。「千鳥冬也、水辺也。馬をむすびては秋也。霧•露を結ても同前」(『御傘』)「千鳥は磯辺浜辺などにち
りとんで友をよび。川風さむみ鳴かはすけしきなどを。ちどりがけともちどりあしともいひてつらねなし侍」(『山之井』)「舟にた
く火に声たつる衡哉亀洞」(『あら野』卷五) rchidori .」 (『日葡辞書』)。
ESE 9 冬牡丹が見事に咲いている。折柄千鳥の鳴く音が聞えるが、牡丹は もともと 夏のもの。冬牡丹に千鳥の 音を聞
くのは、恰度雪中で時鳥を聞く趣だ。
H — 『野ざらし紀行』には「桑名本当寺にて」として句を録 し、 木因の「句商人」(『桜下文集』所収)には「桑名の本
当寺は牡丹に戯れ給ふ一会の句」として、木因の句「釜たぎる夜半や折<浦千鳥」と共に掲げている。「本当 寺」
は「本統寺」と書くのが正しく、今の桑名市 北 寺町にある真宗大谷派の寺で、桑名御坊•桑名別院とも呼ばれた 。当
時の住職琢恵は東本願寺法主琢如の第二子に生まれ、幼時よりこの寺に来て、丁度この 貞享元年四十 二歳にして住職
を退いた。芭蕉より長ずること一歳である。俳諧を嗜んで古益と号し、『誹家大系図』によれば芭蕉•木因と同じく
季吟門だったよぅである。大垣住の木因は桑名や熱田•名古屋等尾張の俳人達と交流があったから、恐らく古益とも
以前から面識があって、この時色蕉を紹介したのであろぅ。木因の発句「釜たぎる」を参照すれば、茶の接待を受け
ながら浦千鳥の音に聞き入って^^当夜の情景が劈髴と眼に浮ぶ。
さて、句は庭前の珍しい冬牡丹の花を賞して、先ずその名を打出し、それに千鳥の音を配した。ここまでは実況で
ある。ところが、ここで更に一ひねりした趣向があって、「冬季に牡丹が咲いているので、折からの千鳥の声を、牡
339 天和四年 • 貞享元年
丹のうつりにょり、ほととぎすと見なして興がった句」(『古典文学全集•松尾芭蕉集』堀信夫氏)に仕立てている。専門の俳
家ではない、身分ある古益は、なお古風の旧染を脱し得なかったろうから、それに調子を合わせて、見立の趣向で挨
拶の意を表したものと思われ、この度の木因との二人旅に著しい風狂味も出ている。「雪のほと\ぎす」と案じた背
景には、古くは定家の難題七首の内の一首「深山には冬も鳴くらんほと ゞ ぎす玉散る雪を卯の花と見て」、近くは木
下長嘯子の「鉢た M き暁がたの一声は冬の夜さへも鳴くほと k ぎす」等の歌があったかも知れない。この句には冬の
季語が三つ詠み込まれているが、そのうち「冬牡丹」と「千鳥」が実であるのに対して、「雪」は恐らく虚であって、
「虚でなければ面白くない」(安東次男氏『色蕉発句新注』)ことも事実である。次の白魚の句の初案が「雪薄し」だったこ
とと関連づけて、当面の句の「雪」をも実と見る向きがあるが、私は採りたくない。本統寺滞在はかなり長期にわた
つたようでもあり、白魚の句と結びつける必然性は乏しいと思う。なお、『笈日記』に見える異形は孤立した所伝な
ので、撰者の杜撰とおぼしく、問題とするに足りない。
明ぼの^しら魚しろきこと一寸(野ざらし紀行)
春日神社蔵真蹟短冊.某氏蔵真蹟短冊.*一冊
子.蕉翁句集草稿
笈日記.熱田三歌仙
雪薄し白魚しろき事一寸 S 下文集)
曙や白魚のしろきこと一寸(孤 S
冬季(しら魚一寸)。
1 〇明 ぼの 「明けぼの」。暁の終り頃、朝ぼらけに先立つ薄明の明け方をいう。「曙……夜分也。朝時分にも成也。曙にほの
ぐ(の)ほのかなど二句嫌也」(『御傘』)「曙は春の初やだうぶくら野水」(『あら野』卷二) 「 Aqebono .」 (『日葡辞書』)。 〇しら魚し
ろきこと一寸 「白魚白き事一寸」。「しら魚」は既出( 755 )のように春の季語とされるのが普通であるが、ここは「一寸」といっ
340
て幼魚であることを示し、冬季に扱っているものと見られる。桑名地方では白魚について「冬一寸春二寸」といわれるそうで、
『紀行』の記事も春季と見ることは出来ない。二 t にもなるべきものが、まだ一寸の幼魚だというのである。「かれ芝やまだかげろ
ふの一二寸色蕉 J (『あら野』卷二) 「 Issun , nisun . 」(『日葡辞書』)。
31夜もしらじらと明けて来た。その薄明りの中に、白魚の白さが際立つ。まだ一寸ほどの小ささだ。
Bi 「霜月初白魚」(某氏蔵真蹟短冊)「おなじ比にや、浜の地蔵に詣して」 (『 S 月記』)「桑名にて」(『熱田三歌仙』)等の前書
がある。木因の「句商人」(『桜下文集』所収)には桑名滞在中の記事として、
海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。
雪薄し白魚しろき事一寸 ばせを
白うをに身を驚くな若翁 木因
と見えており、船遊びに海上に漕ぎ出した一日、芭蕉は手ずから蛤を拾い、すくい網などで白魚を取って興じたのだ
った。「地蔵堂」は『笈日記』にいう「浜の地蔵」であって、今の桑名市地蔵にあった修験宗地蔵院、その壁面に興
に乗じて「雪薄し」の句を書き付けたのであろう。天明年間この句に因んで此処に白魚塚が建てられた。寺は維新後
一旦廃されたが、古義真言宗の龍宮山龍福寺として再興された。昭和三十四年九月の伊勢湾台風にょって寺も塚も全
滅の憂目にあったが、その後両つながら再建されたという。
「句商人」には明け方のこととはっきり書かれているわけではなく、句案は寧ろ日が闌けてからの可能性が大きい。
薄雪の敷いた浜辺に小さな白魚の白さが一瞬きらりと光る印象を句にしたものだった。ところが、『笈日記』には
「雪薄し」の句の後に「此五文字いと口おしとて、後には明ぼのともきこえ侍し」と注してあり、『三冊子』も「明ぼ
のや」の句形を掲げて「此句、はじめ雪薄しと五文字有由、無念の事也といへり」(赤雙紙)と同様のことを伝えてい
る。 e 蕉が何故「口おし」「無念の事」と考えたかは改めて問うまでもない。「雪薄し」は実境ではあったろうが、句
341 天和四年 • 貞享元年
の場が狭く限定されるし、雪の白と白魚の白がお互いに効果を減殺しあう嫌いがある。「明ぽのや」とすると、句境
は忽ち海を背景にした浜辺の広々とした薄明の天地に開放され、其処に水揚げされた白く美しいささやかな魚のきら
めく姿が一段と印象的である。句柄も大きく品格も高い、旅中屈指の秀逸に仕上ったといえよう。
草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに浜のかたに出て、
という『紀行』の前文は、句の成立当初の情況とはかなりの相違があり、多分の創作性が感ぜられる。貞享四年の
『孤松』に見える中七の字余りは小異に過ぎず、恐らくは誤伝であろう。
初案「雪薄し」の場合は「雪」が当季の語として立つので、本来春季の「白魚」があっても問題にはならないが、
「明ぼのや」となっては事情が異なって来る。古来これを春の句として扱う向きは多いけれども、独立句としては兎
も角、『紀行』では明らかに冬の記事の中にあるのだから、芭蕉がこの句の季節をどう考えていたか、種々の見方が
出るのは当然であった。「按ずるに、天然二寸の魚、一寸は冬なるべし」(『句選年考』 ) という見方があるように、作者
は恐らく「一寸」という表現によって、二三寸にもなる成魚の段階に達しない幼魚であることを示し、「白魚」を冬
に用いるという新機軸を出したものと思われる。『炭俵』(元禄七年刊)が之道の「白うをのしろき匂ひや杉の箸」の句
を冬の部に入れ、『続猿蓑』(元禄十一年刊)が白魚の句を春の部に収めながら、杉風の「一塩にはつ白魚や雪の前」の
句は冬の部に収めているような例が参考になろう。何れにせよ、この句が白魚を冬に扱った極く早い時期の作である
ことは、論のないところである。
「霜月初白魚」という真蹟短冊の前書も、そうした白魚の新しい扱いを明示する意図で付せられたものかも知れな
い。この短冊は近年紹介されたもので(昭和六十三年十一月二十日『読売新聞』朝刊記事、『奥の細道むすびの地の
つどい記念特別展図録』(同年)等参照)、美濃派の宗匠宅に秘蔵されていたものという。この前書で興味を惹かれる
のは「霜月初」とある点であって、これはこの時の桑名滞在が十一月初めにまで及んだことを裏付ける初めての資料
342
である。以前は木因と共に十月上旬に大垣を発し、桑名.熱田を経て十月中には名古屋に入ったとするのが常識であ
ったが、 その見方はこの短冊の出現によって改められなければならなくなった。桑名の春日神社所蔵の真蹟短冊は、
所伝によれば地元の名家山田彦左衛門旧蔵の品で、「し」を長く引いた書体等前者と似ており、何れも謹直な書風で
ある。両者共貞享前期の揮毫と見られ、恐らくは古益に贈ったものであろう。色蕉は翌貞享二年三月にも本統寺を訪
ねているが、「霜月初」と特にことわるような書き方は、その当座の揮毫であることを思わせるとすべきではあるま
いか。さすれば「雪薄し」から「あけぼのや」への改案は、十月から十一月へかけての滞在中に早くも行われたこと
になる。
「しら魚しろきこと一寸」というやや硬い表現については、杜甫の詩「白小」の影響も考えなければならない。即
ちそれには「白小群分命、天然二寸魚、細微沾=水族一風俗当:園蔬;入:,肆銀花乱、傾;,箱雪片虚」(白小 m の命、
天然二寸の魚。細微水族に沾ふ。風俗園蔬に当つ。靶に入りて銀花乱れ、箱を傾くれば雪片虚し)ーム々とあり、夙く
『紀行』の素堂序にも「桑名の海辺にて白魚白きの吟は、水を切て梨花となすいさぎよきに似たり。天然二寸の魚と
いひけんも此魚にやあらむ」と指摘されている程だから、影響関係は無視し難いものがある。「しろきこと一寸」は
杜甫の「天然二寸の魚」を頭に置いて、桑名でいわれていた「冬一寸春二寸」と渾然一体となって出来上った表現な
のであろう。一見生硬な言い方が、ここでは寧ろ白魚の白さを際立たせる働きをしているのを見逃してはならない。
更にそれが、「明けぼの」を背景とすることによって、得もいわれぬ鮮やかな美しさを完成するのである。漢詩には
元来「白」を主題とする伝統があり、この句もその発想法によっているという堀信夫氏の指摘も見える。
343 天和四年 • 貞享元年
桑名にあそびて、あつたにいたる
孤あそび來ぬ M 釣かねて七里迄极 S 物語} 泊 船 集•蕉翁句集•熱 H 1
鳆釣らん李陵七里の浪の雪(桜下文*
冬季(蘇)。
H 〇桑名にあそびて 前記伊勢の桑名(現三重県桑名市)に来て古益の住持する本統寺に滞在、処々を遊覧したことを指す。
「深川にあそびて/しら魚をふるひ寄たる四手哉其角」(『続猿蓑』下) 「 Asobi , u ,6 daL (『日葡辞書』)。 〇あつたにいたる 「熱田
に©る」。熱田まで来たことをいう。熱田は、今の名古屋市熱田区。熱田神宮があり、近世には東海道五十三次第四十一番の宿場
として 宮の宿が置かれて、城下に準じて扱われたが、名古屋とは別の町であった。「ある人の山家にいたりて」 (『あら 野』巻一、色
蕉発句「檀の木の」前書) 「 Fijep 1, Nagasaqiniitaru . 」(『日葡辞書』)。 〇穌釣りかねて 「嫁.釣兼ねて」。船遊びと共に「穌釣り」を
副次的目的として、の意。〔考〕で述べるょうに、『万葉集』卷九の長歌の一節を踏まえ、もとの目的を達し兼ねる意味を「兼帯す
る」 意味に変えて俳諧にした表現であるが、もとの意味もなお響かせている。「穌」は冬季、『日葡辞書』に 「 Fucu . lfccut 6.」
とあり、当時 「ク」 は清音であった。「あら何ともなや」 (§8) 参照。「城有、橋有、釣りたる ゞ 船有」(『幻住庵 記』) 「 Tsuri .」
「 cse , US , eta . S6b6u0 canuru . J (『日葡辞書 』)。 o 七里迄 「シチリマデ」。桑名(東海道第四十二宿)と宮(熱田)の間
は東海道唯一の海上路で、満潮時陸地沿いの距離が七里だったので、俗に「七里の渡し」といわれた。熱田船番所支配で、常時七
十五隻の船が用意され、所要時間は凡そ四時間、乗合いの船賃は天和二年に三十文だったという。「か i .* の国にていたはり侍りて、
いせまで先達けるとて」(『猿蓑』卷三、曾良発句「いづくにか」前書 ) 「coremade sanjita.J (『日葡辞書』)。
1 ふぐ釣りを兼ねて海上を七里も遊びがてらに此処まで来ましたが、ふぐは釣りかねました。
■ E ■桑名から芭蕉と木因は尾張の熱田に赴くが、熱田の東藤の撰した『皺営物語』に見えるこの句は、その季節か
らしてこの時の作と見られ、「熱田にて」(『泊船集』) r 貞享はじめのとし、桑名に遊びてあつたにいたる」(『熱田三歌仙』}
344
等の前書がある。貞享元年十一月の作で『野ざらし紀行』には収められていない。この句の趣向は、『万葉集』卷九
所収「詠,一水江浦嶋子一」長歌の表現を踏まえたところにある。即ち「水江之浦嶋児之堅魚釣鯛釣矜及七日
家尔毛不来而海界乎過而榜行尔」とあるあたりで、「鯛釣矜」の所は契沖の『万葉代匠記』以後「タヒッリホコ
リ」と訓むようになったが、寛永板本の訓みは「タヒッリヵネテ」であり、芭蕉の師季吟の『拾穂抄』も同じであっ
て、色蕉もこの訓みに従っているのである。本歌の「鯛」を俗な「鲧」に変え、釣るのに難儀する原意を「兼帯す
る」意に、また「七日まで」を「七里迄」に変えて全く俳諧化したのであった。而も「かねて」には、前述の如く
「釣れなかった」という意も響かせて飄逸味を増している。恐らく初見の熱田連衆に対するおかしみを籠めた挨拶で、
名古屋連衆に対する「狂句こがらし」(2;5)の句の風狂味にも通ずるものが感ぜられる。
木因の「句商人」(『桜下文集』所収)には「熱田に移る日」として「鳆釣らん」の句がある。「李陵七里」は、従来
「子陵七里」の誤りと見られており、後漢の隠者厳光字は子陵の故事に基づく。光武帝若年の折の学友だった子陵は
帝に招かれても仕えず、今の浙江省桐廬県南の江辺で釣をして暮していた。後人がその場所を厳陵瀬と名付けたとい
う有名な『蒙求』の「厳陵去釣」の故事である(『蒙求』の記事は『後漢書』逸民伝の記載による)。ところが厳陵瀬
は、絶壁下の急流が七里にもわたるので著名な七里灘と相接していた為に同じ場所とする誤解が生じ、『三体詩』巻
三所収、許渾の「七里灘 J の詩の結句も「誰識子陵心」(誰か識らん子陵の心)とあって、混同されていたことが知
られる。芭蕉は『三体詩』を読んでいたようだから、許渾の右の詩などにも影響されて、厳子陵乃至厳陵瀬と七里灘
を同じ話中の事として一つに考えていたのではあるまいか。「子陵」を「李陵」としたのは二重の誤りを犯したこと
になるが、兎に角この句では桑名.熱田間の「七里の渡」を中国の七里灘に擬し、それに「子陵」を結びつけて、ふ
ぐ釣りに隠逸の気分を持たせたのであった。「浪の雪」は白浪を雪にたとえていう語。「これから漕ぎ出して行く七里
の渡の白浪に、厳子陵よろしく、ふぐでも釣りましょう」と戯れた句で、「釣らん」と未来表現になっているから
345 天和四年 • 貞享元年
「桑名出発時の作」(今栄蔵氏『古典集成•芭蕉句集』)であろう。「遊び来ぬ」の方は、前述したように熱田到着時の挨拶と
思われる。従って両案は別の句と考えることも出来、現にそう扱っている注釈書もあるが、また一方、ふぐ釣りの趣
向は一貫しており、背景としての故事が厳子陵や七里灘から浦島の古歌に変っただけとあれば、一句の別案とした方
が良さそうに思う。
旅亭桐葉の主、心ざしあさからざりければ、しばらくと ゞ まらむとせし
ほどに
⑼此海に草鞋すてん笠しぐれ邊営物語) 孰苗三歌仙
此海に草鞋を捨ん笠時雨書記) |蕉翁句集
冬季(しぐれ)。
H 〇 旅亭桐葉の主 「旅亭桐葉の主」。「旅亭」は、旅籠屋、桐葉は林氏で通称七左衛門、熱田の市場町で旅宿を営んでいた。初
号木示の頃から芭蕉と文通があったが、直接面晤したのはこの時が始めだったようである。熱田蕉門の有力者で、晩年は雲竹流の
書家臨高庵元竹としても活躍した。正徳二(一七三)年五月十三日、六十歳で殁。「主」は、名のあとにつけて敬意や親愛の情をあ
らわす。「武江におもむく旅亭の残夢」(『猿養』卷四、乙^発句「寝ぐ るしき」 前書)「これをみてぞ、なかまろのぬし、……よめりけ
るうた」(『土佐日記』) 「之 uxi. 」(『日葡辞書』)。〇心 ざしあさからざリければ 「心ざし浅からざりければ」。芭蕉に対する桐葉の気
持が深かったので、の意。芭蕉を手厚くもてなしたことをいう。「回国の心ざしも漸 < 伊勢のくに\いたりて」(『続猿蓑』下、呂
丸発句「文台の」前書)「珍碩文に、三とせの厚情不浅と書たる」(霜月十三日付曲水宛芭蕉書簡) 「cocorozaxi. 」 「Asacaranugouon. 」
(『日葡辞書』)。〇 しばらくと、 ゞ まらむとせしほどに 「暫く留らむとせし程に」。暫くの間滞在しようと思ったので、の意。「しばら
く此の処に御休みあらうずるにて候」(謡曲「安宅」)「彼ちりが旧里なれば、日ごろと V まりて足を休む」(『野ざらし紀行』)
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「 xibaracu . 」 「 Todomad , u , atta . 」(『日葡辞書』)。〇此海「此の海」。熱田の南にひろがる海をいう。「南薰峰よりおろし北風
海を浸して涼し」(「幻住庵記」) 「 vmi.J (『日葡辞書』)。 〇草鞋すてん 「草鞋捨てん」。履いて来た破れ草鞋を捨てようといって、好
意に甘えて暫く滞在しようとする気持をあらわした。「ワランヂ」は「ワラグッ」から「ワランヅ J 「ワランヂ」と転じて来た語で、
更に「ワラヂ」と変るのである。『日葡辞書』には 「 varangi . 」の語を挙げる外、 「 varagi . J よりは 「 varanzzu . J という方がま
さるともある。「やつちの糸のわらんぢをはき、いちめがさにてかほかくし」 (舞曲 「山中常 盤」) 「なりひさこといふ物を人のえさせ
たりければ、 . 風にふかれてなりけるを、かしかましとてすてつ」(『徒然草』十八段) 「 sute , touru , eta . 」(『日葡辞書』)。〇 笠し
ぐれ「笠時雨」。旅笠に降りかかる時雨。芭蕉の造語とおぼしく、ここまでの侘しい旅の気分をあらわしている。「しぐれ」は冬
季。
i ここまで笠にかかる時雨を凌いで長い旅を続けて来たが、この前なる海に破れた草鞋を捨て、御好意に甘えて
暫く逗留するとしよう。
101『蕉翁句集』には「熱田にて」と前書がある。『皺営物語』に貞享元年冬桑名から熱田へ来て暫く滞在した時の
吟 として 収め、『笈日記』下、尾州熱田連中の「悼色蕉翁」の文にも、
芭蕉翁十とせ あまり も過ぬらん、 いま そかりし比はじめて此蓬萊宮におはして、へ此海に草鞋を捨てん笠時雨と
心をと^め、景清が屋しきもちかき桐葉子が もとに 頭陀をおろし給ふより、此道のひじりとはたのみつれ。
とあるのによって、桐葉亭をはじめて訪ねた時の挨拶吟と知られる。宿の前なる海に草鞋を捨てようといって滞在す
る意をあらわし、桐葉のねんごろな志を賞でたのである。「笠しぐれ」については、潁原博士の『新講』以来、〔語
釈〕に記したような解釈が定着し、これまで経てきた侘しい旅路をあらわすと見るのも、諸注一致している。但し、
「すてん」を下の「笠」にも掛けて「時雨に濡れた草鞋も笠もぬぎ捨てて」(『新講』)と解するのは問題であろう。山本
健吉氏の指摘するように、笠は草鞋とはちがって逗留する毎に捨てるものではない。従って「すてん」は下に掛けな
い方がよく、ここですっぱり切れた方が、句の姿も良いと思う。『笈日記』の「草鞋を捨ん」という句形は尋常に聞
347 天和四年 • 貞享元年
えるが'「ヮランジステン」という興じた調子は却って失われる。恐らく杜撰であろう。なお、『皺莒物語』にょれば、
これを発句として桐葉.東藤との三吟歌仙が成った由で、同書に第三までが伝えられている。『幽蘭集』には叩端.
如行•エ山の顔触れで更に六句まで続けたものが見えるが、それでは三吟にならないので、元のものではなかろう。
观馬をさへながむる雪の朝哉(野ざらし紀行) はるの続の原.響物語.熱田1
馬をだに詠る雪のあした哉(続阿波手*
冬季(雪)。
1 i 〇 馬をさへここは 街道筋で旅人を運ぶ駄馬をいう。「さへ」は、既存の物の上に更に添加される場合に用いる副 助詞。 〇な
がむる じっと見入る。〇 雪の朝 「朝」は 「ァシタ J 。 「雪が霏々 g と降りしきる朝とする説もあるが、夜来の雪のやんだ快晴の
朝、 つまり 「雪晴1せの朝」とみたい」(『古典文学全集•松尾芭蕉集』堀信夫氏)。「月の夜、雪のあしたのみ、友のしたはる、もわり
なしや」(芭蕉「閑居"箴 j 丨『本朝文鑑』 )「 Axita . i , Asa . 」(『日葡辞書』)。
la 雪晴れの朝には、旅人 ばかりか、その乗った 馬までをじっと見入る気持になること だ。
I 熱田連衆の手にょる『皺営物語』には前の「此海に」の句の次に、
次の日、
馬をさへ詠むる雪の朝かな 翁
木の葉に炭を吹おこす鉢 閑水
はた<と機織音の名乗きて 東藤
是も同じ。
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と見える。これによれば、恐らく桐葉亭到着当日の挨拶吟たる「此海に」の句の成った翌日の吟と考えられよう。
『野ざらし紀行』では、名古屋に入ってから後、「狂句木枯の」「草枕」 r 市人よ」等の句を並べた次に、「旅人をみる」
として宛かも名古屋での属目のような形で収められているが、これは「市人よ」の句と共に雪の句をここにまとめよ
うとした構成意識による作為とおぼしく、当初の成立事情とは別の動機が働いた結果と見られる。同じ熱田の閑水亭
での吟と見る説があるのは、亭主が詠む習わしの脇を閑水が付けていることを考慮したのであろうが、前記『笈日
記』所収の「悼芭蕉翁」にも、桐葉亭に草鞋を脱いだことを記した続きに「木枯の格子あけては/、馬をさへ詠る雪
といひ」と書かれており、『皺営物語』も桐葉亭での吟と見て差支えない書き方である。閑水亭で俳席が催されたの
は事実と思われるが、その時はその日の朝出来た句を立句としたまでで、閑水が脇を賦している故に発句が其処での
作とは限らない。なお、『皺営物語』の記事の終りの r 是も同じ」は、前の r 此海に」を発句とした付合の後の「三
吟一巻に満じぬ」を承けたものだから、「馬をさへ」を発句とする付合も、同じく三吟の歌仙が成就したものと思わ
れる。然るに『幽蘭集』に桐葉の四句目が付けてあるのは、「三吟」と矛盾するので信じ難い。
さて、『笈日記』の文に「木枯の格子あけては」とあるのでも分るように、作者は戸外に居るのではなく、屋内に
あって戸外を行く馬上の旅人を眺めているのである。『紀行』に「旅人をみる」とあるのは、句中の「馬を さへ」 の
意味を明らかにするものとして見逃し難い。つまり「旅人は勿論のこと、馬までをじっと眺める」 という ことなので
ある。この句の内容については、山本健吉氏の所説が精しいので、左に引用しておこう。
r 眺むる」とは、ぼんやり物思いに沈みながら、視線を外にやっている ことで ある。もともと五月雨(ながめ)
の降る物忌み時分の、性的アンニュィであり、そこからつくづくと見守る意となり、さらにまた、遠く見渡す意
になった。この句は、うち見守っているのであるが、やはり、旅中のつれづれに、何となく表に目をやっている
ときに、白皚々の雪のなかを馬に乗った旅人の姿が通り過ぎるのを、受動的に視野に捕えたといった趣きがある。
349 天和四年 • 貞享元年
無心の状態で捕えられた光景であり、捕えてからはっきり意識のなかに焼きつくのである。芭蕉の目は、旅人の
孤影を捕え、次いで雪のなかをぼくぼくと歩いてゆく馬の姿を捕える。捕える という ことは、馬の姿のあわれさ
が、肺腑に沁みわたることである。……それは何の見ばえもしない駄馬の姿であるが、理由もなく芭蕉の心を捕
えて離さない。平凡なさりげないものに対する感動であり、その自分の感動を自分で驚く気持が、この一句とな
って結晶したのである。……やはりこの句の感動の対象は馬であって、旅人は従である。言葉の表面的な意味と、
裏面の詩的感動とは逆対応になって居て、しかも不思議に矛盾を感じさせない。言葉の日常的な世界と、詩とし
ての高次の世界とが、ここでも重層をなしている。しかもその日常世界を超えた感動に驚く主体そのものを、は
っきり表面に現してしまったところが、この句の渾然さにおいて缺けるところかも知れない。……ともかく、素
材的にはきわめて単純であるが、この句の詩的感動は必ずしも単純ではない。(『芭蕉その鑑賞と批評』)
この句の表現の内実を分析した極めて精細な見解といえよう。感動に驚く主体が表面に出ていることを欠点と見るか
どうか、私は寧ろその素直さを愛したい気持が強い。なお趣向にこだわる傾向の強い貞享初頭の作としては、こうい
う点は貴重であろう。堀信夫氏は、「馬は旅人の乗った馬と見る説が多いが、かならずしもそうとる必要はない。空
荷の馬と見るほうがむしろィメージはすっきりする」 (『古典文学全集•松尾芭蕉一*』) と説かれたが、『紀行』の「旅人をみ
る」がある以上、そうした見方は無理が目立つ。
2/3しのぶさへ枯て餅から やどり 哉 ( 野ざらし紀行)®—語 -SI. 熱田! 一一 歌仙
葱さへ枯て餅うるやどりかな se 旅)
冬季(しのぶ枯る)。
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n 〇しのぶさへ枯て 「葱さへ枯れて」。「しのぶ草」( I )は秋季であるが、それが r 枯て」とあるのでここでは冬季になる。
「草枯る」は冬の季語。「草のかる k . 枯野などは冬 也」(『御 傘 JI ) 「野は枯てのばす物なし鶴の首支考」(『続猿蓑』下) 「 care ,
uru , eta . 」(『日葡辞書』)。 〇餅かふやどり 「餅買ふ舎り」。神宮の境内に餅をひさぐ茶店があった。それをここでは「やどり」と
いったので、暫し足を休める所といった意に用いられている。「かふ」のは勿論芭蕉である。「見しり逢ふ人のやどりの時雨哉荷
兮」(『あら野』卷五) 「 carinoyado . 1, carinoyadori . 」(『日葡辞書 fe 。
ia 神宮の境内は荒れ果て、しのぶ草さえ枯れてしまって昔を偲ぶよすがもない。ただ休茶屋で餅を買って空腹を
満たすばかりである。
■■熱田滞留中の一日、熱田神宮に詣でた時の吟で、『紀行』には、
«?田に詣。
社頭大ィ-一破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と
名のる。よもぎ•しのぶ、こ\ろのま、に生たるぞ、中^^'にめでたきよりも心と V まりける。
と、その情況を描いた後にこの句を載せている。また、『皺笆物語』や『熱田三歌仙』には「しわびふしたる根深大
根」という桐葉の脇を収めてあり、案内役に桐葉を帯同したものと思われる。
熱田神宮は慶長五 ( ISS 年以来八十年余りも修理が行われなかったので、色蕉が参詣した時は、『紀行』に描か
れたように全く荒れ果てた有様であった。「しのぶ」は実際その場にあった物でもあるが、勿論昔を傯ぶ意に掛けて
用いてあり、それさえも枯れてしまったと言って荒蕪のさまを強調している。この句の見所は、そうした在り来りの
趣だけでなく、「餅かふやどり」というものを点出した所にあろう。芭蕉たちが境内の休茶屋で餅を買って食べたの
であるが、それを句中に取り込むことによって、俳諧的な気分が加味されることになった。それを自然描写と併叙的
に扱って、飾らない懐しい雰囲気を出すのに成功している。こういう境地が蕉風を確立しようとした際に考えていた
典型的なものではなかったかと思う。
351 天和四年 • 貞享元年
「餅うる」 という 『後の旅』の異形については、初案とする考え方もあるが、初案ならば何故それが熱田系の俳書
に伝わらなかったのだろうか。 もとより 「餅うる」とすれば、句の全体が荒れ果てた境内の描写になり、これ亦趣あ
る一句には違いない。しかし右にいった点を考慮すれば、誤伝と見た方が穏やかであろう。
みちのほとりにてしぐれにあひて
別かさもなき我をしぐる乂かこは何と(ぁっめ S 菜集
途中時雨
笠もなき我を時雨る k か何と^^ (熱田一—仙)
冬季(しぐる)。
1 〇み ちのほとリにて 「道の辺にて」。ここは、ちょっと外出した途上で、の意。「道のベ」( I )参照。「ある人北野もうでの
帰さに、みちのほとりの小童にこがね一両くれて」(『炭俵』下、野坡発句「石台を」前書) 「 Michinofotori.J (『日葡辞書』)。〇 しぐれ
にあひて 「時雨に逢ひて」。〇か さもなき 「笠も無き」。〇 我をしぐ る ゞ か「我を時雨る k か」。「しぐる」は、「しぐれ i か-ら也
た自動詞で、「時雨が降る」意であるが、ここは「を」を承ける形で「自分をしぐれさせるのか」といった他動詞的用法に-す1こ
とによって、詠嘆的気分を強めている。後年の「人<をしぐれよやどは寒くとも」(土芳『蕉翁全伝』)も同じで、作者の個性的な
気分を持つ表現である。 「 xigurpruru , eta .」 (『日葡辞書』)。〇 こは何と 「此は何と」。「此は何とせし事ぞ」の略で、突然の事態
に驚き、相手に問い詰める気分をあらわす。「これはいかなこと」「何となされました」というのに似た狂言風の興じた調子がある。
「山ざとにたれを又こはよぶこ鳥ひとりのみこそすまんとおもふに」(六家集本『山家集』上) 「 ooua . J 「^ anto .」 (『日葡辞書』)。
Bang 笠も無い私を時雨に濡らすのか。こりゃどうした事じゃ。
■ I この句は貞享四年秋に書かれた真蹟詠草「あつめ句」に見えるので、遅くとも同三年冬までには成っていたと
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推定される。また、異形ながら『熱田三歌仙』に収められたものは、熱田に遺っていた真蹟に拠ったとおぼしく、末
が「何と<」とあるのが初案であったろぅ。これが熱田での作とすれば、貞享元年冬の訪問の時、それも季語から
して十二月の二度目の折ではなく、初度の滞在の時の作と思われる。
笠も持たずに外出したら、俄に時雨に逢って濡れてしまった。笠もない身を濡らすとはどぅした事かと、天に向っ
て詰っているのだが、表面のきつい調子とは*:腹に、実は時雨に興じているのであって、その気持を狂言風の表現に
託した即興体である。
笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまりくのあらしにもめたり。侘つくした
るわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士此國にたどりし事を、
不圖おもひ出て申侍る
观狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉—日)野ざらし紀行_橋守
こがらしの身は竹齋に似たるかな (泊 船 集) | 桜下文集•三冊子•蕉翁句集草稿
冬季(こがらし)。
1〇 笠は長途の雨にほころび 「笠は長途の雨に綻び」。旅笠は江戸からの長い旅路で逢った雨の為に、ほころび損なわれてし
まって、の意。「奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて」(『おくのほそ 道』) 「いく落葉それほど袖もほころびず荷兮」 (『あら
野』卷七)。〇帋 衣 「ヵミコ」。厚い和紙に柿渋を塗り、日に曝し揉みやわらげて衣服に仕立てたもの。「帋」は「紙」に同じ。「紙
子浪人」などといわれて貧しい人々が着用したが、また防寒に役立つので、旅行には必需品であった。「帋子一衣は夜の防ぎ」
(『おくのほそ道』) 「 camico . J (『日葡辞書』)。〇 とまりくのあらしにもめたり 「泊り泊りの嵐に揉めたり J 。 宿場々々の荒い風に
353 天和四年 • 貞享元年
よって揉みくちゃになってしまった、の意。「とまり」は、泊る処。宿屋の意に用いられることが多いが、ここでは上の「長途」
との照応を考慮して、「宿場」の意と見たい。「とまり^^稲すり歌も替けり京ちね」(『あら野』卷七)「駒のやど昨日は信濃けふは
甲斐野水秋のあらしに昔浄瑠璃荷兮」(『あら野』員外)「アレかみがもめているから、いたみますよ」(『祇園祭挑燈蔵』初幕)
「 Tomari .」「 Araxi .」 (『日葡辞書』)。〇侘 つくしたるわび人 「侘び尽したる侘び人」。窮乏し切ったみじめな人。上の笠は綻び紙
子は揉めた有様を承けたもので、美的意識の「わび」とはちがう。「侘テすめ」 (§) の句参照。「わび」を繰返した強調表現である。
「わび人のなみだににたるさくらかなかぜみにしめばまづこぼれつ k 」 (『山家集』中) 「 vabibito .」 (『日葡辞書』)。〇我 さへあはれに
おぼえける ras さへ!^れに寬えける」。その窮乏し切った有様は、他人は勿論のこと、自分自身さえ我が身が哀れに感ぜられた、
という意。上から「わび人たる我さへ」と直接続くのではなく、「わび人」は提示的語法で、「(その有様は)我さへ…… J と続く
文派と解したい。「遠き事ながら、まのあたり憐におぼえて」(『猿養』卷三、芭蕉発句「むざんやな」前書) rAuareni . J 「 voboye , ru ,
eta . 」(『日葡辞書』)。 〇むかし 「I B /. J 。 現在からさかのぼる過去の或る時 期。 以下に述べる事は架空の物語であるが、事実あった
事のように扱っている。「昔住けん人の、殊に心高く住なし侍りて」(「幻住庵記」) 「 Mucaxiuoxinobu .」 (『日葡辞書』)。 〇狂哥の才
士 「^¥の於±"」。狂歌の才のある人。「狂哥」は正雅な和歌とちがって、おかしげなことを専らにする狂体の和歌を指す。「哥」
は「歌」の略体。句中に見える物語の主人公竹斎は、旅中いろいろ失敗をやらかしては狂歌を詠むので、こういったのである。
「後鳥羽院御時、柿本•栗本とておかる。柿本はよのつねの歌、是を有心と名づく。栗本は狂歌、これを無心といふ」(『井蛙抄』卷
六) 「 Qi 6 ca . curuivta .」 (『日葡辞書』)。 〇此国にたどりし事 「此の 0,1 に辿りし事」。「此国」 は、 尾張国(今の愛知県)を指す。
竹斎が京を出て東へ向い、迎り迎って尾張までやって来たことをいったのである。「いがの国花垣の庄」(『猿養』巻四、芭蕉発句「一
里は」前書)「円位ほうしのたどり申されし簏は、霧横り水ながれて」(『続猿蓑』下、芭蕉発句「名月の」支考評) 「 ouni . J「curaqi
70 3.80〇}1:0ョ0 ^. ョ211180<^ョ 0*5:§^ 602 .^371111^6 ^ 11^&3,<&0.」(『日葡辞書』)。〇不図おもひ出て「不図思ひ出でて」。
「不図」は、ゆくりなくと同じ意の副詞「ふと」に宛字したもの。「不図とびて後に居なをる蛙哉津島松下」(『あら野』卷二)「亡父将
監が秘してつた へ 侍しをおもひ出て」(『続猿蓑』下、沾圃発句「姨捨を」前書) 「^ uto . i ,^ utto . 」 「 vomoiide , suru , deta . 」 (『 H 葡
辞書』)。 〇申侍る 「申し!^る」。句を作った、の意。句を作ることを「句を言ふ」といい、それを丁寧に「申す」といったのであ
る。「明るわか葉の比、文鱗に申つかはしける」(『あら野』巻三、荷兮発句「髭に焼」前書) 「 M 6 xi , su , ita .」 (『日葡辞書』)。 〇狂句こ
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がらしの身 「狂句木枯の身」。「狂句」は、俳諧を指す別称。俳諧がもともと正雅ならぬ無心所着の狂体の句に発するところから
言う。「こがらしの身」は、冬の寒風にさらされる作者自身ということで、「こがらし」が季語になる。一々の語に不明な点はない
が、「狂句こがらし」と続けた表現に無理が目立つ為に、それが何を意味するか、また「狂句」が抑々句中の語かどうかについて、
古来議論が多い。中村俊定氏は、
m の乞食に軒の F を借スオ丸(『次韻』)
春ヲ何と m のごまめ時雨の海老 嵐蘭(『虚栗』)
春雨の新発意粽荷ひ来て桐葉 (『餓 営物語』)
等、天和貞享期の句例から、「 . の」という修辞法が俳壇の流行となっていたことを指摘しておられ(『日本古典文学大系.色蕉句
集』)、ここも「狂句の身」「こがらしの身」という二つの形容句を一つにした表現かと思われる。つまり「狂句を詠みながら木枯
に吹かれて旅をする自身の姿」をいったものであろう。「狂句」が句中か句外かの論については後述するが、芭蕉がこれを句外の
語として扱ったことはなく、後に省いたと伝えられるが、省いたこと自体、句中の語だったことを示すものである。句中の語とし
ながら、題目と同様に解するのは無意味であって、結局は右に述べた解釈に落着くと思う。「木枯は冬なり。秌の句にもあるは、
秋よりも吹ゆへなり」(『御傘』)「かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごと k なす」(『笈の小文』)「水干を秀句の聖わかやかに
野水山茶花匂ふ笠のこがらしうりつ」(『冬の日』) 「 cogaraxi .」 (『日葡辞書』)。〇竹斎「チクサィ」。近世初期の仮名草子
『竹斎』(磯田道冶作)の主人公。京の藪医者で、患者も来ないまま、諸国行脚を思い立ち、下僕の睨の介を伴なって東へ向って、
名古屋で「天下一の藪医師」の看板を掲げた。いろいろ珍事件を起しては狂歌を詠み、更に江戸へ下る。
■ aa おかしげな句を詠みながら木枯に吹かれて旅する身は、あの物語の主人公竹斎に似ていることよ。
■『野ざら し 紀行』には、熱田神宮参拝の記事の次に、「名に入道の程、風吟 K 」 として 見え、これによれば、
熱田から名古屋へ向う途中に得た句のようである。木因の「句商人」 (『桜下文集』 所収)には、「名古屋に侍居して狂句」
とあって、名古屋の宿に落着いてからの作と思わせる書き方になっているが、途中で想を得て、最終的に まとまった
のは到着後とすれば、この二つの記事は矛盾と考える要はあるまい。芭蕉はこれを名古屋連衆との最初の俳 席で披露
355 天和四年 • 貞享元年
し、初見の人々への挨拶とした。やや長い前書を付したこの発句を巻頭として『冬の日』五歌仙が成り、記念すべき
蕉風成立の画期となったのである。
芭蕉の名古屋入りは、恐らく十一月の内であったろう。五歌仙がどういう順序で成立したか確かには分らないが、
第五の巻が、「霜月や鸛の彳々ならびゐて」という荷兮の発句で始まっているからである。「狂句こがらし」の発句で
始まる第一の巻が最初に成立したことは言うまでもない。俳席が設けられたのは、脇を賦した岡田野水の家であった。
富裕な呉服商備前屋の主人で、家は大和町(現中区丸の内二丁目)にあった。尤も、名古星の人桑山楳渚の書いた
『金鱗九十九之塵』によると、この時は久屋町(現東区泉 一丁目、中区丸の内三丁目あたり)の野水の借宅だったと
も伝えられる。彼は「たそやとばしるかさの山茶花」という脇を付けているが、これに越人が「其時は野水亭へ始て
入来也。亭主の挨接、崇敬仕て云句也」(『冬の S 越人注)と注しているのによっても、野水の家で催されたことは疑い
なぃ。
句の表現については、「狂句こがらしの身」という言い方が常に問題になる。「狂句」と「こがらし」と全く別の事
を只連ねるのは、如何にしてもその意を得難く、不束かだというのは一応の道理である。そういう立場から、これを
題目のように解して、「こがらし」云々の句は「狂句」であることを示したまでと見るような説が多い。これは実質
的に「狂句」を句外の語と見るわけである。とこちが、「狂句」を省いた句形を出した『泊船集』には、「道の記には
狂句こがらしとありけり。後に狂句の文字をはぶき給ひしよし」と伝え、土芳も「古枯、初は、狂句木がらしのと余
していへ り」 (『三 冊子』 赤雙紙)「此句、冬の日と云集、前書有。狂句取と有。はじめは冬の日のごとし。後直り侍る」
(『蒸 翁句集草稿』) 等と述べている。「色蒸野分して」(泌)の句の場合のように、初期の極端な字余りの異体を、後年尋常
な形に修正したことは例のあることであるが、「狂句こがらし」の句は、字余りを正したことを裏付ける真蹟が知ら
れないところから、これらの所伝を疑う説があるのも、一応理由のあることではあろう。『泊船集』の所説に杜撰な
356
例が多いことも夙に知られている。しかし、篤実を以て聞える土芳が、疑問の形ではなく「初は……余していへ り」
「後直り侍る」と断定的に述べている点に注意すべきではあるまいか。土芳も『泊船集』の記事に拠って記述するこ
とは屢々あるけれども、この場合はそうではなさそうである。『泊船集』が伝聞の形なのに、土芳が断定的なのは、
改案が事実だったからであろう。そうすると' 芭蕉が後年字余りの異形を嫌って「狂句」の 二 字を省いたことは確か
と見られ、後で省いたということは、逆に句中の語であったことを証している。「狂句」は句中の語とすべきであり、
句中の語としながら題目と同じに扱うのは無意味であろう。従って解釈は、〔語釈〕で述べたようなことに落着くの
である。木因の「句商人」の書き方は聊か問題になるけれども、今伝わる『桜下文集』は木因の自筆本ではない。転
写を経る間に、写し手の私意によって句外の語とされた可能性を否定し難いのであって、これを最初から「狂句」が
句外の語であった証とするわけには行かないのである。なお、木因が果して名古屋まで随伴したかどうかも問題で、
熱田で色蕉とは別れたと見る向きもあるが、それにも確証はなく、旅の記の中に含めている以上、名古屋まで二人は
同行したと考えるべきではあるまいか。
名古屋に入るに当って、滑稽物語の主人公竹斎に想いを馳せたのは、やはり大垣以来の風狂の気分が然らしめたの
であろう。名古屋で藪医者の看板を出した竹斎の風体を物語では、
折ふし冬の事なれば、やぶれかみこにぬのうらつけ、おびはもめんの丸ぐけに、はをりはいかにもす、びたる、
むらさきつむぎの袅りをさし、のけ袅もんにぞきなしける。
と描いていて、『冬の日』の前書に強く影響したことが看取される。いわば「私はこういう者です」という自己紹介
の趣向を持つ句自体も、「狂句こがらし……」という異体であった。これだけ見ていては分りにくいが、「句商人」冒
頭の木因の文には、
侘人ふたりありや。つかれ姿にて狂句を商ふ。しらぬひのつくしに松浦瀉ばちにもあらず、清き渚に玉拾ふいせ
357 天和四年 • 貞享元年
嶋ぶしにもあらで、紙子かいどりて道行をうたふ。
歌物狂二人木がらし姿かな 木因
と見える。「狂句」を商う疲れ姿の侘人というィメージは、ここにあるように大垣出発当初から二人ながら共有して
いたものだった。この影響下に「狂句こがらし」の句が発想されたことは明らかである。前書と相俟って、其処には
「竹斎に似たる」狂句好きの芭蕉の姿が現前する。そういう形で、芭蕉は名古屋連衆の前に自ら名乗をあげたのであ
る。 また、井本農一博士が、
だが、この句は一見軽く詠み捨てたような詠みぶりではあるが、かなりまじめな芭蕉の心持ちがこめられている
といってよいように思う。仮名草子の『竹斎』の主人公は、……まったく戯画化された人物である。これに対し
て自分もまたそんなようなものだというのは、興じた言い方ではあるが、この二、三年急に感じ始めた色蕉の内
心のある反省に、秘かに触れたところがあるように思われる。さりげなく興じて詠っていながら、底のほうにひ
やっとふれる点がある。そういう心持ちがあるから後になって芭蕉は、ことさらに興じたような語である「狂
句」を取り去ったのであろう。(『鑑賞 日本古典文学芭蕉』)
といわれたのは、鋭い指摘であった。
後に「狂句」の二字を除いたとはいえ、貞享初年の風狂の気分を如実に反映する作としては、やはりこの字余りが
無ければならない。「こがらしの」だけでは、後年の「寂び」の完熟した姿ではあっても、成立当初の殊更興がった
擬態は、印象強く浮んでは来ないのである。現に『野ざらし紀行』の諸本間には、この句に関する限り凡て「狂句」
の語があって、異同は見られない。後に字余りを正したことは確かと思うが、ここでは当初の作者の意図を尊重して、
初案の形を本位句とした。
358
观草 tt 犬も時雨\かよるのこ表 ( 野ざらし紀行) 真填短冊.ぁら野
冬季(時雨)。
1 〇 草枕 「クサマクラ」。旅中草を枕にして寝るところから、「旅」或いは「旅寝」の枕詞として古来用いられた語。ここは枕
詞ではなく「旅寝」の意で、作者の境涯をあらわす。ここで句切れであって、この句は初五と中七以下とで構成されるわけである。
「草枕ほどぞへにける宮こいで i いくよかたびの月にねぬらん」(『新古今集』巻十、大江嘉言) rousamacura .」 (『日葡辞書』)。〇犬も
時雨、か 「犬も時雨、か」。「時雨」の語を活用させた用法で、「、」は知らず識らず振仮名を意識した用字である。「か」は疑問。
「しぐれ」「しぐる」には、単に天象としてばかりでなく、それによって惹き起される侘しさ悲しさの含意があり、それを犬にまで
及ぼして思い遣っているのである。「犬も時雨と云詞、珍敷して俳諧と云べし。殊に犬もの母の字に余情有り。此母の字に我が時
雨る事は顕れて名誉と云べし」(信天翁 i の底』)。〇 よるのこ系 「夜の声」。夜聞えて来る犬の声。
ia 軒に時雨の音をきく侘しい旅寝だ。夜のしじまに犬の声が聞えるが、あの犬も時雨に濡れて悲しんでいるのか
なあ。
■ is ■『野ざらし紀行』に前の「狂句木枯」の句と並んでおり、これは名古屋の旅宿での吟と思われる。貞享元年冬
の成立であって、貞享後期の筆蹟と見られる真蹟短冊が出光美術館に所蔵されている。
旅路の時雨の暫しの宿り、旅寝の床に聞く軒の時雨の趣は、和歌や連歌に言い古されているが、 この 句では「犬も
時雨、か」と思い遣ったところが新しい俳諧味といえよう。寒夜に遠くから響いて来る犬の声は不気味なもので、何
か幽界からの呼び掛けのようにも聞える。この声は「犬の声でもあり、しぐれの催しの音でもあり、さらにいうなら
ば、 ちょうど 欧陽修 が一 夜聞きつけて恐れ悲しんだ「秋 ノ 声」 (「秋声/賦 t と同じような、夜自体の声でもあった」(尾
形仂氏『松尾色蕉』)という 鑑賞が ある 所以であり、そうした奥行きが、 この 句を単なる動物哀憐の句にとどめていない
359 天和四年 • 貞享元年
理由でもあろう。自分も犬も共に時雨降る闇の世界の中で、寂しさをかみしめている趣がある。くんくんと鳴くより
は、びょうびょうと鳴く犬の声ではあるまいか。尾形氏はまた、芭蕉の作で時雨を聴覚を通してとらえたものは、こ
の句だけであることを指摘しておられる。
おなじ比ならん。杜國亭にて中あしき人の皇取つくろひて
抓雪と雪今霄師走の名月欺§晶) 泊船集.蕉翁句集
冬季(雪.師走)。
i 〇 おなじ比 「同じ比」。以下「取つくろひて」までの前書は『笈日記』の撰者支考の文である。同書には、この句の前に
「ためつけて雪見にまかる紙子哉」「面白し雪にやならん冬の雨」の句があり、支考はこれらの句の成った貞享四年冬の作と推定し
ているわけである。しかし、その冬芭蕉が杜国の家を訪ねたのは十一月であって「師走」ではなく、場所も名古屋からは遠く離れ
た伊良湖崎近くであった。『笈日記』より三年後の『泊船集』も「此句、尾州にて中あしき人をなだめられけるとて」と注してお
り、支考もこの句を尾張での作と考えているらしいことは同じである。従って支考の推定は種々の点で矛盾があり、信憑性に乏し
いと言わざるを得ない。支考の入門は細道の旅の後なので、貞享期の芭蕉の動静には精しくなかった為に、このような誤りを犯し
たのであろう。彼の年代推定は信用し難いけれども、次に見える杜国の家で不和だった誰かの調停をしたという事実は、無根の事
とは思えない。するとその時期は、杜国がまだ名古星に居て、芭蕉がその地を訪れた貞享元年十二月しか考えられないことになる。
本書でこの句をここに配した理由も、その点を考えたからである。「おなじ比にや、浜の地蔵に詣して」(『笈日記』所収芭蕉発句 「雪
薄し」前書) 「 vonaji . 1 , Vonaji coto _ 」(『日葡辞書』)。〇 杜国亭 「トコクティ J 。 「杜国」は坪井氏、通称庄兵衛。名古屋御園町
(現名古屋市中区丸の内一丁目)の富裕な米商で、町代を勤めていたという。この翌貞享二年、空米売買の科で尾州領内を追放さ
れ、三河の保美に蟄居した。芭蕉は同四年十一月此処を訪ね、翌年の吉野の花見には彼を同伴した。元禄三( I 六九 0) 年三月二十日
歿、享年三十 余。 「亭」 は、 その人の家をいう。「三月六日野水亭にて」(『はるの日』所収旦藁発句「なら坂や」前書) 「 Tei . i ,
360
Teixu .」 (『日葡辞書』)。〇中 あしき人の S 「中悪しき人の叟」。仲が悪い人同士の関係を、の意。「叟」は、「事」の古字「叟」と
同じ。「なにともなくて、すこしなかあしうなりたる、文おこせたり」(『枕草子』八十四段)「鳶で工夫をしたる照降支考おれが
叟哥に読る k 橋の番芭蕉」(『続猿蓑』上) 「 Nacauochig 6•」 「 Axij . J (『日葡辞書』)。〇取 つくろひて 「取り繕ひて , -〇ここは関係
を修復して、の意。「取」は接頭語である。 「 Toritgucuroi , 6 o > ta .」 (『日葡辞書』)。〇 雪と雪 処々の雪が相映じた雪明りのさま。
それを、仲の悪かった二人が和解して、もはや一点のわだかまりもなく、宛かも清らかな雪の映えあうようなさまに譬えたのであ
ろう。〇 師走の名月歟 「師屯の名月歟」。「名月」は中秋八月の十五夜の月で、「師走」にはあり得ない。従ってこれは譬喩表現と
見るべきである。処々の雪の照り映える雪明りを名月の光に譬えたのであろう。「歟」は、古い中国語の疑問の助詞。既出( 757 前
書)。「割の字を容易に置ける事は、元来未練の至り也。古人^ I の一字に腸を断てる事はたやすからず。名月•けふの月•月見、此
かはりいさ ゞ か有べ し」 (『篇突』)「三五•十三夜の月、今をしなべて名月と云り。其内いづれの月かしらず、名月と云故有と聞キ
ぬ。然共、今日名月の詩哥を作らんに、あながち其古実にかぎるべからず」(『旅寝論』)「からながら師走の市にうるさ ゞ い(越
人 ご(『あら 野』卷 六) 「名月は夜明るきはもなかりけり越人」 (『あら 野』卷一) 「 xiuasu . J「Meiguet Aqiracana touqi , 一, na aru
tguqi . 」(『日葡辞書』)。
1 処々の雪の照り映える雪明りは、まるで師走ながら中秋の名月かと疑われる程だ。お二人の仲も光風霽月、そ
のように一点のわだかまりもないように願いたい。
I 『蕉翁句集』には「杜国亭にて中あしき人の事などとりつくろひて」と、『笈日記』に基づいたらしい前書が見
える。成立は〔語釈〕で考証したように、貞享元年十二月、名古屋に於いてであろう。「名月」とあるところから、
十五日とも考えられないではないが、譬喩表現とあっては、其処まで限定は出来ない。
「中 あしき 人」 とは 誰と誰であったか知る由もないが、名古屋の荷兮.野水グループの俳人だった ことは 確かであ
る。 指導者の芭蕉を迎えた機会に、二人の間を取持って貰おうというので、杜国が自分の家に席を設けたものに違い
ない。杜国は貧しい他国者の越人を親身に世話したと伝えられる程の人だから、そういう席を提供して芭蕉と共に周
旋するには嵌り役だった。和解が成立して手打ちとなった記念に詠まれたのがこの句である。俳席で事が起ったよう
361 天和四年 • 貞享元年
に解する向きもあるが、前書の書き振りからして恐らくそうではなく、普段仲の悪い二人を和解させる為に席を設け
たと見た方が良い。わだかまりなく打ちとけた二人のさまを、雪の清らかさ、雪明りの明るさに譬えて詠んだのであ
って、雪明りを見ての感動から発想したものではあるまいと思う。
2 /S 市人よ此笠うら ふ S の傘 (野ざらし紀行) S
抱月亭
市人にいで是うらん笠の8(笼日記) |三冊子
市人に此単の雪うらん(蕉翁句集草稿)
冬季(雪)。
i 〇市人「ィチビト」。物を売買する為に市に集う人々。ひろくは町に住む庶民をいう。「瓢簞の大きさ五石ばかり也越人
風にふかれて帰る市人芭蕉なに事も長安は是名利の地同」(『あら野』員外) 「一 chibito .」 (『日葡辞書』)。〇此笠うらふ「此の
笠売らう J 。 自分の携えた傘を売ろう、の意。「笠」は-- T の「傘」と通用した用字で、実体は「傘」と見るべきであろう。なお
〔考〕の条で述べる。「うらふ」は、市に立つ物売-5-;の口調を摸したもので、「ふ」は、口語の意志の助動詞「う」の変則表記であ
る。「からながら師走の市にうるさ V い(越人ご(『あら野』卷六) r けふになりて菊作ふとおもひけり二水」(『あら野』巻四)
「 vri , u , utta . 」(『日葡辞書』)。0雪の傘「雪の傘 1 -=雪の積ったからかさ。「我名を橋の名によばる月荷兮象の内近付になる
雨の昏に李風」(『はるの日 fc 「 casauosasu . 」(『日葡辞書』)。
GBI 市に集う商人たちよ、この傘を売りますよ。雪の積った傘をね。
■ SB 『野 ざら し紀行』には、「狂句木枯」や「草枕」の句の次に「雪見に ありきて」として 出て おり、 『笈日記』尾
張部には前掲の如く「抱月亭」 として 発句を挙げた後、「酒の戸た、く鞭の枯梅」 という 亭主抱月の脇を記し、
362
是は貞享のむかし抱月亭の雪見なり。おの<此第三すべきよしにて幾たびも吟じあげたるに、阿叟も転吟
して、此第三の附方あまたあるべからずと申されしに、杜国もそこにありて、下官もさる事におもひ侍ると
て、
朝がほに先だつ母衣を引づりて 杜国
と申侍しとや。されば、鞭にて酒屋をた X くといへるものは、風狂の詩人ならばさも有べし。枯梅の風流に
思ひ入らば、武者の外に此第三有べからず。しからば此一座の一興はなつかしき t かなと今さらにおもはる
、也。
と委しく その座の模様を伝えている。即ち貞享元年の冬名古屋滞在中の吟であって、抱 月と いう俳人のことについて
はよく分らぬが、雪見に二三子と共に浮かれ出て、途中抱月の家に立寄り、俳席を催したものと思われる。
『笈日記』の句形は、名古星に遺されていた資料に基づくものと思われるから、『紀行』に先立つ初案と思われる。
『蕉翁句集草稿』の所伝も留意すべきで、土芳は「是直に聞句也」といっている。彼は『紀行』と『笈日記』を参照
しており、その言に噓はあるまい。貞享元年にはまだ土芳は芭蕉と会っていないが、後年 この 句が話題になった時に、
最初の案として話したものと思われる。 r 此傘の雪う らん」 は三案のうちで最も稚拙なので、『笈日記』所伝の形より
更に前の案だったのであろう。
「笠」と「傘」の混用が、この句では問題になる。最初に掲げた『紀行』濁子絵巻本の形が既にそうなっているが、
初稿の真蹟長巻本は「市人よ此傘うらふゆきのかさ」、『泊船集』本は「市人よこの笠うらう雪の傘」、真蹟絵巻本は
「市人よ此笠うらふ雪の傘」である。潁原博士は「傘の字を柄のない笠の場合にも用ひることは、江戸時代の慣用と
して必ずしも珍しい事ではない。菊本氏蔵の真蹟には「市人よ此傘うらふゆきのか さ」 とあつて、傘笠混用したこと
は明らかである。下五の傘もまた笠である」(『新講』)と説かれ、従来これが概ね従われているけれども、寧ろ逆に
363 天和四年 • 貞享元年
「傘」を中心に考えるべきではあるまいか。『句集草稿』所伝の「此傘の雪うらん」の「傘」は「ヵラヵサ」と訓むこ
と明らかであり、雪を売るという趣向は『笈日記』の句形に於いても変っていない。『紀行』諸本でも、初稿長卷本
は上を「傘」 y を「かさ」とし、他にも念を押すような下五の繰返しを「幸」と書いている例が多い。柄のある傘を
さして 雪見に出掛けるのも極く普通に見かける風俗であった。最初は興に乗って「雪を売ろう」とする趣向であった
が、落着いて見れば余り酔興に過ぎるようなので、雪の積った風流な「傘」を売る趣向に改めたのであろう。雪見に
出歩いているうちに得た句を抱月亭の席で披露したのであろうが、或いは抱月が外ならぬ「市人」だったので、恰好
の挨拶吟としたのかも知れない。
按うに、この句の趣向の背景には狂言の「末広がり」があるのではないか。この狂言は周知のように、主人から都
へ行って末広がり(扇)を買い求めて来いと言いつけられた太郎冠者が、末広がりを扇と知らなかったばかりに、都
の者にだまされて、唐傘を売りつけられる話である。都へ上った太郎冠者は「末広がり買おう」と街中を呼ばわって
歩く。その「買おう」を転じて「雪の傘を売ろう」と戯れた風狂の趣向なのであろう。「笠」をかぶっての雪見は、
蘇東坡の雪中騎驢の図や『詩人玉屑』所収の詩「笠重呉天雪」等を思わせるが、それらは寧ろ陳腐である。この句の
「うらふ」は明らかに狂言調で、風狂の情が色濃くあらわれている。なお、『芭蕉句選』には「市人にいで是うらん雪
の笠」という形になっているが、これは『笈日記』の形を誤り伝えたか、「雪を売る」というのに不自然さを感じて
改めたか、何れかであろう。
海くれて鴨のこ袅ほのかに白
(野ざらし紀行)
笈日記.皺篱物語•蕉翁句集草稿.熱田--:歌
仙•蓬萊島.麻刈
冬季(鴨)。
364
i o 海くれて 「 ifii 暮れて J 。 0鴨のこ系「鴨の声」。鴨は冬季。我が国には二十九種類もの鴨が居るといわれ、海に棲むもの
は魚介類を主食とする。安東次男氏は、「マガモやヵルガモの一一尸は、とても「ほのかに白し」というわけにはゆかぬ。コガモや
ョシ ガモもだめだろう。結局、冬羽の白の部分も目立ちやすく、鳴声が静に澄んで通り、そして近海で浮寝をする鴨となると、ス
ズガモかヒドリガモだろう」(『色蕉発句新 注』) と考えておられる。「芦鴨水辺也、冬也。……あし田霞•芦鴨、哥道大事の秘伝あ
り」(『御傘』)「遠干潟沖はしら波鴨の声鬼貫」(『大悟物狂 fc 「 camo .」 (『日葡辞書』)。〇ほのかに「微かに」。「鳧の音声はけた、
ましき声にして、至て遠く聞ゆる物也。此吟、髡髴と云に、暮たる沖に遠く聞く趣を現したる所、名誉と云べし」(信天翁『哀の
底』)「明る夜のほのかに嬉しよめが君其角」(『続猿 S 下) 「Fonocani miru ', qiqu . J (『日葡辞書』)。
1 a 海は蒼茫と暮れて、聞えて来る鴨の声が何がなし微かに白い感じだ。
1 この句、『紀行』には「馬をさへ」(犯)の句の次に「海辺に日暮して」として出ているだけであるが、『皺®物
語』には「尾張の国あつたにまかりける比、人^^師走の海みんとて船さしけるに」とあり、外にも「尾張の国あつ
田にまかりける比、人<師走の海みんとて舟さし出て」(『笈日記』)「尾州あがたにまかりける頃、人ミ師走の海見ん
と蓬萊嶋に舟さしけるに」(『蓬萊島』)等の前書や、『笈日記』雲水部所収熱田連中の芭蕉追悼文中に「やみに舟をうか
ベて浪の音をなぐさむれば^海暮て鴨の声ほのかに白しとのべ」とある記事によって、その時の情況をくわしく知る
ことが出来る。前述したように、色蕉は十一月中に熱田から名古屋に移ったのであるが、これらの文には明らかに
「師走」とあるので、十二月に再び熱田に赴いたことが知られ、この二回目の滞在中の或る日、熱田の海に舟を浮べ
て一日舟逍遥を楽しみ、日暮に及んでこの発句を得たものと思われる。『皺笆物語』『熱田三歌仙』『蓬萊島』には、
この発句に始まる芭蕉.桐葉•東藤•エ山らによる四吟の歌仙が収められており、これは発句が成って間もなく巻か
れたものであった。『蓬萊島』には巻尾に「貞享元年臘月十九 日」 とあり、『一葉集』もこれに従っているが、その根
拠の程は明らかでない。
一白中舟遊びを楽しんで時を過すうち、海上はいつか蒼茫と夕闇に包まれて来た。師走の海の潮風は一入冷く身に
しみて感ぜられる時、沖の遠くから鴨の鳴く声が聞える。それを「ほのかに白し」と直観的に把握したのである。そ
の為に、句のリズムは五•七.五の普通の形をとらずに、五.五•七の破調になった。常識的には「海くれてほのか
に白し鴨のこ袅」となるべきところであろうが、それでは「ほのかに白し」は、暮靄に覆われてなお微光を残す海上
のさまを表現するにとどまり、「鴨のこ袅」はその海上の景の配合に過ぎない。破調の句形の場合とは、内容や表現
効果に、相当の差異を生ずることは容易に理解出来よう。既に夙く杜哉の『芭蕉翁発句集蒙引』に、
日の入果し海の面に、爰かしこ水鳥の音聞ゆるなど、旅愁かぎりなからん。但、鴨の声の五文字沓に置かば、ほ
のかに白しの語、海のことのみにか、るべきを、転動して置給へ るより 風情浅からず。名人の手づま翫味すべし。
とある通りである。
尾形仂氏がその著『松尾色蕉』で指摘されたように、「も V 伝ふ磐余の池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲隠りなん」
r 吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして」「芦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ」
「芦の棄に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕べし汝をば傯ばん」「世に経れば鴨の水掻きやすからず下の思ひはわれぞ苦し
き」等、古来の歌人は鴨の声や姿に託して、望郷.旅愁•不安等の気持をうたうのが常であった。芭蕉も江戸を発足
して数箇月を経、長途の旅の辛苦を体験している。■伊賀の郷里を間近に控えていることとて望郷とまではいわずとも、
この句の背景にそこはかとない旅愁を看て取るのは間違った感受ではあるまい。それは鴨の声を「ほのかに白し」と
把握した表現の新鮮さと矛盾することでもないと思う。
この句の破調のリズムに、談林や天和調時代の余響を見るのも無意義ではあるまいが、この句の詩的内容の充実ぶ
りは、やはり遊戯俳諧の頃の作とは全く選を異にする。聴覚を視覚的ィメージに転化させて、鴨の声を「ほのかに白
し」 と表現したわけだが、その「ほのかに 白し」 は直ちに「海 くれて」 に 響き 返って、夕闇に包まれる冬の海の さま
を鮮やかに印象づける。斯くて「ほのかに白し」は、夕闇の海と鴨の声の両者を包み込み、句の世界を統一する役割
366
を果す語となるのである。山本健吉氏のすぐれた鑑賞の言に聴こう。
鴨の声に見出だした感動は、色蕉の発見の驚きでもあったが、その声をほの白いと感ずる特異な知覚は、その姿
のさだかには見えない夕闇を媒介として生じたものである。もちろんここには、聴覚を視覚に転化せしめるとこ
ろの、鴨の声の「もの」としての把握がある。そしてこの場合、聴覚の視覚化は、視覚の消滅によって完成する。
鴨の姿が見えないことによって、鴨の声があたかも見えるもののように、暮れてゆく海上に浮かび出る。……鴨
の声そのものがそこに仄白さを実在せしめる根源の力なのであり、言わばはてしもない薄暮の闇のなかに、さら
に仄白い実体が感じられるのである。これは「石山の石より白し秋の風」の句より、ずっと感覚的に鋭く、また
フレッシュな摑み方である。……「鴨の声ほのかに白し」とは、おそらく色蕉が瞬間的に見とめ聴きとめたこと
の、単刀直入な表現なのだ。その昂揚した内的リズムが、この句の破調を生かしているのである。……鴨の声が
消え、仄白いものが消えて行ったあとには、ふたたびはてしもない闇が在る。「ほのかに白し」の余韻を、視覚
的ィメ—ヂ として描き出せば、そういうことになるであろう 。(『色蕉その鑑賞と批評』)
なお、声を「白し」とする感覚転位については、乾裕幸氏が「白声」というこの時代の日常語の存在を指摘しておら
れる。調子はずれな声のことだが、謡曲では節のないセリフのことを言う。そして乾氏は、
このような「白声」あるいは「声白し」の文学的用法と俳句史の流れの中に、貞享元年成立の色蕉の発句を置い
てみたらいい。声を白しというぶんには、漢文学も心理学も必要ないのではないか。芭蕉はおそらく、たちまち
暮れかかる海上に' あの風変わりな鴨の白声……をほのかに聞きとめたのだといえば、大方の顰蹙をかうだろう
か。わたくしはいま、想像力の自由が情況によって規定され ると いう普遍的真理に力を得て、〈俳意〉をになう
句切れの異体や、このようなことばの用法が、句全体の表象する豊かなィメージの中にしまいこまれ、やがて確
立する蕉風的境地への予感にあふれる俳体が誕生したことを言おうとしているのである。 (『ことばの内なる色蕉』なぜ
367 天和四年 • 貞享元年
俳諧なのか)
と説いておられる。この句の俳意は右のよぅな点に求めるべきかも知れない。
真蹟自画賛.出光美術館蔵真蹟短冊.^
挪いかめしき音や霰の檜木笠 (孤松) 画美術所収真績短冊•陸奥衞•泊船集•宇陀法
師•心ひとつ•蕉翁句集.芭蕉翁真跡集
冬季(霞)。
i 〇い かめしき音や 「厳しき音や」。ばらばらと笠にあたる霰の音を「いかめしき」と表現した。「や」は、詠嘆の切字。「さ
い^^ながら文字問にくる芭蕉いかめしく瓦庇の木薬屋越人」(『あら野』員外) 「 Icamexij .」 (『日葡辞書』)。〇 霰の檜木笠
「霰の檜木笠」。「霰」( I )「檜木笠」 (§) 何れも既出。
Baa 檜木笠にあたる霰の音の、何といかめしいことよ。
— 『蕉翁句集 J には「自画像賛」と前書があり、蓑笠を着た人物の絵にこの句を賛した幅が、飯野逸平氏蔵とし
て『芭蕉図録』に見える。桃鏡の『色蕉翁真跡集』所収の摸刻は、東都自在庵蔵の色紙である。この句は板本の初出
が貞享四年三月刊の『孤松』(尚白撰)なので、貞享三年冬を降らないことは確かであり、『蕉翁句集』が元禄二年作と
するのは誤りとする外ない。更に年代について参考になるのは、其角の「芭蕉翁終焉記」(『枯尾花』所収)の左の如き
記事である。
貞享初のとしの秋、知利をともなひ、大和路やよし野の奥も心のこさず、露とく^^こ>一ろみに ぅき 世す\がば
や、是より人の見ふれたる茶の羽織•ひの木笠になん、いかめしき音や あられと 風狂して、こなたかなたの しる
ベ多く、鄙の長路をいたはる人^/、名を乞、句を忍ぶこと安からず聞えしかば、隠れかねたる身を竹斎に似たる
哉と m の吟行に、猶^/徳化して正風の師と仰ぎ侍る也。
368
これにょれば、野ざらし旅中の吟と見られ、貞享元年冬の作とする推定に矛盾する資料はない。但し、名古屋に入る
前ならば、木因の旅の記「句商人」に見えそうなもので、それにないところを見ると、それ以上に時期を限定するこ
とは不可能であろう。本書ではこの年冬の作と見るにとどめておく。
笠に霰のあたる音を「いかめし」と感ずる裏には、旅の辛苦に疲れた作者の境涯が感ぜられ、それは「狂句こがら
し」の句の『冬の日』の前書にも通ずるものである。古注の『笈の底』が、三条西実隆の歌「霰ふる真木の板屋のか
たびさしおとにたててぞ冬はきにける」(『藤川 五百首』 所収)を引いて、
此吟は此歌などの趣を以て可 x 味也。……庇檐の雹の音を聞は歌也。亦、檜笠に聞は、板庇の意有て俳諧也。誠
に笠を天地の家とする無住行脚の風流と云べし。
と言っているのは良い。この句の時実隆の歌を思い浮べたかどうかは推測の限りではないが、檜木笠にあたる霰の音
を聞き留めたところに俳諧があるのは確かであろう。それを「いかめし」と聞くのは、「使つくしたるわび人」 (『冬の
日』)なのである。それを自画像とした心は、旅の侘人としての自らを客観視するわけで、其処におのずから余裕と微
苦笑が生ずる。この時期には、もう斯うした境涯の佳句を生むところまで、心境が成熟していたのだった。
观年暮ぬ笠きて草鞋はきながら(野ざらし紀行) 孤松.此筆.今日の昔•追鳥狩
冬季(年暮る)。
〇年暮ぬ 「年暮れぬ」。「暮ミて」 ( g ) 参照。「としくれぬ春くべしとはおもひねにまさしく見えてかなふ初夢」(『山家集』
上 ) 「toxiga cururu . 」(『日葡辞書』)。 〇笠きて 「笠着て」。「かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境ょり出て、 何を むさぼりあり
くにや」(『水の友』所収芭蕉発句「馬ぼくく」前書) 「 Qi , s , ita.J (『日葡辞書』)。 〇草鞋はきながら 「草鞋履きながら」。草鞋を足
369 天和四年 • 貞享元年
につけたままで、の意。上の「笠」と共に、実際にそうして居るというのではなく、旅に在ることを示す表現である「草鞋」
(如)参照。「とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ」(『ぉくのほそ道』)「足駄はく僧も見えたり花の雨万菊」(『笈の小文』>
「 varagi . 」 「 Faqi , u . aita. 」 「Qirumonoto do > buccuo - s . nagal-a mN-zuni fitatta . 」(『日葡辞書』)。
Bi 笠をかぶって草鞋をはいたまま、今年は とうとう 暮れてしまった。
I 『紀行』には熱田での「海 くれて」 の句の次に、「爱に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮け
れば」としてこの 句を録 し、「とい ひくも山家に年を越て」 と 述べている。 e 蕉は郷里伊賀の上野を「山中」「山
家」と 表現する ことが 多いので、この句も貞享元年の年末尾張から故郷へ帰り、家兄半左衛門の家に落着いて越年し
た時の歳暮 吟と 見てよい。土芳の『蕉翁全伝』には「臘月廿五日ノ夜、又此所(注、伊賀 i : 野)-一入テ歳暮ノ吟アリ」
と あって、 この 事を裏付けている。『孤松』には「旅行」と題するのみ。『今日の昔』の前書は『紀行』の文と同様で
ある。
新しい俳諧の確立を目ざして江戸を出てから既に数箇月、長途の旅を経ていろいろな処に立 寄り、 さまざまの人 Y
逢い、途上の辛苦も一通りではなかった。故郷の兄の家に落着いて、それまでの旅を振返った感慨が、「年暮ぬ'」と
いう重々しい吐息のような初五に反映しているのであろう。それに比して「笠きて」以下は、軽くてただ言のような
響きを持つ。これよりさき、芭蕉は熱田桐葉亭での歌仙「海くれて」の卷(『鐵 S 物語』等所収)で、「富士の根と笠きて
馬に乗ながら」という付句を成したが、『皺営物語』の記述によると、これは定家幼時の作と伝えられる歌「旅人の
tt '- r ' M ' r 乗ながら口をひかれてにしへこそゆけ」を踏まえたものであるという。近時の諸注の指摘するように、こ
の発句の時も芭蕉は定家の右の歌を思い浮べ、「馬」を「草鞋」にさしかえて俳諧にした可能性が大きい。「笠きて草
鞋はきながら」という表現の持つ軽さも、故有りといわなければならぬ。
しかし、その軽さは、「年暮ぬ」 という 深い吐息と微妙なバランスを保っていて、軽々しいおどけに偏してはいな
370
い。其処にこれがしみじみとした境涯の句として成功している理由があろう。人生を旅と観ずる安らぎと寂しさが、
何気ない表現のうちに感得されるのである。「笠」と「草鞋」は俳諧特有の即物的表現でもあった。「みちのくににて
としのくれによめる」と前書した西行歌「つねよりも心ぽそくぞおもほゆるたびのそらにてとしのくれぬ る」(『山家
集 t を指摘する古注があり、西行に敬愛の情深く、『山家集』を愛読した芭蕉が、この歌を意識しなかったとは言え
ないにしても、「心ぼそくぞおもほゆる」と打ち出した表現では、味わいが全く異なる。そういうことを言わない発
句の方が、感銘は格別に深いのである。蕪村は、その「歳末弁」の中で芭蕉のこの発句を引き、
片隅によりて此句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、か、る身に しあら ばと いと 尊く、我ための摩^■止観とも
いふべし。 蕉翁去て蕉翁 なし。とし 又去 や 又来る や。
色焦去てその k ちいまだ年くれず
と絶賛した。
371 貞享二年
貞享一一年
山家に年を越て
誰ガ婿ぞ齒朶に餅おふ牛の年(一—
野ざらし紀行•孤松.あつめ句•真嘖短冊■三
冊子. S 集
誰聋ぞ餅に齒朶をふ丑の年(一—)
春季(歯朶•餅•牛の年)。
iM 〇 山家 「ャマガ」。山中の家。芭蕉の郷里伊賀の上野を指す。「いせの斗従に山家をとはれて」(『続猿蓑』下、芭蕉発句「蕎麦は
まだ」前書) 「 Yamaga . J (『日葡辞書』)。〇 年を越て 「年を越えて」。後掲の真蹟前書の仮名書きを参考に、「越して」ではなく、
「越えて」とよむ。新年を迎える意。 「 Toxiuocoyuru . l , toru . 」(『日葡辞書』)。〇誰ガ 婿ぞ 「誰が婿ぞ」。「婿」は、「聳」「壻」に
同じ。一体誰の聱なのか、の意。「が」は所有格である。「誰母ぞ花に珠数くる遅ざくら祐甫 」¢5俵』 上;昼寐の癖を なをし か
ねけり色蕉聋が来てにつともせずに物語支考 J (『続猿*』上 ) 「Mucouo toru . 1 , mucodoriuo suru . 」(『日葡辞書』)。〇歯朵 に
餅お ふ「歯朶」は、正月飾りにし、鏡餅の下にも敷く。既出/?2)。「餅」は、正月の床などに飾る鏡餅である。これも既出(您〇
「おふ」は「負ふ J 。 句全体の感じからすれば、聱が背負っているとすべきようでもあるが、それでは「牛」との縁は'「負ふ」に
「追ふ」をかけた言葉の綾だけにとどまり、「牛の年」が浮いてしまう。餅を負った牛を婿が追って行く (鞭を当てて牛を歩ませ
る)として始めて全体がまとまるのであって、そのような見方でこの句は解すべきものと思う。「暁いかに車ゆくすじ胄ヰ ㈣
372
負ふて大津の浜に入にけり旦藁」(『はるの日』)「さい王 丸御 牛を追たりければ」(『徒然草』百十四段) 「 Niuovp' 」 「vmauo v 6 . 」
(『日葡辞書』)。〇 牛の年 正しくは「丑の年」。貞享二年乙丑の年をいう。「牛」の字を用いたのは、動物としての印象を強調する
為であろう。「長閑さや角ぶりもせぬ丑の年祖翁」(『毛吹草』巻五) rvxi . 」(『日葡辞書』)。
la 一体誰の®だろう。丑の年の正月に、歯朶に餅を負った牛を追って行くのは。
I 『盱ざらし紀行』には、貞享元年の歳暮吟「年暮ぬ」の後に、「といひ<も山家に年を越て」としてこの発句
を出し、翌二年の歳旦吟であることを示している。また、貞享二年夏に成った伊勢の風瀑の『一楼賦』の撰者自序に
は、「歯朶に餅負ふ牛は、我翁山家に年を越て便に送しを粧の冠として」とあり、伊勢に報じた句を早速発句の部の
最初に掲げて公けにしたもので、板本の所出としてはこれが最も早い。貞享四年秋の真蹟「あつめ句」と『栗集』に
は「やまがにとしをこえて」と前書があり、真蹟短冊は、鯉屋伝来の短冊五点をまとめた幅の中の一つである。
田舎では、正月に聋が舅の家に鏡餅を携えて年礼に行く習慣があるといわれ、その習俗を頭に置けば、この句は理
解しやすい。牛の背に歯朶を敷いた鏡餅をつけて、牛を追って行くさまは、いかにも長閑な山里の正月風景である。
寛文十二年二十九歳の春に郷里を出て江戸へ赴いて以来、全く久方ぶりに過す故郷での正月の日々に、なつかしい昔
ながらの習俗に出逢って発想された句であった。「婿」もまだ結婚し立ての若者といった趣がある。しかも、「おふ」
を掛詞にして「牛の年」と洒落たのは、『三冊子』にこの句を引いて、
此句は、冬の日のとしの歳旦也。此古体に人のしらぬ悦有と也。(赤雙紙)
とあるように、意識的な「古体」だったのである。十余年ぶりに過す故郷の正月に、身も心もくつろいで、ふと口を
衝いて出たのが、このような貞門風の縁語仕立ての句であった。これもまた面白いと作者自身微笑むような気持が、
この時芭蕉の感じた「人のしらぬ悦」だったのであろう。今栄蔵氏は、「貞門では「丑の年」など干支を用いて新年
の季語とする風が流行した」(『日本古典集成.芭蕉句集』)ことを指摘しておられ、『毛吹草』の春の部などを見ても、その
373 貞享二年
ょうな傾向は明らかに看取される。さすれば下五に「牛の年」と置いた句作りも、貞門古風を思わせる趣向というこ
とになろう。最近、富山奏博士は、『綜合日本民俗語彙』に見える「聋鏡」「嫁鏡」の習俗を指摘された(「『三冊子』に
見る芭蕉句解」二十二、『四天王寺』平成四年六月号)。これは結婚後初めての正月に、嫁の里方からその婚家へ鏡餅を贈る習わ
しである。富山博士は、潁原博士の『新講』に、妻の実家へ年礼として鏡餅を贈るとしたのを根拠不明として、里方
から聱方へ贈るのを信ずべきものと見ておられる。そして、夫婦が連れ立って年礼に廻るのに、聱は鏡餅を背負い、
嫁は牛の背に乗って行くさまを描いたものと解しておられるのである。鏡餅は牛の背につけていてもょいと思うが、
これは注目すべき新説であろう。
句形について、『一幅半』(乙孝撰、元禄十三年刊)の異形は、真蹟がすべて「しだにもちおふ」であるから、問題にな
らない。『色蕉句選』に、下五が「年の暮」とあるのは論外である。
223子の 日し に都へ行ん友もがな(蕉翁句き
春季(子の日)。
H ◦子の日しに 「子の日為に」。正月の初子の日に、人々が野外に出て小松を引いて千代を祝う行*。中国で正月の子の日に
新菜を食べて無病息災を祈る習俗が日本に伝わったものといわれ、平安朝初期から宮廷行事になった。「日」は現在では濁らない
が、『日葡辞書』には 「 Nenobi . J とあり、易林本.饅頭屋本『節用集』も「ヒ J を濁っている。下に引く『山之井』の「寝のび」
も参考にして、ここでは濁って訓みたい。「し」は、サ変動詞。「に J は、……する為に、の意。「子日春也。正月初子の日、野
に出て小松を引事也。又円融院の御時は、二月に被 x 成しとあり。……円融院二月の子日を人皆あやしみ思へり。土佐日記にも、
二月に子日翫たれば、昔は正月にかぎらずと見えたり。是は唐の文に出たる事也 J (『御傘』)「子日の遊びとて。古。人^^野辺
に出て小松をひき。われ人ともにいはひ侍し事とぞ。松根に倚て以腰をすれば。千年のみどり手にみてりとも作り。君にひかれて
374
よろづ代やへんなどもよめり。俳諧鉢にも。男は女松に腰をすり。女は松ふぐりに心ひくなどいひなし侍る。哥には大かた松をむ
ねとよみ侍れども。只名香のはつねの 日。 ふんぞりかへる寝のびかな ゞ ど斗もし侍る」(『山之井』)「ならべて嬉し十のさかづき
去来千代経べき物を様く子日して芭蕉」 (『猿 蓑』卷五) 。〇行ん 「行かん J 。 ここで切れるのではなく、次の「友」にかかる。
「行こうとする友」といった感じの 表現。〇友もがな 「友」即ち道連れを誘う 気持。 「もがな」は願望の終 助詞。 「独来て友選びけ
り花のやま冬松」(『あら野』卷一)「あはれ紅葉をたかん人もがな」(『徒然草』五十四段 ) 「TompJ (『日葡辞書』)。
IB 風雅な子の日の遊びをしに、都へ行こうとするような友が欲しいものだ。
I 『1翁句集』貞享二年の部に次の「旅がらす」の句と並んで見え、土芳の『全伝』も同年の条に挙げているし、
竹人の『全伝』も同年の春伊賀での作とする。年代に関するこれら伊賀所伝に矛盾する資料はない。
都へ行く友を求める気持を、優雅な宮廷行事子の日の遊びにかけて表現している。同根の民間行事は各地にあった
けれども、ここで作者の想っているのは、やはり王朝宮廷の遊びであって、それはもはや往時の ような 形では行われ
ておらず、想裡にのみ存するものであろう。それだけにこうした表現には、えも言えぬなつかしさが籠る。郷里での
正月を過して、色蕉は早くも又都へと遊意を動かしていたのである。
測旅がらす古巢はむめに) S にけり S の道) 泊船集 • S 山集.蕉翁句集草稿.蕉翁句*
春季(古巣•むめ)。
H 0 旅がらす 「旅烏」。処定めず渡り歩く烏をいうところから、これを旅から旅に漂泊する作者自身にたとえた。自分が墨染
の衣を着て旅していたので、その色からの連想もあったかも知れない。数年後の『鹿嶋詣』に「僧はからすのごとくなる墨のころ
もに、三衣の袋をえりにうちかけ」と、同行した宗波の姿を描いているのが思い合わされる。 〇古巣 「フルス」。鳥のもとのねぐ
ら。季語としては春になる。芭蕉の郷里伊賀の上野をたとえた。「とりはふるすにかへる」(『毛吹草』巻二) rFurusu.J (『日葡辞
375 貞享二年
書 t 。 〇 むめに成にけり 「 i に) s : 1 りにけり」。梅の咲く時期に成った、の意。「むめ」という仮名遣は、語頭の唇音を強く意識し
たもの。「馬」などと同じく、 M 音の前に唇を結んで発する音を「う」或いは「む」であらわすのである。
ia 旅烏よ、お前の古巣(故郷)は梅の花の咲く時になったなあ。
B — 初出の『鳥の道』(玄梅撰、 元禄十年刊) には、「此句は翁いつの比の行脚にか、伊賀の国にてとしの始にいへる句
なり」 と注して出し、『蕉翁句集』は貞享二年の部に「伊賀にてある方に」と前書して収めている。この句の成立事
情に関しては、土芳の『全伝』貞享二年の条に、
此句ハ作影亭ニテ梅烏の画屛ヲ見テノ作也。是二哥仙有。
とあるのが最もくわしく、「此句にて伊賀俳影方にて哥仙有」(『蕉翁句集草稿』)「ある人のもとに屛風の画を見て」(竹人
『全伝』) とも 伝えられている。伊賀の信ずべき資料がこのように一致しているので、この句が貞享二年の正月伊賀の
作影なる人の許で成った ことは 疑いを容れない。
作影という人については何も分らないが、恐らく若い頃からの旧知であったのだろう。その家へ招かれて、梅と烏
を描いた屛風を見てこの句を詠んだという。画中の烏に呼び掛けた体で、「旅がらす」に自らを比し、梅の木の「古
巣」を故郷上野、狭く限れば作影の家にたとえたのである。庭の梅なども花をつけていたかも知れない。兎に角屛風
絵によって発想して、恰好の挨拶の句にまとめた手腕は賞してよかろう。故郷の新春に人々の歓待を受けて十分くつ
ろぎながらも、「旅がらす」の身は、やはり一抹の寂しさを禁じ得ない。画中の烏に呼び掛けながら、同時に自ら省
りみて旅の身をいとおしむような響きを持つ所以である。
376
葛城の郡竹内に住人有けり。妻子寒からず、家子ゆたかにして、春田かへし、
秋いそがはし。家は杏花のにほひに冨て、詩人をいさめ愁人を慰す。菖蒲に
替、菊に移て、慈童が水に德をあらそはん事必とせり
225初春先酒に毒賣にほひかな—懐紙)
春季(初春.毒)。
1 〇 葛城の郡竹内 「葛城の郡竹内」。大和国葛城下郡竹内村(現奈良県 北 葛城郡当 麻町 大字竹内)。既出 (10 〇 住人有けり
「住む人有りけり」。〇 妻子寒からず 「妻子寒からず」。妻子など家族が寒さにこごえることもなく、の意。「妻子をも世に立て
ぅずるにてあるぞ J (謡曲「藤戸」)「捨し子は柴莉長にのびつらん野水晦日をさむく刀売る年重五」(『冬の日』) rsaixi . Tg
uma , co . 」 「 samui .」 (『日葡辞書』)。 〇家子ゆたかにして 「家子豊かにして」。「家子」は、使用人をいぅ俗語。使用人が沢山居て、
の意。「奴しもべ……上総にて。けご^;1 ** き」(『物類称呼』巻一)「けご下濁……上総国にて下部の事をいへり。伊勢国にては
婢女をもけごといふ」(『俚言集覧』)「をのが家子の子となりし事しらぬもの-1、何事をかわきまふべき」(『折たく柴の記』上)「水上
すめる御代ぞとて、流れの末の我らまで、豊かにすめる嬉しさよ」(謡曲「養老.!) 「 Yutacani.J (『日葡辞書』)。 〇春田かへし 「 #'111
耕し」。春には田植に備えて田を耕し、の意。所謂「春田打ち」で、春暖かになると鍬で田の土を起す。今は耕耘機によって機械
化されたが、その前は牛馬を使って鋤で起し、更に昔は元気な男が並んで鍬で土起しをした。「春田」を一語とするよみ方もあり
得るが、ここは次の「秋いそがは し」 と対句になっているから、「春には田を耕し」と解すべきである。「千刈の田をかへすなり難
波人一鷺」(『続猿蓑』下) 「 Tauocayesu . J (『日葡辞書』)。〇秋 いそがは」 秋には取り入れで忙がしい。「月見れば人の砧にいそ
がはし羽紅」(『猿蓑』卷三) 「 Isogauaxij .」 (『日葡辞書』)。〇 家は杏花のにほひに富て 「家は杏花の匂ひに富みて」。「杏花」は、
あんずの花。屋敷には杏の樹が沢山あって、その花の匂いで一杯なのである。「冨」は「富」と同じ。蘇東坡の「月夜与/客飲, 一 酒
杏花下 I 」の詩(『古文真宝』前集卷五所収)に「杏花飛 x 簾散--余春-、……花閒置酒清香発」(杏花簾に飛んで余春を散じ、……花間
377 貞享二年
に置酒すれば清香発し)とあり、有名な杜牧の「清明」(『聯珠詩格』所収)にも、「借問酒家何処有、牧童遥指杏花村」(借問す酒家
何処にか有る、牧童遥かに指さす杏花村)とあって、次の「菖蒲に替」以下に酒のことを言っているところを見ると、ここの「杏
花のにほひ」にも酒を暗示しているのではないかと思われる。「青くさき匂もゆかしけしの花嵐蘭」(『猿蓑』巻二)「長生殿裏春
秋富」(長生殿の裏には春秋富めり)(『和漢朗詠集』下) 「 Qi 6 qua . ca 3 momonofana .」「 Niuoi . J 「 Tomi , mu .」 (『日葡辞書』)。〇
詩人をいさめ 「いさめ」は「勇め」で、元気づけ鼓舞する意であろう。感興を催させるのである。「見せばや爰、哥人詩人にと思
ひしに」(『好色一代女』卷三)「いづれも有難き事かなと様^-いさめけるうちに」(『好色一代男』巻三) rxijin.J (『日葡辞書』)。〇愁
入を慰す 「愁人を慰す」。「愁人」は、憂いある人の意から、ここは詩歌をたしなむ風流人の意に用いた。風流人の心を慰める、
というので、上の「詩人をいさめ」と似たことを繰返したのである。「歡慮先憤ヲ慰スル条、累代ノ武功返返モ神妙也」(『太平記』
巻二十六) 「 xajin . Vre 6 ru fit ? J (『日葡辞書』)。〇 菖蒲に替 「菖蒲に替り」。ここの「菖蒲」は、「菖蒲酒」のこと。五月五日の端
午の節供に、菖蒲の根や葉を切って酒に漬けて飲み、邪気を払い万病を治するとされた。杏花が散れば、やがて端午の節には菖蒲
酒の香りに変る、というのである。「替」は宛字。「けふの祝義のあやめの酒も、我為には涙の酒、うれひをはらふと伝へしが、中
>胸のくるしみと」(『曾我虎が磨』中)「とまり^^稲すり歌も替けり京ちね」(『あら野』卷七) 「 cauari , u , atta.J (『日葡辞書』)。〇
菊に移て 「菊に移りて」。この「菊」は「菊酒」。九月九日の重陽の節供に、菊の花を酒に浮べて飲めば、よく長寿を保つという。
秋ともなれば菊酒に浮べる菊の花の香に移って、の意。「月のでしほをくむをけに、うつろふかげはいつまで も、 つきぬいづみと
きくのさけとことぶきして」(『頼光跡目論』第四)「倩年月の移こし拙き身の科をおもふに」(「幻住庵記」) rToqigavt - ouru .」 (『日葡
辞書』)。〇慈 童が水, 「慈童」は、周の穆王の臣と伝えられる人。南陽酈県に流されたが、其処の甘谷を流れる菊水の水を飲んで
長寿を保ったという。「盃の」(54)「盃や」 (§) 参照。「彼桃原も舟をうしなひ、慈童が菊の枝折もしらず」(芭蕉発句 「やまな かや」
真蹟懐紙)。 〇徳をあらそはん事必とせり 「徳を争はん事必とせり」。「徳」は、上に言って来た種々の酒の効能をいう。長寿を保
つという慈童伝説の菊水の水とその効能を争うことは必然だ、必ずそうなる、の意。「あらそはん」は婉曲語法。 r 必とせり」は漢
文訓読の筋を引いた表現である。「晋伯-倫伝二酒-徳頌一」(『次韻』表題)「げにや衣更着やよひの空のけしき、柳桜の錦を争ひ」(芭
蕉『あら野』序)「はた一道に勝ぬる人は、……不朽に聞ゆべ.ければ必とせず」(『近世畸人伝』題言) 「 TOCU . J 「 Arasoi , 6,6 ta .」 (『日
葡辞書』)。〇 初春 「ショシュン」。春のはじめ、即ち正月を指す。 「 xoxun . Fatoufaru .」 (『日葡辞書』)。〇先「先づ」。何よりも
378
先に一番早く。〇 酒に S 売 「酒に毒売る」。「畜」は「梅」の異体字。「梅に酒売る」(梅花のもとで酒を売る)というべきところ
を、語を逆置した倒装法であろう。「髭風ヲ吹て」 (§) 参照。「酒として梅を売る」と解することも出来る。「おやも子も同じ飲手
や桃の酒傘下」(『あら野』卷二) 「 saqe .」 (『日葡辞書』)。〇に ほひ 「匂ひ」。
Iasi 正月を迎えて何よりも早く咲いた梅花のもとで酒を売る、その匂いの佳さよ。
1この句文を記した真蹟懐紙は由誓旧蔵、勝峰晋風氏遺品中にあったものとして、阿部喜三男氏の『芭蕉俳文
集』に写真が載っており、『校本芭蕉全集』第一巻には金子英彦氏蔵と見える。その筆蹟は貞享初年の特色を示し、
全体の文気•句風もこれに一致している。「初春」という季語からして、芭蕉は貞享二年正月の郷里滞在中に、昨年
の秋に続いて再び大和の竹内村を訪れたものであろ.う。その際造酒業を営む土地の素封家に書き与えたものと思われ、
他の資料には所見がない。
竹內一枝軒にて
挪世に ゞ ほへ梅花一委のみそさ ゞ い—物語)
良醫玄隨子は三度肱を折て、家を醫し國を醫す。其居を名付て一枝軒といふ。是彼
桂林の一枝の花にもあらず、微笑一枝の花にも寄らず。南花眞人の謂所一巢一枝の
樂み、偃鼠が腹を扣て無何有の郷に遊び、愚盲の邪熱をさまし、僻智小見の病を治
せん事を願ふならん
世に匂ひ梅花一枝のみそさ ゞ い(夏炉一路)
春季(梅花)。
379 貞享二年
1 M ◦竹内一枝軒 大和の竹内村なる「一枝軒」。『夏炉一路』(鳥酔撰、宝暦七年刊)所収の文章に見える竹内村に住んでいた「良
医玄随子」の居に名付けた軒号である。同書に紹介された句文は、「祖翁真蹟竹内村明石随庵所持/随庵は玄随が孫也」とい
う鳥酔の注記によれば、玄随の孫の家に伝わっていたもので、この家が明石氏を称していたことも知られる。『荘子』逍遥遊篇の
「鹪鵠巣,一於深林、不 X 過 n 一枝-」(鶴鵠深林に巣くふも一枝に過ぎず)という文に因んだ名である。 〇世に ゞ ほへ 「世に匂へ」。世
間に知られて、その人の感化がひろく及ぶように願う気持を、「梅花」の縁で「匂へ」と表現した。「世にこそ匂へ」の略とする見
方もあるが、単なる命令形と見て差支えはない。「其日かげ相続て、春の日また世にか-'やかす」(芭蕉『あら野』序)「夢さつて又
J 匂ひ宵の梅嵐蘭」(『猿蓑』卷四) 「 Yo . 」 「 Fanauairoironiuoyedomo .」 (『日葡辞書』)。〇 梅花|奎のみそさ' ゞ い 「梅花一奎の
みそさ V い」。 r 奎」は「枝」の異体字。宋の陸凱が親友の范曄に江南から梅花一枝を寄せ、「江南無 Z 所 Z 有、聊贈 L 枝春一」(江南
有る所無し、聊か一枝の春を贈る)という詩を添えた故事(『荆州記』)から、「一枝の春」といえば梅を指すことになった。従って
「梅花」と「一柰」は縁語になる。「みそさ V い」は、日本に棲む鳥としては最も小型の鳥。漢語でいう, ill 鷓」に当る。この鳥は
『毛吹草』や『増山井』では秋季とされるが、この句では「梅花」の方が季語として立つ。なお、『近江源 \Ee 先陣館』第二に「源氏
の跡をつがんとは、みそさ V いの巣を梅が枝にかけるよりはるかのこと」とあり、及ばぬ事のたとえ H - ■へみそさざいの巣を梅が枝
にかけ る」 という諺があったらしい。ここでは恐らくそれも意識されているであろう。『日葡辞書 1 'には 「 Misosanzai . J の語を
録し、 「 Mizosssi . J と言う方がまさるとあって 「 sisosazai .」 の語は出ていない。この呼び名は「溝三歳」が変化したものな
のである。「梅花ヲー枝折テ菔ノ上 11 著 タリ」 (『太平記』卷二十九)「鹪鶴家はとぎる、はだれ雪祐甫」(『続猿蓑』下) 「 Baiqua .」
「vmeno fana . J 「 Ixxi . rMtoyeda . 」(『日葡辞書』)。
1 a 梅の花咲く一枝に巣くうみそさざいといった趣の隠者よ、その花の馥郁と香るように、世にひろく感化を及ぼ
して欲しい。
1この句、板本の初出は『住吉物語』(青流撰、元禄八年刊)であるが、宝暦期の『夏炉一路』で鳥酔が大和竹内村に
伝わった芭蕉真蹟を紹介したのによって、成立事情がくわしく明らかになった。右に記したように、芭蕉がその地を
訪れた時、医師明石玄随の徳と技術を頌えて贈った句なのである。時期は「梅花」の季節からして、前の「初春先」
の句の成ったのと同じ貞享二年の正月と推定される。
『夏炉一路』の前書は、玄随が国を医する程の器量を持ちながら僻陬の地の医者として世に隠れ、荘子のいう「一
巣一枝の楽み」に自足しているのをゆかしく思い、その徳化の世に弘まることを願った意で、挨拶の句として贈った
のである。「一枝軒」の号が抑々『荘子』を踏まえた名なので、句にも「一枝」といい、玄随を「鶴鶬」即ち「みそ
さざい」に比して、折柄の「梅花」も取り込んだ趣向としている。隠逸志向が強くあらわれているのも、天和から貞
享初年にかけての特色である。ただ、匂うのは梅花であるべきなのに、みそさざいが「匂ふ」ょうに聞える句作りは、
聊かの難であろう。『夏炉一路』に紹介された句文は貴重なものながら、「世に匂ひ」は誤りであろう。このままで通
ずるとする説もあるが、命令形である方が挨拶の句としても相応しい。そのょうな見地から、本位句としては『住吉
物語』の句形を採った。
227 春なれや名もなき山の薄霞 < 濁子絵巻本野ざらし紀行)
はるな t や名もなき山の®、が t み(杉風旧蔵本野ざらし紀行)|芭蕉庵小文庫.泊船集•枕掛•宇陀法師
春季(春•霞)。
1〇春なれや「春だなあ」と詠嘆する語法。「あすは粽」( 75 )の句参照。「難波の梅の名にしおふ匂ひも四方にあまねく、一花
ひらくれば天下皆春なれや」(謡曲「難波」)。〇名もなき山吉野とか天の香具山とか和歌に詠まれた大和の名ある山ではなく、そ
の辺の名もない山をいう。「名もしらぬ小草花咲野菊哉素堂」(『あら野』卷四) 「 Nra.J (『日葡辞書』)。〇薄雪「ゥスガスミ」。「立
つかと見れば薄霞、木の間の月の影闇く、花曇りして失せにけり」(謡曲「墨染桜 trvsugasumi.J (『日葡辞書』)。
31もう春だなあ。名もないあたりの山々にも、うっすらと霞がかかっている。
381 貞享二年
I 『野ざらし紀行』では、貞享二年の歳旦句の「誰が聱ぞ」(222)の句の次に、「奈良に出る道のほど」として出て
おり、薪能見物の為に奈良に赴いた途中の吟と知られる。同年二月の吟である。『色蕉庵小文庫』は「南良ごえ」と
前書している。
「春なれや」を詠嘆と取るか、「春なればにや」の意に取るか、古来説の分れるところである。『宇陀法師』で許六
は、この句を「をしはかるや」の例に挙げて後者の意に解し、潁原博士の『新講』や揪邨氏の『講座』がこの説を採
る。尾形仂氏は、この句を「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」(『万葉集』卷十' 人麻呂)や「ほ
の</-と春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」(『新古今集』卷 ■; 後鳥羽院)の歌を念頭に置き、そうした名ある
山を裏返しにした「名もなき山」であると見て、
芭蕉が、この句で、本歌の「天の香具山」を意識に置きながら「名もなき山」の霞を取1あげたのは、ただ単に
一つの美しい絵画的構図としてそれを現実の風景の中から切り取ったというだけでな-<そこには本歌にうたわ
れている季節の感触への共感があり、その初春の季節感の新しい俳諧的具象化としてそれを取りあげたと解した
ほうが、本歌との交響を生かす所以にかなっている。……「春なれや」とは、「ああ春なるかな、春なるかな」
と、単純に春を謳歌したものではなく、四辺はなお冬の風物に包まれ、肌に感ずる風もまだ冷たい中で、四周の
名もない山々に霞のたなびいているのは、さすがに春だからであろうかと、余寒の中に大和国原の春の到来を推
しはかった措辞と解さなければなるまい。(『松尾芭蕉 fc
と説いておられる。この句が初春の山の霞を詠じた和歌を背景とすることは確かであろうが、「春なれや」を「春な
ればにや」と取ると、次の「名もなき山」との間に理窟めいたつながりが生ずる。本歌との交響は、素直な詠嘆とし
ても十分感受されるのだから、ここは強いて「なればにや」と解する必要はない。謡曲には、「山姫の袖かへす霞の
薄衣、裁ち縫はねども白糸の来る春なれや永き日に」(「佐保山 tr 難波津の春なれや、名におふ梅の花笠」(「芦刈」)等、
382
詠嘆の「なれや」は多く、西行の「津の国の難波の春は夢なれや」(『新占今集』卷六)の歌もある。この句はこれらの先
行作を念頭に置いて、「名もなき山」に俳諧としての新しい展開を示したものと見られよう。「名もなき山」が俳諧の
眼目であることは、
名もなき山と云出たる、俳諧と云べし。名所の山ミは専ら詠来を歌にゆづりて、無名の山を云出る意、甚深の至
りなるべし。(『笈の底』)
吉野とか春日野とか云ふ名所ならば歌の心であるが、何処迄も旧式の雅を離れて平凡に云つた処が俳諧の面白味
である。(『色蕉俳句研究』幸田露伴)
等、夙くから指摘されている。
「朝がすみ」という異形は、『野ざらし紀行』の初稿長卷本(杉風旧蔵)に見え、この形を採る古板本が多い。しか
し、『紀行』の諸本を成立順に並べて見ると、
はるなれや名もなき山の朝がすみ(杉風旧蔵本)
春なれや名もなき山の朝霞 (泊船集本)
春なれや名もなき山の薄霞 (芭蕉真蹟絵巻本)
春なれや名もなき山の薄霞 (濁子絵巻本)
となって、「朝霞」から「薄霞」に推敲された過程が明らかに看取される。普通には「朝霞」の方が、春の明るい風
光を描く表現としては良いように思われるけれども、「薄霞」が後案で あることは 動かし難い。これについては、
芭蕉が奈良におもむいたのは二月中旬で、初春の景をよんだ本歌との間には一月のずれがあるが、奈良ではお水
取りのすまないうちは春が来ないといわれて、実際の季節感の上では、まだまだ底冷えのする浅春の時期にあた
つている。 ( r 松尾芭蕉』)
383 貞享二年
として、「浅春の季感を明確にするため」という尾形氏の見方の外、
連歌以来の教えに「朝霧夕霞」(霧は朝のほうが濃く霞は夕のほうが濃い)とある。朝霞は早春のものではない
ゆえ、 「や」 との 映りで 「薄 霞」 としたのであろう。 (『日本古典文学全集•松尾芭蕉集 b
という堀信夫氏の説もある。これらは早春の季感をあらわすものとしては「薄霞」の方が妥当と見ているわけで、作
者の推敲心理は、恐らくその辺に落着くのであろう。兎に角、この句にあらわれた旅を楽しむなごやかな気分、それ
を釀し出したしなやかな語感は、前年歳末までには見られなかったもので、『紀行』後半の和んだ雰囲気を端的にあ
らわしている。「畳なづく青垣」と謡われた大和の山々を見るような、なつかしい句柄である。
22 S 水とりや氷の僧の沓の音 < 野ざらし紀行} 墨庵小文庫
春季(水とり)。
1 M 〇水 とり 「私® 4 り」。奈良東大寺*月堂で旧暦二月一日から十四日まで行われる修二会の期間中、七日と十二日の夜の行事。
参籠の練行衆が深夜の行法の後、早暁に牛王を貼する為の一年中の水を若狭井から汲むのでこの名がある。「南都二月堂有--牛—玉
加-持之行法—〇自,今日1141七-日-是謂 lil 七-日―〇二-月—堂本—尊観-音像太—小有 n 二-体―〇上七-日於 n 大-像観音前-修 M 法事—〇自=八-
日一一4一十-四-^則是謂- TI 七日—〇是小-観音之法事也。七-日夜又十-二-日-夜共於-一水|屋井 I 取 T 所 Z 貼 n 牛—玉一之-水 ± o 凡年—中所\
私'之水此両畜 x 桶。……東-太-寺胤各 t 自 - I 朔-日一至,一十-四-日一参 n 籠二-月堂?昼—夜有=行-法 — 〇是謂 x 籠。……十—人或
十—五_人|4二丁十—-か年有=多—少―〇相—伝籠-僧,多-則其—年有—。参-詣男—女有 I - 所-願一者止宿=仏-前 — 0是亦謂;,籠。或称-一
通-夜一」(『日次記事』二月初一日条)「今—夜東-犬-寺二-月-堂行-法出-仕 ml 自一廊—下 I 入 〆 堂。有—髪者取一一大松—炬一先-一寺僧一啟ビ
行 M , テ1 Z 堂。 wfknx 水。十—二-日夜亦-然」(同上二月初七日条)。〇氷の僧「氷の僧」。蝶夢の『芭蕉翁発句集』には「こもりの
僧」とあり、「氷」が分りにくい為に、これに従って「籠りの僧」と解する説がかなりある。しかし、『紀行』の杉風旧蔵本や真蹟
384
絵巻本には漢字で「氷」と明記してあり、仮名書きならば「こもり」が「こほり」に紛れることはあり得ても、漢字では紛れよう
もない。すると、この表現は、「二月の奈良の寺院で、寒夜森厳の行法にはげむ僧のィメージを、「氷の衣」「氷の蚕」「鐘氷る」な
どのことばにならって、感覚的に言いとったもの」(尾形氏『松尾芭蕉 t と見るべきであろう。或いは謡曲「芭蕉」の一節「今宵は
月も白妙の氷の衣霜の袴、霜の経露の緯こそ弱からし」が影響しているかも知れない。菊岡沾涼の『近代世事談』(享保十九年刊)
によると、修二会の行法に参加する僧は、凡て渋を引かない真白な紙衣を着るという。その白い姿の印象が「氷の僧」.という表現
につながっているようである。「芦の穂を摺る傘の端執筆磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて旦_」(『はるの日』) 「 oouori . J (『日葡
辞書 J 1)。 〇沓の音「沓の音」。この沓は、僧侶の儀式用のもの。檜材で、夏の間に裏を、続飯を何度も塗っては干して石のように
固めてある。「差掛」と称する型の浅沓である。堂の内陣でのみ履くもので、井から水を汲む時には用い難い。 この 事は句の内容
が、水を汲む儀式を 描く ものではないことを示している。つまり、「水と り」 は' 前の宵から早暁にかけての行法全体を指すので
ある。「沓の音水の音しぬ二月堂大魯」(『発句題林集』) 「 cut-n u . J (『日葡辞書』)。
ia 水取りの行法のいかめしさよ。氷のような僧侶の沓の音が堂内に響く。
■■『芭蕉庵小文庫』には「二月堂取水」と前書がある。『紀行』には前の「春なれや」の句の次に「二月堂に籠り
て」として出ており、土芳の『全伝』貞享二年の条に「二月中頃ョリ薪ノ能見るトテ奈良二」とあるのによっても時
期は明らかである。薪能は興福寺南大門の芝生で二月七日より七日間行われる例であって、この時芭蕉が奈良を訪れ
たのが同月中旬だったとすれば、二月堂のお水取りの行事に参籠したのは十二日の夜と推定される。薪能と修二会は
略々重なる時期の行事なのである。
前記のように、二月堂の行法には、東大寺の僧の外に、所願ある一般人も参籠を許された。ただ一般人は内陣に入
ることは許されなかったという。内陣では和上•大導師•咒師等々の練行衆が r 光明熾盛」と唱えながら、ヵタヵタ
と木沓の音を響かせて散花行道をする。声明の声と木沓の響きが相俟って、その森厳な さまは 何ともいえないものだ
そうで ある。お水取りの夜には大炬火がともされ、法螺貝の音につれて咒師の行列がしずしずと若狭井に下りて水を
385 貞享二年
汲む。その後松明を持った僧達が堂内を走り廻る「走りの行法」(達陀行法)が行われるが、夜の更けるにつれて、
僧 達の 走り 廻る速さは次第に増して、炎の乱舞と共に堂内はもの凄まじい雰囲気に包まれて行く。この句の「沓の
音」を「走りの行法」の時のものと取る説もあるが、句の寂静森厳な気分はそうしたものには相応しくあるまい。こ
れを狭義の水取りの行事の際のものではないと見る尾形仂氏の説に、私も賛成する。
練行衆の姿を見ることの出来ない色蕉は、外陣の一隅にあって、ただ音にだけ注意を集中したのだろう。尾形氏は
行道する曽達の沓音を「カタカタッカタという独特のリズム」といっておられるが、余^なおきびしい堂内に響くそ
の沓音を通して、行に励む僧達の姿を幻に描いたのが「氷の僧」という表現であろう。芭蕉は時折、人の意表をつく
表現の冒険をすることがある。それは極端な字余りや、五•五•七といった破調に表^れることが多いが、「狂句こ
がらしの身」(观)などと、普通では到底つながらない言葉を結びつけた場合は、この「氷の僧」と似た、句の内容に
関わる冒険の例といえよう。「ほと ゞ ぎす tu 月は梅の花咲り」 (§) も何がしかはそうであった。二月堂の行法を描い
たこの句は、そういう思い切った試みを包み込んで、すべてを「沓の音」に集約して提示したところに俳諧があるの
だ。
『芭蕉句選』に初五を「水鳥や」としているのは、句意を解さぬ杜撰であって、問題にならない。
鳴瀧秋風子之梅林にあそぶ
毒白しきのふや鶴を盜れし(飯田氏蔵真蹟懐紙一
清海氏蔵真睛懐紙.三月什六日付木因宛害簡.
野ざらし紀行•孤松•吐綬雞•笈日記•古蔵
集•去来抄.蕉翁句集草稿.花林燭.熱田 H 歌
春季(套)。
〇鳴滝「ナルタキ」。今の京都市右京区鳴滝の地。「鳴滝の名にやせりあふほと k ぎす如雪」(『続猿蓑』下)。〇 秋風子之梅
386
林「秋風子之梅林」。「秋風子」は、談林系の俳人三井秋風を指す。名は六右衛門時治。京の富豪で俳諧を嗜み、初め梅盛、後に
は宗因に就いた。異体の句を多く詠んだことで知られる。享保二(一七一七)年九月三日殘、享年七十二。「子」は敬称。その「晦沐 一
は、今の鳴滝蓮池町のあたりにあった秋風の別荘花林園のことである。季吟の「花林園記」に、「鳴滝の川べを右にゆけば、高
雄•とがのおなどのやまぢも遠からぬに、さはゆかで、左に丸木橋をわたりて、二町ばかりたちのぼる坂のうへに、叶の林よろづ
よの陰ふかく、そともには、所につけたる家かやぶきして、おくにいたや•かはら屋などつきしく、園にははつ春のす V な.
五形はさら也、夏の秋の野もはるかにたのし」とあって、その面影を徳ぶことが出来る。この別荘には何時も風流人の出入りが絶
えなかったそうである。葛野郡梅ヶ畑村(現右京区梅ヶ畑)の梅林も「鳴滝の梅林」と称して有名であった が、 ここは「秋風 f -
之」とあるから、秋風の別荘敷地内の梅林と思われる。「尾陽蓬左欞木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ」(色蕉『あら野』
序)「左門は其のち鳴滝の梅林に花のあぶらをのせて」(『傾城禁短気』卷ーノ四) 「 Bairin . vmenofayaxr -」( 『日葡辞書』)。〇棄「梅|
の異体字。既出2?5 )0 〇 きの. ふや 鶴を盗れし 「昨0:や11?を®まれし」。昨日鶴を盗まれたのだろうか、の意。梅花を愛し、鶴を
飼っていたという宋の隠士林和衝を思った趣向で、委しくは 〔考〕 の条で述べる。「豕子に行と羽織うち着て野水ふら^^と
きのふの市の塩いなだ荷兮」(『あら野』員外)「朝がほは鶴眠る間のさかりかな伊賀風麦」(『猿蓑』卷三)「湖水の秋の比良のはつ霜
芭蕉柴の戸や*麦ぬすまれて歌をよむ史邦」(『猿蓑』巻五) 「 Qino >.」「 T < ous . J 「之 usumi , u , ada .」 (『旦葡辞書』)。
ffi 梅が白く咲いて、林和靖のようなここの隠士にはまことに相応しい。鶴が見えないのは、 昨日 あたり盗まれた
のですかな。
■ S ■「京鳴滝三井秋風閑居梅林にあそびて」 (三月 廿六日付木因宛 書簡) 「梅林」 (『孤松』)「山-家の 梅— 林」(『吐綾難』)「訪山
隠」 (5 日記』)「山家梅林にて」(『花林燭』)「みやこにあそびて題秋風 子 之梅林」 (『熱 田 三歌仙』)等の前書がある。芭蕉は
奈良でお水取りの行事や薪能を見た後、京に上って富豪の俳家三井秋風を訪れ、その鳴滝の 別荘に 暫く 滞在する W 、
この句と次の「樫の木の」の句はその時の吟で、『紀行』にも二月堂での句の次に、「京にのぼりて 三 井秋風が鳴滝の
山家をとふ」として「梅林」と題している。
梅林に咲き匂う白梅を見、梅を愛した高士林和靖の故事に託して秋風への挨接とした句である。和靖は博学で詩書
387 貞享二年
に巧みであったが、西湖のほとりの孤山に廬を結んで二十年市に出でず、独居して子無く、梅を植えて香いの鶴を飼
っていた。時人梅妻鶴子と称したと伝えられる。彼が西湖に舟を浮べている時客があると、童子が鶴を放って主に報
じたという話は名高い。夙く素堂が『紀行』の序に於いて、
洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや靄をぬすまれしと、西湖にすむ人の霱を子とし梅を妻とせ
しことをおもひよせしこそ、すみれ•むくげの句のしもにた X んことかたかるべし。
と述べているのによって、林和靖の故事による趣向であることは明らかである。まず白梅を出して、それ'ど対をなす
鶴がいないのは、昨日盗まれたのかと戯れて俳諧にした。幸田露伴は、「雅致のある庭を表面にとつて、裏には多少
不足の感を寓してある。秋風に媚びたと云ふよりも寧ろ秋風の風雅のまだ行き足り無いところをかすめてゐる」(『芭
蕉俳句研究 JI ) と見ているが、潁原博士が『新講』でいわれたように、挨拶吟で不満の意を述べるような非礼はあるべ
くもない。やはりこれは秋風を唐土の高士に擬して賛めた意味に解すべきである。その梅と鶴のうち、後者が無いこ
とを「盗れし」といったのが如何にも巧みで、俳諧味十分といえよう。これに対して秋風は、「杉菜に身する牛ニッ
馬ーッ」と、屋敷に飼う牛馬を出して、鶴を飼うような- cr 问雅な者ではないと謙退の#^をあらわしている。
この句は趣向表現が巧みなだけに、一抹の態とらしさを感ぜざるを得ない。山本健吉氏も『全発句』で、巧みに過
ぎて嫌味があることを指摘しておられるが、その為もあってか、当時から富者へのへつらいを云々する兎角の評があ
ったようである。『去来抄』同門評にこの句を引いて左のようにいう。
去来日、ふる蔵集に此句をあげて、先師のうへをなじりたふし也。これらは物のこ\ろをわきまへざる評なり。
此句賞に似たりと也。凡秋風は洛陽の富家に生れ、市中を去り山家に閑居して詩歌をたのしみ、騒人を愛す
ると き X て、かれに むか へられ、実に主を風騒隠逸の人の おも ひ給へ る 上の作 有。 先師の心に1語な し。 評者の
心に侫諂あり。其後はしば'^まねけ ども 行たまはず。誠にあざむくべし、しゆべからず。又句体の物くるしき
388
は、その比の風なり。子亥一巡の後評とは各別なるべし。
『伊丹古蔵』 (置 助著か、元禄九年刊)は伊丹俳諧に対する論難書であって、寧ろ「梅白し」の句に関しては色蕉を弁護し
ている位である。だから去来の右の記述は誤解とせざるを得ないが、彼の誤解の背景には、この句に関連して色蕉が
非難されることがあって、それが動機になっているのだろう。抑々色蕉は富者にへつらうような卑しい心事を持った
人ではなく、このような非難を生じたのも、偏えに句の趣向表現が巧みに過ぎた為である。延宝末から天和にかけて、
秋風は異体奇調の句をしきりに作り、芭蕉一派の虚栗調と一面通ずるところもあった。この時色蕉は秋風を、有福な
がら志のいやしくない隠者と思って鳴滝を訪問し、この句を以て挨拶としたのだが、滞在中主人の人柄を観察して、
林和靖などには比すべくもない人物と見抜いたに違いない。「其後はしば^-まねけども行たまはず」という去来の
記述は本当であろうし、まだ真の人柄を知らなかった段階でこのような句を作ったとしても、非難されるいわれはな
い箸である。畢竟表現が巧みに過ぎた為に、句格の高さに難点を生じたというに過ぎない。
清海氏蔵真蹟懐紙.三月廿六日付木因宛書簡.
真蹟短冊.野ざらし紀行•孤松.あら野.吐綾
錐.旅寝論•蕉翁句集草稿.浜获•春と秋•熱
田三歌仙
春季(花)。
i 〇樫の 木 rst 」 は、 ブナ 科 ナラ 属の常緑喬木。我が国では宮城県以南の山地に自生する。「檯」と書いても同じ。「樫木ノ棒
ノー 丈余 リニ見へタル ヲ八角 二削 テ」(『太平 記』 卷二十九) 「 caxinoqi .」 (『日葡辞書』)。 〇 花にかまはぬ姿あたりの花に関わりな
く樫の木が卓然とそそり立つさまを描いた。「花」が桜であるべきことは 〔考〕 の条で言う。「かまはぬ」は日常語で、あたかも樫
に意志があるかのような擬人的表現になっている。「先ふねの親もかまはぬ鵜舟哉大津淳児」(『ぁら野』卷三)「やぶの雪柳ばかりは
すがた哉 探丸」(『猿 蓑』卷四) 「Fitoni camacanu . 」 「 sugata . 」(『日葡辞書』)。
230搜の木の花にかまはぬ姿哉(飯田氏蔵真蹟懐紙)
389 貞享二年
1 a 樫の木があたりの花に関わりなくそそり立った姿は、まことに見事だ。
BB 「山家」 (清 海氏蔵真瞋懐紙 •『孤松』)「又 山家」 (三月廿六 日付木 因宛書簡) 「ある人の山家にいたりて」 (『あら野』) 「秋風の
山家に まかりて」 (『吐綬雜 JI ) 等の前書があり、『野ざらし紀行』にも前の「梅白し」の句と並べられているから、秋風
の鳴滝の別荘に滞在中の吟であることは確かである。なお、前の「梅白し」の句も含めて、この時の京滞在中の作を
録した清海泰堂氏蔵真蹟懐紙は、第二次大戦の戦火で喪われたといぅ。
句は秋風亭の庭園の景に託して亭主への挨拶の意を述べたもの.で、あたりの花に構わずに独りそそり立つ樫の木の
さまを、俗世に超然として風流を楽しむ秋風の高潔さに譬え fc のである。「花にかまはぬ」と擬人的に表現したとこ
ろが俳諧で、巧みであるだけに、「「かまはぬ」に此の句の骨折がある。しかしまたそこに厭味もある。ぅまいことは
無類だが、其角的のうまさだ」(『続色蕉俳句研究』幸田露伴)という評も生じた。挨拶句というものの陥りがちな難点であ
ろう。『紀行』で「梅白し」の句と並んでいる為に、この句の「花」も梅の花と取る説があり、或いは汎く春に咲く
花一般を指すとか、樫の木の花と限定する見方など種々あるが、これはやはり「桜」と取るべきである。秋風亭滞在
中の草稿と見られる真蹟懐紙の全容を掲げると、
鳴滝秋風子之梅林にあそぶ
〇毫白しきのふや鶴を盗れし 桃青
杉菜に身する牛二つ馬一つ 秋風
〇我桜鮎サク枇杷の広葉哉 同
筧に動く山藤の花 桃青
日の霞夜銅の気をしりて 湖春
〇樫の木の花にかまはぬ姿哉 桃青
390
家する土をはこぶつばくら 秋風
〇梅絶て日永し桜今三日 湖春
東の窓の蝥桑につく 桃青
巣の中に燕の顔のならびゐて 同
となっており、「我桜」「桜今三日」等の表現の句があるのを以て見れば、「樫の木」の句の「花」が桜を指すとして
何の不自然もないことは明らかであろぅ。「花」といって桜を指すことは我が国の詩歌古来の伝統であり、梅の花の
句が前にあるからといって、この句の「花」まで梅の花を意味すると考えるのは、いわれのないことである。春咲く
花一般の賞美と見るにしても、飽くまで桜を中心としたものでなければなるまい。竹人の『蕉翁全伝』に「京に入て
三井秋風が別墅にある事半月ばかり」とあるように、この時の鳴滝滞在はかなり長期にわたったのであって、その事
は右の真蹟懐紙に見える句どもが「梅白し」「梅絶て日永し」「花にかまはぬ」と季節の推移を如実にあらわしている
のによっても証せられよう。長期の滞在だったとすれば、嘗て志田義秀博士が「芭蕉と制作意識」(『色蕉展望』所 S で
考えられたような、梅の頃と桜の頃と二回の鳴滝訪問を想定する必要もなくなるのである。
同
和
观我絹に伏見の桃の1下せょ(真蹟懐 S
伏見西岸寺任口上人にあふて
われ來ぬにふしみの窕の雫せょ sg
春季(桃)。
野ざらし紀行.孤松•菊の香
391 貞享二年
i 0同和「ドゥヮ」。後述するように、底本にはこの前に住口の挨拶句があり、それに対して「同に和する」意。「和」には、
漢詩の「和韻」®人の詩と同じ韻を用いて詩作すること)が意識されているであろう。 〇我絹 「犹が槪」。「絹」は r 3 fel J の宛字。
『野ざらし紀行』には「我がきぬ/『孤松』には「我衣」となっている。「洗濯やきぬにもみ込柿の花 S 張薄芝」(『猿蓑』卷二)
「 catorinoqinu . 」(『日葡辞書』)。〇 伏見の桃 「伏見」は、京の南郊(現京都市伏見区)。「桃」は、伏見の名産。秀吉の築いた伏
見城一帯の地に桃の木が多かった。桃を任口に擬した寓意がある。「此者、桃とばかり云ば実の方也。花とか色•香などのあしら
い肝要也。これらの字を出さずとも、花と聞え実と聞分るは、句意にて心得べき也。此者、和産にも種類多し。薄紅•濃紅•白
桃•緋桃•日月桃•垂糸桃也。日月桃は俗に云源平桃とて、紅白相交る者也。又、西王母とて、其樹三四尺を過ず、葉長して繁し、
紫花を開く者有。諸種所在に侍る。城州伏見の桃林、今世の壮観也。111 MSIMPJ (『滑稽雑談』)「昼舟に乗るやふしみの桃の花
桃隣」(『炭俵』上) 「 Mom ? J ( I 葡辞書』) 。◦甲せ よ 「雫」は、ここでは花の雫で、花が1 卞を垂れて欲しいと願う意。裏に、任口
の徳化に浴したいという挨拶の意が籠る。
ia 私の衣に伏見の桃の花が端々しい雫をしたたらせて欲しい。任口上人の徳化に浴したいものです。
■ S ■「任口にあふて」(『孤松』)「ふしみの任口上人にあふて」(『菊の香 b 等の前書がある。『紀行』では、鳴滝の秋風亭
に於ける「梅白し」「樫の木の」の句の次に、「伏見西岸寺任口上人に逢て」として出ており、底本の真蹟には「挨拶
\人をあだにやらじと待や江戸桜任口」と書いた後に標記の如く書かれている。この任口の発句は、『紀行』の初
稿たる杉風旧蔵本長卷末尾の、処々での酬和の句を録したところに、「我頓而かへらむと云を/人をあだにやらふと
待や江戸桜伏み任口」ともあって、何れの資料も、貞享二年春の滞京中に、伏見西岸寺なる任口を訪ねた時の挨拶吟
たることを証するものである。『芭蕉図録』に写真の収められた清海泰堂氏蔵の真蹟懐紙は、前述したように今は喪
われてしまったが、任口との挨拶の応酬がよく分るので、これを底本とした。『初蟬』(風国撰、元禄九年刊)の句形はも
とより誤りで、翌年の『菊の香』で訂正されたものである。
任口は伏見の浄土宗知恩院派の寺院西岸寺(現京都市伏見区下油掛町にある。もう一つ、同じ伏見区の深草直違橋
392
二丁目にも西岸寺という寺があるが、これは浄土真宗で、よく混同される。山本唯一博士『芭蕉俳句ノート』参照)
の三世住職宝誉上人の俳号で、また如羊とも号した。松江重頼に師事し、宗因•玟也•秋風らと交わって、後には談
林風に化せられている。延宝五年に内藤風虎が催した『六百番誹諧発句合』に判者の一人となり、桃青の句も評して
いるので、これまで二人は満更縁がなかったわけではない。しかし、対面はこの時が生涯唯一度で、任口は翌貞享三
年四月十三日、八十一歳で歿した。
芭蕉は伏見の里にやって来て、其処の桃林が折柄花の盛りなのを見たに違いない。それがおのずから任口と対面し
た時の挨拶の趣向となったものであろう。作品で見る限り、任口は飄逸洒脱な人柄だったようだ。桃の花には取り繕
ったところのない庶民的な親しみやすさがあり、任口に擬するには相応しい感じがする。春闌な桃園の花の盛りと、
洒脱な老僧の人柄が一つになった好筒の挨拶吟である。
五月十二日付千那宛書簡.あら野.雑談集•葛
现辛倚の|&丈花より1|にて(野ざらし紀5 e 松原.真瞋短冊:一点.橋守.陸奥衡.泊船
集.去来抄•粟津原.聞書七日草
唐崎の松は花より朧かな1 Is #
辛崎の松や小町が身のおぼろ(くだみぐさ)
春季(花.朧)。
I 〇辛崎の松 「¢1-崎」は、近江国下坂本村 (現 滋賀県大津市唐崎)の南端、穴太の東の琵琶湖に面した崎で、ここに有名な
「ひとつ松」 がある。 「日枝の山、 比 良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城有、橋有、釣た る V 舟有」(「幻住庵記」)。 〇朧にて
「 MS '」 は、春に空気中の水蒸気が多くなり、霧や靄が出来やすくなって、物の形が霞んだように見える状態をいう。多く夜を連想
させることばで ある。 また『御傘』には、「おぼろけと云詞、春に あらず。 月を結ては、はるたるべ し」 と あるが、 蕉風の時代に
393 貞享二年
なると、この句を始めとして、「鉢た、きこぬよとなれば朧なり去来」(『猿蓑』卷四)「あれ是をあつめて春は M 也支考」(『笈日
記』下、雲水部)等、月と結ばない例もあらわれて来る。 rvoboroni .」 (『日葡辞書』)。
saia ほのかな月の光のもとで、辛崎の松は、遠くの桜の花よりも一層おぼろで、 まことに 面白い。
■一!■「大津尚白亭にて」(『雑談集』)「湖水眺望」(『泊船集』)等の前書があり、『野ざらし紀行』には、京から大津へ出る
記事の次に「湖水の眺望」と題して掲げられているから、貞享二年の春大津滞在中の吟であることは確かである。し
かし詠作の場所については、同じ大津でも千那亭•尚白亭の二つに説が分れて、なお問題を残している。芭蕉自身は、
この旅を終った直後の同年五月十二日付の千那宛書簡で、この句を「其元に而之句」といっていて、この「其元」は
千那亭(浄土真宗本願寺派本福寺別院。現大津市浜大津三丁目)とも、ひろく大津を指すとも取れて、確証とは見難
い。尚白亭での作とした最初は其角の『雑談集』(元禄四年成)であるが、それより以前、この句をはじめて載せて世に
公けにした尚白の『孤松』(貞享四年刊)では、何処で詠まれたか何も触れていない。嘗て志田博士もいわれたように、
若し尚白亭で作られた句ならば、それに因んで集の名が付けられた程の句に、撰者が何の説明も加えないのは不思議
なことであろう。それに同時代の資料とはいっても、其角の所説には兎角杜撰な傾きがあって、全面的には信用し難
い憾みがある。外に尚白亭説としては、中興期に尚白の遺稿『忘梅』を刊行した蝶夢が、その序に「名にし辛崎の松
は花よりと聞えしも此家にての発句にして、其短冊を珍蔵せ り」 と言っているのが挙げられる。
一方、千那亭説を強く主張するその門人千梅は、『鎌倉海道』(享保十年刊)で芭蕉のこの発句と千那の脇「山はさく
らを絞る春雨」を掲げて、次のように述べている。
此発句は世人知ル翁の吟也。湖水の眺望を詠ぜられし蒲萄坊(注、千那亭)にての句なり。去比或ル集に此句の事
を記ス。湖南尚白亭にての吟と云へり。大キに非也。まさに此脇の句証拠なり。されば此句に脇 ある 事、蕉門俳
諧師しらぬも残おほし。よつて是を記ス。此句はじめは、松は小町が身の朧とも申されしが、師弟鍛錬の後、花
394
より朧には極りぬる。且此脇の句、花に桜大秘伝也。ちかき比人の語リけるは、伊勢ノ国のあたりにて辛崎伝授
とて專ら沙汰し侍る事在。健に是等の事ならんと云り。此発句.脇の事ならば、習ふ人必御無用たるべし。外人
の知ル事に非ず。
客発句亭主脇の習わしからして、千那が脇を賦したとすれば、千那亭の吟とするのが妥当と思われて来る。しかし、
これには異伝もあって、麦水の『山中夜話』(安永二年成)追加附言には、
辛崎松の句、蕉翁始めに大津尚白亭に案じ給ふ所は則ち矓哉也。其懐紙猶今大津にあり $ linil ! ll 研而してあと
にて矓に てと 直れり。……されば こそ 其座ににてに直りて、尚白が脇の句、山は桜をしぼる春雨と付けさせられ
たり。
とあり、脇の作者は尚 白と なっている。また麦水は、その座で「にて」に直ったように述べているが、後述するよう
にこの点は疑わしい。抑々脇句の初出が享保期で信憑性に問題があり、両説何れとも定め兼ねるの e あって、井本農
一博士のように、「小町が身の矓」の初案が千那亭、「花より朧かな J の案が尚白亭と見る考え方もある(『鑑賞日本の古
典. 芭蕉集』)。 大津俳壇の中では中心で、お互い古い馴染でもあった この 二人以外に色焦を歓迎して滞在させる人物は
考えられない。因みに、千那亭は大津今®町の本福寺別院であるし、尚白亭は升屋町にあり、『大津珍重記』によれ
ば、三階に物見台を持つ大屋敷の町医者だったという。
「辛崎の松」の句の「にて」留について、当時の俳人の間にやかましい議論のあったことは、『雑談集』や『去来
抄』の記事に詳らかである。これに対して芭蕉は、
一句の問答に於ては然るべし。但シ予が方寸の上に分別なし。いは^'、さ\波やまの ゞ 入江に駒とめてひらの高
根のはなをみる哉只眼前なるは。(『雑談集 fe
と答えたと伝えられ、これを見ると、句が如何にも即感即吟のように受け取れるのであるが、実際は初案から段々に
395 貞享二年
推敲されたものであった。その事情は、さきにも触れた五月十二日付の千那宛書簡に、
一、愚句其元に而之句
辛崎の松は花より朧にて
と御覚可被下候。
とあるのによっても明らかで、江戸から態々千那の許へ「朧にて」の形を書き送ったのは、それまで千那の知ってい
た句形が「朧にて」以外の形であったことを示すものに外ならない。前記『鎌倉海道』や『山中夜話』の文中にも、
初案形について触れられていたが、そのうち「小町が身の朧」という句形については、也有の『くだみぐさ』(宝@年
間成)に、「近江をめぐりけるに、そこの俳人のもとに翁の自筆あり。辛崎の松は花より朧にての句、始は、辛崎の
松や小町が身のおぼろと有。夫を、花より朧にての句に改給ふのよし、さだかに有と」という江戸の柳居の談が引
かれている。柳居の鑑識を信ずれば、当時芭蕉の真蹟が近江に存したことになり、『鎌倉海道』の信憑性が増すので
ある。『嫌倉海道』では「松は小町が身の朧」となっているが、これは不完全な引用でもあり、最初の案としては
『くだみぐさ』の「松や」の方が信じ得ようかと思う。兎に角初案は、辛崎の松に小野小町の俤を重ねた幻想的な句
柄であった。井本博士の説の如く、謡曲「鸚鵡小町」の「北に出づれば湖の志賀辛崎の一つ松は身の類ひなるもの
を」 とあるあたりを踏まえ、小町が孤独老残の境涯にもなお昔の艷をとどめ、才気を持続している姿を観じたのであ
る。『山中夜話』によれば、安永の頃大津の魚光という俳人が、下五を「矓哉」とした真蹟懐紙を所持していたとい
う。前記の五月十二日付書簡によって、「朧にて」は江戸に帰着して後の改案と思われるから、それに先立つ案とし
ては「朧哉」が考えられねばならず、これが「小町」の句案と「朧にて」との中間案であったろう。ここで『孤松』
所収の「朧かな」の形が思い合わされるわけで、こういう句形を尚白が自らの撰集に入れるについては、何か根拠が
あったと見るのが自然である。旅中大津で芭蕉が書き残したものの中に r 朧哉」とした真蹟もあって(それが魚光所
396
蔵のものだったかも知れない)、それに基づいて尚白が『孤松』に入れた可能性が大きい。色蕉は江戸に帰って後、
手紙で千那に「朧にて」の句案を定案として書き送ったのだが、この最終案は何等かの事情で尚白の方には徹底せず、
尚白は自分の手許の資料によって「朧かな」の句形を紹介するに至ったのであろう。こう考えれば、「朧かな」も単
なる杜撰誤伝ではなかったことになる。もっと重要なのは、「只眼前なるは」 (『雑談集』) とか、「我はた V 花より松の
朧にて、おもしろかりしのみ」(『去来抄』)といった色蕉の言葉では、辛崎の松を眺めていたその場での句案のように
聞えるけれども、大津では「小町」の句案から、「朧かな」という発句普通の常識的な形に推敲した段階までだった
ことである。「にて」という表現に想い到り、それが春闌の湖岸の風光を最もよく生かすものであることに気づいた
のは、江戸に帰ってからのことだった。序でに現存の真蹟について述べると、真蹟短冊 二 点のうち、一つは『観魚荘
蒐集展観図録』所収(出光美術館現蔵)、今一つは昭和五十六年秋の『芭蕉展図録』に収められている。外にも嘗て『色
蕉図録』に収められた菊本氏蔵の短冊があるが、これは筆蹟に聊か疑わしい点がある。
「只眼前」と色蕉は言ったが、古歌に名高い長良の山桜を背景にして辛崎の一つ松が立つこの句の世界は、作者の
見た実景ではなかった。千那亭にせよ尚白亭にせよ、大津から一里ほどの湖面を隔てて、北に辛崎の松の眺望は定か
でない。この句の最初の動機は、恐らく初見の大津の門人達に対して、その地の代表的な歌枕を題材に挨拶吟を成そ
うとするにあったろう。「小町が身の朧」という、実景とは縁遠い幻想が初案だったのを見ても、そのことは明らか
である。また、「朧」は夜景に用いられるのが常であって、夜とあっては、松に山の桜を配合した景色は見通すべく
もない。更には'「花より朧」とある「花より」は、「朧」な状態の形容で、眼前に花があることを必要としない。
「朧に霞む花」よりも更に朧だというまでである。つまり松にしても花にしても、それらは凡て仮象なので、実際に
眼にし得る景色としては実在しない。ただそれは句中の世界での実在と矛盾するものではなく、
この句の中には、「松」「花」「月」「雨」が、あるいは言葉として、あるいは実景として、あるいは虚像として
397 貞享二年
存在する。 r 朧」は形容語として用いられたに過ぎないのだから、少くとも句の表面の意味においては「月」は
消失し、詩的 ィメ —ヂとして復活する。「花」は「松」との M さの比較に持って来られたのだから、表層 ィメ —
ヂとしては消失し、深層ィメーヂとして復活する。……だからこの句では、はっきり実体のある「唐崎の松」の
外は、「花」「月」「雨」が、それぞれ実象から仮象への傾斜上に、詩的 ィメ ーヂとして定着する。平面的に実景
に還元できない句であり、 ィ メ —ヂの重層化、あるいは立体化が試みられている。 (『芭蕉その鑑賞と批評』)
という山本健吉氏の見方は基本的に正しいと言えよう。このうち「雨」は山本氏独自の鑑賞から生じたもので、多く
の人が納得するかどうか問題であるが、「月」は夜景とすれば当然考えられなければなるまい。私に言わせれば「松」
も作者の見ているものではなく、想裡の仮象なのである。
「朧」は形容語に過ぎないにしても、季語として要の役割を果している。「花」が比較の引合に出されたに過ぎない
とすれば、「隴」の重さは更に加わるであろう。それを「かな」と普通に詠嘆すれば、その余情は一通りのものにと
どまる。しかし、この句は古来の歌人がすぐれた詠歌を遺した湖水のほとり、近江八景の一として名高い「唐崎夜
雨」の眼目たる一つ松を材としているのだから、そうした背景を生かしたいわけであるし、一つ松と山桜と朧な春の
空気と、句の世界を構成する物も、艷にして華やかに、且つ幽遠な余情を持つ。 r にて」という、言いさして嫋々た
る余韻を感じさせる破格の措辞を思いついたのは偶然であろうが、置いて見ればこれに勝る辞は無かった。切字を置
くべきだとか、「にて」は「かな」に通うとか、即興感偶だから良いとか、こちたい諸々の議論は、芭蕉にとっては
どうでもよいことだったに違いない。だからこそ、「予が方寸の上に分別なし。只眼前なるは JQ 雑談集』) 「我はた V
花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」(『去来抄』先師評)と言う外はなかった。それは句が仮象の世界であること、
また、推敲を重ねたこととは別の問題であって、治定した句の世界は、正に作者の言の通りだったのである。
398
棚つ X じいけて其陰に干隱さく女 (泊 船 集本野ざらし紀行) 11
春季(つ\じ)。
1 〇 つ、じいけて「躑躅 生けて」。「つ、じ」は既出 ( 32 0 「杜若生ん絵書の来る日哉(釣雪ご(『ぁら野』卷六) 「 Iqft ' cru ,
eta . Fanauoiqus . 」(『日葡辞書』)。0 其陰に 「其の陰に」。「陰」は、物陰の意。生けたつつじの陰で。「池に鵝なし仮名書
習ふ柳陰素堂」(『ぁら野』卷二) 「 Mononocagueni , K = c .」 (『日葡辞書』)。〇 干鱈さく女 「干鱈割く女」。「干鱈」は、薄塩をした
鱈の干物。『毛吹草』は「干鰭」を正月の季語としている。「干鱈は越後の産にして、色も雪のごとし。三月比専是を裁て、昼かれ
ゐの媒とす」(呑吐『芭蕉句解』)「仏壇の前に居て、大角立食の茶漬に、干鰭むしり喰て」(『好色一代男』卷七)「越後屋に衣さく音や
更衣其角」(『浮世の北 』) 「Toriuo saqu . 」(『日葡辞書』)。
■■ Miil つつじを生けてあるその物陰で、女が干薦を割いている。
I 『熱田三歌仙 J に「旅店即興」と前書がある。『野ざらし紀行』諸本のうち、泊船集本と孤屋本だけに、次の
「菜畠に」の句と共に収められており、芭蕉は一時これらの句を『紀行』に入れて見たが、定稿段階ではこれを削除
したものと認められる。しかし、『紀行』に収められたことによつて旅中の作たることは明らかで、大津と水口の間
に見えるところから、二句ともその間の作としてよかろう。当面の句は『泊船集』に「昼の休らひとて旅店に腰を懸
て」として出ている。『句選年考』に「或人日く、江州石部茶店にてと前書ありと」とあるのは、どれだけ根拠があ
ることか分らぬが、石部あたりの吟として支吾するところはない。
幸田露伴は、この句の内容について次のように述べている。
干鳕を水に漬けてあるところの盥か桶かへ、折から山からでも取つて来たつ、じを投げ込んで活けたのだ。その
399 貞享二年
躑躅を活け終へて、丁度漬かつた頃だと云ふので、干鱈を裂いてゐるのである。「活けて」のて文字と「其かげ」
の其は篤と胸に置いて考へなくてはならぬ。花瓶その他の器物へ活けたのでは無い、その干鰭を漬けておいた物
の中へあとからつ、じを活けたので、もう漬かつた頃だと見てその干鳕を水から取りあげて裂くのである。山の
茶屋などの景色で、写生即事の句である。芭蕉には此の種の新味を開いた句が相応にある。此の種の句の元祖と
云つてよい。.(『芭蕉俳句研究』)
「其陰に J というのだから、庭などに植えた躑躅を取って来てちんまりと生けたものではなく、かなり大ぶりの枝を
折って来て手桶などに投げ入れたものと見る点では諸注異論はない。露伴説の特色は、「つ V じいけて」を「干鳕さ
く」と共に「女」の動作と見ているところで、後の諸注は概ね「躑躅が生けてあって」と、生けられてある花の状態
の描写としている。これに対して露伴は「花を生け終へてから干鱈を割く」と取るのであって、花を生けることも女
の動作に含まれ、句の中に幾許かの時の流れがあることになる。外の注の従う所ではないが、そういう解も十分可能
で、かなり面白い見方といえよう。桶は干鰭を漬けてあるものと限定する必然性はあるまい。
この句の写生的な句柄は、多くの注の挙って説くところで、主観句.象徴句の多い中で稀には色蕉もこうした試み
を為し、この種の句の元祖と見做し得ることも、露伴のいう通りである。大津から水口まで湖南の山間を行く街道筋
は寂しく、途中の休み茶屋で ふと 見留めた 一 点景であろう。店で働/、女性が、飾りに花を取って来て生け、更に昼食
の菜に出す干鳕を割く。燃えるような躑躅の紅と、女のつけた赤前垂の配合が印象的で、「干鱈さく」動作には強い
生活力が感ぜられる。六.五.八乃至は六.八.五の破調で、句作りは「花に酔リ羽織着てかたな指女」(逆「姿旦
夕て卯花に文ヲよむ女」 (『虚 栗』夏の部、言水)等、延宝•天和の交の作に先蹤があるが、当面の句では破調が余り気に
ならず、句の印象も先作とはかなり異なる。写実の力といってよかろうか。 r ……女」と留めて、その印象をけざや
かにクローズアップする手法は、甚だ効果的である。
400
菜白田に花見白ハなる雀哉 < 泊船集本野ざらし紀行)
真漬懐紙.其便•木枯.国の華.桃の杖.芭蕉
春季(菜の花)。
is 〇菜畠 「ナパタヶ」。油菜を植えた畠をいう。「菜畠や二葉の中の虫の声尚白」(『猿袁』巻三)。〇 花見 nx なる雀 「花見白ハな
る雀」。花見をしているような様子の雀。「白ハ」は「貌」の略体。「……白ハ」という言い方については (! 参照。「若竹のうらふみ
たる ゞ 雀かな亀洞」(『はるの日』) 「 suzume . 」(『日葡辞書 JI )。
1 a 菜の花畠で、雀が如何にも花見をしている様子で跳びまわっているよ。
— 前の「つ、じいけて」の句と同様に泊船集本と孤屋本『野ざらし紀行』だけに見える。旅中大津と水口の間で
の作と見られ、『紀行』では r 吟行」と題している。宝永元年刊の『国の華』には、第四『藪のはな』の深田の部に
収め、「これは大針といふ里の観音堂奉納の句也」と注があって、大針は今の岐阜県加茂郡坂祝町大針を指すかと思
われる。しかし、芭蕉が東美濃の深田あたりに立寄ったことは、信ずべき資料に見えないので、この所伝の実否は確
認出来ない。『木枯』(壺中•芦角撰、元禄八年刊)には「此句も画賛なるよし」と注記。その「画賛」に当るものかどうか、
桃鏡の『芭蕉翁真跡集』には東都何某蔵の画賛のうち芭蕉真蹟の部分のみを掲げているが、原物は「焼失」とある。
真蹟懐紙は、最近『色蕉真蹟』『色蕉全図譜』に紹介された春季の句十句を録したもので、貞享五年春の染筆と推定
されている。
『紀行』に「吟行」とあるように、句を案じながら道を行くうちに出来た属目吟であろう。後にそれを画賛に転用
したのである。菜の花畠をあちこち跳びまわる雀、それはありふれた風景ながら、時々菜の花を見上げては分別くさ
い顔付をするのを「花見白 ハ」 といったところに、ささやかな動物への愛情がほの見える。雀を擬人化したおかしみば
401 貞享二年
かりではない。「花見」といえば、普通は人間が桜の花を見て楽しむのであるが、ここでは「雀」が「菜の花」を見
ているのである。そういう別の「花見」がこの句の俳諧の要といえよう。「井の中の蛙」といった類の寓意諷諌では
なく、属目の写生に俳諧のおかしみを盛ったのである。
「つ、じいけて」「菜畠に」の二句を、色蕉は一旦『紀行』に入れながら、何故最終稿では削ったのであろうか。こ
の時期に限らず、主観句.象徴句が主流をなすのがこの人の俳風の一般的傾向であったが、『紀行』所収の句には特
にそうした風が著しい。その中にこうした写生風な異質の作を挿むのは、全体の調和を乱し兼ねないと考えて、芭蕉
はこの二句を削ったのではないかと思う。
孤命ニッの中に生たる櫻哉(野 ざらし紀行) 孤松.泊船集書入■熱田三歌仙
水口にて廿年を經て故人にあふ
命ニッ中て S たる櫻哉(菊の香) |泊船集.俳諧問答
春季(桜)。
IM 〇 命ニッの中に生たる桜 r 私 ft / の¥に生きたる桜」。「命ニッ」は、この時相逢った芭蕉と土芳二人が、長の年月引別れて
いても恙無く生きていたことを、力強く把握した表現である。西行の歌「年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中
山」(『新古今集』巻十)が遥かに響いている ( S 参照)。「生たる」は、「生きたる」「生けたる」の二つのよみが考えられ、下二段に
よめば桜を生けたさまになるが'『紀行』初稿杉風旧蔵真蹟本に「なかにいきたる」と仮名書きしてあり、板本の初出たる『孤松』
には「也たる」と振仮名がある。これに対して「生けたる」とよむ確かな根拠は信ずべき資料に見出せないので、問題にならない。
桜樹が生きて華やかに花を咲かせていることをいったものである。なお、「ニッの」の「の」は『菊の香』等にこれを欠き、無用
とする論もあるが、確かな資料には凡て「の」があり、許六もこの句形を非として、 r 是、命ニッのと文字あまり也。予芭蕉庵に
402
て借用の草枕--、糙にの k 字入たり。の、字入て見れば夜の明るがごとし」(『俳諧問答』俳諧自讚之論)と述べている。終りに「哉」
という強い切字があるのだから、「命ニッ」で休止があるような句作りより、字余りでも下に続いた方が、表現として力があろう。
土芳•竹人の両『全伝』が何れも「の j を省いた形で伝えているところから、 r の」のない形を初案とする見方もあるが、これら
は何れも転写本なので' 著者が果して何れを正しいと見ていたかは速断を許さない。わたしは「の」のない形は信憑性に乏しいと
思う。「むし干の目に立枕ふたつかな文瀾」(『あら野』卷七)「天気の捆よ三か月の照孤屋纪ながら直に打込ひしこ漬利 牛」
(『炭俵』上)「春めくや人さまの伊勢まいり荷兮桜ちる中馬ながく連重五」(『はるの日^「1!'&^511.」「2303.」「1仕,
uru , ita . Inochiuo iquru . 」 「 sacura . 」(『日葡辞書』)。
wwi 久しぶりに逢えた二つの命の間で、桜は生き生きと花を咲かせていることよ。
■ E ■『孤松』に「逢, 一 故-人一」、『熱田三歌仙』に「二十年を経て古友に逢ふ」と、それぞれ前書がある。『野ざらし
紀行』定稿本では r 辛崎の松」の句(ぞの次に、「水口にて二十年を経て故人に逢ふ」 として 見え、これらにいう
「故人」「古友」は、伊賀蕉門の中心人物服部土芳のことであった。土芳自身の著『蕉翁全伝』に左の如く言う。
穴命ニッ中に生たる桜哉
是ハ水口-ー テ土芳二玉ル句也。土芳此年ハ播磨-一有 テ、 帰ル頃ハはや此里ヲ 出ラレ 侍ル。 ナヲ 跡ヲシタヒ水口越
一一京へ登ル 11 、横田川 一ー テ思ハズ行逢ヒ、水ロノ駅 一二 夜昔 ヲ語シ 夜ノ事也。明の日ョリ中村 柳軒卜云医ノ モト
一一招 レテ 又此句 ヲ出シ 、廿年来 ノ 旧友二人挨拶シタリト笑ヮ レ 侍る。蓮花 寺卜云寺 二折 フシ 伊賀 ノ大仙寺ノ嶽淵
あり。各昼夜四五日談じテ、発句アリ哥仙有。又多賀何某卜云老医、翁一一旧キ因有、モテハヤシ有。是ョリナ ゴ
ヤへ出ラレシ也。
また、同じ土芳の『蓑虫庵集』宝永六年の条には、
先師の詠草を集て其句三卷、是を廿五日亡師に備へて香焼て拝す。
探れども暗さはくらしむめ椿
403 貞享二年
此書手向、暁夢に師にまみゆ。此所は往還にして旅人多し。貞享のむかし水口にて行あひ、それょり美濃.
尾張の方に趣、駅の東の出果まで見送り、別れたるあたりか、又は高野の麓のやうなるとおもはる、事も有。
夢ながら、此わかれいかなる事か供する人もなかりしに、少し立さがり今ひとり顔も見ず、往来の旅人に埋
て、いとほひなし。夢の緒を、
近江路や紀の路に消る時雨かな
とあって、『全伝』の記事を補うことが出来る。恐らく土芳は伊賀の上野から甲賀を経て東海道の横田川(野洲川の
上流の名。ここに東海道の舟渡しがあった)の渡しにかかったのであろう。其処で思い掛けず芭蕉と出くわしたので
ある。この時土芳は二十九歳、二十年前といえばまだ少年で、芭蕉にしても二士一、 三 歳、丁度主人蟬吟に死に別れ
た頃である。土芳と色蕉との関係が、そんな若い頃からのものとすると、何か親類関係ではなかったかと思われもす
るが、その点に確かな資料はない。兎に角二人は二十年以上も前から親しい間柄だったが、長いこと会うこともなく
過して、この時偶然めぐりあったのである。近くの水口の宿(現滋賀県甲賀郡水口町)で一夜を語り明かし、その宿
に居た旧友らとも四五日交遊した後、芭蕉は更に東へ向った。別れる時は水口の東のはずれまで見送ったという。竹
人の『全伝』も土芳のそれと内容に大差はなく、ただ当時土芳は初号の蘆馬を称していたことが加わっている外、多
賀何某の記事を欠く。句はこの間、土芳と逢った最初の夜に成ったものである。
この 句で最も印象深いのは、作者自身と土芳 とを 「命 ニッ」 と把握し、その「命」の縁語として「生きたる」の語
を用いて「桜」に続けている点である。「命」にしても「生きたる」にしても観念性の強い言葉で、歌俳には余り用
いられない。西行歌の背景のある「命」は兎も角、「生たる」を、花を生ける意味に取る説が多かったのも、故無い
ことではないのである。しかし、堀信夫氏が謡曲「七騎落」に「所詮此船中に命二つ持ちたらんずる者を御船ょり下
され候へ」とあるのを指摘しておられ (r 松尾色蕉 集』)、 この 一節は恐らく芭蕉の脳裡にあったと思われるので、謡曲の
404
「親子は一体二つの命」という観念を、「故人」と自らの間のことに転用したのが、この句の俳諧ということになろう。
それにしても、桜は不思議と回想を誘うもので、後年「さまぐの事思ひ出す桜かな」の句も成している。宿場の爛
漫たる桜花を中にして久しぶりに相逢うを得た二人を「命ニッ」と表現するのは、人の意表をついて極めて新鮮であ
る。半田良平氏が、
……芭蕉のその際の心持から見れば、こ、に落ち合つた二人は、お前、私、といふやうな世間的称呼を絶して、
いしくもこの現世に生きながらへた不可思議な二つのいのちなのである。放にこの場合、「命二つ」といふやう
な観念的表出は、観念的なるが故に益々力をもつて来るので、若しこれが事実に即した具象的表現であつたなら
ば、平板なことわりに堕してしまつたであらうとおもふ。(『芭蕉俳句新釈^
と述べられたのは、蓋し至言であつた。土芳との間に若い頃からどういう精神的交流があつたかは知る由もないが、
この邂逅に当つての色蕉の感動が並々でなかつたことはょく分る。それをこのょうに骨太な表現とリズムで描き切つ
たところに、芭蕉の比類ない詩的天窠があつたのである。
五月十二日付千那宛書簡.新山家•真噴懐紙.
236山^來て可^らゆかしすみれ草 S ざらし紀行)囊句切.— .泊 t . 去来抄.=一冊子.蕉
翁句集草稿•類柑子•鵲尾冠
白鳥山
何とはなしになにやら床し董草—物語) 一 S 一— 仙
春季(すみれ草)。
H 〇何やらゆかし 「ゆかし」は、語源的には「行かし」(動詞「行く」の形容詞 化) で、 行きたい気持を あらわす。 この場合
は「すみれ草」に心惹かれる状態が「ゆかし」 である。 「何やら」は何となく。状態が不確実なことを あらわす 日常語で ある。 「御
405 貞享二年
宿を問うたれば、何やら歌の様な事を仰せられて」(狂言「伊文字 t 「挑燈のどこやらゆかし涼み舟卜枝」(『あら野』巻三)
「 Yucaxij.J (『日葡辞書』)。〇すみれ草「董草」。スミレ科の多年草。茎はなく、根元から葉が出る。春に高さ五〜十センチ程の花
茎を伸ばして、濃紫色の花を一つ開く。「芭蕉菴のふるきを訪\堇草小鍋洗しあとやこれ曲水」(『猿蓑』巻四) 「 sumire .」 (『日葡
辞書』)。
WSM - 山路を歩いて来て、ふと目にとまったすみれ草に、何となく心が惹かれる。
RH 「大津に出る道」(『泊船集』)「箱根山にて」(『類相子』)「二度草堂をいで尾陽に来るとき、箱根にて」(『鵠尾冠』)等の
前書があり、後年の書に箱根での作とするものが多いが、全くの誤伝である。『野ざらし紀行』では、伏見での「我
がきぬ.に」(观)の句の次に、「大津に至る道、山路をこえて」としてこの句を出し、大津での辛崎の松の句に続けて
いる。これを見る限り、句は志賀の山越えをした時の作と考えられるのであるが、実は『紀行』のこの部分は事実通
りではなく、虚構の施された一段であった。
旅から江戸に帰って間もなく、大津の千那に宛てて書かれた五月十二日付書簡には、
一、愚句其元に而之句、
辛崎の松は花ょり朧にて
と御覚可被下候。
山路来て何やらゆかしすみれ草
其外五三句も有之候へ共、重而書付可申候。
とある。「山路来て」の句に触れた年代の最も古い資料として貴重なものであるが、ここで芭蕉は、旅中で得た発句
「五三句」のうちの代表として、この句を千那に報じている。「山路来て」の句が『紀行』にいうょうに「大津に至る
道」での作だったとすれば、芭蕉は千那と面晤した際に必ずこの句のことを語った箸である。しかるに右の書簡では、
406
千那にとって全く未知の句を知らせる気持で書かれており、これが先ず発句が大津入り以前ではあり得ない証左にな
る。人によっては、後述するこの句の初案「何とはなしに」が大津より前に出来ていて、千那は初案を知っていたの
に対する訂正の意味と取る向きもあるが、それなら「辛崎の松」の句と並べて「山路来て」の句を書き、その後に
「と御覚可被下候」と書くべきであろう。書簡の書き方は、「辛崎の松」が訂正の通知、「山路来て」が未知の句の紹
介と、明らかに別になっている。後者まで訂正通知と見ることは出来そうもない。
この句に初案があったことを言ったのは服部土芳で、『三冊子』には「山路来て」の句について、「すみれ草は、初
は、何となく何やらゆかしと有」(赤雙紙)、『蕉翁句集草稿』には r 此句初は、何とはなし何やらゆかしと有」とある。
即ち前掲『皺営物語』の句形を、やや不正確に伝えたものである。その前書「白鳥山」は、今の名古屋市熱田区白鳥
一丁目にある白鳥山法持寺を指す。 e 蕉は近江の水口で土芳と別れた後、東海道を下って再び桑名の本統寺に琢恵を
訪れ、三月中旬には尾張に入った。『笈日記』下巻所収、熱田連中の「悼芭蕉翁」にも「白鳥山に腰をおしてのぼれ
ば^何やらゆかしすみれ草となし」と、白鳥山での即吟であることを述べている。この句の初案が熱田の法持寺で成
ったことは疑いなく、志賀の山越えで出来ていた句を熱田で用いたのでないことも確かであろう。『熱田三歌仙』に
は初案形を発句とした芭蕉•叩端•桐葉の三吟歌仙が収められ、『蓬萊島』ではその興行された日を「貞享二乙丑年
三月廿七日」と伝えるが、何に基づく所伝か明らかではない。ただ中旬以降三月中の事なのは確かである。
「何とはなしになにやら床し」という初案は、極めて主観的な眩きのように聞える表現であるが、ここに神霊に対
する崇敬の気持のあらわれを見ようとする尾形仂氏の説がある。この法持寺の地には白鳥古墳という前方後円墳(六
世紀前半と推定)があるが、古くから日本武尊陵とする伝承があり、白鳥御陵と呼ばれて、熱田神宮の手で毎年祭礼
が行われていた。尾形氏は、
「白鳥山」は、『皺箱物語』に「熱田の名所二十九所」の一つとしてあげられており、日本武尊が白鳥となって舞
407 貞享二年
い降りたもうた所という。日本武尊は、「にひばり筑波を過ぎて」の詠によって r 筑波の道」(連歌)の祖と仰が
れていたから、俳諧師芭蕉の白鳥陵に寄せる崇敬の情には、他に異なるものがあったはずだ。「何とはなしに何
やらゆかし」という、おそろしく自意識過剰な表現は、かの西行が伊勢の大廟に詣でて「何事のおはしますかは
知らね ども かたじけなさに涙こぼる る」 と詠じたのを下敷きにしながら、その日本武尊への崇敬の情を表出した
もの。……白鳥陵の神域に発見した「堇草」は、……色蕉にとって、いわば日本武尊の神霊の象徴にほかならな
かったといっていいだろう。(『松尾芭蕉』)
と述べておられ、「何とはなしになにやら」に伝西行歌の「何事の……知らねども」の響きを聞き出そうとするのは、
恐らく正しい鑑賞であろう。それを考えないと、この初案の表現は余りにも独り合点な「ただごと」に堕してしまう。
この見地からしても、初案は熱田以外の地では成り立ち得ないことになろう。
江戸に帰って後の五月十二日に、色蕉は改案形「山路来て」を千那に宛てて書き送ったわけであるが、この動機に
ついての尾形氏の考察も興味深い。
其角が『類柑子』の中でこの改案の句形をあげて、長嘯子の『挙白集』巻八「初めてあづまに行きける道の
記」の一節に、「箱根に泊まる。(中略)匡房のぬし、〃箱根山薄紫のつぼすみれ"とよまれたりしは、〃二しほ三
しほ"と言はん料なりとばかり知りてはべりしを、すべてここもとにある、皆かの色なるはをかし。いかで、さ
は知りたまへぬらん。よく聞き定めてこそ、昔の人はかうよろづに至らぬくまなかりしか」とあるのを引き、
r これ力草なり。深う思ひ取るべきことなり」と説いているのは、芭蕉がこの句を、初案をささえていた場から
切り離し、西行の歌のパロディの形で成立していたその俳諧性を新しく別な形で生かす上に、何を交響の媒体と
したかの秘密を説き明かしたものとして、興味深い。
匡房の歌は、『堀河百首』春二十首中に所出、……『夫木和歌抄』や『名所方角鈔』にも収められ、西鶴の
408
『一目玉鉢』や支考の『葛の松原』にも引かれているように、近世人にとっては耳に親しい歌だった。長嘯子は
初めての東行の途次、箱根山で薄紫の堇の花の咲いているのを実地に見て、匡房の歌の虚妄ならざるを悟った賛
嘆の情をしるしとどめたのである。色蕉が……白鳥山で発見した董草の詩情を「山路来て」という状況の中に措
定する上で、右の長嘯子の箱根山での発見への共鳴が有力なささえとなったというこの其角の指摘は、これまた、
ひとしく長嘯子を近世隠士の範型と仰いだ連衆心の指摘として十分尊重に値しよう。(『松尾色蕉』)
長嘯子延いては匡房の文章や歌が「山路来て」の改案に影響を与えているとすれば、『葛の松原』や『去来抄』に見
える、山路に董は詠む詠まないといった議論は、所詮枝葉末節である。芭蕉がこの改案を思いついたのが、旅中だっ
たか江戸に帰ってから後かは明らかではないが、改案に際して右のような先蹤が影響を与えていることは、十分考慮
されなければならない。
更に今一つ、それを志賀の山越えの句として、前の方へ持って行った理由は何だったのか。基本的には『紀行』執
筆に際しての構成意識があったと思う。秋から冬への変り目に当る九月から卄月にかけて芭蕉は大垣に滞在し、十月
に入って近藤如行の家に泊ったり、木因を伴なって桑名.熱田への旅をしたのであるが、『紀行』では九月末の木因
亭に於ける「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」(€ 5 を収めているだけで、如行亭訪問も南行の旅に木因を伴なったこと
も、一切出ていない。また、年末から春にかけての伊賀の故郷滞在についても、歳暮吟に続く歳旦吟を載せる外は記
事がなく、次の奈良行に移っている。春から初夏の三、四月にわたって熱田に滞在したにも拘らず、『紀行』では夏
の句ばかりで、春のうちの句は載せられていない。色蕉は作中両季にわたる旅程に関しては、必ず一方を削って一つ
の季にまとめたのである(郷里での作は一応両季にわたるが、関係の深い歳暮と歳旦として、中間に「といひくも
山家に年を越て」という文章を挿んでいる)。若し「すみれ草」の句を貞享二年春の熱田の条に入れるとすると、唯
一の例外を作ることになる。両季にまたがる滞在地を作らなかった動機は明らかではないが、こうした『紀行』の構
409 貞享二年
成意識は留意すべきであって、色蕉はこのような考慮に基づいて、この句を志賀の山越えの条に配したのであろう。
「何とはなしになにやら床し」は、西行歌などを背景にすれば、神霊崇敬の挨拶吟としての意味を持って来るが、
余り表現が主観に偏して、背景とのつながりを多くの人に感じさせることは難しい。長嘯子や匡房の歌文を背景にし
た「山路来て」の表現を案ずるに及んで、句は始めて万人に参入可能の世界を持ち、具象性を獲得したと言えよう。
荒蕪の趣の中に詠まれるのが常だった「すみれ」を「山路」に点出した新味はもとより、何気ない表現のうちに 、\
さやかな草花に籠る自然の営みの大きさや、それへ寄せる作者の思いを端的にあらわすものに成り得ている。それは
飽く迄推敲を経た結果であって、 口を 衝いて出た言葉がおのずから玉成したものではないが、素直に自然の情趣をと
らえようとする一種の「軽み」に近づいたと言えよう。夙く素堂が『紀行』の序に於いて「山路きてのすみれ、道ば
たのむくげこそ、此吟行の秀逸なるベけれ」と高く評価したのも肯けるのである。なお初五について、「何とはなし」
(『蓬萊島』 ) 「山路にて」 (明 和 板『野ざらし紀行』) 等とある形は何れも誤りとおぼしく、問題にはならない。
鳴海潟眺望
237船足も休む時あり濱の桃 — S
春季(桃)。
i 〇鳴海潟眺望 「ナルミガタテゥバゥ」。「鳴海潟」は、宮と池 鯉 鮒の間の東海道の宿駅鳴海宿(現名古屋市緑区鳴海町)あた
りの海をいう。古代から中世にかけて、現在の天白川筋は広い入江を形成しており、其処を通る 鎌 倉街道辺は、満潮時には海水に
浸り、干潮時に干潟を漸く通り得るような状態であった。近世の東海道は古い嫌倉街道よりは南方で、地形も変化したが、西方に
海を控えて、鳴海が海辺に近いことに変りはなく、あたりの海を歌枕として依然「鳴海潟」と称したのである。「眺望」は、なが
410
め。陸の方から海を見渡すのである。「熱田ノ八剣伏拝ミ、塩干-一今ャ鳴海潟、傾ク月-一道見へテ、明ヌ暮ヌト行道ノ、末ハィ'ッ
クト遠江」(『太平記』卷 二) 「田家眺望」(『冬の日』荷兮発句「霜月や」前書) 「ch 6 bo'.J (『日葡辞書』)。〇船足「フナアン」。元来は船
の吃水線をいうが、ここは、船の進む速さ。「1^1111»3^..1^1^1103><..」(『日葡辞書』〇〇休む時あり船の進行が停止することが
ある、の意。風向きの変化などで速度が緩む時、停止したように見えるのを、こう表現したのであろう。また、実際に速度は変ら
なくても、主観的に止まったかのように見える場合もある。「伊勢浦や御木引休む今朝の春亀洞」(『あら野』卷 二) 「 Yasumi ,
mu , unda.J (『日葡辞書』)。〇浜の桃「浜」は、海辺の砂地。この「桃」は、花が咲いているさまである。「暁いかに車ゆくすじ
荷兮鰭負ふて大津の浜に入にけり旦塵」(『はるの日 b 「 Fama . J (『日葡辞書』)。
sa 沖を行く船も、時折動きを止めたように見える。浜辺には桃の花が満開で、いかにも長閑だ。
■〇一桃花の咲く晩春の頃芭蕉が鳴海の浜辺にいたのは貞享二年だけであるから、その三月の吟と推定される。芭蕉
が鳴海の下里知足を初めて訪うたのはこの年の四月四日で、知足訪問の折の作と考えると、句の季節に疑問が生じて
来るが、それ以前三月中に熱田からその方面へ出遊したことがあったとすれば、問題はなくなる。 II 川一派の集『船
庫集』(東推撰、宝永七年刊)が唯一の出典であるが、芭蕉の真作として疑わしい点はない。
沖行く船と浜辺の桃花でもって、長閑な春の気分を出すのに成功した佳作である。陽炎のちらつくような空気の散
乱の中で、遠くの船影が止ったように見えるのは、目の錯覚にしても春闌の頃の実感に違いない。自分が足を止めて
桃の花に見入り、船中の人もまた船を止めて花に見入ると解する説もあるが、「船足も」の「も」は感情を持たせた
までで、 r ……もまた」 というのと は聊かちがう 。 r . もまた」と取っては態とらしく、句柄を損なう嫌いがあろう。
娜杜若われに發句のおもひあり(千鳥掛) 1
夏季(杜 若)。
411 貞享二年
H 〇杜若 「ヵキッバタ」。既出 (邠)。〇われに発句のおもひあリ 「槪に齡却の St ひ智り」。私に発句を詠もうという思いが 動
く、の意。「発句」は既出(§)。「誹諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ」(『猿蓑』其角序) rvomoi .」 (『日
葡辞書』)。
sail お庭のかきつばたを見て、今私の胸には発句を詠もうとする思いが頻りに動きます。
■■『八橋集』(吐虹撰、享保二年成)には「題八橋」と前書がある。『知足斎日々記』によると、色蕉は貞享二年四月四
日に熱田の桐葉と叩端を伴なって初めて鳴海に下里知足を訪うて一泊した。『千鳥掛』に収められた r 杜若」の句を
発句とする芭蕉•知足•桐葉•叩端.業言.自笑.如風.安信•重辰らの連衆による二十四句の付合は、この時成っ
たものと推定される。
酒造業で裕福だった知足亭の庭に、かきつばたが花を咲かせていたのを、そのまま取って発句に仕立てたものであ
ろう。在原業平が東下りの途次、三河国の八橋で「かきつばた」の五文字を詠み込んで作ったという「から衣きつ、
なれにしつましあればはるぐきぬるたびをしぞ思ふ」(『伊勢物語』九段)の歌は有名であるが、その八橋は鳴海の東隣
の宿場池鯉鮒(現愛知県知立市)の東端にあり、ここで思い寄せるのに相応しい。「業平の歌にちなんで私は発句を
詠みましょう」といったところに挨拶の意が籠るし、「私にも「はるきぬるたび」の思いがあります」という余
意も響いて来る。恰好の即興吟であった。
239 いざともに穗麥喰はん草枕 (野ざらし紀行) mte
夏季(穂麦)。
〇いざともに「いざ共に」。さあ一緒に、と相手に促す気持。「いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥貞 室」(『あら 野』 巻 七) 「と
412
もに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて道の便リにもならんと」(『笈の小文 』) 「Is iteqic 6 •」「 Tomoni .」 (『日葡辞書』0
〇穂麦喰はん「撒ぎ喰はん」。「穂麦」は、麦畑に穂を出して熟した麦。そのままでは食べられないが、「喰はん」と興じて言った
のである。「青麦……此者夏に許用するは、青麦また麦秋の心を以てすべし」(『滑稽雑談』)「藪疇や穂麦にと V く藤の花荊口」
(『続猿蓑』下) 「 Foniizzuru , 一, Arauaruru . J 「 Mugui.J (『日葡辞書』)。〇草枕旅の境涯をいう。既出(§)。「草」が「穂麦」と
縁を持つ。
1 a さあ 一緒に、腹がすいたら穂麦でも食べて、旅を続けようではないか。
1『孤松』には「行脚の客にあふて」と前書がある。『野ざらし紀行』では、水口での「命ニッの」(235)の句の次
に、「伊豆の国蛭が小嶋の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞て、草の枕の道づれにもと、尾張の
国まで跡をしたひ来りければ」としてこの句を出している。「穂麦」で夏の句であるから、三月中旬以降尾張に来て
熱田に滞在していた間の作で、四月に入ってからのものと推定されよう。この「蛭が小嶋の桑門」は、これからの芭
蕉と浅からぬ因縁を持つ斎部路通であった。奥の細道の旅を終えて大垣に滞在していた e 蕉が、路通と共に大身の藩
士戸田如水を訪問した際の事を記した如水の日記(元禄二年九月四日の条)に路通に触れて「近年は伊豆蛭嶋に遁世之鉢
に而住メル由」とあり、松助の「路通4-三回忌序」には、
雲水の客路通ばせを庵主に逢て、おなじねざめに嘯れしは、いづれのとしなるぞ。
もろともに 穂 麦くらは む艸 まくら ばせを
と、伊勢•尾張のかたに打連立し風月のむかし語りも数つもるほどに……
とあるのによって、この事が証せられる(大礒義雄氏「「蛭が小嶋の桑門」は路通」『連歌俳諧研究』五十四号参照。
なお、「もろともに」の句形は恐らく誤伝)。次の「梅こひて」の句が、同年四月五日付の其角宛色蕉書簡に見えるの
で、路通と会ったのは五日以前ということになる。路通はこれよりさき、貞享元年の秋か翌春に、近江膳所の松本で
413 貞享二年
芭蕉に逢って入門していた。
「穂麦」はそのまま食べられるわけがない。それを「唆はん」といったところに、俳諧らしい逸興が見える。幸田
露伴が、
穂麦は食へるものでは無い。それを「喰はむ」といふのは、鳥—雁など一に心を擬らへてゐるのである。常に旅
にあるのが鳥である。その鳥の心で、いざともに山野に漂泊しようかと、その僧の同行を拒絶するのでも無く首
肯するのでも無く、極めて淡い同情を寄せて ゐる 句である。(『色 蕉俳句研究』)
と説いているのは面白い。「麦 喰し 臈と思へどわかれ哉」(『あら野』員外)という 野 水の 句 もあり、別に自らと 路通を雁
に見立てたわけではないにせよ、この句の持つ興はそうしたもので、それに含まれた心境気分も、的確に言い当てら
れていると思う。これを余り大真面目に r 旅の辛苦を共にしよう」と取るのは見当ちがいで、「穂麦」を食うという
ところに旅の「侘び」があらわれてはいるが、それは苦しがっているのではなく、侘びを楽しんでいるのである。奔
放不覊な漂泊の生涯を送った路通の性格が、何処となく見透されているような感じもする。
|梅こひて卯花拜むなみだ哉(野ざらし紀行) 新山家.初蝉.三冊子
夏季(卯花)。
1^1〇梅こひて 「梅恋ひて」。梅の花は大顚和尚の亡くなった季節と一致し、亡き和尚の象徴となっている。「とけ候よ世に恋ら
るゞ花の紐正直」(『毛吹草』巻五) 「coi, co>ru, coita. 」(『日葡辞書』)。 〇卯花拝む rlM 锻む」。「卯花」は当季の季語で、作者眼
前の物。それを亡き和尚の魂代のように観じて拝むのである。「卯花」 は、卵 f の花。ユキノシタ科の落葉灌木で、全国の山野に
自生し、初夏白色五弁の花を枝先に群生させる。「卯の花は、しなおとりて、なにとなけれど、咲くころのをかしう、ほとゞぎす
414
の、かげに隠るらむと思ふに、いとをかし」(能因本『枕草子』)「卯の花木也。ぅつ木と斗しても夏なり」(『御傘』)「何とやらおが
めば寒し梅の花越人」 (『あら 野』卷八) 「vnofana. 」 「vogami, u, 6da. J (『日葡辞書』)。〇 なみだ 「涙」。
la もはや見るべくもない梅の花を恋い慕って、眼前の白い卯の花を拝み、涙をこぼすことだ。
3『初蟬』には「円覚寺大顚和尚迀化したまふよし聞えければ、尾はりの国より其角がかたへ申遣されける也」
と前書があり、その其角宛に送られた貞享二年四月五日付の色蕉書簡が、夙く『新山家』(其角撰、貞享三年刊)に収め
られている。『野ざらし紀行』には、前の「蛭が小嶋の桑門」(路通)に逢った記事の続きに、
此僧予に告ていはく、円覚寺の大顚和尚、今年睦月の初迁化し玉ふよし。まことや、夢の心地せらる、に、先、
道より其角が許へ申遣しける。
としてこの発句を録している。『新山家』所収の書簡には、「草枕月をかさねて露命恙もなく、今ほど帰庵に趣き、尾
陽熱田に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大巔和尚、ことし睦月のはじめ、月まだほのぐらきほど、梅のにほひ
に和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ侍る」とあって、大顚の Ih を聞いたのが熱田に於いてであったことを
明証する。句の季からして、句が四月に入って五日までに成ったことも確かである。大顚は鎌倉円覚寺の第百六十四
世住職。俳諧を嗜んで俳号を幻吁といった。其角は少時からこの人に親しみ、参禅の師であったが、彼を通じて芭蕉
とも交渉があり、色蕉生涯の運勢を占なったこともある。歿したのは貞享二年正月四日、享年五十七歳であった。円
覚寺住職は既に辞して、蛭が小嶋(現静岡県田方郡韮山町)から程遠からぬ伊豆の浄因寺(現沼津市内浦三津)に帰
住していたといぅ(南信一博士「大顚和尚小考」『連歌俳諧研究』四十一号参照)。
句だけ見ていては何の事とも分らないが、『三冊子』に、
(ママ) (梅)
……円覚寺大巔和尚遷化の時の句也。その人をんめに比して、爰に卯の花拝むとの心也。ものによりて思ふ心を
明す。その物に位を とる。 (赤雙紙)
415 貞享二年
とあるように、所謂「寄物陳思」の手法による追悼の寓意句なのである。「梅」が大顚の歿した初春の季物である上
に、梅花の持つ気品は和尚の高風を®ばせるに相応しく、恰好の材といえよう。其角宛書簡にも「梅のにほひに和し
て遷化したまふ」とあり、「旅といひ無常といひ、かなしさいふかぎりなく」と哀悼の情を述べている。既に和尚の
歿した初春は遥かに過ぎて梅花の影を見ることは叶わず、ただ初夏の卯の花があるばかり。「卯花」を採り上げたの
は、その白さ故で、ここから「梅」が白梅であるべきことがはっきりするような仕掛になっているのである。古注に
は「卯」に「憂」を掛けたと見る説があるが、それでは余りくどくなる嫌いがあろう。それよりも、卯の花は和歌以
来「雪」に譬えられることが多く、この句の世界は全体として「雪中の梅花」のィメージを喚起するところがあると
する堀信夫氏の指摘(『日本古典文学全集.松尾色蕉集 t に留意したい。衷情をそのままにあらわして感動を誘う類の作で
はなく、技巧に熟達した芭蕉の一面を窺うに足る句なのである。『色蕉句選』に初五を「桜恋て」として収めるのは
杜撰に過ぎない。
うしろむきたる僧のず V 持て
よの中をうしろになして山里に
そむきはて\や墨染の袖
木食僧盤齋自詠自畫と書。猶其狂逸の俤もなつかしく覺て
(ママ)
加團 tt もてあふがん人のうしろむき 〇具蹟懐紙) 庵日記.桃®.費虫庵集.蓑虫庵小集
團扇 もてあ ふがむ人の. うしろつき_物@ I S 日記.泊 船 集
團扇 とつてあ ふがん人の 後口 向 (三 冊子) I 蕉翁句集草稿.蕉翁句#
416
夏季(団扇)。
i 〇 うしろむきたる僧 「後向きたる僧」。人に背中を見せた僧の姿をいう。「はづかしうおぼいて、うしろむき給へり」(『源氏
物語』玉鬉) 「 vxiromuqi , qu , ita . J (『日葡辞書』)。〇 ず' ゞ 持て 「数珠持ちて」。「数珠」は、仏を拝する時手に掛けて爪繰る具。
r じゅず」ともいう。「ひじ h を立てじはや、けさをかけじはや、ず V をもたじはや、としのわかきをりたはれせん」(『梁塵秘抄』
卷二) 「 Mochi , t « ou , otta . 」(『日葡辞書』)。〇 よの中を……墨染の袖 盤斎の歌。墨染の衣を着て世の中に背を向け、山里の隠遁生
活も全く捨て去ってしまうことよ、の意。「世の中」は、俗世間を指し、「背向き果つ」は、「世の中を後になす」と同じように、
山里の隠栖も全く捨ててしまうことをいった。山野の隠遁生活にも背くというところには、「非真非俗非修非学非遁道人」と g 署
した盤斎の考え方の反映が見られる(幽山撰『誹枕』等参照)。「や」は、疑問よりは詠嘆であろう。「墨染」に「住み」を言い掛
けている。「よの中定がたくて、此むとせ七とせがほどは旅寝がちに侍れ共」(『雪の尾花』所収芭蕉発句「兎もかくも」前書)「山ざと
にたれを又こはよぶこ鳥ひとりのみこそすまんとおもふに」(六家集本『山家集』)「秋のけしきの畑みる客越人わがま k にいつ
か此世を背くべき同」 (『あら 野』員外)「後生ねがひの番左衛門は、いつしか墨染の袖となり」(『日本永代蔵』卷五ノ四)
「 Yononaca . i , Xej 6. 」 「 Yamazat ?」「 Youosomuqu .」「 sumizome .」 (『日葡辞書』)。〇木食 僧 「モクジキソゥ」。木の実や草ば
かりを食べて修行する僧侶。「其比関寺のほとりに尊き木食のましまして」(『好色二代男』卷八ノー ) 「MocujiqL i , Conomi
bacariuoxocusuru . 」(『日葡辞圭日』)。 〇盤斎 「バンサィ」。「磐斎」とも書く。京の人で、松永貞徳門下の和学者。町家に育ち、敷
山で修行した。洛外の小野に隠栖し、各地を漂泊、寛文五年以降摂津に移ったという。俳諧をも嗜んだ。延宝二年八月十一日熱田
で歿、享年五十。石田元季氏『俳文学考説』参照。 〇自詠自画と書 「自詠自画と書す」。「よの中を」の歌が盤斎自身詠んだもの
であり、後向きの僧の肖像も自ら画いたものであると書いてある、というのである。「書」は「書く」とよんでも可い。「自詠」
(『続虚栗』所収芭蕉発句「髪はえて」前書)「白の像を白画に図して、其肩に右の一句を認、土芳に賜ひけるとなん」(『もろつばさ』)
「五十年の頑夫自書、自禁戒となす」(「閉関之説」) 「 xoxi , suru , ita . i , caqu .」 (『日葡辞書』)。 〇猶 「ナホ」。一層、の意。「猶臈
の句をしたひて」 (『あら 野』員外、 素堂 発句 「麦を わすれ」前書) 「 IVJau ?」 (『日葡辞書』)。 〇其狂逸の俤 「其の狂逸の俤」。「狂逸」
は、常軌を逸して気ままなさまをいうが、ここは非難しているのではなく、世間普通の規格に嵌らない生き方を褒めているのであ
る。盤斎の度外れに気ままな風貌、の意。「竟蔵二拙於枯淡一或託二狂逸一以為二高妙 一」 (竟に拙を枯淡に蔵し、或いは狂逸に託し、
417 貞享二年
以て 高 妙と為す。『山中人饒舌』下) 「三上 山は士峰の俤にかよひて、武蔵野 k 古き栖もおもひいでられ」(「幻住 庵記 」) 「Fitoga
vomocagueni tat >o u . 」(『日葡辞書』)。 〇な つかしく覚て 「懐し く 覚えて」。「したしきなつかしきかぎりの白骨 も此 内にこそおも
ひこめつれと」 (『枇杷 園随筆』所収、芭蕉「高 野 登山端書」) 「zat -o ucaxij . J (『日葡辞書』)。 〇団雪 もてあ ふがん 「団扇もて扇がん」。
団扇でもってあおいで、風を送ろう、の意で、興じた気分がある。「仰がん」を掛けているであろう。「団雪」は「団扇」の誤り。
丸形の扇で、「団」一字で「ゥチハ」と訓ませている場合もある。「昼寝して手の動やむ団かな杉風」(『続猿蓑』下)「この心もて
宜しう序書てよと」(『炭俵』序)「さあらば汝ぎやうじをする体にて、扇であおひで見よ」 (狂言 「蚊相撲」) rvchiua .」 「 Auogui , u ,
uoida .」 (『日葡辞書』)。 〇う しろむき 「後向き」。背中を見せた 画像 自体をいう。「況ンやその上の 風— 流、山を見て後むきに跨り、
句を錬て手—悶をなしぬ」(「詩哥誹諧弁」『本朝文選』卷九)。
EB 3 団扇でもって扇いで上げよう、仰ぐべき盤斎殿の後向きの姿を。
MH 「盤斎背むきの像」(『笈日記』『蕉翁句集草稿』『蕉翁句集』)「盤斉うしろむきの像に賛」(『泊船集』)等の前書がある。熱
田蕉門の資料として貴重な『皺笆物語』には、貞享四年冬熱田での句「薬のむさらでも霜の枕哉」について記した続
きに、
其起倒子が許にて、磐斎老人のうしろむける自画の像に、
団扇もてあふがむ人のうしろつき 色蕉
とかきてをくり給ふ。
とあり、星崎(現名古屋市南区星崎)の医起倒子三節所蔵の盤斎自画像に賛したものと伝えている。この自画像につ
いては、土芳の『庵日記』元禄元年の条に、「師の云、いま熱田にある盤斎自画自賛に、世の中を後になしてやま里
にそむきはててやすみ染のそで、是を見て翁も句ありとや。此序語りなどしたまひしをここにと V め記す」と注記し、
『桃舐』(長水撰、元禄九年刊)にも「是は盤斎法師みづから背向の像をかきて、世の中をうしろになして山里にそむきは
て k や墨のころもでと侍るを見て、殊勝さにかくいへる也」と付記があって、土芳の『蓑虫庵集』や『蓑虫庵小
418
集』(猪来撰、文政七年刊)にも同趣旨の事が伝えられている。句の季節たる夏に熱田あたりにいたのは貞享二年と元禄
七年であるが、元禄七年には名古屋が主眼であ〇て,、鳴海や熱田は素通りしただけだから、当面の句は貞享二年四月
上旬、熱田の起倒子の許での作と推定される。
種々の異同のうち、本位句の底本とした真蹟懐紙は、昭和十二年四月名古屋美術倶楽部の下郷苗莓園•小出稲雲榭
及某家所蔵品売立目録の写真によって紹介されたもの(『連歌俳諧研究』四十九号所載大礒義雄氏稿参照)。筆蹟は貞
享後期から元禄初期頃と見られ、前書に盤斎の歌を記している所からしても、当初のものではあるまい。土芳は『三
冊子』に於いては「団扇とつて」の句形を掲げ、「此句、集ども、内扇もてと五文字して、下の五文字、うしろむき、
せなかつきと有。後改るか」(赤雙紙)と結論を保留したが、『蕉翁句集草稿』では「是自筆の句也。笈日記には、団扇
もてあふがん人の背つきと有。直に聞か。此像、みの、方に所持の人あり。世の中をうしろになしてと云詠草あり」
と記す。「みの、方に所持の人」というのは記憶の誤りと思われるが、これによると土芳は「団扇とつて……後むき」
とした芭蕉真蹟を見ていたようである。一方、『皺営物語』所載の句形も、その原拠に忠実ならば、熱田に遺された
真蹟の句形を伝えている箸であろう。同じ句形を伝える『笈日記』は、尾張部に巴丈亭所蔵の画讚四幅中の一として
収めており、支考も真蹟を見ていたことは確実である。誤読の可能性はあるとしても、 r 団扇もて……うしろつ き」
は、初案形として有力と思われる。「団扇もて……うしろむき」は、真蹟の裏付けがあり、成立当初より数年後のも
のとして、本位句とするだけの資料価値は十分である。「団扇とつて……後むき」の形は、真蹟の裏付けがない点で
これらに一歩を譲るけれども、中間案或いは最後案の可能性をなお持っている。何れにしても即興句であるから、そ
の時々の気分次第で色々言葉を差替えて書いたのではあるまいか。
句は俗世を捨てて漂泊の生涯を送った盤斎の高風を慕う気持を表白したものである。夏の季を生かして、後向きの
姿を団扇で扇ぐとしたのが恰好の趣向で、「団扇」には「扇」とちがった俳諧味が感ぜられる。「扇」が和歌連歌以来
419 貞享二年
の長い伝統を持つ季語なのに対して、「団扇」は貞門時代から登場する俳諧の季語であった。
芭蕉が「うしろつき」とした最初の句案を、後に「うしろむき」と改めたことは確かである。尾形仂氏は、「うし
ろつき」の方がィメ ージの具体性に富む語であるにも拘らず、「うしろむき」に改めたについては、芭蕉が盤斎の俗
世間と出世間を共に否定した生き方に共鳴し、後を向くという動作の中にその精神の核心をとらえようとしたものと
見ておられる(『松尾芭蕉』)。両語の差異をそのように断定する根拠は、もう少し確かなものが欲しいけれども、後年
「幻住庵記」で「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず」といった芭蕉は、盤
斎と同様な精神的基盤に立っていたと見るのは、すぐれた指摘というべく、其処にこの句の単なる即興の挨拶句にと
どまらない価値もあるといえよう。また、「団扇とつて」は、「もて」よりも具体的動作の感じが強く出て、そ 比だけ
盤斎敬慕の気持が濃くあらわれ、興じた調子も一層強くなる。これが最終案たる 可能性も、 なお 捨て難いと いわなけ
ればならない。
^白げしにはねもぐ蝶の形見哉 S ざらし紀行) 糖粟合.初蝉.蕉門録.続寒菊
夏季(けし)。
〇白げしに「白芥子」は、白い芥子の花。芥子はヶシ科の一、二年草。日本には室町時代にィンドから東北の津軽地方に伝
来したという。直立した茎は人の背丈ほどにもなり、初夏枝の先端に白•紫•紅等の四弁花を開く。種子からは 油を採り、果皮は
漢方で咳止め、鎮痛、下痢止めに用いる外、未熟の果実から阿片の原料になる乳液が採れる。「に」は、……に対して。「四五月花
を開く。麗春花は六月に至る。美人草といふもの也」(『滑稽雑談』)「しら芥子にはかなや蝶の鼠い ろ嵐蘭」(『あら野』卷三)。〇は
ねもぐ蝶「羽捥ぐ蝶」。蝶が自らの羽を捥ぐ。「もぐ」は日常語で、印象的且つ痛切な表現である。「なんぢらも、そのまごなれボ
420
とて、くびをもあしおも、もがれたてまつるべし」(『曾我物語』卷三) 「 Fane . J「Yoifiquanuoxinaxeteteaxillomogareta
yo < na.J (『日葡辞書』)。〇形見「ヵタミ」。記念として残す物。「記念と書ても、かたみと読」(『御傘』)「世にあはぬ局涙に年とりて
雨桐記念にもらふ嵯峨の苣畑重五」(『はるの日 』) 「catamiuo yas . 」(『日葡辞書』)。
1 a 白い芥子の花に、蝶が自らの羽をもいで形見に残して飛び立って行く。そのように、私も別れが惜しまれてな
らない。
I r 贈杜国 子」(『11 粟 合』 後刷本)「送杜国子」(『初蝉』)等の前書がある。『野ざらし紀行』には、熱田の桐葉に対する
留別句「牡丹蘂 ふかく」 の前に「杜国におくる」として見えており、貞享二年の四月上旬熱田から江戸へ向うに際し
て、名古屋の杜国に贈った留別句であることは確かである。明和板『野ざらし紀行』に下五が「形りもがな」とある
のは杜撰に過ぎない。
杜国を「白げし」に、自らを「蝶」に比して別離のつらさを述べた句である。杜国は名古屋の富浴な米商で、前年
冬の『冬の 日』 五歌仙の連衆の一人。名古屋の門人の中では最も芭蕉に愛された人で、この当時はまだ二十代の青年
だったと思われる(「雪と雪」 277 )の句の条参照)。信天翁の『笈の底』に、
句意は、麗春花に止る蝶の立さまの羽風に、脆き葩の散たるを、蝶の行とて其名残に羽机て置也と、我を蝶
にたる趣にて、至て別を惜む処より、形見共見よと也。誠に白罌粟の葩は、粉蝶の羽に能似たり。亦脆く落
安き事同じ。名誉の見立也。今案、此羽杭と云詞、甚心切の思ひ籠る余情味べし。翅ある物片羽を失ふは、人の
片腕を捨るに勝るべし。
とあり、古注としては良くまとまっている。この蝶の飛び去る時の羽風で白芥子の花が散ったとする解釈は、荻原井
泉水氏の『色蕉読本』や加藤楸邨氏の『芭蕉全句』等に承け継がれているが、却って「はねもぐ」という表現の痛切
さを殺ぐものではあるまいか。ここは現実を超えて、蝶が自らの羽をもいで形見に残して行くと解してこそ句が生き
421 貞享二年
て来ると思う。その上で、散りやすい「白げ し」 の花と、あえかな蝶の羽の感じが匂い 合う 効果を 味わうべきであろ
う。『冬の日』はつ雪の巻に、
霜にまだ見る舞の食 杜国
野菊までたづぬる蝶の羽おれて 芭蕉
という一連が見える。これは秋まで生き残った蝶で、「野菊」と取合わされているが、芭蕉は「白げ し」 の句を作る
に当って、外ならぬ杜国とのこの付合を想い起さなかったろうか。野ざらしの旅中、伊勢では、
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほる、蝶のくづをれ 蕉 (杉風旧蔵本『紀行』真蹟)
という付句も成っている。自らのやつれた旅姿を秋の蝶に擬する発想が当時の色蕉にあったことは明らかである。
「白げし」の花から飛び去ろうとする蝶は夏の蝶であるが、片方の羽を失った蝶のィメージは' 前年から持ち越され
た旅やつれの身の形容として、共通するものを持つといえょう。
後の『笈の小文』の旅や、杜国歿後の『嵯峨日記』の文章を見ても、芭蕉の杜国に対する愛情は並み一通りではな
かった。貞享二年の春から夏にかけて尾張に滞在した時、熱田に居た資料は多く存するけれども、名古屋を訪れた形
跡はない。「白げし」の句も恐らく名古屋御園町なる杜国亭を訪ねての作ではなく、熱田から留別の句を贈ったので
あろう。荷兮•野水らにも惜別の意を通じたであろうが、そうした資料は残っていない。名古屋連衆の中で、『紀行』
に唯一人杜国の名を出しているのを見ても、色蕉の彼に対する気持は推測出来ょう。それにしても、「はねもぐ柴の
形見」とは、惜別の情をあらわして痛切この上なく、こうした激しい表現をする背後には、何か特殊な事情の伏在す
ることを思わせる。杜国を悲境に沈ませるに至った空米売買事件の処分決定は、この年八月十九日であったが、 四月
初めにはもう事件の発端は開かれていて、杜国周辺は容易ならぬ雲行だったのかも知れない。幸田露伴は「白芥子句
422
考」で次のように述べている。
白けしの句ありし時に当りて、杜国もし自由の身なりしならば、必ず芭蕉を尋ぬベく、少くとも脇句を作りて酬
ふほどのことは為すべく、芭蕉もまた杜国を尋ぬべきよすがあらば、後に至りて風雪寒き二十五里の路を反りて
特に訪ひしほどなれば、仮に桐葉が許にのみ在りしとするも、熱田と名古屋との距りはいと少ければ杜国を訪ふ
ことを為すべきなり。然るに杜国にも其事無く、芭蕉にも其事無かりしを見れば、弟子も師を問ふの自由なく、
師も弟子に会ふに便無きなりしなるべし。即ち杜国が事発してあがり屋入りの身となり、罪案未だ定まらずして
鞠問審理を受けつ、ありし際とすれば、事情はすべて刃を迎ふるが如くに解けて、贈の一字に不言の悲も見え、
形見の一語に無尽の感も籠るとや評すべからむ。(『露伴全 S 第十九卷>
これは大正十年八月『潮音』誌上に載ったもので、杜国一件の内実等委細はまだ明らかでなかった頃の文であるが、
師弟の間に往来がなかったことから、燜眼能く真相を徹視したものと言うべきではあるまいか。「はねもぐ」という
異常な句の表現は、考うべき所があるとしなければならない。
撕牡丹蘂ふかく分出る蜂の名殘哉(野ざらし紀行)蕉翁句集草稿
ふた ゞ びあつたに草鞋をときて、林氏桐葉子の家をあるじとせしに、またあづまに
おもひたちて
牡丹蟲分て這出る蜂の餘波哉-真填懐紙) 一警物語.熱田三歌仙
むかし此國 より 武江にく だると て、人//に留別す
牡丹しベを分て這出る蜂の名殘哉 S 日記)
423 貞享二年
夏季(牡丹)。
〇 牡丹蘂ふかく 「 tt a 丹®!く」。「牡丹」 は、 キンポゥゲ科の落葉灌木。花が華麗で大きいので、観賞用に珍重される。我が
国には古代に薬用として中国から渡来し、寺院の境内に好んで植えられた。 r 蘂」は、花の中にある生殖器官。 rlim 夏也」(『御
傘 fc 「もろこしには花の王ともてはやし。牡丹は花の富貴なる物ともいへり」(『山之井』)「和におゐて牡丹を賞する事既に旧し。
万葉には山橘とよめり。其余は皆深見草と詠ず。其外異名多し。 此 もの和俗の賞する所、万花の第一とし、都鄙住//に生ず。その
うへ近世実生といふ事侍りて、珍花年毎に出す。是異人録など云書に、宋単父種芸の術ありて、牡丹の種を変易して色様おなじか
らず。呼て花神花師などいへる類の道より始るならし。其花に名附る事、又名姓国所を以てす。所謂茂安•倉橋•安養寺•出雲白
などいふ。中華の唱ふる義に同じ。尤白を以て貴しとす」(『滑稽雑談』)「小三太に盃とらせひとつうたひ芭蕉月は遅かれ牡丹
ぬす人杜国」(『冬の日』)「散残るつ、じの蘂や二三本子珊」(『炭俵』上)「藪深く蝶気のつかぬつばき哉卜枝」 (『あら 野』巻二)
「 Botan .」「 xibe . 1, sube .」「 Fucai . 」(『日葡辞書ヒ。〇分出る蜂「分け肚づる 4 !| , |」。しべの深い所から分け出て来る蜂。東へ旅立
とうとする作者自身を蜂に擬した。「山路わけいでけんほど、うつ X ともおぽえずくやしくかなしければ」(『源氏物語』宿木)「まが
はしや花吸ふ蜂の往還り園風」(『猿蓑』卷四) 「 vaqeide , urueta . J 「 Fachi.J (『日葡辞書』)。〇 名残 「ナゴリ J 。 ここは別れを惜
しむ気持を.> う。「色蕉翁をおくりてかへる時/この比の氷ふみわる名残かな 杜 国」(『はるの日』) rzagoriuovoximu . 」(『日葡辞
書』)。
QEI 牡丹のしべに深くもぐって蜜を吸った蜂が、やがて分け出て来て飛び去って行く。そのように私も、御厚遇に
あずかったが、お別れしなければならない今、名残が惜しまれてなりません。
1『熱田三歌仙』には「ふた k び熱田に草鞋をときて、林氏桐葉子の家をあるじとせしに、またおもひたちてあ
づまにくだるとて」と前書がある。『紀行』には「白げしに」の句の次に、「二たび桐葉子がもとに有て、今や東に下
らんと する に」 として この 発句を出しており、江戸に帰るべく熱田を辞するに当っての、桐葉に対する留別吟だ った
ことは明らかである。現存の堀尾博氏蔵真蹟懐紙は、貞享前期の筆蹟の特色を具えた代表的揮毫物であって、熱田を
去る時の筆と推定される。前書の初めの箇所が「熱田に暫草鞋をときて」と見せ消ちにして訂正され、芭蕉の発句の
424
後に、
うきは藜の葉を摘し跡の独かな ffl * 之
とあるじ ft けらし
と、『皺宮物語』にも見える桐葉の発句も記されている。即ち「牡丹蕋分て這出る」としたのが旅行当時の初案であ
って、それを『紀行』執筆に際して「牡丹蘂ふかく分出る」と改めたのであった。恐らく「這出る」の語に虫の印象
が強過ぎることと、桐葉の厚遇の温か味をあらわすのに、「ふかく」という語の方が相応しく感ぜられた故であろう。
『笈日記』は、撰者の支考が熱田で原資料を見た箸で、うっかり誤りを犯したものと見られる。外に、寛政九(一七九3
年に車大の編刊した『夢の跡』に、「貞享二年夏、叔父桐葉のもとを別る、とて」と前書して「牡丹蘂深く這出る蝶
の別れ哉」の発句以下桐葉.叩端との一巻の歌仙が伝えられる。この前書は桐葉の甥叩端が記した形であるが、「蝶」
としたものは信ずべき古い資料に所見がなく、歌仙の出来も低調で、偽作の疑いさえ抱かされる底のものなので、問
題にならない。
旅宿を営んでいた桐葉亭の庭に、折柄牡丹が豊麗な花を開いていたのであろう。それを句では桐葉に比し、花蘂の
甘い蜜を吸うべく花に出入りする蜂を自らに比して主の厚遇を謝し、併せて惜別の情を述べたのである。挨拶の相手
を花に、自らを虫に比擬した点で、前の「白げしに」の句と好一対をなす留別吟となった。八•八.五という極端な
破調で、「牡丹」と r 蘂」との間にも小休止があるが、角張った感じではなく、寧ろゆったりしたリズムを構成して
いるところに注目したい。また、この句が目ざした所ではないが、牡丹の花と蜂のたたずまいが実にょくあらわされ
ている。
私がこの句に心を惹かれるのは、『牡丹蕋深く分け出づる蜂』といふ至妙至純な写生である。『深く』といふ形容
勻は、あの大輪の牡丹に対して、実にょく働いて居る。これだけ自然のいのちをしかと摑むことが出来れば、他
425 貞享二年
はどうでもい ゞ と いふやうな気さへする。それ故、私には、『名残かな』 とい ふ座五の句が、この句を味ふ上に、
却つて邪魔になる位である。(半田良平氏『色蕉俳句新釈』)
という評がある所以であろう。芭蕉は写生は余りしないが、物を実によく見ているのである。
辦思ひ出す木曾や四月の樓狩-皴営物語} 熱田三歌仙
夏季(四月)。
pi 〇思ひ 出す木曾や 「木曾」は、木曽路(中山道。別しては信州西部、馬籠峠から鳥2¢:一^2かけての十一宿を指す)で、その
街道周辺の風光も含めていった。「思ひ出す」は、これより以前芭蕉に木曾路の旅の経^^づて、それを思い出す意か。〔考〕参
照。「や」は詠嘆の切字である。「はつしぐれ何おもひ出すこの夕湍水」(『ぁら野』卷五|:「雉追に烏帽子の女五三卜野水庭に
木曾作るこひの薄衣羽笠」(『冬の日』) 「 vomoidaxi , su , aita . 」(『日葡辞書』)。〇 四月の桜狩 r felm - り」は、山野に桜を尋ねて花
見をすること。花の頃に狩りすることともいわれるのは、都に近い交野が桜の名所で、且つ狩場でもあったので、春には貴族達の
遊獬が催されたからである。本義ではあるまい。清輔の『奥儀抄』に「桜がりとは桜をたづね求むるなり。何をも求むるをば、か
るといふなり」とあるように見るべきである。いうまでもなく春の季語であるが、ここは「四月 1—0 なので、夏に入ってからの花見
になる。寒地である木曾路は季節が遅れるから、四月になって花見が出来るわけである。「四月」は 「ゥヅキ」 とも訓めるが、そ
う訓むなら振仮名をするか、「卯月」と書いたであろう。俳諧に相応しく、日常的な「シグヮッ」の語を用いたものと思われる。
「四月八日は行水のはじめ也」(『柳多留』十七編)「又やみんかたののみのの桜がり花の雪 散る 春の明 ぼの」(『新古今集』卷二、俊成)
「 xiguarJ 「 sacuragari .」 (『日葡辞書』)。
ksna 嘗ての木曾路の旅が思い出されることよ。これから又その地を旅して、四月の桜狩りを楽しむとしよう。
HH 『熱田三歌仙』には「木曾を経て武の深川へくだるとて」と前書がある。『皺®物語』には、前の「牡丹蘂分
426
て」の留別句の記事の前に、「翁これより木曾に趣、深川にかへり給ふとて」として「思ひ出す」の発句と「京の杖
つく姐の青麦」という東藤の脇を録している。これによって、熱田に在って江戸への木曾路の旅を思い遣った句であ
ることが分るが、問題は「思ひ出す」という表現である。これをそのままに取ると、作者が嘗て木曾に遊んだことが
あるのを思い出す意味と見られるが、これ以前芭蕉が木曾路の旅をしたことは何の資料にも出て来ない。一つの可能
性として、深川の草庵焼失後甲州に流寓していた際に、木曾に遊んだことがあったかと推測されるだけである。それ
はよいとしても、ここでその事を言い出す意味が那辺にあったか、今一つ分りにくい。然るに『幽蘭集』(暁台•臥央編、
寛政十一 年刊) に、この句を発句とする十二句の付合が収められているが、発句の初五が「おもひ立」となっている。
この形なら、兼好の歌「おもひたつきそのあさぎぬあさくのみそめてやむべき袖のいろかは」との関連も考えられ、
或る意図をもって旅に出る意としてすっきりまとまるのである。そこで『皺宮物語』等の句形を誤りと見て、『幽蘭
集』の句形を本位句とする注書もあるのだが、『皺営物語』と『熱田三歌仙』が一致する句形を捨てて、時代の降る
『幽蘭集』の句形を採るのはどんなものか。今の段階で敢えてそこまで踏み切るのは躊躇される。ここでは一応〔大
意〕の条に記したように解し、「おもひ立」の方が意味の通りは良いことを言うに止めたい。
さて、芭蕉が江戸への帰路に木曾路をとったことは、右に触れた熱田での諸資料によって明らかな如くであるが、
実際には東海道を通ったのではないかという見方もある。色蕉は四月九日に熱田の桐葉亭を辞して鳴海の知足の屋敷
に一宿し、翌十日江戸へ下る旅途に就いた。『知足斎日々記』十日の条に「桃青丈江戸へ御下り」とあるのによって、
この事は明らかである。知足は早速にこれを熱田の桐葉に報じたらしく、翌十一日付の寂照(知足)宛林七左衛門
(桐葉)書簡には「翁昨昼御立候由、其御地歌仙御みたし被成候由」と認められている。森川昭氏は右の知足の『日
記』の書き方では、鳴海からそのまま東海道を下ったと見る方が自然とされ、木曾路に入るには知足宅の門から道を
右に取って、熱田•名古屋を経て鵜沼に至るか、名古屋から大曾根.多治見等を経て大井に至るか、何れにしても熱
427 貞享二年
田の桐葉亭の門前は通った答で、挨拶なしに過ぎる答がない。然るに桐葉が知足の知らせによって始めて色蕉の出立
を知ったのは、色蕉が木曾路をとらなかったからではないかと見ておられる。これよりさき三月廿六日付の木因宛色
蕉書簡では「何とぞ独木曾路の旅望に被存候。不定^-」と、一人で木曽路を行くつもりだったが、いざとなると未
経験の旅路が心細くなって予定を変更し、歩き馴れた東海道を下ることにしたのではないかというのである(森川氏
稿「冬の日前後の芭蕉と知足」『連歌俳諧研究』五十五号参照)。
右に指摘された諸点は何れも重要であるが、最後に桐葉に挨拶せずに去ったのは、既に九日に鳴海へ赴く時に十分
に別れを惜しんでいる箸だから、十日にそのまま行ってしまうことは、必ずしもあり得ないことではない。後年 KJ . も
江戸へ去るに当って膳所の曲水に、「行脚乞士之癖として、常の御厚恩は胸に有ながら、御暇乞もさだかならず、
短き手紙一つに而埒明候も、悟リ中間の仕方のやうにうるさく覚申候へ共、且名残リの残らんも一風流たるべきや」
(元禄匹年霜月十三日付書簡)と書いた芭蕉である。それに、『皺宮物語』に「翁これより木曾に趣、深川にかへり給ふと
て」とはっきり書かれている点は、軽々に看過出来まいと思う。この書は貞享期の集ではなく、元禄七年十月に芭蕉
が歿した後、追悼の為に編撰されたもので、同八年秋に稿が成ったと推定される。若し野ざらしの旅の帰路が実際は
東海道を下ったものならば、熱田に遺された資料はどうあったにせよ、もっと別の書き方がされるべきではなかろう
か。実際には東海道を経て帰東したことが注記されなければなるまい。その上、芭蕉が江戸に至る前、甲州に立寄っ
たことは確かな事実であるが、仮に東海道を迎ったとして、甲州へはどの道をとって入ったのであろうか。勝峯晋風
氏は、御殿場から須走を通り、籠坂啤を越えたとされ(「芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究」『国語と国文学』昭和二十五年七月号)、
富士川を遡行して甲州に入る道も考えられているようだ(『日本古典全書•芭蕉文集』付図)。しかし抑々こうした嶮洛を冒
して東海道から甲州へ入ること自体が不自然に思われてならない。木曾路から江戸へ向う途中甲州へ立寄る方が余程
自然なのである。こうして見ると、帰東に際して東海道を通ったとは断定出来ず、私は寧ろ『皺宮物語』等の記事を
245
428
尊重して、木曾路を経たと見る方に左袒したいのである。
さし棹書たる扇に
鳥さしも竿や捨けんほと、ぎす ( 千鳥掛)
夏季(ほと ゞ ぎす)。
1 M 〇 さし棹書たる扇 「,し齡 i 日きたる S 1—# 。 「さし棹」は、小鳥を捕る為に棹のさきに黐を塗ったものをいう。その絵が扇にか
いてあるのである。「ほくそづきんきて、さし竿をさげてありくは、巣立の雀をねらふのみとぞ」(『類船集』巣立)「羅綾の袂しぽり
給ひぬ正秀歯を痛人の姿を絵に書て珍碩 J (『ひさご』)「つく■と絵を見る秋の扇哉加賀小春」(『あら野』卷四) 「TOHUO
sasu .」「 caqi , u , aita .」「 V 6 gui.j (『日葡辞書』)。〇鳥 さし 「鳥刺し」。黐をさきに塗った棹で鳥を捕って売る商人。「とりさし
春は又と ころも 花の千本にみせをくたなの鳥のいろ^^」(『三十二番職人歌合』) rTorisxi.J (『日葡辞書』)。〇竿や捨けん「竿や捨
てけん」。竿を捨てたのだろうか。「竿」は「棹」と同じ。「や」は、疑問。「捨けん」で切れる。「蜻蛉や何の味ある竿の先探丸」
(『続猿蓑』 下)「又は盃をとりて、筆をそめ筆をすつ」(芭蕉「閑居ノ箴」『本朝文鑑』) 「 sau ?」「 sute , touru , eta . J (『日葡辞書』)。
ia ほととぎすの鳴く音には、さすがの鳥刺しも竿を捨てて捕るのをやめたのだろうか。この扇の絵の竿は、きっ
とそれだ。
1 尾張鳴海に残された芭蕉関係の資料を集成した『千鳥掛』(知足撰、正徳二年刊)のみに見える画賛句である。恐ら
く鳴海での作で、「ほと ゞ ぎす」は当季の季物として取合わされたのであろうから、貞享二年四月が成立時期として
最も相応しい。元禄七年五月にも芭蕉は鳴海に来ているが、この時は一寸立寄っただけであった。
刺し竿だけ描いた絵というの も、 随分とぼけたものである。それに当季のほととぎすを取合わせて、この竿は鳥刺
しがほととぎすの鳴く音に感じて、捕らずに捨てて行ったのだろうと機智を以ておかしみを出した。笑いと風雅の情
429 貞享二年
を併せた頓作として成功している。
施行駒の麥に慰むやど り:^ (野ざらし紀行) 芭蕉庵小文庫
夏季(麦)。
〇行駒 「行く駒」。人や荷を 運ぶ 駄馬の、。ほくり。ほくりと歩むさまである。「牛の行道は枯野のはじめかな桃酔」(『続猿蓑』
ド)「夕せはしき酒ついでやる荷兮駒のやど昨日は 信 濃けふは甲斐野水」(『あら野』員外) rcomauofaxirasuru .」 (『日葡辞
書』 〇〇 麦に慰む 「麦に慰む」。馬が麦の穂を喰いちぎって食べているのを「慰む」といったのであろう。「道のベの木槿 i 馬こ
くはれけり」 (§) の句の風情なども併せて考えたい。「穂麦」^)参照。「麦喰し腸と思へどわかれ哉(野水ご(『あら野』員外、素
堂発句「麦をわすれ」前書)「人にほいなくおもはせて、わが心をなぐさまん事、徳にそむけり」(『徒然草』百三十段) 「^ po^cgftj ョ r*f
5 da.J (『tn 葡辞書』) 〇〇 やどリ 「宿り」。自分の住居とはちがう一時的な滞在先。前の「やどり」(225)と同様に、休み茶屋のよう
なものを 指す とも取れる。
i 道を行く馬が、あたりの麦を食っては慰んでいる。いかにも閑静な宿りだ。
■B 『芭蕉 庵小 文庫』に「甲斐にて」と前書があり、『紀行』には、熱田の桐葉への留別句の次に、「甲斐の国山中
に立寄て」としてこの発句を載せる。江戸へ帰る途次、甲州での吟であることは明らかである。『紀行』の「山中」
を地名として今の山梨県南都留郡山中湖村山中に擬する説がある。しかし『紀行』のこの部分の推敲過程を 見る と、
最初「かひの国山家に立よる」(杉風旧蔵真蹟本)と書いたのを、後に「甲斐の山中に立よりて」(真蹟絵巻本)「甲斐の国
山中に立寄て」(濁子絵巻本)と改めており、地名とは考えにくい。芭蕉は故郷伊賀の上野を「伊賀の山中」と呼ぶこと
があり、それと同じ伝で山に囲まれた甲州の地を「山中」と称したのであろう。尤も、中興期の俳人暁台の「峡中之
記」(天明三年)には、「よし田•山中•砂走などいへる所は、裾の はしりに家づくりせし村ざと也。芭蕉 翁武江天 和
430
の変にあひて、しばらく留錫ありしも此さかひ也」とあり、これは時代の降る所伝ながら、天和の火難で江戸を去っ
て滞在したと思われる谷村(現都留市谷村町)も遠からぬ所なので、地名の山中である可能性も全く否定は出来ない。
ただ甲州に於いての色蕉の立寄り先として最も自然なのは、谷村の高山麋腾宅であって、その辺を漠然と「山中」と
称したと見るのが、今のところ穏当であろう。
句の中の「駒」を、自分が乗って来て立寄り先の軒端につないである馬と見る説が多い が、 それを「行く駒」とは
言うまい。「それはこれまで、自分と行を共にして来た駒であり、また明日も自分と行を共にする駒である」(山本氏
『芭蕉 その 鑑賞と批評』) とするのは牽強の感を免れず、「行く」という以上は、どうしても歩いている馬でなければなら
ぬ。 それが麦畠に生えている穂麦を喰いちぎっては、むしゃむしゃやりながら行くのを、傍から眺めている気持と思
われる。「やどり」は作者の立寄り先の家のことで、そういう馬の姿が眺められる「やどり」という短詩形独特の簡
略化された表現なのである。如何にものんびりした田舎の景色を描くことで、亭主(恐らくは麋塒。( I )の句の条参
照)に対する挨拶としたのであろう。谷村藩の家老だった麋塒の家の趣にしては、余りみすぼらしいと思われる向き
があるかも知れないが、天和三年の夏谷村で興行された麋塒•一晶•色蕉の三吟歌仙の発句•脇には、
&5棘垣穂に木瓜も無屋かな 麋塒
笠おもしろや卯の実むらさめ 一晶(『蓑虫庵小集』)
とあって、麋塒宅の周辺の景趣を叙したものらしい。このょうな山里で「行駒の麦に慰む」さまを見ることは容易で
あったろう。甲州は昔から「甲斐の黒駒」の名で知られる名馬の産地であって、「馬」といわずに「駒」の語を用い
たところに、土地柄への心しらいが見える。但し、余り和歌的情趣を重視する説は肯けない。この句はやはり鄙びた
趣を写した何気ない表現の中に、おだやかな旅情を湛えたところが佳いのである。
431 貞享二年
甲斐山中
撕山賤のおとがい閉るむぐらかな(続虚栗) 蕉翁句集
夏季(むぐら)。
mia 〇 甲斐山中 「ヵヒャマナヵ」。「甲斐」 は、 今の山梨県の旧国名。「山中」は地名ではなく、「山の中」の意の普通名詞であろ
う。前の「行駒の」の句の条 参照。 「花咲けば芳野あたりを欠廻曲水虻にさ k る k 春の山中珍碩」(『ひさご』)。 〇山賤 「ャ
マガッ」。山中に生活する狩人•木こり等をいう。「山賤が鹿驚作りて笑けり重五」(『あら野』卷四) rYamagat * ou . 」(『日葡辞書』)。
0おとがい閉る 「頤閉つる」。「おとがい」は、口の下、あごの部分。「おとがひ」の仮名ちがいである。晓台の r 峡中之記」にこ
の句を引いて中七を「頤とぢる」と仮名書きしているが、口語風の表現は古集に確証がないので、ここでは「閉づる」とょんでお
く。人のあごを隠す程むぐらが繁っているというので、裏に、人が押し黙って口を利かないことをほのめかして俳諧の興とした0
「扨も扨もうまい事ではないか。……おとがいが落るやうな」(狂言「附子」)「むぐらのかどに、おもひのほかに、らうたげならん
人のとぢられたらんこそ、かぎりなくめづらしくはお ぼえ め」(『源氏物語』帚木) rvotogai . J 「 Togi , zzuru , ita . ……」 「 c 6 rini
togiraruru . 」(『日葡辞書』)。〇む ぐら 「葦」。広く群生した「かなむぐら」の類の草。荒れた感じをあらわす。『御傘』には「雑
なり。潷の宿、 植物也、 居所なり」とあり、季寄類に季語として登場するのはずっと後年である。この句など、この語を夏として
扱った早い頃のものであろう。安東次男氏は、「草茂る」が連歌以来、兼三夏とされるのに準じたものと見ておられる(『芭蕉発句
新注』)。 「 Mugura .」 (『日葡辞書』)。
Bans 山中の潷は山賤のおとがいを隠す程に繁っている。ふと出逢ったその男は、むっつりと押し黙って口も利かな
いことよ。
■ E ■貞享四年冬に刊行された『続虚栗』(其角撰)初出の句である。天和三年夏甲州流寓中の作と考えられないでは
ないが、句風は天和調の時代のものとは見えない。貞享二年四月帰東の途次、甲州での作と見てょかろう。『蕉翁句
432
集』も『続虚栗』と同じ前書で貞享二年の条に収めている。
「おとがい閉る」に色々な解し方があつて、全体の内容も人によつてとりどりである。「む ぐら」 を主にすれば、山
中の草が人の頤を覆つてしまう程繁茂しているさまと見られる。また、「おとがい閉る」を口を閉じて物を言わぬさ
まとすると、「む ぐら」 は その 背景としての山中の自然と解されよう。山賤に出逢つて物を問い掛けたが、押し黙つ
て返事もしない。それは草が頤まで隠しているから口が利けないのだと取るのは、興じ方が浅薄に過ぎるし、山賤に
作者が問い掛けるというのも、句の表現から自然に考えられる情況ではあるまいと思う。ただ、「おとがい閉る」に
は潷の状態ばかりでなく、口を利かない こと も掛けて興としている ことは 認められよう。結局、
高く生ひ茂つた雑草の中に、山賤の顔だけが見えたのである。雑草は頤のあたりまでも達して居る。山賤は無愛
想にむつと口を噤んだま、挨拶もしない。それを「頤閉づる」と些か興じたのである。*が門を閉ざすなどは常
にいふ事だが、頤を埋め閉ぢてしまふとは面白い言ひ方である。山中の草深い所で、素朴な里人などに行会つて
の吟であらう。 (『新 講 JD
という潁原博士の見方が最も穏当である。景も人も自然で、山国の趣がよくあらわれ、興じ方も穏やかな佳作といえ
る。
| 夏衣(ま J .'' こ虱をとりつくさず S ざらし紀行) 翁?色蕉庵小文庫.銭囊
夏季(夏衣)。
gstt 〇 夏衣 r ナッゴロ モ」 。夏に着る単物。「せみのはのひとへにうすき夏衣なればよりなむ物にやはあらぬ」(『古今集』卷十九'
躬恒)。〇 いまだ虱をとりつくさず 「未だ虱^!取り尽さず」。石鹸など洗浄力のすぐれた物のなかつた時代には、虱は人の生活に
433 貞享二年
親しいものであつた。ここは衣裳につくころも虱である。「おもへども壮年いまだころもを振はず」(『冬の日』所収野水発句「はつ雪
の」 r 書)「西日のどかによき天気なり珍硕旅人の a かき行春暮て曲水」(『ひさご 』) 「Tenca imada xizzumarazu . 」
「 xirami . 」(『日葡辞書』)。
Bans 旅に着た夏衣、それについた虱を、まだ全部は取りきらずに居る。
PH 「旅行」(『翁草 fc 「卯月のはじめ庵に帰りて、旅のつかれをはらす程に」 (『色蒸庵 小 文庫』) 等の 前書が ある。 『野ざ
らし 紀行』には「卯月の末庵に帰りて、旅のつかれをはらすほどに」 として 句を掲げてあり、四月 十日まではまだ 尾
張の地に居たのだから、『小文庫』の「卯月のはじめ」は誤りで ある。 「旅行」 という 前書も不精 確という外ない。
前年八月以来八箇月余の長旅を終えて、久しぶりに深川の草庵に帰着した当座の感懐である。旅疲れのものうさに、
旅中の宿で衣にたかつた虱をまだ取りきつていないというので、まだ深川での草庵生活に馴染めず、心は半分旅にあ
る心境を、微苦笑のうちに述べている。後年の「幻住庵記」に「唯睡辟山民と成て、孱顔に足をなげ出し、空山に虱
を捫て座ス J と あるように、虱は漢詩の世界でも隠逸の士に付き物とされていたもので、「いまだ . とりつくさず」
と断定的にいつた調子にも漢詩文に擬した趣が見えるが、句の雰囲気はぐつと砕けた俳諧的なものになつた。島田青
峰氏が、
この句はどこかユーモラスなところがあり、紀行の最後に置くものとしては大に振つて居ります。この辺のをか
しみになると、全く醇化されて居りまして、初期の句にあるやうな、思ひつきの滑稽とは大分違ひます。……こ
の一句に至つてはじめて裕かなユ—モアを湛へてゐるのは、帰庵と同時に気分の寛いだことを示すものでせう。
(『芭蕉名句評釈』)
と述べられた通りである。右にもいうように『野ざらし紀行』はこの句を以て終つているのだが、最初の「野ざらし
を心に」の句の切迫緊張した気分に比べると、この句のくつろいだ安らかさは好対照をなしている。そしてこう(う
醇化されたューモアこそ、蕉風がはじめて俳諧にもたらしたものだったのである。
あつめ句.菊本氏蔵真蹟懐紙.篇突.荣集
真蹟集覧.はるの日•続虚栗.泊船集.後れ
馳.東西夜話.千句塚•蕉翁句集
I 〇雲 おりく 「雲折//」。「雲折 AZ か k りて」の意。「お」は、「を」の仮名ちがいである。「主のいはく、折く雲のか k る
こそと、客をもてなす心いと切なり」(「堅田十六夜之弁」『芭蕉庵小文庫』) 「 voriuori.J (『日葡辞書』)。〇 人を休める 人を気遣いから
解放してほっとさせる、といぅのである。「休める」は口語調で、「休むる」と意味の上では同じながら、この方が後案と思われる
ことは、〔考〕の条で述べる。「母の心をやすめる為請取てくれるかと、なぞをかけてわたしたを」(『冥途の飛脚』中 ) 「Qiuo
yasumuru . 1, cocorouoyasumuru.J (『日葡辞書』〇
la 今宵の月の清光を賞して、余りの感動に月見の人は気が疲れる程だが、雲が折々月にかかって、その間だけは
人をほっとさせることだ。
1この句、板本の初出は貞享三年八月下旬に出た『はるの日』であって、三年作と見るのは中秋の名月と時期が
近過ぎて無理が多い。下郷家蔵真蹟懐紙に共に載る次の「盃に」の句と前書の内容からして、この句は貞享二年八月
十五夜の作と見るのが最も穏当であろぅ。
西行の歌「なか^^にとき^^くものか k るこそ月をもてなすかざりなりけり」(『山家集』上)を踏まえた趣向であ
測雲おり-^人を休める月見哉(孤松)
終夜の陰晴心盡しなりければ
雲折//人を休むる月見かな (下郷家蔵真蹟懐紙)
雲おり^^人やすまする月見哉 S 吉物語)
秋季(月見)。
435 貞享二年
ることは、一見して明らかである。意水宛芭蕉書簡なるものにこの西行歌を踏まえた旨が見えるのを引く向きもある
が、信憑性に疑いのある書簡なので今それは除外するとしても、歌と句の内容上のつながりは否定し難いものがある。
西行歌は、蔞のかかるのが月に趣を添える飾りになっているという意で、限なき月影を賞するのみに限らぬ雅懐を述
ベており、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(『徒然草』百三十七段)という兼好の考え方にも通じてい
よう。これらの後をうけた芭蕉は、雲が折々月を隠すことによって人々の「心尽し」を休めると興じて、自然を著し
く人事化するところに新味を求めた。人を休めるべく宛かも雲が心あるかのように扱い、そこにおかしみをあらわし
ているのである。下郷家蔵真蹟前書の「心尽し」を雲の人に対するもてなし心の意に解する向きもあるが、これは
「このまよりもりくる月のかげみれば心づくしの秋はきにけり」 (『古今集』卷四、よみ人しらず) と 同じ 意と見るべき で、
さまざまの物思いをさせることと考えた方が良い。それは兎も角として、句の趣向が右の如くとすれば、言い方が安
らかなのは取り所であるにもせよ、内容は聊か理が勝っていて、上乗の作とは言えないと思う。
「休むる」「休める」の相違は内容に関わることではないが、貞享四年三月二十五日に刊行された尚白撰の『孤松』
は初出の『はるの日』より明らかに後である。同年十一月十三日に出た『続虚栗』に「人を休むる」とあるのが聊か
気になるものの、同じ秋の真蹟「あつめ句」も「ひとをやすめる」なので、「休める」を後案と考え、この句形を本
位句とした。
436 灵岸嶋に住ける人みたり、更て我草の戶に入來るを、案內する人に其名をとへ
ば、各 A / 七郎兵衛となん申侍るを、彼獨酌の興におもひよせて、いさ、かたは
ぶれとなしけり
250 盃こみつの名をのむこよひかな t 下郷家蔵真績懐紙) 真籠覧.芭蕉翁真蹟拾遣
秋季(こよひの月)。
1 i 〇 灵岸嶋に住ける人みたリ 「動^ 1 嶋に^ i みける人三人」。「灵岸嶋 J は今の中央区霊岸島。箱崎と鉄砲洲に挟まれた地帯で、
寛永の初ここに霊岸寺という寺が建てられ、後に寺は深川へ移されたが、地名はこの寺の名に基づく。中央を流れる新川の両岸に
は酒問屋が密集し' 後世に至るまで所謂「下り酒」(上方などから江戸へ送られて来る銘酒)のメッヵであった。「灵 J は「霊」の
俗字。其処に住んでいた三人とは、後述するように尾張鳴海の酒造家千代倉家(蕉門知足の下郷氏)の江戸店の番頭•手代の案内
で芭蕉庵を訪ねて来た同業者達と推定される。「この二三子庵に侍て、……舌よりまろびいづる声の、みたりが耳に入」 , S ' K 條 i , 素
龍序)。 〇更て rp けて」。夜更けて、の意。「千鳥立更行初夜の日枝おろし(芭蕉ご(『伊賀産湯』) 「 Fuqe , uru , eta . 」(『日# 1 辞書 J )。
〇我草の戸に入来るを 「我が草の戸に A 1 り 来るを」。「我草の戸」 は、 深川の芭蕉庵を指す。「我くさのとのはつゆき見むと , -(■「あ
つめ句」所収「はつゆきや」の句前書)「あるは宮守の翁、里のおのこ共入来りて」(「幻住庵記^「011臣112.0.」「'? , 3二2.」(『日葡辞
書 J 1)。 〇案内する人 「案内」は、ここでは、目的の家などをよく知らない人を手引して連れて来ること。これが恐らく千代倉家
の人で、芭蕉と既に知合だったので、他の二人を誘って来たのである。「かの案内せしおのこの云やう」(『おくのほそ道』)
「 Annai . 」 (『日葡辞書』)。 〇其名をとへば 「其の名を問へば」。「名をいかにいふと、 へば、 かさねとこたふ」(芭蕉 「 賀重」の 文)
「 TOr -6,6 ta . 」(『日葡辞書』)。 〇各ミ七郎兵衛となん申侍る 「各ミ七郎兵衛となん申し侍る」。三人それぞれが七郎兵衛と名乗っ
た、というのである。 「 須磨寺に汗の帷子脱かへむ 重五 をの-^なみだ笛を戴く荷兮」(『はるの 日』) 「 vonovono . J (『日 葡辞
書』)。〇彼独酌の興におもひよせて 「彼の独酌の興に思ひ寄せて」。「独酌」は、李白の詩「月下独酌」 (『古文真宝』 前集卷 二) を指
437 貞享二年
す。その始めに「花下一壺酒、独酌無 n 相親-'挙 X 盃邀二明月一対一影成こ三人 r (花下一壺の酒、独酌相親しむ無し。盃を挙げて明月
を邀ふ。影に対して三人と成る)とあり、「対影成三人」とは、月と自身の影とを人になぞらえて「三人」と興じた意なので、そ
れを芭蕉が思い寄せたわけである。詩の「成三人」を、作者自身とその地上の影、それと盃中の影と解する向きがあるが、それに
続く部分で明らかに月を相手に採り上げており、盃中の影を「三人」の中に数えるのは正しくない。「かの何がしの女すら郭公の
歌得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならむかし」(『鹿嶋詣』)「臘月の青物に四時^.犯の国をおもひよせたる
も奇特」(『常 盤 屋の句合』) rcano.J (『日葡辞書』 )0 〇 いさ、かたはぶれとなしけリ 「狐 か 齡 W と^!しけり」。ちょっと戯れの句を
作ったこと だ、 の 意。 「夜の物おさむべき処などいさ k かしつらへり」(「幻住庵記」)「まことに生前のたはぶれなどはこのあそびに
殊らん や」 (『続猿蓑』下、色蕉発句「稲づ まや」 前書) 「 Jssaca .」「 Tauabure .」 (『日葡辞書』)。 〇盃 「サカヅキ」に「月」が言い掛
けてある。 〇み つの名をのむ 「三つの名を飲む」。「みつの名」は、前書に見える三人共通の名「七郎兵衛」を指し、「#" つ」 を言
い掛けた。「のむ」 は、 上の「盃に」と関連して、酒を飲む 意で あること言うまでもない。なお前記、李白の詩題「月下独酌」も
響いている。「法の 心 も三つの名の、 大和 路いざや尋ねん」(謡曲「三山」) rMitou .」 (『日葡辞書』)。 〇こよひ 「4 ; wi 」。 出典の真蹟
に於いて、この前に書かれた「雲折( I )の句は月見が主題であり、前書中の李白の詩も「月下」の作とあって、この「こよ
ひ」が 「今宵の 月」 即ち 中秋の名月を 意味す ることは明らかである。「月」が表面にあらわれない秋季の珍しい例。「今霄の月」
( S 3) の 句参照。
lag 今宵は名月。盃の満 を 引いて 飲む のは楽しい。李白の「影に対して三人と成る」とは事変り、同じ名の三人の
方と 飲む ことになろうとは。
鳴海の知足の後裔下郷家に伝来する真蹟懐紙の外、『真蹟集覧』(天保士 一一 年刊)にも香川所蔵の真蹟懐紙が摸刻さ
れており、両者は字配りや字句に小異のある別点である。同じ懐紙に書かれた「雲折 A /」 の句が『はるの 日』初出な
ので、この句も貞享二年中秋以前となるが、懐紙を紹介された森川昭氏によると、千代倉家(下郷氏) 一族 所蔵の芭
蕉真蹟の大部分は、その内容が直接間接に千代倉家に関係を持つものであるという。 つまり、 芭蕉の 真蹟を意識的に
蒐集したのとは性質が異なるわけで、そうすると「盃に」の句の前書に見える訪問者の中に 千代 倉 家の関系者が居た
438
と考えるのが自然であろう。酒造家千代倉家の江戸店も霊岸島にあったというから、色蕉と知合の番頭などが俳諧に
心を寄せる同業者を誘い、酒を携えて隅田川の対岸深川の芭蕉庵を訪ねたものと思われる。このように知足の関係者
と馴染になるのは、野ざらしの旅で芭蕉が鳴海の知足亭を訪れて後でなければ考えにくいから、「雲折ミ」と「盃に」
の句が詠まれたのは貞享二年八月十五日の夜と決定されよう。なお委しくは『連歌俳諧研究』五十二号所載森川氏の
稿を参照されたい。
句の表現では、「みつの名をのむ」が分りにくく、諸注を参照しても明解を得ない。仮に〔大意〕の項のように訳
して見た。即興吟として表現不足の憾みがあるのは、或る程度止むを得ないことかも知れぬ。『芭蕉翁句解参考』で
は、「霊岸島の人来るに、三人皆七兵衛といふにたはぶれて」と前書して「盃に三ッ名をくむ今霄かな」という形に
なつている。
25 ; たびねして我句をしれや秋の風 SS
秋季(秋の風)。
1 M 〇たびねして 「11!して」。 〇我句をしれや 「我が句を知れ や」。 自分の作る句の趣を知って欲しい、と人に呼び掛けたの
である。「や」は詠嘆。「草の戸をしれや穂蓼に唐がらし翁」 (5 日記』)。
1秋の風はしみじみと物のあわれを感じさせるものだが、そのような情趣は、旅寝を体験してはじめて分るもの
だ。読者よ、どうか自ら旅をした上で私の句の趣を知って頂きたい。
I この句は『野 ざら し紀行』の濁子絵巻本(三康 図書館 蔵)巻末の芭蕉識語に見えるもので、
此一巻は必記行の式にもあらず、た ゞ 山橋野店の風景、一念一動をしるすのみ。爰に中川氏濁子、丹青をして其
439 貞享二年
形容を補しむ。他見可恥もの也。 芭蕉散翁圭日
とした後に句を記している。中川濁子は江戸詰の大垣藩士で、蕉風の初期から親しく芭蕉の指導を受けた門人である
が、『野ざらし紀行』の成稿に当って、芭蕉は濁子に絵をかかせ、本文も彼の筆に成る絵巻本を作った。この紀行の
最終的定本である。その末尾に見える色蕉自筆の右の識語と句の筆蹟を、貞享末元禄初頭のものと見る説(岡田利兵衛
氏『図説芭蕉』)もあるが、この絵巻にも添えられた素堂の跋は貞享二年秋までには書かれており、濁子の絵巻に先立つ
色蕉真蹟絵巻の揮毫は「貞享前期の終り、同後期の初め」(岡田氏『色蕉の筆瞋』 ) と見られている。貞享末期とすると、
『紀行』の実質的完成から二年を隔てていることになり、空白の期間が余りに不自然である。私は以上の見地から、
識語と句はやはり貞享二年秋の成立とするのが妥当と思ぅ。
加藤锹邨氏が指摘されたように、句中の「秋の風」は取合わせに置かれたものではなく、この句の発想契機に直か
に関わる実感的な語である。遥かに『紀行』冒頭の「野ざらしを心に風のしむ身哉」と呼応する意識もあったであろ
う。呼び掛けの形にした為に、やや重味を欠くけれども、実地の旅の体験を経て、俳諧の持つべき内容、おもむくベ
き方向についての確乎たる自信が窺えるようである。
こふて くら ひ、 もろ ふて くら ひ、やを ら かつ^もしなず、 としのくれ ければ
めでたき人のかずにも入
老の暮祕 *am
ーイ6 _ 真瞋懐紙)
芭蕉翁遺墨集所収真睛懐紙.あつめ句.陸奥
衛.泊船集.蕉翁句集.先手後手.萊集
目出度人の數にもいらん年の くれ(貞享三年其角歳旦 帳) |引付貞享三年•蕉翁句集草稿.松かざり
冬季(暮)。
440
1 M 〇こふてくらひ 「乞うて喰ひ , -〇人に食を乞うて食べ、の意。「ふ」は、ゥ音便をあらわす当時の表記法である。「たより梨
の杖にすがり、都路に出でてものを乞ふ」(謡曲「鸚鵡小町」) 「 coi , 6,6 ta .」 (『日葡辞書』)。〇 もろふてくらひ 「貰うて喰ひ」。人に
食を貰って食べ、の意。前と同じことを、少し言葉をかえて繰返し、強調した。「もろふて」は、発音によった表記法で、「ふ」は、
前と同じくゥ音便をあらわす。「月影に利休の家を鼻に懸正秀度''-^•芋をもらはる、なり珍碩」(『ひさご Jl )「 Morai . 6, 6 ta . 」
「 Moraiguy . J (『日葡辞書 fc 。 0 やをらかつ ^ もしなず 「やをら餓表も死なず」。「やをら」 は、 ここでは、ようやく、やっと、の
意。「かつう」は、「飢う」と同じく、食物がなくて苦しむこと。ヮ行下二段活用である。ようやく飢え死にもせずに。「雪の下に
しのびたる蒔.蒲公のたぐひ、やをら春吹風の時を得て、雪間^^をうれしげに首さしのべて」(『おらが春』)「かつ袅死なうかと
思ひ、ふびんさに泣いたよ」 (『醒睡 笑』巻七) 「 cat * ouye , uru , eta . J (『日葡辞書』)。 〇としのくれければ 「年の暮れければ J 。 〇め
でたき人無事に 年を越す仕合わせ者。「はつ春のめでたき名なり 賢 魚 ミ越 人」(『あら 野』 卷二) 「 Medetai .」 (『日葡辞書』)。 〇か
ずにも入ン 「数にも A 1 らン」。数の中にも入るだろう。「入ン」は、意志ではなく推量の意である。「是非なき革袋に取集て五十両、
爰の%人の齡にはいらず」(『日本永代蔵』卷四ノニ) 「 cazu .」 (『日葡辞書』)。 〇老の暮 「老いの暮」。老年の歳暮。四十歳から初老と
いった時代、四十過ぎた芭蕉が自らを「老 J といってもおかしくない。「肩衣は戻子にてゆるせ老の夏杉風」へ『あら 野』 卷七)「こ
のくれも又くり返し同じ事杉風」(『炭俵』下) rvoi.J (『日葡辞書』)。
31人から食物をもらってどうやら飢え死にもせずに、老年の歳暮を迎えた。こんな境涯でもまあ、めでたい仕合
わせ者の数の中に入るのだろうな。
1 「もらふてくらひ、こふてくらひ、飢寒わづかにのがれて」(『芭蕉翁遺墨集』所収真#懐紙)「もらふてくらひ、こふ
てくらひ、やをらかつ袅もしなず、としのくれければ」(「あつめ句」『菜集』)「乞て喰、貰ふてくらひ、さすがにとしの
くれければ」(『陸奥衞』『蒸翁句集草稿』)「乞て喰ひ貰ふてくらひ、さすがにとしのくれか X れば J (『泊船集』『蕉翁句集』)等
の前書があり、『先手後手』(風陽.兎十撰、明和四年刊)には、『遺墨集』所収真蹟懐紙と同文の前書に「自得箴」と題し
てある。貞享三年の其角歳旦帳や同年の引付に見えるのによって、貞享二年の歳暮吟であることは明らかで、土芳の
『蕉翁句集草稿』によれば、翌三年の歳旦吟「幾霜に」と共に記した真蹟が伊賀上野の瓢竹庵にあったというから、
441 貞享二年
一連の作としてこの面からも年代は確かめられる。其角歳旦帳には「秀句の市に出る松うり」という蚊足の脇、吏に
r 暁を足ゆふ馬の友ぼえて」という去来の第三を収めているが、第三は京の去来が江戸から発句.脇を報ぜられて付
けたものであろう。
歳旦帳や引付には発句の下五が「年のくれ」とあるのに対して、真蹟懐紙.「あつめ句」(貞享 四年秋) には 「老 の暮」
となっていて、発表当初の形から推敲されたことを窺わせる。底本とした『俳人真蹟全集』第三卷所収の懐紙には、
はじめ「としの暮」と書き、「とし」を見せ消ちして右傍に「老」と記してあり、この過程は疑いを容れない。『遺墨
集』所収の懐紙の末には「貞享三年冬」とあって、 r 三年」は「二年」の誤りとも見られるが、二年冬に既に改案さ
れたものならば、歳旦帳や引付に r 老のくれ」となっていないのは不自然である。 r 三年冬」は揮毫の年代を示すと
見た方がよい。.一年末に初案が成り、以後余り時を隔てずに改案されたものであろう。土芳も「老の暮、後直るか」
(『蒸翁 句集 草稿』) と見ている。いうまでもなく、「老」とすれば老年の自覚がはっきり出るのである。
深川に居を移してから、色蕉は門人を指導して点料によって生活することを止めてしまった。宗匠として俳諧を生
活の手段とすることを自ら放棄してしまったわけで、以後は門人の喜捨に頼って生きて行くことになる。市川柏筵
(二世団十郎)の日記『老の楽』には、
深川の色蕉庵、へッつゐ二つありて、台所の柱にふくべを懸けてあり。二升四合程も入るべき米入れ也。杉風.
文鱗弟子の貢にて、米なくなれば又入れてあり。もし弟子よりの米間違ひて遅き時、ふくべ明れば自ら求めに出
られしが、……翁は六十有余の老人と見えし由。其頃は四十前後の人なり。
という蕉門小川破笠からの聞書が録されているが、そのような生活が「こふて くら ひ、 もろ ふて くらひ」云々 の前書
にもあらわれているのである。これは色蕉自身、自らを生かす道として選んだものであって、最初のうちは今まで見
て来たように、風狂の隠者を気取る姿勢が露骨であったが、野ざらしの旅を終えたこの頃になると、ずっと心境も安
442
定して、平静穏和な心境が窺われるょうになった。この句文な ども 徒らな街いはもうなくなり、自分の選んだ道に安
住して穏やかに自らを眺める眼が感ぜられる。門人の好意に頼って「やをらかつ袅もしなず」といった境涯は、世間
並の標準からいえば随分情ないものではあるが、それでも無事に年の瀬を迎え得て、やがては新玉の春、まあ「めで
たき人のかず」に入るだろう、というのである。この「めでたき」は、自嘲でも逆説でもなく、ただ平安な心境の表
白であろう。その中に俳諧的な、 ゆとり ある笑いが含まれるのだ。既に自得の境地に達しているのではなく、必死に
我が身に言い聞かせているのだという見方もあるが、それは後世の題「自得歳」に影響され過ぎていないだろうか。
「箴」は勿論「戒め」の為の文を意味するが、恐らくは芭蕉の意志にょる題ではなく、句文のあらわす所とも矛盾す
る。この題で採るべきは寧ろ上の「自得」の方で、ここにこの時期の作者の、現在の境涯に安んずる気持を読み取る
のが正しいと思う。それが取りも直さず、『笈の小文』の旅に出る頃までの芭蕉の心境の主調をなすものであった。
活語
用句
語索
は引
廪に
則は
と本
し位
て句
終と
止し
形て
で注
標釈
出を
し加
、え
排た
列発
は句
発と
音前
に書
準の
じ中
ての
、語
仮句
名の
遣み
にを
は標
こ出
だし
わた
ら 0
な
444
初句索引
あ行
於(あと春> . 一五四
青ざしや . 二五六
秋風の . 二
秋風や . 三三0
秋来にけり . 一0五
秋きぬと . 三九
秋と X せ . 二七五
明ぼのや . 三三九
あさがほに . 一一一一一九
あすは粽 . 100
あそび来ぬ . 三四三
あち東風や . 二六
雨の日や . 一三一一
あやめ生けり . 三五
あら何ともなや . 一一七
あられきくや . 一一六一
霰まじる . 二0
いかめしき . 三六七
いざともに . 四二
石枯て . 一八一
いづく霽 . 一七八
市人ょ . 三六一
糸桜 . 三二
命こそ . 六二
命なり . 八一
命ニッの . 四0一
手洗フ女 . 二九七
色付や . 一三四
岩 躑躅 . 三八
植る事 . 六八
うかれける . 三0
うぐひすを . 二四六
うち山や . 四四
団雪もて . 四一五
うつくしき . 五九
姥桜 . 六
馬をさへ . 三四七
馬に寐て . 一一八八
馬ぼく-^ . 一一 S
海くれて . 一一一六三
梅こひて . 四一三
梅白き . 一_一八五
梅柳 . ニニ五
枝もろし . 二0
勤なるやつこ . 一三八
近江蚊屋 . 3三
大比叡や . 九三
荻の声 . 一五
おきょ^- . 二六八
小野炭や . 一七六
思ひ出す . 四一一五
阿蘭陀も . 一四三
か行
杜若にたりやにたり . 蓋
杜若われに発句の . 四一 Q
影は天の . 一四
かさもなき . 三五一
風吹ば . 三一一
樫の木の . 一一一八八
かつら男 . 四二
門套や . 九二
かなしまむや . 一蓋
かびたんも . 一二一
辛崎の . 三九二
枯朶に . 一六五
元日や . 一.一六三
木をきりて . 一二
きてもみょ . 四九
砧ぅちて . 三三
狂句こがらしの . 蓋二
けふの今宵 . 八九
京は九万 . 一0
清く聞ン . 二五五
霧しぐれ . 二七六
愚案ずるに . 一 Q
草枕 . 三五八
愚にくらく . 一九八
雲を根に . 八〇
雲 おりく . 四三四
雲霧の . 一一八一
雲とへだつ . 五六
蜘 何と . 一六三
暮 AZ て . ニニ三
黒森を . 一一六七
椹 (くはのみ)や . 一一五七
今朝の雪 . 一五三
けし炭に . 一三四
実や月 . 一三 Q
氷苦く . 一三0
梢ょり . 一0四
此海に . 三四五
445 初句索引
五ニニ◦八
五七三四九
• • • • • ■ . ^3 • ■
七七—■九九四◦八二三五八
-SI CD CD CD = - ^L. _ZH
7C 3S.
ニニ九冗 s 二
二三五八四七
— . — . E9 —- • . _ —
三六一三七一六七二
七九三八四二九一■四
ZH 四四
六五九
—•六七
九〇六
至 5 SS 竞三菪哭3堊杂 i 芫 g - sgg 翼 兗畫 f 南
花にぅき世 . 二四八
花に酔り . 一五八
花にやどり . 一五七
花の顔に . 二四
花むくげ . 一七 CD
春やこし . i
花は賤の . 九
針立や . 七三
はりぬきの . 一四八
春風に . 云
春立と . 四八
はる立や . 一八三
春なれや . 三 S
髭風ヲ吹て . 二四一一
人毎の . 六四
一時雨 . 二九
百里来たり . 八七
昼顔に . 一一三一
ひれふりて . 二六六
琵琶行の . 三三四
貧山の . ニー八
冨士の風や . 八五
冨士の雪 . 二五
船足も . 四0九
文ならぬ . ーハーーー
冬しらぬ . 三一五
冬牡丹 . 三三七
降立日^ . 三四
牡丹蘂ふかく . 四ニニ
天鉀や .
唐きびや••…
年暮ぬ .
年は人に:…
戸の口に■,…
鳥さしも……
な行
詠るや .
なつ木立…….
夏衣 .
なつちかし….
夏の月 .
菜畠に .
波の花と •
成にけり .
猫の妻 .
寝たる萩や….
子の日しに…
野晒を .
は行
ばせを植て…
芭蕉野分して
初花に .
花にあかぬ….
花にいやよ… •
初春先 .
白菊よ^^ .
白げしに .
白炭や .
.
僧朝顔 .
蒼海の .
草履の尻 .
袖よごすらん…
た行
大裏雛,-….:1.……
誰ガ婿ぞ .
たかぅなや. .
L - 夕の .
旅がらす .
たびねして……
たんだすめ……
蝶よく .
月十四日 .
月ぞしるべ……
月の鏡 .
蔦植 -C .
つ k じいけて…
摘けんや .
露とく^^ .
庭訓の往来……
手にとらば消ん
此梅に .
木の葉散 .
御廟年経て .
今霄の月 .
さ行
盃に .
盃の .
盃や .
盛じや花に .
盛なる .
嘸な星 .
五月の雨 .
五月雨に御物遠や
五月雨に鶴の足…
五月雨も .
五月雨や .
猿を聞人 .
塩に しても .
しほれふすや .
時雨をや .
しにもせぬ .
しのぶさへ .
しばしまも .
しばの戸に .
霜を着て .
霜をふむで .
霜枯に .
446
S S S ea
四—- zh ^ —-
発句也 .
時鳥鰹を染に .
郭公まねくか麦の .
ほと、 ぎす正月は梅の.:
ま行
先しるや . 九七
またぬのに . 九九
町医師や . 七二
松なれや . 一七二
待花や . 一四六
三 ヶ月 や . 一一四一
水とりや . 三八三
水むけて . 三七
三十日月なし . 二九一一
道のベの . 一一八五
宮守ょ . 一一一三五
見る影や . 六一
見るに我も . 六五
見わたせば . |四七
武蔵野の . 二〇七
女をと鹿や . 五三
めでたき人の . 四三九
目の星や . 六七
餅を夢に . 一八六
餅花や . 一八ハ
餅雪を . 一一七
藻にすだく . 一九一
門に入れば . 三 Q 五
や行
山棧の . 四三一
山路来て . 四〇四
山のすがた . 七九
山吹の露 . 一九四
山は猫 . 一一六四
闇の夜とすごく . 一九九
夕白ハに . 三六
夕白ハの白ク . 一一0一一
雪と雪 . 三五九
雪の朝 . 一七九
雪の中は . 二三 Q
雪の鮏 . 11三五
行雲や . 一三
行駒の . 四二九
夜着は重し . 二四四
義朝の . 三天
世に k ほへ . 一 W 八
世にふるも . 二一 Q
ょめはつらき . 五一
夜ル窃二 . 一六一
ょるべをいつ . 一六八
ら•わ行
蘭の香や . 一一九九
龍宮も . 九六
櫓の声波ヲぅつて . 三五
我絹に . 三九〇
わすれ草 . 一三八
忘れずば . 一一七一
綿弓や . 三0九
侘テすめ . 二 Q 八
わら ふべ し 泣べ し . 二三八
我も神の . 七八
447 語句索引
語句索引
ぁ行
於(あ ゞ ) . 一五四
会ふ . 二九九
逢ふ . 三, S 一
仰ぐ . 七八
あふぐ . 四一五
青ざし . 二五六
赤坂 . 八三
明かす . 三三
秋……1*11九•一四七•一四八.
一九? I •三七六
秋風 . 二*五•三三0
秋草 . 二九九
秋の風……二0*寧二七八•三二八.
四三八
秋の暮……一六四 • 六五*1六三*一 1三 I
秋の霜 . 三〇七
開(あ)く . 二七
楊ぐ . 一〇二
明ぼの . 三三九
朝(あさ) . 一七九
朝顔 . 二三八•二三九*一四 一•三1三
浅し . 三四五
筋(あざみ) . 九
4#夕 . 三0六
足 . 一九六 • 一一一九
悪(あ)し . 蓋九
朝(あした) . 三四七
足もつれ . 三二
明日 .-00
汗 . 10三
遊ぶ . 二九七•三 Q 九=四三*11八五
あだなり . 一0四
あちこち . 二六
熱し . 三〇七
熱田 . 三四三
跡 . 二九二
跡訪ふ . 一一|セ
蟹 . 一一一一六
あまの川 . 一三一
雨…三四•|11ーー.一五九*10四'ーー?1
天の下 . 一四
雨の月 . 四二
雨降る . 一四五
菖蒲(あやめ)……三五*11七六
あら . 二七
洗フ . 二九七
嵐 . 一七三•二九〒三0四•三五一一
あらず . 三 Q 九 • 一一一 五
争ふ . 菪六
霰 . 二0 •一一六 一 * i * 書•三六七
あらはす . 三一五
有り…六四 • 一四四*一八.三? I 一一七六.
四10
あるじ . 三一五
あはれなり . 曼二
あはれ也 . ニーーー¬
案ず . 一六四
案内 . 四三六
云ふ…一五七 •!• 一六七•三0九•三一五
家 . 三 Q 九*一二五•三七六
0 . 二六一
いかに . 一一- tr 八
いかめし . 三六七
生キ別れ . 五六
生く . 一一一九八•四0一
行く . 一一六四
幾 . 三一三
生薬 . 三一五
いざ . 一三七•四11
いさ k か . 四三六
勇む . 三七六
石 . 一八一*一二五
医師 . 七一一
慰す . 三七六
出づ . 八三•一一五六•四一三
いづく . 一七八
伊勢 . 二九七
いそがはし . 三七六
抱く . 二九二
痛し . 三一九
戴く . 三0
至る . 三四三
ーノ 華表 (とり ゐ)……一一九一一
市人 . 三六一
一夜 . 九二
いつ . 一六八
一枝 . 三七八
一枝軒 . 三七八
一寸 . 三三九
いつ迄 . 一五九
いつも . <
*. 二七
糸桜 . 三一一•六七
448
営む . 二六一
犬 . 蓋八
犬桜 . 三二
犬の欠尿(かけばり)…ニニ
命 . 六11•八.三一- T - 四01
棘 . 一九八
いまだ . 四三一一
手洗フ . 二九七
芋種 . 六一一
いやょ . 五五
.
入り来る . 四三六
入る . 一一一0五•四三九
色付け . 一三四
色葉 . 六三
岩尾 . 三一五
鰯 . 三五
岩躑躅 . 三八
岩戸 . 二九一一
岩ひば . 一五九
隠士 . 三0九
得 . 一七九•三0九
値ぅ . 六八 • 八九•三§
植袅置く . 三一五
穿ッ . 一六一
ぅかりひょん . 三六
浮かる . 三0
浮世 . 1一四八•三二三
浮法師 . 一九三
ぅぐ D す . 一一四六
牛 . 七六*0九
牛の年 . 三七一
ぅしろむき . 四一五
後向く . 四一五
Q . 七九
薄霞 . 三 A
薄紅葉 . 一三四
歌 . 二 Q 八 • 三八•一一九七
歌袋 . 二七
宇知山 . 四四
雨中天 . 三
団扇 . 四一五
打つ . 七三*一一五•三三
美し . 五九
移す . 一七三
移る . 三七六
卯花 . 四一三
姥桜 . 六
馬 . 一一五0 •二八五•一一八八=四七
馬に鞍 . 一四三
海 . 三琴 S 一
倦む . 三0九
梅…一?芙•二孝雪 .1 ハ*一一八五.
四一三
梅の雨 . 三四
梅の花 . 七八*一五四
浦島 . 二六
K . 一一九九
瓜 . 五九
売る . 九九•三六 一*一一七六
ぅる ほす . 一一一一 Q
0 . 三0九
憂ふ . 一一四八
雲天 . 二10
云// . 一五四
雲門 . 一一八一
絵 . 二五0 • 一八一
袅いさら袅いと . 一七一一
枝 . 二0*六五•三一五
江戸 . 七五 A 八*一七五
江戸土産 . 八五
偃鼠 . 一三〇
艶なり . ニニ八
淵明 . 三0九
老 . 一一九九
老い . 一一六•四三九
生ひ替る . 二九九
生ふ . ニー五
負ふ . 三七一
扇 . 八五•四二八
近江蚊屋 . 一0三
往来 . 三一 I
覆ひ . 七九
大いなり . 一五四
大比叡 . 九三
をかし気なり . 三一五
男鹿嶋 . 二六六
拝む . 四一三
荻 . 一0七
翁 . 一一九九
荻の声 . 一五
荻の二葉 . 一八九
奥 . 一三四 •*} 九*一一 一九 •!
起く . 一一六八
送る . 一五一 • 八九
後る . 一九
長 . 三〇九
落つ . 10四*三四
音…三四•ニニ四•三一五•三三四•三六七*一一八三
おとがい . 四三-
男… . 四二*一三九
おなじ . 三五九
鬼筋(あざみ) . 九
小野 . ニニ四
各々 . 四三六
小野炭 . 一七六
尾花 . 二0一
尾細し . 三二
覚ゆ . 一七三 • 一一五一.四一五
朧月 . 一一四
朧なり . 三九一一
女郎花 . 六五
おもひ . 四一〇
思ひ出づ . 蓋二
思ひ出 . 六
思ひ出す . 四一一五
449 語句索引
思ひ寄す . 四三六
思ふ . 九二*一六三
憶ふ . 二四二
俤(おもかげ)……一一九九•四一五
重し . 一一四四
面白し . 二七六
表 . 天一
老ゆ . 三一五
阿蘭陀 . 一四三
折々 . 四三四
折り結ぶ . 一八六
折る . 六五•一四五
おはす . 三一五
女 . 一五八•一1•一一九七•三九八
御物遠 ……,- . 三三
か 行
彼 . 二六•四三六
香 . 二九九
a . 六五
甲斐 . 四三一
買ふ . ニニ?三四九
力へす . 三七六
却って . 二七五
帰り花 . g
帰る . I 四五*七八
帰るさ . 三二
顔 . 一四 • 六•二四 •¥ 一九四
0 . 一七
杜若(かきつばた)…一一1五.四一〇
斯く . H ハ四
角 . 一1三九
書く . 四一五•四11八
掛く . 七五
搔く . 六三 • 七三
影 . 1四=五_!_ハー
0 . 三九八
欠尿(かけばり) . ニニ
画工…. . 二八一
かこち顔 . 一九四
かさ . 三五一
笠……八一•三0•三一九 •!• 一一六一.
S •三六八
傘 . 一七八•三六一
かざし . 一七°一八八
笠しぐれ . 三四五
かざり縄 . 四八
賢し . 一七三
樫の木 . 三八八
柏 . 二六一
貸す . 一三一
数 . 四三九
霞 . 九三•三 A
風丄1 .¥11五•二九•蓋•八五* Q 五.
二 Q •二三 • 寧11011•一1七〒一 I 七八.
MK •一一 S •四三八
風吹く . 三二
一眉 . 七三
潟 . 四 Q 九
傍 . 三一五
刀差す . 一五八
難し . 一七三*一二五
片なり . 六一
帷子雪 . 二 Q
形見 . 四一九
傾く . ニー0
勝ち . 11三五
火中 . 六三
蚊帳 . 一0三
且つ . 三0九
餓(かつ)表 . 四三九
鰹 . 一一五九
桂男 . 四二
葛城の郡 . 三七六
門松 . 九二
悲しむ . 一五五
兼ぬ . 畐三
かびたん . 三一
釜 . ニー八
力ま^> . 三八八
鎌倉 . 一五一
S :. 七八
髪 . 二六•二六 Q
紙衣 . 三五二
嚙む . 一- fc : 九
鴨 . 三六三
蚊屋 . 1
通ふ . 九五
殼 . 一 g
0 ^ .
辛崎の松 . 三九1一
干鮭 . 一七九
烏 . 一琴雲
M . 五六
軽し . 三一九
枯枝 . 一六五
枯葉 . 100
枯る . 五一•一八.一?三四九
川 . 三三五
、河 . 四五
革 . 三九 • 六 Q
替る . 三七六
W . 三〇ナ
感 . 二◦四*二五
元日 . 二六三
木 . ニー•三八八
菊 . 七 0. S •一一 S •三七六
聞く丄1¥一妻*一六 H 一七八•二八一.
一一1三
木草 . 三一五
后ざね . 五九
箕山 . 三 Q 九
木曽 . 四二五
来る . 四三六
義竹 . 九七
450
喫ス . 一七九
きつね . 一九九
E 肉 . 一七九
衣(きぬ) . 三九 CD
砧打つ . 三ニー
昨日 . 一一七*一一八五
君 . 一八八
君崎 . 一七二
君が春 . 三一
消ゆ . 一九一 • 一九九•三0七
居 . 一七三
京 . 10•七五
興 . 四三六
今日 . 八九•九六
御宇 . 三四
狂逸 . 四一五
杏花 . 三七六
狂哥 . 蓋二
狂句 . 蓋二
今日の月……一三•六一一 • 二•一四九
清し . 一.一五五
霧 .. 一七二 • 一八一
霧しぐれ . 一一七六
伐る . ニー
着る . 四九*一三•一五八•三六八
吟 . 一一八五
句 . 一一三九 • 一八 一•四三八
来…… 一•四九•八七•九九*0五•三九.
一四三 • 一一0九•三四三•四0四
愚 . 一六四 • 九八
食ふ . 一1•一一八五
空手 . 一七三
草 . 一三八 • 一九九•三二五•四 S
臭し . 一四九
草の戸 . 四三六
草枕 . 一八六 • 一一五八•四一一
草餅 . 二五六
薬 . 一一1一五
崩れ . 九五
口 . |一九.羞*ハ0.二六五
口ぅつし . 一五
沓 . 一-一八三
朽木盆 . S
国 . 一一 D 九 • 一一一 五 • 一一五二
九万九千群集 . 10
雲 . 五六入〇二三倉
蜘 . 一六三
雲井 . 八七
雲霧 . 一一八一
鞍 . 一四三
喰ふ . 一七九•四二•四三九
暗し . 一九八 • 一九一一
栗 . 一六一
暮る…一一一一一一一 • 一九二 • 一一六一一一•三六八.011一九
暮……九0•一三八 • 六四*六五 • 一六三.
三三.四三九
黒し . 一一四八
黒森 . 一一六七
桑名 . 三四三
椹(くはのみ) . 二五七
群集 . 一 Q
毛 . 蓋
家子 . 三七六
今朝 . 一五一11 •一 宍七
今朝の秋 . 一四八
今朝の春 . 三一一
芥子 . 四一九
けし炭 . 一一一一四
月下 . 一六一
実にや . 一三 Q
けぶり . 一一八八
毛むつかし . 五三
けらし . 二五九
言を絶つ . 二八一
子 . 一九•六八*一三•一一四一一 • 一七八
此… 一?一一〒- fc : 六 .5 一 • 一六 - r 三0九.
三一五•三四五•三五一•蓋〒三六一
鯉 . 一一三五
小石川 . 一一九
孝 . 三一五
乞ふ . 四三九
恋ふ . 三九•四一三
後架 . 二 Q 二
香焼く . 一一五五
頭(かぅベ) . 三五
s : 勇 . 二三0
行路 . 一七三
声…二*五•ニー五*二八•蓋八•三六三
^ . 三七六
氷 . ニニ°三八三
氷ル . 三五
讽 . 一九?重一
金 . 一七三
故郷 . 二七五
古吟 . 一七二
此処 . 一一九九
心 . 三*一七二•三0九*一一一一八
心有り . 三一五
志 . 三四五
こ\のとせ . 一七三
試み. . 三二三
腰ふさげ . 五八
五升 . I 八三
古人 . 三一五
梢 . 一〇四
木立 . 五八
木玉 . ニニ三
此方 (こち) . 二七
東風 . 二六
胡蝶 . 二六八
小晦日 . 一
呉天 . 三〇丄一四四
事;六八.三一五*1|¥蓋干三五九.三七六
言伝つ . 一三七
こなた . 四
木の葉 . 一七三 • 一一一九
451 語句索引
木葉川 . 111一一一五
小春 . 一七
御廟 . 三二五
駒 . 四二九
駒迎へ . 七二
米 . 一八三
米つき . 一一一一|一
小紋 . 110
越ゆ . 一一一七一
御油 . 八一一一
今宵 . 八九 •= 一七•蓋九•四一一一六
今霄の月 . 一〇八
占来 . 一七=
是 . 一五〇
比 ... 一一九一一 • 一九九 • 一一五九
衣 . 四九•七三•四三一一
崑崙 . 一一八一
さ行
西行 .- I 九一1.1一九七
西行谷 . 一一九七
西行法師 . 三〇
菜根 . 一七九
才士 . IK 一 •* 一
妻子 . 三七六
歳旦 . 一一六三
竿 . 四一一八
棹 . 四一一八
堺町 . 5一
さかさま . 一九
盃 . 七 CD . 一 五〇 •四一一一六
盛ぢや . 一九ーーー
盛りなり . 一 I 五
咲く . 六.=•一 1
害く . 1 一 I 九八
堤ぐ . 一七八
桜…210•一一111 •六七•六八 • 早111一九.
四0一
桜狩 . 四一一五
酒 . 一一四八 •§ .一| 一- t 3 六
鮭 . 一七九
酒臭し . 一四九
0 . 六九
支ふ . 一一八一
さ V - 波 . 5 一一 一
刺し棹 . 四-一八
刺す . 四一一八
指す . 一一七五
差す . I 五八 • 八八
さすがに . 一一 一 S
さぞ . 一一一 I 五
嘸な . 一 S
五月の雨 . 一五九
里 . S 九.5五•四一五
覚る . 二四八
捌く . 11六
さびし . 11六一|一
様 (さま) . 一一11八 • 一—五
三味線 . 三三四
五月雨 . 憂•四五.5. I 九六
寒し . 二 I 八.三七六
佐夜中山 . 八一 • 一七一
更に . -5
猿 . 一一七<
されかぅベ . 一ーー=
暫時 . 一一八一
三十九 . 一 I
三十年 . 九一一
残夢 . 一一八八
詩 . 一一八一
字 . 九=
自詠 . 四一五
塩 . 一一一一七
塩路 . 九六
枝折 . I 五三
萎れ伏す . 一九
. 五一 | 一
自画 . 四一五
四月 . 四11五
鹿の革 . 三九.一六0
敷寝 . 二三
しぐる . =一五一 • 一一五八
時雨…一八 • 三.一一九 • 一七六 • 一一四五.
三五一
_ . 一七 <
f . 八0
四五本 . 一一一〇四
詩人 . 一一八一.=一七六
0 . ^
雫 . =九〇
1 卞もょ、 . 六九
俗燭 . 一10一一
T . 七 Q
歯朶 . 一八六.一一 I 七一
下涼み . 八一 A 七
下照姫 . I 四
下這ふ . 一れ九
下紅葉 . 六四
七十五年 . 一一=
市中 . I 七一一一.1一 10九
七里 . 三四一一一
七郎兵衛 . 四一一一六
日月 . 一一八一
しつらふ . 一一 一 S
慈童 . 三七六
死にかへる . 三 I 一一 一
死ぬ . 11一一1一一 •四一 I 一九
しの字 . 九一一一
徳ぶ . 一,琴三四九
しのぶ草 . 一一一一一五
しばし . 一一一九
柴の戸 . 一七一一一
しばらく . 畐五
しぶ笠 . 二 5
蘂(しべ) . 四ニーー
452
—■四四-
七五二四プ
. 一一八一
. 一八 一*一三八
. 二六六•三一五
. 一一七二
1一三 • 五一 • 一一八•三0七
. €
. 一九三
. 三八
. 一五一
. 三七六
. 三八五
. 一一三七
.i
. 一五八
. 一八三
. 一 P
. 九六•ニニ六
. 一七九
. 三0九
. 三七六
. 四一五
. 二七
. 一九一•三三九
.i
知る…•:四八•九七•一四八•一九五•一一四八 •
三一五•四三八
しるべ . 四
白し…二〇一.一一四八*一一三九*一一六三•三八五
白炭 . 二六
師走 . 三五九
神 . 一一四八
辛気 . 一三
尋常 . a 九
神人 . 一一八一
新年 . 一八三
甚べが羽織 . 四九
す…二四•六八 • 三七*六八*一〇四.一一四八.
一一六八 • 一九九•三一五•蓋.三四五.一一一七三 •
三七六•三九 Q •四一一一六•四三八
巣 . 三七四
0 . 一 五八
水学 . 一三一
辟荛(すぅぜぅ) . 一ー ー〇九
据袅なす . 三一五
姿 . 七九*_一八八
働(すき) . 三 Q 九
杉 . 一一九一一
杉なり . A
過ぐ . 二七•一一九九
凄し . 一九九
酸し . 三四
数珠 . 四一五
- t -- t ぐ . 三11三
凉み . 八.八七
凉む .1.1
雀 . 四 S
数千年 . 三九
すだく . 一九一
捨つ . 一一五七•一一八一•三四五•四一一八
捨子 . ニーーー • 一七八
素手引く . 二五
須磨の秋 . 一四七
炭 . 二六*七六 • 一一一四
墨染の袖 . 四一五
すみれ草 . 四 S
住み侘ぶ . 一七三
住む . 四二•二0八*一一七六•四三六
澄む . 一三
住めば都 . 一三
摺る . 三一五
聖 . 二四八
歳暮 . 九0•ニニ三
関 . 三三 Q
世間 . 一三二
世間口 . 五五
せ k る . 一七六
銭 . 二四八
瀬踏み . 四五
蟬 . 一 S
蟬の殼 . 一 S
芹焼 . 一蓋
仙 . 二八一
千金 . 一三0
千変ス . 一一八一
其丄一九•五九*一八 H 一一 0九 .1 •三九八.
四一五•四三六
僧 . 一七八•三一三•三八三•四一五
草庵 . 三0
蒼海の浪 . 一四九
宗祇 . ニー0
蒼天 . 一一八一
草履の尻 . 一四五
即事 . 二九七
坐(そ y ろ) . 一九三
袖 . 一三六•四一五
蘇鉄 . 三0五
圍 . 一五三•三 Q 九
染む . 三八*一五九
そむき果つ . 四一五
揃ふ . 五三
た行
誰 . 三二*三八 • 一四二•三七一
大裏雛 . 三四
嬌柳(たをやなぎ)……二四六
田かへす . 三七六
高し . 三0九
たき物 . 一一九九
焼く . 二五五
竹 . 一九人ャ三〇四丄ーー〇九
士峯
调む
しむ身
霜•…:
霜枯….
ぢや…
^…….
四友子
愁人…
秋風子
十四日
守栄院
酒狂…
升 .
正月…
上巳…
丈夫.:
職…:
初春:
書す:
しら糸
白魚:
白菊:
白げし
知らず
虱
尻
汁
453 語句索引
露摘妻妻妻つ
;む恋恋;ぼ
::ふひ:む
ニプ
. 二 四 一
……九五 • 九 I 一一 •三三
. 九五
. 一一一九
. 一三八 • 九五
六九•一 &• 一九九•雲一
. 511
月侘斎 . 一一 Q 八
搗く . 一一三一
築く . 二五
尽す . 二八一 • 一二五
つくばふ . 三一
造り営む . 一一六一
蔦 . 三0四
植ぅつ . 七三
土星四友子 . 一五一
鐵躅 . 三八 • 一一九八
勤む . 三◦九
翅 . 一一九九
繫 .Ill
3 - -— ' 3 -
釣る . 三四三
鶴 . 三八五
鶴の足 . 一九六
つれ . ニー Q
亭 . 三五九
庭訓の往来 . 三二
庭前 . 三一五
手づから . 三?三一五
手習ふ . 一七六
手に堤ぐ . 一七八
手に取る . 三0七
田家 . 五一
1 .im
■. 七五
戸 . 一七三
問ひ来 . 三〇九
問ふ . 二六九•四三六
唐きび . 一〇七
藤三郎 . 一四六
唐紙 . 二〇
桃青 . 一四一
豆腐 . 一三四
道明寺 . 三七
冬夜 . 三五
桐葉 . 三四五
同和 . 三九0
遠し . 二八一•二八八•三一五
通り町 . 一三0
とがりご表 . 一一
時 . 八九 • 一三八•四0九
磨ぎ出す . 一 Q 八
徳 . 三七六
独酌 . 四三六
とく^^ . 三二三
床 . 一〇三
杜国亭 . 蓋九
処 . 二八一•三0九•三一五
外1* . 一四
竹内 . g 九•一一一七六•三七八
たかぅな . 六九
尋ぬ . 四五* S •二九二
唯是 . 三◦九
立ち寄る . 二九九
立つ . 一八三•三一九
絶つ . 二八一
蓼 . 二三九
たどる . 曼ーー
七^ . 一二
田螺 . 一三六
種 . 二 Q 七
たばふ . 二九
旅がらす . 蠢
旅立 . 一ーセニ
旅寝 . 一六八*一一一一〒四三八
旅の愁 . 三0九
旅の宿 . 四
魂 . 二四六
玉真桑 . 一九九
為 . 天一
鰭 . 三九八
盥 . 二§
戯(たはぶ)れ . 四三六
たわむ . 三一五
端午 . Is •三五
歎ズ . 二四二
たんだ . 一一一一
地 . 一七三•二八一
地を抜く . 二八一
. 二九
竹斎 . 蓋二
旧袋 . 六八
雉兎 . 三0九
千年 . 二九二
千鳥 . 三三七
_ . 100
茶 . 一七三•一九五 • 一八八
茶臼 . 七九
蝶 . 一一五七*一六九•一一九九•四 I 九
長安 . 一七三
長途 . 蓋二
眺望 . 四◦九
千代の春 . 七五
散る . 三一九•三三五
ちんば引く . 一五一
追悼 . 三七
fet . 三一九
仕ふ . 三一五
つかむ . 一九八
月……四*一一一•二四•四一一 • ハニ A 一.八八.
一0八•三 • 三0•一四九•二0七*一三七.
二八八
月なし . 二九二
月のかほ . 一〒一一一一一一
月の鏡 . 一七
月見 . 八九•四三四
月夜 . 六一
454
咽載野残軒軒野ね睡舐 f 艮子猫猫寝猫願 ti
す晒す端の
の鰯
荻
むる
る
る深の山の言
日
妻
ひ
の
糸
. 六七
九五*四 <• 一§
. 二三八
. 九五
. 二六四
. 三七三
. 一五三
. 二六四
. 二九九
. 二四六
…. 一一 §• 一5
. 一 - M
. 一 g
. 二九九
. 二七二
. 八五
. ニーー Q
荷^> . 三 Q ナ
似る… :• 蓋 • 一 D 九•三一五•三二八 • 一一五二
人形天皇 . 三四
寝…一六 A 九•二三*三三 • 一六八*一八八.
三三 一•四三八
. 一一_\|
主 . 三四五
偷む . 三〇九
盗む . 三八五
ぬめり妻 . 一九三
. S
.
年 . K * 一一七一
年を越ゆ . 三七一
年暮る . 三六八
年経(ふ) . 三二五
年の暮る . 四三九
年の暮 . 九0*三八
閉づ . 四三一
途中 . 一一九七
十年 . 一一七五
と V まる . 三〇九*一一四五
戸の口 . 一一 •二六五
乏し . 一七一一一*七九
泊り . 三五一一
とまる . 一六五
富む . 三七六
友 . 五六*一六八 • 一一七三
伴ふ . 三 Q ブ
ともに . 四二
土用干 . 九六
鳥 . 一三七
華表(とりゐ) . 二九二
鳥刺し . 四一一八
とりち がへ . 一 Q 七
取り尽す . 四三一一
取りつくろふ . 蓋九
取る……八•一九一*一 Q 一一*一一 Q 七*一一一五.
三八三
な行
名 . 三三五*一一八?四一一一六
菜売 . 九九
猶 . 一五五•四一五
中 . l s .sol
中悪(あ)し . 三五九
長尾 . 三一五
長髪 . 二六 Q
詠む . 八八*四七•三四七
泣く . 二三八
啼く . ニー八
鳴く . 七六•一六三
慰む . 三 Q 九•三一五•四一一九
嘆き . 一一七
名残 . 四一三
無し…八九 • 七三•一八一•二五七•二九〒
曼一•三 A
為す . 一一七 • 一一 Q 九•四一五•四一一一六
撫づ . 三一五
茄子 . 五一
なつかし . 四一五
夏木立 . 五八
夏衣 . 四三一一
夏近し . 一一九
夏野 . 一一 S
100 ^ . <=1
何 . 二六七•三二五
何と . 一六三
何ともなや . 一一七
何やら . 四 S
難波 . 一8
難波津 . 二九九
菜の花 . 一九四
名乗る . 二六五
菜畠 . 四 R
波 . 1•三五
浪 . 一四九
無み . 一ーニ六
涙(泪)…三八•三五•一一九一一 • 一一0七.
四一三
波の花 . 四 Q
菜飯 . 一三八
倣ふ . 三 Q
なら茶哥 . 二 Q 八
成る…一一一一 一•三四•四11 •九0•一九六 • 一一一五.
S
鳴滝 . 三 S
鳴海潟 . 四0九
なれや . 一 R •一七〒三 A
0 . 四八
何と . ニハ平三五一
にほひ . 一一一0五•三七六
匂ふ . 一一一七八
苦し . 一ーニ0
にくむ . 一八九
廿九日 . 一
455 語句索引
二一■三四 •
C _) 3•--マ -fc
四一三六九
1 S .1 七平三一九
. 三七八
. 二六九
. 一七六
. 三八五
. 三 Q
…….四九•一 五八
.• 六
•.五八
三六八
二六
二八一
二3
二四八
天五
一八九•二0四
……一一六 I
……一七 Q
三三0 •四 S
四ニニ
••三 Q
初音 . 七六
初花 . 三三
果 . 三三一
花:::九•一1七•一一 SG •零 S •七八.
九七*孝1•一 S ぐ If 一五八.
一九三•一九四*一四八 • 一五四.一一五七•二九九.
灵八•三九二•四1三
花ごろも . 四九
花盛 . 四四
花野 . 一三
花の顔 . 一六*|四
花の風 . 云
花の雪 . 九七
花見 . 10
花見顔 . 四 R
花見る . .•三°一三八
花むくげ . 一七0
はね . 四一九
母 . 三一五
浜 . 四◦九
腸 . 三五
尿(ばり) . ニニ
針立 . 七三
はりぬき . 一四八
春…1•七五•三 Ml 三•一四一 • 五四.
1ハ*一 S
春秋 . 一七三
張る . 三0
春風 . 一一九
春立つ….
晴れ打て •
盤斎…….
番太郎
. 四八•一八三
. 二四
. 四一五
. 一0二
日 . 一三一1 •二七六•三七三
比殽 . 九三
日影 . 一一三0
引く . 九三•一五一 • 七〒三 Q 九
日暮る . 一一九一一
髭 . 二四二
美景 . 二八一
日比 . 三0九
弓敷物 . 一六 Q
秘蔵 . 七八
窃(ひそか)二 . 一六一
干鳕 . 三九八
左 . 二三五
^ . 三七六
人……八*九•三0*七三_七六 • 一七八.
三〇九 • 一宝一1•三五九 • 一一六 一 •! ハ•四一五.
四三四•翼•四三九
緋唐紙 . 二 Q
一力すみ . 九 一一 一
人毎 . 六四
一時雨 . 二九
一葉 . 1六八•二九九
<z .g
人見出雲守 . 一 Q 八
一夜 . 三ニー
独り . 一七九
雛 . 三四
檜木笠 . 三一九•三六七
隙 . 一一二六•二六四
0 . 一四
姫瓜 . 五九
百景 . 二八一
百里 . 八七
廟 . 三一一五
瓢簟斎 . 一五七
ひらく . 二八一
昼顔 . 一一三 CD •二一ーニ
鰭 . 二六六
琵琶 . 三◦九
琵琶行 . 三三四
貧 . 一一四八•三一五
貧山 . 三八
経(ふ) . 二10•三二五
富家 . 一七九
深川 . 一七三•ニー五
深し . 四ニー I
吹き出す . 二九
吹く . 三一.二四二
更く . 四三六
触(ふく) . 二三五
穌釣り . 三四三
ふくと汁 . 二七
富士 . 八 QA 五•二七六
富土の雪 . 一一五
f .
のむ .
^ .
乗物 .
野分 .
は行
*.
梅花 .
俳諧 .
灰せる:
梅林 .
坡翁 .
羽織 .
^ .
佩く
履く
箱…
藐姑射の山
5L.
始めて……
馬上 .
色蕉 .
茜蕉庵……
裸童 .
畠…
蜂…
456
薪罷間
る
ま
行
二五三
四—-九
伏見 . 三九0
^^9 . - ^
札 . 一一六五
ふた\び . 一一六一
ニッ . 四◦一
二葉 . 一八九
筆 . 一一八 一 • 一九九
不図 . 蓋一一
船足 . 四 Q 九
不卜 . 三七
X . 六三
踏む . 一五一
冬 . 一八一•三一五
冬牡丹 . 三三七
降る . 三四*一九•一四五 • 一九九
振る . 一一六六
古柏 . 二六一
古し . 一八三
古巣 . 三七四
無礼 . 一六
不破の関 . 蓋 Q
文庫 . 三一一
文人 . 一一八一
隔つ . 五六
竈(へつひ) . 九五
坊 . 三三
法師 . 一九-一1•三0
茅舎 . 一一0四•ニニ Q
方丈 . 一一八一
亡母……
蓬萊……
蓬萊の嶋
黒土子 .
ほころぶ
M .
. 三七
. 二八一
. 一一 11五
. 一五五
. 一一五0
. 一一一五一一
….六七•三九•一 S
暮秋 . 一一四二*一一一九
干す . 一五 Q
蛋 . 一九八*一三九
牡丹 . 三一一一七 .1
発句 . 一四一•四10
程 . 八七•三一一一 • 七〒一一一一九 • 霊
ほと k ぎ朱 . 三八
ほと X ぎす . 一一一九•二五四•一一六五.
三三七•四一一八
享么 .
時鳥 .
ほとり .
穂に出づ .
ほのかなり:…
穂麦 .
^ .
-二0|
…九九
• I
霊
二五九
三五一
i
三六三
四二
..七0
真葛 . 一一九九
間口 千金 . 一三0
真桑 . 一九九
枕 . .一0五 • 八六 • 一一五八•四一一
実 . 三一 W
誠 . 三0九
方に . 一一四八
まじる . 一一0
交り . 5九
先づ . 九七•一八九•三七六
貧し . 三 Q 九•三一五
又 . 六一一•二九九
まだ . 六一
町医師 . 七二
松 . 一八•一七二•三一三*一一九二
待つ . 三九•九九•一四六
松尾桃青 . 一四一
松島 . 二0七
まどし . 三0九
まねく . 二〇一
まのあたり . 二八一
豆名月 . 五一
稀な . 八八
身…三六*七三*一六一•二七〒一一 D 九•三五一一
三 ヶ月 . 二 四 一
短し . 一九六
水 . 四0•三- t :* 八一 • 一一一 0*1一七六
自ら . 一五七•三0九
水取り . 三八三
水の影 . 蓋
三十日 . 一一九二
みそさ y い . 三七八
三人 . 四三六
道 . 一一九一一•三五一
道のベ . 二八五
三つ . 四三六
緑 . i 五九
見恍る . 三六
皆 . 天一
水無月 . 一一三五
見馴河 . 四五
耳 . 三四•一 CD 五•二五五
土産 .. 八五
都 . 一一一一 • 一一一五 • 一一七三
都鳥 . 一三七
み山 . 五八
宮守 . 三三五
見ゆ . 九
名利 . 一七三
見る…一七 • 一一 Q •四九 • ハー*ハ五•ニー •
一四七•一孝一三八 • 一四四*5*一七六.
一一一一九•四8•四三四
見渡す . 一四七
迎ふ . 七〒一一八一
むかし . 蓋二
麦 . 一一01 •四二•四二九
向く . 三七•四一五
木槿 . 一七?11八五
457 語句索引
むぐら .
婿……
武蔵野.
虫……
結ぶ….
……四三一
……三七一
……二0七
一六.一六八
……一八六
正月(むつき) . 二五四
むら尾花 . 一一 Q 一
むらしぐれ . ニー|
S. ^
名月 . 五一•三五九
冥途 . 一六四
女をと鹿 . 五三
食 . 二四八
めじか . 一一ー ハ六
食くふ . 二三九
目正月 . |七
珍かなり . 三一五
めでたし . 四三九
目の星 . 六七
面//さばき . 二六
藻 . 一九一
申す . 111五一一•四三六
詣づ . 二九二
も哉 . 一一五 • 一九•三七三
もぐ . 四一九
木食僧 . 四一五
若し . 二八一
餅…… I 八六 •!• 一五六•三四九•三七一
餅花 . 一八八
餅雪 . 二七
持つ . 四一五
もつる . 三一一
もて . 四一五
許 . 一九•二六一
もど 力し力る . 一八
本口 . ニー
者 . 一七三
物遠 . 三三
紅葉 . 六四•一一 Q •一三四•三一九
籾摺る . 三一五
揉む . 三五二
桃 . 三九0 •四0九
もらふ . 四三九
唐土 (もろこし) . 二六九
もろし . 二〇
. 三0五
ゃ行
やをら . 四三九
屋敷がた . 七一一
休む . 四◦九
休める . 四三四
やすらふ . 三 I 九
やどり . 三四九
奴 . 一一11八
宿 . 四•三一五
宿の春 . 一四一
宿札 . 二六五
やどり . 三0•四11九
宿る . 五一*五七
柳 . 一一七•ニニ五•二四六
柳髪 . 一一六
藪 . 三三0
やふる . 二0
山……四四•五八•七九 A .5 ハ•二六〒
一一七一•一一八 一•三 I 五•三八0
OJ 家 . 三七一
山賤 . 四一一一一
山桜 . 三0•一四五
山里 . 三一五•四一五
山路 . 四0四
山路の菊 . 一五0
山田 . 二九七
大和の国 . 三〇九丄ーニ五
山中 . 四三一
山の月 . 八八
山吹 . 一九四
山辺郡 . 四四
闇夜 . 一九九
鏈戸 . 二
夕白ハ . 51
夕べ . 二四一
故 . 一七三
ゆかし . 四0四
雪……一八*|0'一七•四0•二五•一五三.
一七九 • 一一 0*臺*1四四.二六七*一九九.
三三七•一 S •蓋九•三六一
雪の竹 . 一九
雪の中 . 一1三0
雪のひま . 二六四
行く . 一 •七0•ニニ•三七三•四二九
豊かなり . 三七六
夢 . 一 s . i •一八六•二九九
予 . 一七九
世 . 三0•二四八•三七八
夜 . 一九九 • 10 四*一一五'一冨
霄月夜 . 六一
容顔無礼 . 一六
夜着 . 一一四四
能くす . 二八一
よごす . ニニ六
義朝 . 三二八
吉野 . 三一九•三三
よしの山 . 一四六
世すて酒 . 二五七
尋常(よのつね) . 三 Q 九
よの中 . 四一五
詠む . 二九七
^ . 五一
娌が君 . 一八八
よ X . 六九
夜ル . 一六一•二 Q 一一 •三五八
寄る . 一一六六
夜の床 . 10三
よるべ . 一六八
458
童童藁笑侘ゎ
:部沓ふぶび
::::: A
:…蓋-一
1七三•二0八
•一一九*一三八
:…三一九
:…二三七
•四八*七 Q
草鞋 . 三四五 • 一一六八
0 ^ . 11111
我……七八 •! •一|五0*ーー三*1一五一.
1.四一〇
二九九 • 一 10五
…:一八九
…: 一0五
老後…….
老杜…….
老母…….
廬生が夢 .
櫓の声….
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我……二一一一八•二四八•一一六八 • 霊 • 一一九 0.
四三六.四三八
和 . 三九0
若夷 . 八
若衆 . ニニ五
若生え .
別れ .
分け出づ……
分け入る .
走(わし)る
和ス .
わづか .
……二 Q 七
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忘る . 二七一
わすれ草 . 一三八
綿弓 . 三0九
侘笠 . 三 Q
侘び尽す . 三五二
侘寐 . ニニ三
悦 A .
世はさかさま
ら行
あべ まさみ
阿部正美
昭和7年東京生。
現在専修大学教授。
著書『芭蕉連句抄』 (1 〜 12)
『芭蕉伝記考説』(行実篤.
作品篇)等。
発
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印刷者 大日本法令印刷 田中忠
発行所餞明治書院
東京都千代田区神田錦町 一'六
振替口座〇〇一三〇-七-四九九一
電話(〇三)三二九二三七四一(代)
©1994阿部正美 ISBN 4-625-51064 3
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